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『或る狂いのエッセイ集』

『挙動狂い』

『挙動狂い』


  ・・・何かに飲まれている間の現象論理について



何かに飲まれている時、その人の挙動は一定している。繰り返しを繰り返す。当たり前のことだ、何かに飲まれているのだから、周囲のものは傍観できない。しかしこれは、人生の醍醐味である。何かに狂うことは、今まで述べてきた様に様々に狂うが、その時の人自身は、挙動が狂っている。

馬鹿なやつだ、と罵られても、小心者だ、と野次られても、その事に熱狂し集中しているのだから、挙動が狂うのは当たり前のことなのだ。しかしどうだろう、そこに不幸が混ざっている時、人は、こんなことも有りではあるが、果たして命さえ賭けるには、と、躊躇するだろう。



幸福の本質を、それなりに、学んだ人は、幸福状態を客観視できる様になる。周りが、何かを褒め称えても、今の自分が不幸なら、本当は違うんだけど、と心の中で理解することができる。これは、人生経験を踏んだ者だけの特権でもある。幸福状態をも客観視できる人は、挙動が狂わない。

しかし、それでも、人間は何かに狂わなければ生きていけない。小さな狂いとしたら、生きていること、呼吸をしていること、これに狂う。生きていることに狂うのは、人間の特異な現象でもある。動物は、狂う前に、本能で生きていることを理解するからだ。



心や観念で生きていることを理解できる人間は、本能が狂う前に、心や観念で狂う。この、狂うというのは、一種の依存でもあろうが、確かに誰かと話をしていたり、何かを味わっている時、働いている狂いは、その挙動自体であろう。

この様に、人間は狂うことに狂っている様でもある。しかし、深く考えなくても、人間は普通に生きていけるのだから、殊更に狂いを見出す必要性は無いと考えている。それにしても、人が、何かに狂っている時、確かに挙動が狂う時があるかもしれないことは、それなりに、人生の幸福状態に居る様だと考えている。

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