6月 6
廊下は湿気でじめじめしていて、それでいて台風の風が滑り込んできて肌寒い。その中でやり合っている声はやけに響いているようで、私は思わずふっと溜息をついた。
長年学校の購買部で勤めているからといって、高校生の喧嘩に慣れている訳ではない。むしろ前は賢しい子の集まる女子校だったのだから、大人が見つけるような場所で揉め事を起こす訳がなかったのだ。
あー、どうしよう。外部業者の私が知り合いの女の子放置して逃げる訳にもいかないし、どうやって切り抜けよう。そう思っている間に、目的の裏口付近に辿り着いた。
案の定と言うべきか、鏑木君が怒った顔で胸倉を掴んでいるのがわかる。そのせいで芙美さんは涙目で鏑木君の腕を引っ張っているけれど、鏑木君はそんな芙美さんの手を無視して、胸倉を掴んでいる生徒を離す気はないようだ。そして問題の胸倉を掴まれている生徒を見た瞬間、私は頭の片隅で「あっちゃー……」と呟いてしまった。もちろん口には出さないわよ。そんなこと聞こえたりしたら余計ややこしくなってしまうもの。
胸倉を掴まれていたのは矢島君だったのだ。よりによってなんで今日みたいな日に鉢合っちゃったのよ……。でもここで見て見ぬふりをするのはよくない。なによりもこの子たちが学校の先生たちに見つかったらそれこそことだものね。私はぎゅっとシャツの裾を掴んでから、ひと息息を吸った。
「なにやってるの。先生達に見つかったらまずいんじゃないの?」
抑揚を抑え、なおかつ別に注意したいとかじゃない、怒ってる訳じゃないのよ。そう言う風にしゃべるのがどれだけ大変か、初めて思い知った。学校の先生ってすごいのね、この手のトラブルに私なんかよりよっぽど立ち会う機会多いんですもの。
私の言葉に、涙目の芙美さんはあからさまにほっとしたような顔をしたのにこちらも胸を撫で下ろす。私みたいに頼りない大人でも頼ってくれたのなら、なんとかしたいしね。
鏑木君も私を購買部の人くらいは覚えていてくれたらしく、ほんの少しだけ罰の悪そうな顔をして掴んでいた矢島君の胸倉の手を緩める。でもまだ離してはくれないみたいね……。
「……いや、おば……お姉さんには、関係ないです……し」
「さっき先生が見回りして、休校になったのに来た子たちに家に帰れって言いに回ってるわよ。その内ここにも来るんじゃない?」
珍しく歯切れ悪い鏑木君に私は心底ほっとする。悪いってわかってるけど頭じゃ納得してない、できないって感じかこれは。不器用よねと思いながら、私はできる限りゆるりと笑う。笑うって言うのは警戒心の反映とかコミュニケーションの一種とか色々言われているけど、とりあえず困ったら人は笑う以外にできないような気がする。
鏑木君は罰が悪い顔をしたまま、ようやく矢島君の胸倉を離した。背は若干鏑木君の方が高く、首が絞まっていたのか、離された途端にゲホゲホと背を丸めて咳をはじめた矢島君に、芙美さんは心底ほっとしたような泣き出しそうな顔をしていた。
「……すんませんでした。行くぞ、芙美」
「えっ……うん。あのっ! ありがとうございます」
鏑木君はぶっきらぼうに声を芙美さんにかけると、芙美さんはこちらに頭を下げてから足早に立ち去って行った。残された私は軽く手を振りつつ、同じく残された矢島君を見る。矢島君はぎゅっと眉間に皺を作って、鏑木君を睨んでいるのがわかった。
青春してるなあ。そんな言葉が頭に浮かんだけれど、青春なんて当事者たちからしたら痛痒いだけだし、なんの慰めにもならないわね。そう思いながら私はポロリと矢島君に声かけた。
「どうしたの。あの子と喧嘩したの?」
「……おばさんは別に、先生でもないでしょ」
「うはは、そりゃそうなんだけどね」
私多分、矢島君のお母さんよりはよっぽど年下だと思うから、お姉さんくらいが嬉しいんだけどなあ……。そうは思うけど、学校の先生に痴情のもつれで喧嘩したなんて言い辛いでしょ。私は態度をできるだけ変えないよう気を配りながら言葉を選ぶ。
「いつも買い物に来てくれてるお客さんの話は、ペラペラしゃべったりしないよ。今どうせ横雨ひっどいんだからさ、今は誰もここまで来ないよ。今の内に吐き出したいことあるんだったら言っておけばいいんじゃないかな」
「……本当に言いません?」
「あれ、言いふらされるような話でもするつもりだったの?」
