#20 塹壕戦
草木のほとんどない平原。
あるのは有刺鉄線と、ところどころえぐれた大地、そして、延々と掘られた深さ2メートル弱の深い溝が続いている。
塹壕と呼ばれるその溝には、小銃を抱えた大勢の兵士達が息を潜めている。
その1人、ラルフ二等兵は、深く被った鉄兜で顔を隠すようにうずくまっていた。
その向こうに、隊長らしき人物が、しきりに腕時計を確認している。そして、手に持った笛を吹く。
ピーッという音が、塹壕のあちこちから鳴り響く。それを聞いた兵士達は、一斉にその溝から飛び出す。
と同時に、砲撃音が鳴り響く。バリバリという機銃音も聞こえる。それが敵のものか、味方のものかなど、分からない。
ラルフ達下級兵士のやることは、400メートル向こうにある敵の塹壕に到達し、そこを制圧すること。ただ、それだけだ。
だがこれまで、そのわずか400メートルを突破できた試しがない。おびただしい犠牲の上に、退去を余儀なくされる。この1年間、そういう作戦が幾度となく続いている。
特に、新たな手があるわけでもない。大砲と機銃による支援と呼応した、歩兵の一斉突撃。むき出しとなった多数の歩兵に、容赦なく砲弾が降り注ぐ。
ラルフも塹壕を飛び出し、砲弾と機銃の雨が降る乾いた平原を走る。そんな彼は、数十メートル先を先行していた仲間数人に、大砲の弾が着弾するのを見た。
爆風と砂煙が、ラルフを襲う。彼はその場でうずくまり、その風が収まるのを待つ。そして、頭を上げる。
そこにいたはずの仲間が、いない。
あるのは、着弾の際にできた大きな窪み、そして、衝撃でひしゃげた小銃が一丁。彼らがこの世にいたことを示す、唯一のものがそれだ。
こんなところを、さらに前へ進まなくてはいけないのが?ラルフは、恐怖する。だが、そのくぼみの脇を、数名の兵士が銃を構えたまま走り抜けるのが見える。
あいつら、正気じゃない。
ラルフは思う。それが普通の感性だが、この戦場では正気に帰れば、恐怖に苛まれてむしろ狂気に襲われる。
だから、ラルフも立ち上がる。そして、走る。
敵兵の姿が見える。あちらは銃を構えて撃ってくる。恨みがあるわけではないが、ラルフも応戦する。地面に伏せて、その1人に狙いを定め、引き金を引く。
初弾が命中する。兵士の1人が倒れる。致命傷だったようで、それっきり彼は動かなくなる。
彼にも、故郷で待つ恋人や家族は、いたのだろうか?そんな思いが、ふと脳裏をよぎる。
ラルフには、故郷に残した恋人がいる。戦争が終わったら、結婚する約束までしている。
収穫祭までには帰れる。
そう言われて始まったこの戦争はすでに1年以上も続き、2度目の収穫祭の時も超えてしまった。
あの時いた仲間の半数以上が、彼の前から消えた。戦場に散った者、五体、または精神を蝕まれて去った者、様々だ。
冬の寒さで亡くなった仲間もいる。夏の暑さで倒れ、そのまま息を引き取った部隊長もいた。そんな中で、自分が生きていることが、奇跡にしか思えない。
だが、先ほど倒した兵士の仲間と思われる3人の兵士が、敵討ちとばかりにこちらに向かって狙い撃ちしてくる。地面に伏せたまま、応戦するラルフ。
今度こそ、自分は死ぬのか?
