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<R15> 15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕 が含まれています。

それなら全部無かったことにして

作者:鯨井あめ



あの感触を、よく憶えている。










「5年間旅行に出かけるんだけど、って言ったら、君、どうする?」

ふたりがけのソファに寝転んだ宏太が、明日の晩御飯の意見を訊くかのように言った。
出し抜けに告げられた質問に、対面キッチンで皿を洗っていた菜々子はちょっと黙った。

彼は大学時代しょっちゅう国際線で世界を飛び回っていた。じっとしていることが苦手なのだ。刺激を求めていつも走り回っていた。
この生活が安定してきたのは、ここ最近のことだ。ふたりきりの毎日に倦怠期を迎えたわけでも、喧嘩をして口をきいていなかったわけでもない。お互いに別段不満を抱えているわけでもないのだから、彼の大振りな積極性がぶり返したのだろう。

そう思うことにする。

「そうね、寂しいな」

同じ指輪を同じ指につけて5年。子供はいない。作るつもりはない。怖いから。

「今から5年間ひとりぼっちは、長すぎるかも」
「……じゃ、7年」
「増えたよ?」
「ん? あれ? 増えた?」
「仕事はどうするの?」
「辞めてきた」

泡を洗い流していた菜々子は、泡だらけの手で蛇口をひねって水を止めた。瞬いた。

「辞めた? すでに?」

相変わらず寝転んだまま、宏太は「すでに」と肯定する。

「そう……」

だから今日は先に帰ってきていて、晩御飯も作ってくれていたのだろう。
水を流して、皿洗いを再開した。

「わたしが止めようと止めなかろうと、出かける気、満々だね?」

形だけ申し訳なさそうな声音で「ごめん」と彼が言うので、菜々子は「まあ、うん……」とだけ返した。うまい返し方が見つからなかった。
晩御飯に飲んだ頂き物のワインの味が、唐突に思い出された。
甘く柔らかな舌触りで、酒に強いふたりは一杯だけグラスに注いで乾杯した。菜々子は明日も仕事だから深飲みはしなかった。もちろんこの時はまだ、彼が辞表を提出していたことなんて知らなかったから、彼も翌日出勤すると思っていた。一杯しか用意しなかった。でも、一杯だけで充分満足できた。いい赤ワインだった。めっぽうカクテル派の菜々子は、ワインの銘柄などよく知らなかったが、きっと上等なものだったのだろう。

グラスの泡を洗い流して、水気を切った。逆さにして、システムキッチンの上部に取り付けた2本の棒の間に挟んだ。まるでおしゃれなカフェアンドバーのようなそれは、宏太が好んで取り付けたものだった。

「……絶対行く?」
「行く」

宏太は起き上がって、ソファに腰掛けた。
手を拭いた菜々子は、対面キッチンに立ったまま、向かい合わせで彼を見た。

「帰ってくる?」

宏太は黙った。
ぐ、とその唇に力が入ったのが、見ていてわかった。
菜々子はもう一度尋ねた。

「帰ってくるよね?」
「……帰って、くる、つもりではいる」
「何年後だったっけ?」
「早くて5年後」
「早くないね?」
「もうちょっと早いかもしれない。場合によるんだ」
「どういう場合?」
「お世話になる旅行先の相手が決めるから、俺にはどうにも」
「曖昧だ」
「こればかりは」
「ふうん」

菜々子は視線を彼から外し、電気ケトルに水を注ぎ、スイッチを入れた。

「優しいことが自慢の宏太が、かわいい妻をひとりぼっちにして5年も旅行するのね」
「うん。最短5年」

彼は優しい。明るくて優しい。陳腐な表現かもしれないけれど、率直に彼を表現するなら、確かに明るくて優しいのだ。
菜々子にとって、彼は春の太陽のようだった。
彼の隣にいると体も心もほかほかと温もって、安心して目を閉じて、ゆるやかに微睡むことができた。
もちろん欠点もあって、他人よりも好奇心旺盛で夢中になると視野が狭くなる。そんな時彼は夏の太陽みたいにキラキラと輝く。愛する物を照らして真っ直ぐそれに降り注ぐ。
干した羽毛ぶとんのような緩やかさと、何もかもを焦がしてしまう猛進さを併せ持っていた。二面性も彼の魅力だ。菜々子はそんな彼だから好きだった。

