片思いの相手
僕は薄暗闇の中を、真っ白な猫を抱いて立っていた。
かび臭くジメジメしたその場所に覚えはなく、四方をコンクリートで囲まれ、出入口も無ければ天井さえも見えない。
聞こえるのは苦しげな息遣いだけで、その主は腕の中で冷えきった体を震わせている。
「どこなんだろう、ここは」
声に出してみても、その声は反響もせずに壁に吸い込まれていく。
寒々となにも無い八畳ほどの空間で、温めてやるための暖を取る方法などひとつしか思い付かず、座り込んで着ていた服を脱いで畳み寝床を作ると、猫をそっと寝かせて直に体温が移るように優しく抱きしめた。
どのくらい抱いていただろうか。やっと震えの止まった猫がそっと目を開け僕を見上げ、僕の胸に前足を掛けて腕の中で立ち上がって顔を近づけてくる。
その澄んだ瞳に吸い込まれるように、僕は最後の距離を詰めるとなんの躊躇いもなくキスをした。
唇に感じる柔らかな感触に、「輝義君、すき……」って覚えのある声を聞いた気がして、そのまま闇の中に意識が落ちていった。
(軒下で倒れていた猫を拾ったから、こんな取り留めのない夢を見ているのかな。なぜだか温かさに満たされている気がするのは、あの子の声が聞けたからかもしれない)
肌寒さで目を覚ますと、ダイニングテーブルに突っ伏して寝ていた。
十月も後半になると朝晩は気温が低い日が続いていて、寝起きなのもあってか寒さが身に染みる。
軽く顔を上げると、タオルで作った簡易寝床の上には、昨晩拾った猫が丸まって眠っているのが見える。見つけた時の息づかいが嘘のように随分と落ち着いているようなので、それほど心配する必要は無さそうだ。
昨晩、バイトから帰ってきてリビングのシャッターを下ろそうとしたところ、降りつける雨を避けるようにして、白い子猫が窓際でうずくまっていた。
死んでいるのかと思ったら微かに胸が動いているのが見て取れ、少し悩んだものの家に入れてあげる事にしたのだ。濡れて汚れた体を拭きながら確認したが、出血や骨折は見られなかったので、厚めに畳んだバスタオルの上に横たえさせた。
一晩様子を見て目を覚まさなかったら、動物病院にでも連れて行こうかと看病していて、いつの間にかそのまま眠ってしまっていたようだ。
「んーー!」
思いっきり伸びをして凝り固まった体をほぐし、時計に目をやると七時を少し過ぎたくらいだった。
ざっと調べた限りでは動物病院が開く時間にはまだ数時間あるし、コンビニなら猫缶とかは売っているかもしれないけれど、選ぶ基準が分らない。売っていなくて無駄足になるのも嫌だし、目を覚まさない子猫を残して外出するのも躊躇われる。
土曜日なので洗濯機を回すくらいしか急ぐ用事もないし、昨日は入りそびれたので朝風呂に入る事にした。あくびを噛み殺して湯を張りに行き、干しっぱなしだった洗濯物を畳んで行く。
(家がマンションとかで路上に倒れていたなら、やっぱり見捨てていたかなぁ?)
そんな事をリビングに戻りながらふと思ったが、寝入っている猫の可愛らしい姿に目を向ければ、やっぱり拾ってきただろうと苦笑いを浮かべてしまう。お人好しにも程があると自分でも思うが、それくらいしか取り柄が無いのだから素直に行動すべきなのだろう。
『ピピッ! ピピッ!』
お湯張りが終わったのでタオルごと猫を抱き上げ、脱衣所に入り洗濯機の上にそっと降ろす。
いくら濡れタオルで拭いて乾かしたとはいえ、それで野良猫がきれいになったとも思えないので、一緒に風呂に入って洗おうと考えたわけだ。意識が無いけど、注意して洗ってやれば溺れる事も無いだろう。
(洗ってやるのに石鹸とシャンプー、どっちが良いのだろう)
裸になって先に頭と体を洗っていると、脱衣所がにわかに騒がしくなった。
どうやら気が付いたようで、逃げようとでもしているのだろう。猫は水が嫌いらしいけど、綺麗になってもらわないと家が汚れる。それに、病院だって汚いままでは困るだろう。予防接種だって必要になるだろうし、必要な用品を買うのに連れ回さないといけない。
風呂場の扉を開けて猫を探すと、脱衣所の扉の所で飛び跳ねているのが見えた。ドアノブ目指してジャンプしている様なので、もしかすると何処かの飼い猫なのかもしれないが、扉に傷がつくので止めてもらいたい。
軽く水を切ってバスタオルで頭を拭き、抱え上げようとして猫と目が合って双方が固まった。
(あの瞳、夢で見たのと一緒だ)
見入る僕に対して猫の視線は徐々に下がっていき、その視線が下腹部辺りまで来ると狂ったように扉を引っ掻きだした。
「ちょっと、ダメだよ」
慌てて後ろから掴みかかり、暴れるのも構わず風呂場に連れて行って、湯を張っておいた洗面器の中にジャブっと浸ける。
「ミニャー!」
上がった叫び声も可愛いなぁなんて思いながらも、容赦なくシャンプーを素早く泡立てて体中をくまなく洗っていく。酷く暴れてはいるけれど爪を立てられる事は無くて、さしたる苦労も無いのがありがたい。
お尻を洗う頃にはぐったりしていて、シャワーで泡を流して抱き上げると、そのまま一緒に湯船に浸かった。
「ほら、暖かくて気持ちいいだろ。昨日は寒かったからな。そうそう、後で病院に連れてってやるから。そしたらご飯とおやつを買ってあげるよ。だから、予防接種の注射は我慢してくれよ」
顔をそむけ続ける猫は、それでも目をしっかり開いて逃げ口を探している。飼い猫らしいから、家にでも帰りたいのだろうかとも思ったけど、首輪も無いのでこのまま飼ってあげたいとも思っている。
どうしても綺麗な瞳をもう一度見たくて、なんとかしてこちらを向かそうとするけど、どんなに体の向きを変えても目を合せてはくれない。
「つれニャいニャァ。それとも、ツンデレさんニャのかニャ?」
気を引こうと思って口調を変えてみたら、見事に引っかかって視線が絡み合い、自然とその口に唇を落としてしまう。昨晩の夢のように……。
『ドボッ!』
唇が触れた途端、猫の体が弾けたように膨張してお湯が盛大に跳ね飛んだ。
いきなり被ったお湯のせいで猫を落としてしまい、慌てて顔を拭って猫を探そうとすると、濡れた服を貼りつかせた女性の胸が目の前にあって、伸ばした手は柔らかく弾力のあるモノを掴んでいた。
「ぃや! ちょっと!」
「うわ! なんだ! どうした! え?」
突然聞こえた聞き覚えのある声に、視線を上げると見知った顔がそこにはあった。
目の前で顔を赤らめているのは、クラスメイトであり密かに片思い中の相沢絵里さんだったのだけれど、状況に思考が付いて行かない。
(えっと、なんで居るの? 服を着たままで風呂に浸かっているし、膝の上に跨っているし。えっと、なんで?)