もはや何度目になるのか分からない死の予感に耐えながら、ひたすら応戦するラルフ。しかし、持っていた弾がついに尽きる。
陣に戻り、補充しなくてはならない。だが、なかなかやつらは攻撃を止めない。ひたすら銃撃に耐え、手薄になった一瞬の隙を狙い、ラルフは立ち上がる。
ラルフは走る。しかし、急に動けなくなる。なぜか足に力が入らない。顔面を激しく地面に叩きつけ、その場に倒れるラルフ。
彼は、自分の左足を見る。血が流れている。足を撃たれた。それを見た瞬間、彼は思った。
ああ、今度こそ本当に最期だ、と。
訪れる死の瞬間に怯えながら、脳内に走馬灯のように今までの思い出がよぎる。長い一瞬を迎えたのち、彼は上を見上げる。
信じがたいことが、起きていた。
そこにいたのは、棒にまたがり、宙に浮く女性。手には、何かを持っている。
少し混乱するラルフ。だが彼はすぐに、自分が死んだのだと考える。そう、今、目の前にいるのは、天使なのだと。
「ったく!まだ撃ってくるの!?いい加減、諦めなさい!」
それにしても、口の悪い天使だ。こんなところで叫びながら一体、何をしているのか?そんなことよりさっさと自分を、天国に連れて行ってくれないのか?などと考えながらも、ラルフはこの不思議な光景をただ眺めていた。
彼女が手に持っているのは、小さな盾のようだ。不思議なことに、掌ほどの小さな盾だというのに、その外側でビシビシと何かを弾き返している。そして彼女は、ラルフの足元に降り立つ。
「ちょっとあんた!私の言葉、分かる!?」
「……えっ?あ、はい。」
「そう。すぐにあんたを助けるから、こっちを撃たないでね!」
「え、ええ……」
その女性は、不思議な盾で弾を弾きながら、耳元に手を当てる。そして何かを呟く。
「アイリーンよ!予定地点に到着したわ!全艦、打ち合わせ通りに降下開始!」
妙なことを口走るこの女性を、ただ唖然として見上げるラルフ。そんなラルフの目に、さらに信じ難いものが飛び込んでくる。
空に浮かぶ、巨大な灰色の何かが現れる。それはまるで、摩天楼を横倒しにしたような大きな物体。そんなものが、まるでこの戦場に覆いかぶさるように降りてくる。
それは、一つではない。両軍の塹壕戦に沿って、10か20の摩天楼が一直線に並んで地上に向かってくる。
天からのお迎えにしては、随分と派手だ。口の悪い天使に、このたくさんの空飛ぶ摩天楼。天に召されるということはもうちょっと穏やかなものだと考えていたラルフにとって、この光景はまったく予想外だ。
しかし、さらに予想外のことが起きる。
ラルフを狙って撃っていたあの3人の兵士が、大慌てで逃げ始める。そして彼らがいたその場所に、あの摩天楼が降りてくる。ズシーンという音とともに、灰色の摩天楼は着陸する。
天からのお迎えが、まだ生きているはずの兵士らに見えているのはおかしい。まさか自分はまだ、生きているのか?
それはそれで、ラルフは混乱する。それは現実と呼ぶには、あまりに非現実的な光景だからだ。空に浮かぶ摩天楼に、空飛ぶ女性。この世のものと思えないのは、当然のことだ。この話を故郷の恋人にしたところで、何一つ信じてはもらえないだろう。
「銃撃が止んだわ……ったく、危うくこの盾のバリア粒子が切れるところだったわよ。それじゃあ、そこのあんた、すぐに行くわよ!」
「あ、あの、行くってどこに……」
「駆逐艦よ!あの灰色のやつ!さ、立って!」
アイリーンに促されて、ラルフは立ち上がろうとする。が、立てない。足に痛みを感じ、力が入らない。
「ったく、だらしないわねぇ!一発食らったくらいで立ち上がれなくて、どうするのよ!」
と言われても、無理なものは無理だ。その場から動けない兵士を見て、アイリーンは再び耳に手をかける。
「エルヴェルト、仕事よ!すぐにきてちょうだい!」
