プロローグ1
最初に彼女と言葉を交わしたのは、厨房だった――と、思う。
月に一度王都で催される舞踏会や夜会といった社交会に盛装に身を包んで赴き王侯貴族との交流を深めるのは、この街を治める領主の息子として仕事の一環だ。しかし人を値踏みするような視線と、悪い噂ばかりしている雰囲気にいつまでたっても馴染むことができず、場繋ぎに口をつける葡萄酒は嫌いではないのだが同じく慣れていないせいで深酔いし――……記憶が曖昧なのが、今ではもったいない。
「おなか空いたぁ……エド、なにかある?」
着替えるのも億劫で、裏口に直接つけた馬車からドアに倒れ込むように厨房に転がり込むと、薄暗い厨房の隅に置かれている小さな作業用の机と椅子に腰掛けている料理長・エドガーに声をかける。
「坊ちゃ――シオン様、本日は晩餐会に行ってこられたのではなかったのですか?御馳走がたくさんあったでしょうに」
慌てて立ち上がった料理長と入れ違いに座り込む。
「御馳走には違いないけど、あんな人の顔色伺いながらなんて食べた気がしない」
体がだるくて机にうつ伏せる私の背中に、いたわりと困惑がないまぜの視線が降り注ぐ。
「お部屋にお持ちしますから、着替えられていては?」
「ここでいい」
(――うう……気持ち悪い……。あの空気に馴れ合うのは気が進まないけど、いい加減に葡萄酒くらいは慣れないとな……)
最近では帰ってくる度に同じ会話を繰り返している気がする。いつもこの時間、この場所には気心の知れた料理長しかいなくて、だからこそ気兼ねなくだらだらと愚痴をこぼしてみたりするのだが、今日は珍しく呼び方が「シオン様」だなとぼんやり思った。
「あと、畏まらなくていい。なんで今日は……」
乱れ落ちてくる髪を重い手でかきあげながら顔を上げ「なんで今日はシオン様なのか」と口を開きかけたところで、エドが私の隣に苦笑混じりに目配せをして――それでようやくそこにひとりの少女が座っていることに気づいた。
料理長は軽食の準備に取りかかり、取り残された彼女は緊張した様子で目を伏せ、居心地悪そうに香草の名前や数字が列挙されたメモを片づける。
その様子を眺めていると、アルコールのせいで頭の中にぼんやりとかかっていたもやが急速に晴れていった。
「……君、新しく入った侍女?」
回転の鈍い頭でも彼女の記憶はすぐに浮上してくる。ずしりと重い体を叱咤しつつ起こして――でも、肩肘ついたまま――問いかけた。
一週間ほど、前だっただろうか。
今の彼女は質素な白ブラウスの上にベストを着込み、丈の長いスカートに重ねてエプロンというこの年頃の町娘のごく一般的な格好だが、あの時は我がイグナス家の給仕服を着て城内で花を生けている姿を見かけたのだった。
群青のドレスに家紋の刺繍された白のエプロン姿がよく映える蜂蜜のような髪がまず目を引いた。その艶めく髪をふわりふわりと揺らして花瓶に花を挿し、最後にその出来栄えに満足げに新緑色の瞳を細めた――その笑顔に、声をかけるのを忘れるほど見惚れた。しかし、その後彼女の姿を見かけることはなくて、父や侍女長にそれとなく聞いてみたが最近新しい使用人は雇っていないというし、夢でも見たかと思いはじめたところだった。
こんなところで話す機会があるとは運がいい――いやでもできたら素面がよかった――などと思考が迷走していく中、彼女は緊張した微笑みを浮かべて頭を下げた。
「いいえ。城内で作業する時には制服をお借りしていますが、先月から御用命を頂きました花屋の娘でサラと申します。はじめまして、シオン様」
耳慣れたきゃあきゃあと騒ぐ甲高い声や甘ったるい猫撫で声ではなく、少し低めの、まるで雨音のように耳朶に柔らかく心地よく響く落ち着いた声だった。
「そうか……道理で花のいい匂いがする――」
弁明するなら、酒のせいだったのだと思う。
普段なら相手が貴婦人だろうと使用人だろうと女性に軽々しく触れることはないのだ。そんなことをした日には厳格な父の叱責を免れないという教育を受けている。
けれどその時はつい、花の香りに誘われた蝶にでもなったかのようにその透き通る月光のような美しい髪に手を伸ばしてしまっていた。
一房手に取った髪の香りを確かめる。先ほどまで少々強い香水にばかり慣らされていた鼻孔をかすかな花の芳香が優しくくすぐり、その心地よさに目を細める。
「社交会の女性たちの香水より、この匂いの方が優しくて好きだな」
そのまま上げた視線が絡み合った。
瞬間、サラはびくりと身を震わせたかと思うと頬を赤く染めて恥じらいがちに目を伏せた。