きれいな悪魔
男は暗い、散らかった部屋の中で今まさに37歳の誕生日を迎えた。そして、これまでの人生を頭の中で振り替えり、深いため息をついた。
その男の人生は散々なものであった。親には好かれず、友達は作れず、彼女なんてものは夢のまた夢だった。3流企業の下請け工場で働き、毎日朝早くから夜遅くまで上司に怒鳴られながら、部下に笑われながら仕事をしている。もしその理由がその男自身の行動や努力不足であったのなら彼もまだ納得できただろう。しかしそうではないのだ。彼の不幸を呼び寄せていたのは、彼の醜くゆがんだ顔であった。ただ彼の顔が醜いというだけで、彼は迫害され、嫌悪され、嘲笑されていたのだ。家族は彼を一家の恥と考え、彼をいないものとして扱った。夕食を囲んでいるときでさえ家族は彼にだけは話しかけなかった。学校生活は地獄のようだった。まだ純真すぎた子供たちはどこまででも残酷になれた。自分の外見を気にし始めた年頃の彼らにとってその醜い男の子は日頃のストレスのはけ口となった。毎日のように嘲笑され、持ち物を隠され、暴力を振るわれた。しかし、そんな過酷な状況の中でも彼は、努力は報われると信じ勉学に励み、見事に一流の大学に現役で合格を果たした。大学でも彼は、勉強もせず遊びに明け暮れるほかの学生たちを横目に机に向かう日々を過ごした。このころにはさすがに暴力をふるわれることはなくなっていたし、わずかだが彼のことを嘲笑しようとせず対等に話し合ってくれる友達もできた。彼の人生もようやく軌道に乗り始めたと思われたが、就職活動でつまずいた。たいていは履歴書の写真で落とされ、何とか受かったとしても結局は面接で落とされた。結局、一流大学を出ているにも関わらず、彼が就職した先は名前も聞いたことのないような三流企業の下請け工場だった。就職してからのごたごたで結局わずかにいた友達とも疎遠になり、今はもう連絡先も知らない。
男は洗面台に移動して鏡を覗く。そこに移っているのは到底人の顔とは思えないものだ。目は切り傷のように鋭く、目じりは気味悪く1センチも垂れ下がっていた。それとは対照的に唇は分厚く虫に刺されたかのように腫れていた。鼻はまるで脂ぎったニンニクのようであり、髪の毛も陰毛のようにひどく縮れて脂ぎっていた。鏡の中の人を見つめながら彼は考える。
確かに醜い顔だ。もしこの顔がほかのだれかのものであったなら俺も声をあげて笑っただろう。だがこの仕打ちはあんまりだ!ただ顔が醜いというだけですべての能力が、すべての努力が無駄になっちまう。救いなんてあったもんじゃない。最低な世界だ。最低な奴らだ。もうたくさんだこんな世の中。思えばこの37年間全く楽しい事なんてなかった。ただ顔が醜いというだけで。最低だ。最悪だ。もうこんな世の中になんか1秒たりともいたくない。
目線を下すと、洗面台においてある剃刀が目にはいった。
「死ぬか・・」
そうつぶやいた直後だった。彼の前に白くて強い光が瞬いた。驚いて彼は目をつぶった。恐る恐るその目を開けてみると――――きれいな少女が彼の前に立っていた。
「わっ!な、なんだお前は!」
「ごめんなさい!どうかおびえないで!」
そのまま2分余り沈黙が流れた。
そのうちに頭も冷えてきて、状況を飲み込めるようになってきた。その少女は真っ白なワンピースに身を包んでいた。髪はそれとは対照的に真っ黒で、水のようにさらさらだった。真珠のように輝いた大きな目、小さくて背の高い鼻、淡いピンク色の薄い唇、そこから漏れる白い歯―――完璧だった。少女は美そのものであった。ああそうか。神様が醜い俺のためにこんなきれいな天使を送ってくれたんだな。
「そうか、君は天使なんだね、、、」
「いや、違うの。落ち着いて聞いてね。私は悪魔なの」
「えっ」悪魔?俺の魂を取りに来たのか?頭が混乱する。いろんな考えが頭を錯綜する。ダメだ。魂を奪われる。
脚をもつれさせながら部屋の隅へ逃げた。
「待って!逃げないで!話を聞いて!お願い!」少女が追いかけてきた。俺の手を取る。俺の体温より少し暖かくて柔らかい。こんな事初めてだ。心臓がバクバクなってる。
「いい、私はあなたの魂がほしいの。今、地獄では悪魔の数が減っていて人員を募集しているの。お願い。私のために悪魔になって」少女が顔を近づける。声もまた美しい。吐息が顔にかかる。生暖かい。心臓が破裂しそうだ。
「大丈夫、悪魔って言っても悪い者じゃないわ。あなたが思っているほど」少女の柔らかそうな唇が動く。ダメだ。何も考えられない。美しい。
「大丈夫、悪魔になるって、そう悪い事じゃないわ。私と一緒に働いてほしいの!」少女の眼が2回連続で瞬きをする。麗しい。その大きな黒目に吸い込まれそうだ。つい見入ってしまう。
「……だめ?」少女が少し上目づかいになる。唇はいじけたようにとがっている。ダメだ。可愛すぎる。何も考えられない。
「もちろん、いいさ!」考えるよりも先に、言葉が口をついて出てきた。しまった。言っちまった。でもいいさ。後悔はしていない。彼女が何者であろうと、こんな美人を悲しませることなんて絶対に許せないことだ。
「本当に!?ありがとう!」彼女が満面の笑みで喜ぶ。ほら、俺の判断は間違っていなかった。なんて美しい笑顔だ。死に目にこの笑顔が見れただけ満足さ。ああ、意識が遠のいていく……
一人の男の死体が横たわった部屋で、女はたばこに火をつけた。
「おい」突然、音もなく部屋の隅にスーツの男が現れた。
「あら、サタンじゃないの。ちょうどいま一仕事片づけたところなの。あなたも一本どう?」女はたばこを勧める。
「いや、大丈夫だ。それよりも一つ聞きたいことがあってな。お前の働きぶりにはいつも感謝しているよ…。お前のおかげで昨今の道徳教育による悪魔不足も、解決しかけている。ただな、お前の勧誘してきた悪魔はどれも能無しばっかなんだ。どいつもこいつも全く人間を堕落させられない。何度鞭で打っても全く効き目がない」
「当たり前よ。だって彼ら不細工だもの」
「不細工?」
「ええ、不細工。だって考えてみて?誰が不細工な悪魔に魂売るっていうの?結局世の中顔なのよ顔。地獄の世界でもね。そんな簡単なことにあいつら気づかないんだから、笑っちゃうわ」