私にとっての某文学青年と
塾の通信型冬期講習でのこと。
私は流石に、教わった複数の国語教師の中の一講師の名前までは覚えていなかったので
「すみません。覚えていません。」
と、戸惑いながら答えた。正しく言い換えると、一人印象に残っている講師はいたが、名前も顔も思い出せずにいた。
「授業やっていくうちに思い出すかもしれないし。」
と、彼。少し気を落としたように見えた。
「お、覚えてます!」
と嘘を吐くべきだったか。
とりあえずお互いの名前の話から入る。
私の名前を最初から正確に読める人は滅多に、いや、全くいない。
彼は私に名前を尋ね、
「そうとしか読めないだろうなとは思ったんですがね。」
と言った。きっと読めなかったのだろう。次に彼は自身の名前の読み方を私に問うた。普通に読んだら″ルカ″。私はルカと読んだが、全くその通りだった。彼曰くキラキラネームらしい。
謙遜という社交辞令を互いに駆使しながら世間話を進めると、髪型について指摘された。イメチェンしたなあ、と。2回ほどしか授業受けてないはずなのに、私は相手の印象に残っていたようだ。
世代間断裂についての説論から解き始める。
世代間(家系図で一段下がるごとに一世代らしい)での価値観の相違。彼はいきなり、具体例に性的マイノリティーを出してきた。男性だけど自覚では女性だとか、男性で男性が好きだとか、女性で女性が好きだとか。女子生徒にいきなりこんなデリケートな問題を例示するなんて、と驚いたが、素直に話を理解して深く頷く自分にも驚いた。それというのも、最近の私は性に寛大であり、実際腐女子(男性同士の恋愛に興味を持つ女子)であり、同性に恋愛に似た感情を抱きつつある自分に戸惑っていた身の上なのだ。
個人的に身近な問題を出されて若干焦りつつも、頷く。さすがに「私も」なんてことは言いだせなかった。異性愛よりの、異性愛ベースの同性愛であるし。どうせ、好感と恋愛感情の区別がついていないだけだろうし。大声で主張するほどのことではない。事実、私に限らず、最近の若者は以前より性に寛大であることに違いない。(これは明治の欧化政策以来失われていた日本のアイデンティティである。)
blという単語が女子高生の会話(少なくとも陰キャの会話)にあっさり登場するし、同性に魅力を見出す女子高生(愛着があるからなのか、女性特有の美しさが好きなのかは不明)の内面はおっさん(男)である。
ネットで目にした「好きになるのに性別なんて関係ない」という言葉には激しく同意した。好きなものは好き。これで全てが片付くのだ。
おっと主旨からずれてしまった。
彼は、男女を色で区別することの愚かさを説いた。固定観念。性差別。男性は青。女性は赤。男性らしい色とか女性らしい色とかいうあれだ。そもそも、○○らしいとは勝手な決めつけで、完全なものではない。だから僕は全部青で書きますと彼は語った。その数分後には母を赤で書き、父を青で書く綻びが露わになるが。
私はちょうど、昨日思ったことを話した。私の弟も含め、男の子は周囲の当たり前の価値観で男らしく育てられる。そもそも男の子だから車が好き、乗り物が好き。とは誰が決めたのだろう。そこに疑問を抱かぬまま親は社会的性に沿った保育をする。
それがいけない、とは思わない。ただの事実だ。彼はそれを既知の常識であるかのようにうん、そうだよとあっさり肯定した。
次に説明されたのはメディア論。
媒介物のこと。教科書も身近なメディアの一つだ。私たちは何世代も変わらず教科書に載る小説を名作と呼ぶが、実はそこには出版物の特性があるという。著者がすでに亡くなっている小説には印税を払わなくて済む。つまり、本の出版社は100%の利益を得る。ということらしい。
さらに人間は道具に影響される。
(それは近所の文学館でも学んだ。
筆を使えば崩し字が生まれ、キーボードを使えばそれなりの略称が生まれる。)
大学生講師の先生曰く、未だに私たちは夕刊朝刊の名残で朝晩ニュースを読む。らしい。
授業の終盤、「振られたことすらない初恋もまだの成人男性」という彼の発言で印象に残っていた講師と目の前の人物が完全に一致した。
終了3分前に好きな小説を勧めてくる授業構成も同じだ。
そして帰宅後、親にその講師について話す展開も。
逆に他の講師の記憶が全くないのが恐ろしい。彼が他の講師の記憶を私の中から持ち出して抹消したのかもしれない。あながち間違いではない。