「いつから行きたいの?」
「明日から」
「急ね」
「急なんだよ。俺って計画立てるの苦手だから」
「知ってるよ。でも、あんまりじゃないかな?」
「だってどうしても行きたいんだ」

今回、彼は春より夏に生きているだけだ。誰かを包むより何かを求めていたい。彼の意識は人じゃなくて物に向いている。だから優しさよりも強さに傾いている。

そう思うことにする。

「宏太って、なりふりかまってない時の動機は単純だよね」
「よくわかってくれてるね」
「妻ですから」

菜々子は振り返って冷蔵庫を開けた。
今日の仕事帰り、記念日でも誕生日でもないのに、彼はケーキを買ってきた。菜々子が愛してやまない駅前のケーキ屋で、彼女がいちばん好きなガトーショコラを。彼のぶんはいつも通りショートケーキで、生クリームが一般的なそれより多く乗っている。菜々子はチョコが、彼はクリームが好きなのだ。
彼なりの、詫びのつもりだったのかもしれない。ふたりで食べる最後の夕食に、おいしいデザートを添えたかったのかもしれない。
きっとそうだ。そう思うことにする。
箱からケーキを取り出して皿に移した。小さなフォークを添える。

「その旅行って、どこに行くの?」

顔を上げないで声を掛けると、宏太の柔らかな低音が返ってきた。

「まだわからないけど、たぶん君の好きなところじゃない」

電気ケトルがピピッと鳴って、お湯が沸いたことを知らせた。ティーカップを棚から取り出して、ダージリンのティーパックをひとつずつカップの中に置いた。上から丁寧にお湯を注いだ。飴色がじわじわと広がっていく。
カウンターの上に乗っていた砂時計をひっくり返す。サラサラとピンクの砂が落ちていく。

「俺が旅行に出ている間、君に少しばかりの迷惑をかけるかもしれない」

宏太はソファに座ったまま、ローテーブルの上を片付け始めた。テレビのリモコンを端に寄せ、近くのゴミ箱に手を伸ばした。テーブルの上を軽く手で払い、ほとんど溜まっていなかっただろう埃を一応ゴミ箱に落とした。

「嫌な思いをさせるかもしれない」
「宏太がいないだけで、ちょっと嫌な思いなんだけど」
「それ以上に辛いかも」
「そんなことってあるのかな?」
「あるんだ。君にはそれを受け入れてほしいんだ。帰ってきたら何十回でも何百回でも謝るから」
「謝られても許せないなら、どうしたらいい?」
「そのときはそれでいいよ」
「案外あっさりしてるね。許してほしくないの?」
「許してほしいけど、仕方のないこともある」

菜々子は水切りカゴに置いていた食器類のうち、包丁を手に取った。これだけはちゃんと拭いてしまっておきたかった。食器を取るときに気が付かなくて、もしくは(そんなことほとんどないだろうが)、何かの拍子に水切りカゴが落ちて、包丁が運悪く、――とにかく、ふたりのうちどちらかが怪我をするのが嫌だった。
包丁の刃を慎重に拭いて、シンクの下の引き出しを開けた。5つの包丁を置く場所があって、3つが埋まっていた。いちばん端にしまった。
反りの強い牛刀をひとつ買わなければならない。このままでは肉が切りづらい。しかしこの1週間は忙しくて、専門店に寄っている暇がなかった。

ピンクの砂がすべて落ちきった。
菜々子は、木製のトレーにケーキと紅茶を乗せた。
リビングダイニングに向かった。

座ったままの宏太の前に、ショートケーキの乗った皿とティーカップを置いた。そして彼の隣に、ガトーショコラとティーカップを置いた。トレーをテーブルの脚に立てかけて、彼の隣に座った。クッションが一度沈んだ。
ふたりで選んだ、落ち着いた黄緑のソファだ。このマンションの一室に引っ越すことを決めたとき、大きな家具屋であれでもないこれでもないとこだわって、やっとふたりが納得できた、お気に入りのソファだった。
紅茶の白い湯気が左右に揺れていた。宏太が口を開いた。

