第9球「いとしのセシリア」
「な、名前……」
ま、まずい……
ずっと「女キャッチャー」という表記で通していることからわかるように、俺はこの野球チームの選手の名前をまったく把握していない。
スコアボードを見た時に、チラと名前は見えただろうが、チラで瞬時に記憶できるほど、俺は稗田阿礼じゃない。
古事の、記を読んでも、この捕手の、名前わからん、誰か助けて……
「ねぇ、ヴィクちゃん、私の名前……覚えてないの?」
女キャッチャーは今にも闇堕ちしそうな表情で俺のことを見ている。
ここで選択肢を誤れば、間違いなく、バッドエンドの運命……
なんとかベンチからスコアボードは見えないものか……
「どこ見てるの?」
スコアボードに書いてあるはずの女キャッチャーの名前を求めてキョロキョロしていたら、ますます怪しまれてしまった。
うん、これは間違いなく、絶体絶命!!
はっきりカタがついちゃう……
さっきの2死満塁なんて、比べものにならないくらいの、大! ピィィィィィンチィィィッ!!
なんぞと、どっかの実況アナウンサーみたいな、変な節回しのモノローグを言っている場合ではない……ええと……名前……名前……
どっかその辺に選手名鑑とか、週ベとか転がってませんかねぇ!?
いや、仮に転がってたとしても、週ベに異世界の野球選手の名前は載っとらんじゃろう……
「もういい! 私、監督に言ってくる! ヴィクちゃん、暑さでおかしくなっちゃったって! 暑すぎるせいで、一時的に記憶喪失になってるんだって!!」
名前を言わずにあたふたしている俺を見て、業を煮やしたらしい女キャッチャーの通告に、俺は震える。
「ちょちょちょちょちょちょちょちょ、ちょっと待って!!」
「いや、何回『ちょ』って言うのよ?」
「8回?」
「よく数えてたわね……で、何?」
さっきまでの王道ヒロインボイスが嘘のように、刺々しい声になっている女キャッチャー。
「何って、その……あの……」
「ヴィクちゃん?」
女キャッチャーの視線が痛い……
まるで目から無数の矢でも放たれているかのようだ、さしずめ俺は全身矢に刺されまくりの弁慶と言ったところか……
いや、その状態の弁慶はもう死の直前じゃん!!
死……また死ぬのか……007でもないのに二度死ぬのか……
ちっとも嬉しくないわい、ゴールドフィンガー!
ダイヤモンドは永遠に!!
ロシアより……
「私、やっぱり監督に……」
その時、まるで天啓かの如く、俺の頭の中で、ドラムと手拍子の音が鳴り響いた。
(ポーン! ドンドン、ドンドン、ドンドンドン! ドンドン、ドンドン、ドンドンドン……)
このリズムには聞き覚えがあった。
脳内にあふれるこのリズム……洋楽オタクの親父が好きで、車の中でよく聴かされていたあの曲……タイトルは……そう!
「セシリア!」
「え?」
「セシリア! そう、君の名前はセシリア!!」
なぜかはわからないが、頭の中でサイモン&ガーファンクルの「いとしのセシリア(原題「Cecilia」)」が流れたことにより、俺にはわかった。
今、目の前にいる女キャッチャーの名前が「セシリア」であるということが……なぜなのか、理由はまったくわからない。
わからないけど、たしかにそうだという確信を抱けていた。
果たして……
「そう、そうだよ、私の名前はセシリア。セシリア・ウィルソン!」
「セシリア……ウィルソン……」
「よかった……ヴィクちゃん、やっと名前で呼んでくれたね」
女キャッチャー……もとい、セシリアはさっきまでの暗い表情が嘘のように満面の笑みを浮かべていた。
名前呼んだだけでこの笑顔……チョロいな……間違いない、こりゃチョロインだな、チョロイン……吉田松陰……いや、韻踏んだだけで別に意味はない、崇徳院……
それにしても、俺が勝利の女神「ヴィクトリア」で、キャッチャーは音楽の守護聖人「セシリア」か……いや、野球選手に音楽の守護聖人は必要なくない?
応援団ならいざ知らず、キャッチャーに音楽の才能は必要なかろうに、なぜにセシリア?
『バッターは3番、ファースト、カトレア』
「あ、ヴィクちゃん、カトレア様が打席に入ったから、ほら、ネクストバッターズサークルに行っといで」
「うん……」
何がなんやらさっぱりわからんが、どうやら危機は脱したようだ……ふぅ……セーフ、セーフ。
ウグイス嬢のアナウンスいわく、今、打席に立っているのは「3番、ファースト」だから、あの金髪お嬢様である。
あのお嬢様、「カトレア」って名前だったのか、これは神や聖人の名前じゃなくて、花の名前だよな……名前だけは俺たちの方が格上だな!
そしてヴィクトリアってやっぱり「エースで4番」なのか……でも、おかしいな。
なんでリリーフで登板したはずのヴィクトリアが4番なの?
まあ、いわゆる「ダブルスイッチ」で、カンスト打者の俺を4番にしたんだろうが、それまで4番に座ってたのにベンチに下げさせられたバッター、怒ってんじゃねーの?
俺だったら怒るぞ、いくらヴィクトリアがカンスト打者とは言え、4番なのに交代させられたら、絶対に怒る……
って、まあ、どうでもいっか。
今はそんな、誰か知らない人のことを憂いている場合ではないのだ、記憶を取り戻さなければ、記憶を……
さて、どこまで思い出したんだっけ?
えーと、高校3年生の夏休みの最終日か……うーん……
その日、何があったんだっけ?