君は本を読むか、と以前と同じ質問をされ、あまり読書を好まない私だが、暇な時には電子辞書で読むとたじたじ話す。
俺もよくやっていたと彼は言う。
最近読んだ本を聞かれて風立ちぬを挙げると、趣味が合うな、と彼は一人狂喜した。私に"文学少女"と言いかけて、いや、当世は女子も本を読むのが当たり前だ、と性差別を重ねて否定した。前回英語の講習で読んだ話とまるきり同じである。女流作家という言い回しの消滅の話だ。
ついで彼は坂口安吾を知っているかと私に尋ねた。確か堕落論の人だったかな、としか覚えていない。堕落論は本で読んだことがあると答えたが、当世には釣り合わない話の内容に飽きて途中で読むのをやめたのだ。彼は坂口安吾の短編「続戦争と一人の女」を勧めた。続というのは、つまり前編と言うべき作があるということだ。語呂で言えば彼に勧められた作の方が魅力的に感じた。
また、彼は死の美しさを説いた。
風立ちぬにも登場する類の美しさだ。
死は残酷であればあるほど美しく脚色される。
別れも残酷さを増すほど美しくなる。
死はその人物に類まれな美を永久に与える。
「また明日小説の話を聞かせて?今日は僕ばかり話してしまったので」と彼が言って、授業は終了した。
画面を閉じると一瞬で彼の顔を思い出せなくなった。明日になったら、先生のこと思い出しましたとでも話そうか。
<翌日>
本日もまた冴えない眼鏡の先生と授業。
「種崎潤一郎知ってます?」と言われ、脳内検索にヒットしなかった。知らないです。綴じられた問題集に目を通すと"谷崎潤一郎"の文字。あ、それなら知ってる。常識問題だわ。細雪とかの人ね。長そうだから読む気はないけど。
実に不真面目な生徒だ。
「太宰治のヴィヨンの妻は読んだことある?」
「あったと思います。」
文学かぶれのにわか文学少女ではありますが一番好きな作家ですから読んだことはあるはず。
「ラストが衝撃的でしたね。ああいう話大好きです」と先生。どんな話かは覚えてない。帰宅して電子辞書を確認すると開いたのはヴィヨンの妻の最後のページ。太宰お得意の寝取られ話。そして出版社のおやじ。
"生きていさえすればいいのよ。"
そんな女の台詞に胸がすくむ。
太宰治ならもちろん人間失格、斜陽、桜桃、富嶽百景。人間失格は自分のことを言われているようで特に愛読している。なんと言っても"あのゲエム"は最高だ。私も酒飲み友達ができたらやってみたいものだな。
そんなこんなで先生の顔をようやく覚えたところで時間となり、先生は画面から消えた。その瞬間、不思議と先生の顔を思い出すことができなくなっていた。
<最後の講習>
4月まで残り2日。1月から継続して受講していた現代文の通信授業であったが、こちらの都合で授業日程を変更した結果、彼との授業は今日が最後だった。長らく彼の授業を受講してきたが、私はあまり人と打ち解けるのが得意ではなかった。さほど親しくない人と会話する場合、私は聞き手に徹するが、彼は非常に饒舌だった。
紅梅が蕾む季節、外では珍しく雪がちらついていた。
私の頬が林檎のように真っ赤だったからか、彼は
「暑そうだけど大丈夫?こっちも暖房が暑くて白衣脱ごうと思ってたんだ。」と言った。しかし、これは気温に関係なく起こる、私の特殊な症状のためであって。
久しぶりの雪に私は高揚し、
「こっちでは今、雪が降り始めました、、。」と言った。
「梅と雪で風情があっていいね。」
私にとっては大ニュースであったが、彼は自分の話を遮られ、不服そうであった。
彼は例の如く、恋愛経験0の20歳を嘆いたが、
「私も恋愛経験0ですよ?」と返す恋愛経験0の17歳には全く興味を示さなかった。
自分の話にしか興味がない。それは恋愛が上手いこといかないわけだ。私に関してはまず、クラスの男子と会話すらしないからそれ以前の問題だが。
有名作家の出身大だと自慢していた彼。
私が入りたかった大学の学生の彼。
私が専攻したかった学部の彼。
眼鏡のさえない顔の文学青年。文学への熱は並大抵ではなかった。電子辞書でしか本を読まないような生半可な気持ちの者が志望しなくてよかった。
彼は最後の授業終了30秒前、武者小路実篤の「友情」という本を勧めた。
それを最後に彼の授業を受けることはなかった。
塾の帰り、靴の裏で感じる雪の感触が新しかった。
彼には小説のこと、表現のこと、社会問題のことなど、たくさん学んだ。私はこの先、彼から聞いた話を忘れることはないだろう。しかし彼の顔を思い出すこともまた、ないだろう。