「俺が明日、旅行に出たらさ」
「出てほしくないかなぁ」

小さな声で言ってみると、宏太は眉を下げたまま微笑した。

「出たら、君は自由だよ」
「別にあなたがいても自由だよ?」
「そうだけど」
「自由すぎて、あっちこっちに行っちゃうかも」
「浮気はやめてほしいな」
「5年も放っておかれると、もしかしたら」
「心が痛い。俺が言いたいのはそういうことじゃなくて、――街を歩きたいように歩ける。遠回りをしなくてもいい。駅に向かうために、あの公園そばの林の脇を通ってもいいんだ」
「……」

菜々子はゆっくりと息を吸い込んだ。

「つまり?」
「もう、怖がらなくてもいい」

部屋が口をつぐんでじっとふたりを見つめているように、沈黙が降ってきた。

「5年か7年後か10年後かわからないけど、俺が帰ってきて、君にまだ俺への愛情があったら、そのときは子供を作ろう」

衝撃が菜々子の脳内を襲った。閉まっていたはずのドロドロとした嫌悪と恐怖が這い出してきた。

「嫌だよ」

いたって声はいつものように出せたが、宏太は菜々子の変化に敏感で、彼女の手に自身のそれを重ねた。

「俺はちゃんとした父になるし、君はちゃんとした母になれる。わかるんだ。絶対に大丈夫。間違えたりしない」
「嫌だ。だって、……嫌だ。その子が、もしその子がうまれて、わたしが死んでしまったら。あなたがいなくなってしまって、もし同じようになってしまったら」
「そんなことにはならないし、させない」
「でもわたしは」
「きっと大丈夫」
「けれど」

ぐっと手に力がこもって、菜々子は息を詰めた。少し深呼吸をしていると、狭まっていた視界がもとに戻ってきた。ゆっくりと最後の息を吐いた。

「もう、心配はいらない」

宏太の強い意志がこもった言葉に、「……どうして?」と返す。

「いないんだ。もう、ここにあの人は来ない。二度と来ない」
「……」
「断言できる。絶対に来ない」

菜々子は間をおいて、「そうだね」とうなずいた。

「そうだよね、来ないよね。来れないよね」
「来れなくなったんだ」
「そんなのとっくに知ってたよ」

宏太はひゅっと空気を吸い込んで、じっと菜々子を見つめた。しばし絶句して、やがて「ああ」と悲しそうに目を閉じた。

「知ってた?」
「知ってた」
「……なら、どうして俺が旅行に行くかも知ってる?」
「知ってる」
「なんで」
「だって、ねぇ、」

まだ心臓がばくばくと鳴っている気がしている。菜々子は耳の奥に響くそれを、心地よいと感じるよう努めた。
そんなことより大切なものがあるからだ。

「妻ですから」

そうだ。
彼女は、宏太の妻だった。
彼女は宏太に寄り添って、宏太は彼女に寄り添う。お互いがお互いを支えて、歩いていく。歩いていきたいと誓った。何があったって。だから、彼女は彼のことを本当に、本当によく知っていた。

「あなたのことが大好きですから。わかってしまうんだよ」
「……」
「子供なんていらない。あなたがいてくれたらそれでいい。それで生きていける。そばにいてほしい」
「いられないんだ。俺はこれから、旅行に」
「行かなくてもいいよ」

まだ自由だったもう片手を、自身の左手の上に被さっていた彼の右手に重ねた。宏太が横を向いたまま、瞼をゆっくりと開いた。

「行かなくてもいいんだよ。そんな必要ないんだよ。だってあなたは間違ってない。わたしも間違ってない。わたしたちは間違ってない。正しくはないかもしれないけど、間違ってはないんだよ。だからあなたが行く必要はない」

彼は何も言わなかった。

「行かないで」

はくはく、と持ち上げられた金魚のように小さく口を動かして、宏太は小さく「でも」と言った。

「でも、俺は、行かないと、苦しい」
「苦しまなくていい。宏太が苦しむ必要なんてない。何もかも、全部無かったことにしよう。無かったことにしてしまおう。そう、何も無かった。だから気にすることはないの」
「けれど」
「お願い。ひとりに、わたしをひとりにしないで。だってあなたがいなかったら、わたしまたあんなふうに怖くなってしまうかも」
「俺は」
「宏太は、悪くない」

菜々子はゆっくりと目を伏せて、明日に恋するように笑んだ。

「あなたは本当に優しくて明るいね」
「菜々子」
「ごめんね、ありがとうね。もういいんだよ。終わったんだよ。終わったことにしようよ」

宏太の手が、震え始めた。
怖くない。きっと怖くなんかない。怯えなくてもいい。ふたりでこれからも今まで通り、生きていけばいい。
彼は悪くない。
何も、何も悪くない。