「えっと、相沢さんが、なんで?」
「あの、佐伯君。手、どかして。あと、目をつぶって。早く!」
両腕で胸を庇うようにしながらそう言われ、彼女の太腿を掴んでいる事に今更ながらに気付く。
「うわ! ご、ごめん」
両手をあげて目をつぶり、顔を背ける。そして夢で聞いた声の主が、相沢さんだったと確信する。ならば、相沢さんが猫になっていたのだろう。
彼女が立ち上がって湯船を出た気配はするけれど、扉を開けて出て行く音がしないでいて、もしかして僕が裸を見られているのかと嫌な汗が流れる。
「あの、ごめんなさい。えっと目を開けていいから、なにか服を貸してもらえないかな。このままじゃ外、出られないから」
そっと目を開けると、相沢さんは鏡が無い方の壁際でうずくまって目を閉じている様だった。濡れて貼り付いて細さを感じさせる背中を見てしまえば、良からぬ思いがムクムクと湧上ってきてしまう。
慌てて風呂場から飛び出して体を拭き、用意しておいた部屋着を身に着けると、ためらいながらも相沢さんに声を掛けた。
「あの。風邪ひくといけないから、しっかり湯船に浸かっていてね」
返事も聞かずに二階に駆け上がりながら、彼女に貸せるような服があったか考えてみる。貸せる下着が有る訳ではないので、体の線が分らないものが良いだろう。
タンスやクローゼットを漁って買ったばかりのスエットの上下を引っ掴むと、脱衣所に戻って声を掛けた。
「新しいバスタオルとスエット、洗濯機の上に置いとくから使って。脱いだものは洗濯機に入れておいてくれれば、後で使い方を教えるから乾燥までしてしまおう」
それだけ伝えるとリビングに戻り、ダイニングテーブルのタオルを片付ける。
猫だったとはいえ、女の子を泊めてしまった上にキスまでしてしまった。あまつさえ、裸を見せてパニックに陥れて体中触りまくって洗ったわけだ。助けた事を差し引いても、チャラにはならない程の無体をしてしまった。
完全に嫌われて訴えられるだろうと思い至り、崩れるように床に座り込むと脱衣所の扉が開く音が聞こえた。
ゆっくり振り向いた先にはうつむいた相沢さんが立っていて、服のサイズがかなり大きいようで、袖とか裾にけっこう弛みができている。
たぶん怒りと羞恥心で顔も上げられないのだろう。
廊下を俯いたままゆっくり進み、乾ききらない髪を肩に掛けたタオルで拭きながらも、僕の前まで来ると恥ずかしそうに僕を見た。
(あれ? 怒っていないのかな?)
「あの。洗濯機の使い方、分った?」
「うん。いま回している。乾燥までのコースにしたから時間が掛かっちゃうけど」
「とりあえず、話を聞かせてほしいんだけど。温かいコーヒーで良いかな?」
「お砂糖とミルクを少し多めに入れて欲しいな」
「こっちに座って、ちょっと待っててね」
どうやら話はしてくれそうなのでホッとする。
電気ケトルで二杯分の湯を沸かし、インスタントコーヒーを作ってテーブルに置くと彼女の正面に座る。
「「あの!」」
「「いえ、どうぞ」」
お互いに声を掛けて譲ってしまって、黙ってしまった。どうしたものかと考えていると、相沢さんが沈んだ声で先に口を開いた。
「気味、悪いよね。私、さっきまで猫の姿だったし」
「え? いや、かわいかったよ? 猫の姿も」
「も?」
「いや、あの。気味が悪いとか思ってないし、相沢さんとこうして話しができるなんて、どっちかって言えば嬉しいし。でも、どうして?」
怒っていたり軽蔑されたりでないのなら、相談に乗る事も出来そうだと考えて先を促す。
そう、どうして猫の姿で軒下なんかにいたのだろうかが気になる。
実は魔法少女とか呪いを受けているとかなのだろうか、なんて中二病的な考えを思考の片隅に追いやり、背筋を伸ばして答えを待った。