すると今度は、摩天楼ではなく白い家ほどの何かが飛んでくる。エルヴェルト操縦の、アイリーン専用機だ。それはラルフのすぐそばに降り立つと、ハッチが開いた。
「やあ、アイリーン!何があったんだ!?」
「こいつが動けないのよ!哨戒機で連れて行くわ!」
「分かった。任せろ。」
そういうと、エルヴェルトはラルフの肩を抱えて、そのまま哨戒機内に連れ込む。中には、カナエとエリシュカがいた。
「うわっ!この人、怪我してるじゃないですか!早く手当てしないと!」
「大したことないわよ!そんなもん、つばつけときゃ治るでしょう!」
「いや、これは被弾している傷だ。すぐに応急処置しないと、痛みが増してくるぞ。」
「さすがは以前、肩に同じものを食らったことがあるだけに、よく分かってるじゃないの。」
「あはは、あの時はアイリーンに優しく治療してもらったから、おかげでこの通り、ピンピンしてるよ。」
「だ、だれが優しく治療なんてしたのよ!」
「アイリーン様、少し黙っててください。処置の邪魔です。」
この個性的な4人に囲まれて、治療やら罵声やらを受けるラルフ。ラルフは尋ねる。
「あ、あの、すいません。あなた方は一体、なんなのですか?」
「ああ、そうだったわ、自己紹介がまだね。私はアイリーン。接触人よ。」
「こ、コンタクター……?」
「昨日、この星に着いたばかりなんだけど、いきなり真下でどんぱちやってるのを見つけたから、駆逐艦を引き連れて止めに来たってわけ。」
「は、はあ……」
「私はカナエです。元パソコンショップの店員で、今はアイリーンさんの手助けをしてます。」
「私はエリシュカ。ヴァルチェッツェ王国の王女、フランチェスカ様の侍女。アイリーン様とともに、この宇宙を旅しております。」
「で、僕はエルヴェルト。この哨戒機のパイロットをやってるんだ。ああ、アイリーンの恋人でもあるけどね。」
「ちょっとあんた!なにが恋人よ!あらぬ誤解を生むような表現は、謹んでもらいたいわ!」
「何を言ってるんだ、アイリーン。近頃は毎晩、一緒に寝てるじゃないか。」
「だ、だれが毎晩寝てるって!?あんたと寝たことなんて、い、一度もないわよ!」
「あははは、照れ屋だなぁ、アイリーンは。もう少し、素直になればいいのに。」
「アイリーン様、少しお静かに願えませんか?治療の邪魔です。」
カナエとエリシュカが、ラルフの足の治療を続けている。その横で、エルヴェルトをアイリーンが罵っている。
この辺りくらいから、自分は死んだわけではないことを悟り始める。認めがたい光景だが、どうやらこれは現実のようだ。足はまだ痛いし、目の前にいるのはどう考えても天国からのお迎えとは言い難い。
それに、宇宙だと言っていた。どうやら彼らは、我々とは違う星からやってきたに違いない。宇宙には、超越した科学力を持つ宇宙人がいる、戦争前に読んだ記事にそんなことが書かれていたことを、ラルフは思い出す。
そう、彼らは宇宙人だ。
だから、空を飛ぶのは、決しておかしなことではない。
「じゃあアイリーン、行くよ。」
「ええ、さっさと行ってちょうだい!」
フワッと浮き上がる哨戒機。それまで戦っていた戦場を、上から見上げるラルフ。あちこちで煙が立ち上り、地面にはくぼみが、そして、幾人もの動かぬ身体が横たわっているのが見えた。
「……随分とやられたわね。」
ぼそっとアイリーンが呟く。だが、ラルフにとってはこれがこの1年ほど続いた日常だ。戦闘のたびに、誰かが必ず死ぬ。たまたま自分はその中で、生きながらえてきたのだと。
ところで、どうして自分は助けられたのだろう?ふとラルフは、疑問に思う。この戦場には、大勢の兵士達がいる。なぜ自分だけが、この宇宙人達に連れて行かれるのだろうか?
もやもやとした疑問と不安を抱えたまま、ラルフを乗せた哨戒機は駆逐艦へと向かっていた。
※ この話の前半は、加古隆の「パリは燃えているか」を聞きながら読んでいただくと、没入するかもしれません。




