健気な花1
「客人をもてなすのも仕事だろう?」
廊下の角を曲がるとすぐに現場が見通せた。
といっても、半分はそこにある大きな花瓶に隠れてはいるのだが。
遠目から一見すると、男がひとりで壁に話しかけているような奇妙な光景だった。
「まだ花の手入れの途中ですので……ヒース様に怒られます。どうかお許しください」
許しを乞うその声を聞いた瞬間、ぞわりと全身の肌が粟立ち、一気に駆け出した。
かすかに聞こえたその悲痛な願いを紡いだのは、サラの声だったからだ。
走りながら目を凝らすと壁と花瓶の間に蜂蜜色の髪と青ざめたサラの顔がちらりと見え隠れしている。
男の方は花瓶に隠れて誰だかわからないが、男の指がサラの耳元から頬、顎へと滑っていく。サラはささやかな抵抗として、男から顔を背けた。
こちらに顔を向けたのだが、眉間に深いしわを刻むほど眉を寄せてきつく目を閉じているせいで気がつかない。
「だから私の傍仕えとして雇うと言ってる」
男の左手がサラの青ざめた唇をねっとりとした動きで執拗に撫でまわす。
雨に濡れた子猫のように小刻みに震えながらも気丈に歯を食いしばっている姿が痛々しかった。
「この私に奉仕するというのも名誉ある仕事だろう?」
くつくつと暗澹とした男の笑い声が聞こえ、おぞけがする。サラはただきつく目を閉じたまま答えなかった。
(なにが名誉ある仕事だ!サラに、触るな!)
叫びたい気持ちを必死に堪え、床を蹴り続ける。
イグナス家の爵位は子爵だ。
5爵の中でそれほど高い地位ではない。
それを、今ほど恨んだことはない。
どれほど不快でも相手がわからないうちは下手な手を打てない。
男の右手がサラの顎を掴み、再度自分の方へと向けさせた。きつく目を閉じたままのサラの顎から、男の右手は頬、耳元へと滑った。
ハニーブロンドの髪を払い、あらわになったうなじに顔を寄せ、なにかを囁きかける。
その瞬間、きつく閉じていたサラの目が一瞬見開かれたかと思うとゆっくりと虚ろに伏せられ、ゆるゆるとサラの全身の力が抜けたように見え――おそらくは今までサラが抱えていた赤いバラの花がはらはらと床に落ちた。
男は足下に散乱するバラを意に介さずに踏みにじる。
「ふふ、いい子だ。そう怖がらなくとも、男に愛でられる喜びを優しく教えてやる」
この廊下をこれほど長いと思ったこともない。
俊足にはそれなりの自信があるが、それでも足りない。
まるで悪夢だ。
走っても走ってもたどり着けない蜃気楼を追いかけているような悪夢。
もし夢なら今すぐ醒めて欲しい。
かきむしりたいほどはがゆい。
指一本たりともサラに触れることなど許せないのに――男の左手が首筋を伝い胸のふくらみへ、右手は腰から足へと滑り降りていく。
焦燥が最大限に達した、ちょうどその瞬間だった。
男の手が、ふいに止まった。
「そういえば……ここは頭の堅いヒースの領内だったな」
サラが淡い期待と許しを求めて男の顔色を伺った。が。
「邪魔が入ると興が殺がれる。部屋でゆっくりと愉しもうか」
どろりとした粘液のようなおぞましい言葉に、サラの目は再び虚ろになり、かすかにふるえる口元がなにかを――おそらくは了承を――口にしようとする。
「サラは私のものだ。手出しはご遠慮願いたい!」
我慢の限界だった。
ようやく到達するなり、相手の立場など構わずに乱暴に男の肩を掴んでひきはがし、サラを背にして間に割ってはいる。
他家の使用人に手を出すのはマナー違反だとか、女性の扱いには特に厳しい父の意向でリュイナールの領民に貴族が地位を利用して言い寄ることを暗黙のうちに禁じているのを知らないのかとか、他にもいろいろ言いようはあった。
だが、とっさに口をついた言葉はそれだった。
ほぼ単なる願望だが、説得力はそれなりにあったようでわずかに男が怯んだ。
(……よりにもよって、厄介な男の目に止まったものだな)
怯んだ男の顔を確認し、心の中で思わずひとりごちた。
「――これは、王弟殿下とは知らず失礼しました」
礼儀として口にしたその言葉に、微塵たりとも謝罪の意を込めることはできなかった。
三十代も後半、痩身のその男は王弟ヴィオール・バジリオ。正妻の他に妾を3人抱え、お気に入りの傍仕えの侍女の数は知れないという噂がある男だ。まして近年、王が政治に興味を示さず、代わってヴィオールが実権を執り始めたせいで、その手の早さは留まるところを知らないという悪名が日々奔走している。
結果として、悪くない言い訳だった。
やんわりとマナーがどうの、地方領主の意向がどうのなどと言っても無意味な相手だ。
「ですが王弟殿下ともあろう方が、よもや人のものと知って手を出すほどお困りではないでしょう」
ヴィオールはあからさまな舌打ちをし、悪魔に憑かれたようなまがまがしさでシオンを睨んだ。
「……シオン様……?」
背後で驚いたサラが何かを確認するようにおそるおそる名を呼んだ。
ヴィオールの視線がサラに移ると、肩越しにヴィオールの視線を感じたらしく、竦む気配がした。
身じろぎして王弟の視線を遮り、代わりに請け負った。
途端、声にならないほどごくかすかな嗚咽が背中に伝わってきた。
壁と背中に押しつぶされそうになりながら、サラはシオンの服を躊躇いがちに――しかし命綱みたいにぎゅっと掴んだ。
サラが頼ってくれることにわずかな安堵を覚え、ヴィオールの視線など気にならなかった。
「……っ、…………」
泣くまいと、必死に堪えていた。
それでもぽろぽろとこぼれ落ちる涙に、背中が濡れていくのを感じた。
ほのかな体温と、震える細い指、あたたかい涙……。それらを背中に感じ、ずきずきと胸が痛む。
(――どれほど、怖かったのだろう……)
確かに王弟の目に留まり声をかけられるのは本来なら栄誉で、泣くなど非礼だ。だが賜ったのが、拒否することはおろか泣くことすら許されないと知った上で、まるで狩りでもするようにじわじわと追いつめ、いたぶることを楽しむような言動では、あまりに惨い。
その恐怖を思うと一秒でも早くこの男から離れさせ、安心させてやりたかった。
「非礼は後日正式に詫びますが、今日のところは失礼させていただきます」
早口にまくし立て、返事を待たずにサラに向き直る。
「サラ、私の部屋へおいで」
冷えた手を両手で包み込むと、彼女は切なくなるほど涙が溜まった目でシオンを見上げた。
「――はい」
サラが泣きはらした赤い目元と頬を緩ませて頷くと、最後の涙が一筋伝って落ちた。