国鉄の亡霊
毎度バカバカしい噺をひとつ。
いやぁ、七月に入ったばかりだというのに、お暑うございます。
気温だけならまだしも、湿度まで上がるのはいけませんな。前列の奥様なんか、熱帯夜で寝不足といった顔をしております。えっ? 他人のことを言えないだろうって? ははっ。お互い様ですな。
閑話休題。
こんな蒸し暑い夕べは、いささか肝の冷えるお話でもいたしましょうかね。
あたくしの中学時代の友人に、国鉄の駅員になった奴がおります。
教室の引き戸を開けたり閉めたりしながら「ドア、閉まります。ご注意ください」ですとか、筆入れを口元に当てて「今度の二番線に到着する列車は、ナニナニ線、ドコソコ行きです」とか何とか、休み時間のたびに飽きもせずやってたという、たいそう変わり者でございました。
今日は、そんな彼から聞いた、ちょいと不思議なお話。
そちらのロマンスグレーの旦那はご存知でしょうが、ひと昔前の駅では、券売にも改札にも駅員さんが座っておりました。
彼らは、硬券と呼ばれる厚手の切符を扱っておりまして、棚から一枚取って日付を押して渡したり、乗車するお客さんから預かってパチンとハサミを入れたりしていたものでございます。
大半は事務的に淡々と作業をしていればよろしいのですが、中にはヘンテコな人物が紛れ込んでいるものです。
かくいう友人も、役目を終えた切符を回収したり、定期券を拝見したり、黒山の人波に圧倒されることなく真面目に仕事をしているさなかに、おかしな体験をいたしました。
それは、決まって雨の日だったといいます。
天露を滴らせながら、雨合羽のフードを目深に被った大柄の人物がやってきましてね。
皿池まで一枚
とまぁ、そう書かれた紙を見せてきたそうなんです。不気味でしょう?
想像してごらんなさい。背の高い人物が、無言でびしょ濡れの合羽を着て立っているというのは、なかなか威圧感のある光景でございます。
友人の彼としても、そんな相手に、にべもなく「そんな駅は存在しない」と言い難いものですから、一応、硬券を積んである棚を見渡して、行き先が無いかと探す素振りをいたしましてね。
「スミマセン。売り切れです」
こう言おうとしたんです。
ところが、正面に向き直ってスミマセンのスの字を言おうとした途端、彼は口を窄めたまま目が点になってしまいました。
そんな反応をするのも無理のない話で、たった今まで立っていた大きな人影が、一瞬、目を離した隙に消えてしまったんですって。奇妙でしょう?
ただ、これだけなら、それほど怖くもないのですが、彼の話には続きがございます。
それから何週間か経ち、奇妙な体験の記憶が脳の片隅に追いやられてきた頃のこと。
その日の彼は改札口に立ち、列車から降りてくるお客さんの切符を回収したり、提示される定期券を確認したりしておりました。
何処から何円の券で乗ってきたか、何駅から何駅まで何ヶ月の券で乗ってきたかを検め、大多数の善良な乗客の中に薩摩守をはたらく輩がいないか目を光らせていたときでございます。
手元を凝視している彼に、ひとりのお客さんが有効でない切符を渡そうとしました。
皿池駅から百三十円区間 当日限り有効
三角のハサミが入った小さな横長の厚紙には、そのように書かれているように読めたそうです。
大きさや活字こそ酷似しているが、これは明らかに国鉄が発行している券では無い。そう判断した彼は、受け取らずに呼び止めようと顔を上げた刹那、思わず腰を抜かしそうになりました。
おや? あちらのお嬢さんは、お気付きですかな? そう。そこに立っていたのは、いつぞやと同じ、雨合羽のフードを目深に被った大柄の人物だったのでございます。
「その切符は使えませんよ」
なけなしの勇気を奮って彼がそう言うと、雨合羽の人物はフードの奥でニヤリと歯を見せて嗤ってから顔をグイと間近に寄せ、氷のように冷たい声音で囁きました。
「次ハ、ライセ行キ、直通デス」
それだけ言い残して雨合羽の人物は、スーッと夜霧のように消え去り、立っていた場所には水溜まりが出来ていたそうな。
ちなみに、この謎の人物は、国鉄が分割民営化され、券売機と改札機が自動化されてからは、ぱったりと出現しなくなったそうでございます。
あら? 向こうのお兄さんが、大欠伸をしてらっしゃる。ほほっ。少々、月並みでしたかね。
ところで皆さん。皿という字の左上に一画足すと別の漢字になるのですが、何という文字かお分かりになりますでしょうか?
それから、地名の中には「ノ」を省略して書くケースが多々ございますよね。
あと、雨合羽の人物は、券売では紙の左上を右手で持ち、改札ではちょうど駅名の左上にハサミが入った切符を見せたそうですよ。
……さて。ヒントは、これくらいにいたしまして、あとは各々お布団の中ででもお考えくださいまし。
もっとも、このお話の隠された意味に気付いてしまったら、明朝までお手洗いに行けないかもしれませんがね。フッフッフ。
まっ、信じるか信じないかは、お客さん次第でございます。
おあとがよろしいようで。