「……そんな面白い話なんてないっす」
「うはは。じゃあここだけの話にしといてあげるからちゃっちゃと言っちゃいなさい」
窓を叩きつける雨は相変わらず激しくひどく、先に帰った芙美さんと鏑木君は大丈夫かしらと心配になってしまう。しばらくだんまりを決め込んでいた矢島君も観念してくれたらしく、ようやく口を開いてくれた。
「……俺、前に三田……さっきの女子っす……に告白されたんです」
「うん」
でも矢島君よ、君どう見ても別に芙美さんのこと嫌いじゃないでしょ。なのにどうしてその告白断ったのよ。
ある程度は芙美さんと話をして把握はしているものの、それを口にする訳にもいかず、焦れる心をどうにか鎮めて続きを待った。矢島君は俯いたままポツリポツリと言葉を漏らすたびに、耳は真っ赤に染まって行くのが微笑ましい。
青春してるなあ。何度目かの感想が頭を横切っていく私は、自分が思っているよりも年寄り染みているらしい。
「それで……その、その場では断ったんです」
「あれ、断っちゃったんだ」
「はい……三田って本当にすごいんです。成績優秀だし、今度の合気道の大会も出場決まりましたし、その上、か……」
「可愛いよねえ、あの子。おまけにそれを鼻にかけてないし、さっぱりしている子だしね。いつもうちに買い物に来てる時話してるけど、話しやすい子だと思うよ。でも多分女子はどうしてもつるむのが好きだから、そうやってつるんで行動するのは苦手な子じゃないかなあ。男子とは多分男友達として話しやすいから一緒にいるんだろうけど、それで余計な勘ぐりをされるタイプじゃないかな?」
私が思ったことをそのまんま言ってみただけなんだけど、矢島君は目を見開いてこちらに顔を上げているのに、私は思わず笑ってしまった。
うん、男女の付き合い方って、男のノリと女のノリと全然違うから、わかりにくいのかもね。
「……俺、多分ものすごい女々しいんだと思うんです」
「そうなの?」
「……さっき鏑木……あの俺の胸倉掴んでた奴ですけど……三田と話しているのを見てたら、もやっとして……」
「でも変な話ねえ? だって君は三田さんを振ったんでしょ?」
「振ってないです。断りましたが」
「あれ?」
話が見えないと思って思わず私が首を捻ろうとした瞬間、一瞬だけ外の雨足が遠のいたような気がした。
没個性的だと思っていた矢島君が顔を真っ赤にして、真剣な顔をしている様はまさしく「男の子」ってうう感じで、とてもじゃないけど没個性的とひと括りになんてできるものじゃなかった。要は格好いいのだ。
恋する女の子は可愛いし、恋する男の子は格好いい。
「……三田はあんなに格好いいのに、俺なんもないじゃないっすか。なんもない奴に三田はつり合いません。だから、断りました。でも俺、別に三田を振った覚えは本当にないんです」
「うーんと、君は三田さんを?」
「好きです。誰かに取られるのは嫌だし、ちゃんとつり合えるようになったら、ちゃんとこちらから告白します」
「はあ……」
私は思わず心の底から吐き出すような息を吐き出していた。
何なの、本当に格好いいよ。芙美さんの見る目は確かだったし、男子と友達として付き合っているような子だから、絶対にあの子は矢島君のよさを見抜いている。だとしたらなおのこと今のすれ違いはふたりのためにならないじゃない。
私は思わず天井を見てから、もう一度矢島君に向き合う。
仲人なんてしたことないし、上手くいくかもわからないけど、何もしないよりはまだマシだわ。高校生の恋に首突っ込むのは下世話、なのかもしれないけれど。
「どこかの本で読んだ話だし、どこで見たのか私も忘れちゃったんだけどね。高校時代の一日の長さは今の私の一週間よりはよっぽど長いって思うのよ」
「……ええ?」
意味がわからないって言う顔しないで、折角ついた個性を埋もれさせないで。
「だから、三田さんが勇気出して告白した日も、君が彼女を好きだったって言う記憶も、案外君が思っている以上に早く、昔とか思い出とかになっちゃうと思うんだよね。私からしたら三年前なんて今の仕事してたけど、君達にとって中学時代の頃なんてもう大昔になってない? いい思い出にされちゃうくらいなら、今のトラウマになっちゃいなさい。言わないで後悔するくらいなら、今言って後悔しなさいな。案外後悔の種類が違うから、何とかなるのかもしれないわよ?」