「大丈夫。誰も気づかないよ、きっと」

たかがひとり、ホームレスがいなくなったくらいで。










あの感触を、よく憶えている。

大切な人が笑顔を見せなくなったこと。奪われた安息。
話には聞いていたけど、こんなところまで追いかけてきて、暴力と植え付けられた恐怖心を利用して脅して金をねだって、やっと手に入れた幸せをめちゃくちゃにして。実の親のくせに子供にたかるなんて、実の子供をここまで追い込むなんて、最低だ。

「昔から、ああじゃなかったの。母が死んでからお酒に溺れるようになって、どんどんエスカレートしていったの。何言っても殴られるから、暴力が怖くて怖くて、逃げるために大学進学を理由に上京してきたんだ」

ぽつりぽつりと語られる真実に、手が震えた。

「……こんなの知られたら、嫌われると思って。結婚式も挙げなかったのは、だって呼びたい親がいなかったから。ごめんね」

大切な人がそれでも泣かないのは、強さではないと思った。泣かないんじゃない。泣けないんだ。こんなのただの強がりだ。

「どこからばれちゃったんだろう、ここに住んでるって。あの人、前住んでたところ、追い出されたのかな。借金も多かったんだろうし。だからって助けたいわけじゃないんだ。もう縁を切ったつもりで、第二の人生をあなたと歩もうって決めてたのに。……ほんとに、ごめんね」

謝るべきは、君ではないと思った。
謝られても許してやるものか、とも思った。

夜も眠れないほどの憤り。熱くて熱くて溶けてしまいそうな心臓。やけに冷えた爪の先。ひどく狭い視野。明瞭な脳味噌。

「ごめんね」

大切な人が笑顔を見せてくれない。どうして奪われなくちゃいけない。どうして恐れなくちゃいけない。理由もいわれもない。ただただ、描きたい人生を歩んでいただけだ。これからというときのはずだ。だというのに、どうして!

人間という生き物は、沸点を超えた感情を抱くと、氷点下の泥沼に浸かるようだ。

帰ってきて見つけた君は、真っ赤に腫らした目と、痣だらけの顔をしていた。
君は座り込んだままこちらを見上げて言った。

「ごめんね……」

大切な人の涙と絶望を見たとき、ボコボコと零れそうだった怒りの溶岩が瞬時に固まって、冷風が吹き荒れて、頭の先から足の先まで細かな氷が滑り落ちた。

大切な人が睡眠導入剤で眠ったとき、耳は音を拾わなくなっていて、鼻はにおいを嗅ぎ取らなくなっていて、口の中はやけにザラザラとしていて、感覚すら断たれていて、目だけが、鏡に映った自分の目だけが、ジリジリと自分を突き刺すように見返していた。

電気が消えていても慣れた足取りでキッチンに向かい、目当てのものを手にとって、暗闇の中、徒歩30分の公園に向かう。
隣接した林にやつが住んでいる。ダンボールとブルーシートでできた、突風ひとつで吹き飛びそうな家に住んでいる。どこにいるのかわかっている。
まっすぐそこに進んで、簡易なその家の中に入って、そいつが足音に気づいて呆けた声を出した。眠そうな半眼で何かを言う前に、両手で持ってきたそれを握った。

上から落とし込んだ。

一度だけくぐもった声が上がった。
すぐに持ってきた雑巾を口に突っ込んだ。次を叫ばせなかった。
何度も何度もそれを上げて下ろした。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。

やがて疲れて息が切れて、自分の呼吸で浮上してきた自我がその光景を見て、冷徹に次の指示を出した。自分に従った。
家に帰って車を出した。
林に戻った。
触りたくもないやつを担ぎ上げた。
そいつの家の屋根だったブルーシートを後部座席に敷いた。
そいつを乗っけた。
体中がベタついて仕方がなかった。
行く先はわかっていた。街はずれの暗い山道、あの急カーブと崖。



ずぷりずぷりと肉を喰い込んでいく重みと、

プチプチと細かに筋を断つ音と、

あいつの弱い心臓の震えと、

他人の命を奪った感触を、

よく憶えている。










無かったことに、できるだろうか。




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