SS1 母の思い
急に酷い胸騒ぎがして、遅いと言える時間では無いのに娘に電話を入れた。
しばらく呼び出しが続いて留守電に替わると、「折り返して」とだけ伝言を残して電話を切り、待ち受け画面の時計を凝視する。
「まだ掃除中で、電話はカバンの中で、マナーモードにでもなっていて、だから出られなかっただけ。あの子に何も起きてはいないし、ちゃんと夕飯までには帰ってくる」
そう口に出していないと、本当に帰って来ないような気がして夕飯の支度にも身が入らない。それでも、食材を切り終えて下味も付き、ご飯も炊けて炒めるだけにしても電話は鳴らなかった。
夫と娘あての伝言をテーブルに残し、車に乗って社へとやって来てみたが、日が沈んでから降り出した雨にけむる境内には人影も無く、お社の陰に置き去りにされたバッグが娘の現状を知らしめていた。
慌ててお社に近付くと、懐かしくも忌々しい声が頭に響いた。
「娘が願ったが故、獣に落として思い人の所に向かわせた。母娘して同じ過ちを犯さねば良いが、此度はどう転ぶのやら」
背筋が凍る思いだ。なにしろ社の神は、容赦も無ければ人の心を汲み取れない、願いを額面通りに捉えて呪いを掛ける。だから願うなとあれ程言っておいたのに、どうして守れなかったのだろう。
私も過去に、ここで恋愛成就を願った事がある。
当時、入社間もなかった私には思いを寄せる人がいた。会社の同僚で六歳年上のその人は、取り留めて目立つ方では無かったけれど面倒見のいい人だった。覚えの悪い私に付きりで仕事を教えてくれ、失敗するとよく慰めてくれた。
だから恋に落ちるのも早かったけれど、告白する勇気が無くて願ってしまった。
『彼との子供を授かりますように』
子を授かれば優しい彼の事だ、結婚をしてくれるだろうし幸せな家庭を築く事ができるだろう。告白も出来ていないから先の話だろうけど、そんな夢を見る事くらいは許される範疇だろう。
願った日の夜に夢を見た。
管理を任されているお社の前に真っ白な猫が居て、「願いを叶えよう」と語りかけてきた。「古くからの巫女の血を継ぐ」と母から聞かされて育った私には、これは神様が願いを聞き届けてくれたのだと直感できた。
会社の会議室で彼と二人、数字の合わない資料を広げていたところで猫になってしまった。突然の事に固まってしまった私を、彼は優しく抱き上げてくれてキスをしてくれた。そのキスで元に戻った私は、彼に願いの内容は伏せて神様の悪戯だと説明した。
子供の嘘の方がマシに聞こえるであろう説明を、彼は真面目な顔をして聞いてくれた上に信じてくれた。それからは彼が食事に誘ってくれるようになり、休日を一緒に過ごすようになった。それまで感じていた壁みたいなものが外れた感じだった。
だからだろう、子を授かるまで時間はかからなかった。
妊娠したことを報告すると彼も喜んでくれ、直ぐに入籍してささやかながら結婚式も挙げる事ができた。新居は狭いながらも駅に近く、順風満帆な新婚生活をおくれていた。
それが変わったのは娘が生まれたあたりからだった。
育児に追われる日々の中、彼の態度が急変する。飲んで帰ってくる日が続き、休日もふらっと出掛けてしまって家に居ない事が多くなった。
娘は夜泣きが少ないものの、オムツが濡れたりお腹が空けば愚図りだす。母乳の出は良い方だったので、夜中に頻繁に布団から出られればなかなか眠れなかったのだろうし、料理にも手間を掛けられなくなったから、外食してくるのも仕方がないと思った。
オムツが取れれば、離乳食が始まれば、それまでは我慢してもらって頑張らないとと思っていた所で、別れを切り出された。
「君の願いは叶ったのだから、そろそろ僕を解放してくれ」
その言葉に、神様の声が重なって聞こえた。
しばらくして離婚が成立し、その噂を聞きつけた幼馴染に結婚を申し込まれて今に至るが、願いの事は夫も承知しているので二人目は生せないでいる。
帰って来なかった翌日、連絡が取れた娘が男の子を連れてきた。
これと言って特徴のないその子は、特異な体質だったのかもしれない。願って呪われたのは娘であるはずなのに、どうやら彼には神が見える様だった。それでも捻じ曲げられた思いは何処かで反発するもので、娘との肉体関係が成就の条件ならば、叶った途端にどう転ぶか想像ができる。
それでも、娘を弄ぶようには見えないのだから、責任を感じてしまうのではないかと危惧してしまった。だから抱いてしまえと促し、責任を感じない様に迷惑料だと誤魔化したのに、「大事にしたいから」と肉体関係を拒んできた。
それが彼の本質で、そんなところに娘も引かれたのかもしれないが、真面目で責任感が強い子なのだと感じ取れた。だから二人に任せる事にして、同棲することを認めてしまった。夫には有った全てを話し、見守ってほしいと頭を下げた。
「娘の願いはかなった。決して、責めるでないぞ」
その声は突然聞こえてきて、私の心を締め付けた。
娘は今彼に抱かれ、現実を見せられているのだろうか。
叶わぬ恋が我が身を代償としても成せなかったと、泣き崩れているのではないか。
彼に後悔させてしまったと、自分を許せないでいるかもしれない。
抱かれている最中かも知れないと躊躇いもあったが、居ても立っても居られずに電話をかけると、娘の穏やかな声が聞こえてきて驚いた。
直ぐに迎えに行くと言えば不思議がられ、心の傷を心配すれば否定する。娘の心が壊れてしまったのかと絶望しかけると、嬉しそうに両想いだったと告げてきて、もう少しこのままでいたいとお願いされた。
あの子はちゃんとした人を好きになり、そんな人から愛される子に育ったのかと思うと涙が溢れてきた。私は間違えてしまったけれど、幼馴染をいつまでも気にかけて優しく手を差し伸べてくれた夫のおかげで、娘は間違えずに歩めたのかもしれない。
願わくば、この先も末永く幸せに歩んでほしい。そう思う私は、娘が選んだ彼と今の夫に言い尽くせない感謝を抱いて、そっと受話器を置いた。