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名門(名も無く名誉も無く)

人は真っ直ぐに立つのが困難な動物である。

足を揃えればバランスが崩れ、歩こうとすれば左右に揺らぐ。

踵を大地にしっかと張り付け、足を肩幅に開き、背筋を踵から頭の先にまで一本の芯として繋げる事で初めて人は真っ直ぐに立てる。

そうまでして真っ直ぐに立ったとしても、人は動く。進む為に前へ、曲がる為に横へ、退く為に後ろへ。人は動物である。生きて動く為に在る。

そして、人は生きる為の生存本能として恐怖を知っている。命を永らえる為に恐いものから距離を取る為に、怖いものから逃げる為に恐怖という感情を持っている。

そう、恐怖は足元から人を動かす。

心臓でも手でも脳でも魂でもなく、人は恐怖に対して足から動くのだ。



浮き足立つ。

今の劉備軍の混乱を現すならこの一言に尽きる。

彼等は関羽や張飛、趙雲と言った当代一流の豪傑達に調練を受けた精鋭である。

しかし、目の前に聳え立つアレは何だ。

関羽は厳しさの中に慈愛があった。

趙雲は全力の中に面白みがあった。

張飛は容赦無さの中に朗らかさがあった。

しかし、呂布は違う。

明確で鋭く圧殺せんばかりの殺意。

容赦も情けも遊びも無い雑じり気の無い殺気。

関羽が張飛が趙雲が一流で、日々を彼女らと過ごした兵達だからこそ、判る。判ってしまった皮肉。

天下無双と、万夫不当と信じていた彼女達すら届かぬ頂にある者。

飛将軍『人中』の呂布。

アレは人が敵うモノではない。死と暴力が吹きすさぶ嵐そのものだ。

そう感じた恐怖が彼等を走らせる。後ろへと下がらせる。

劉備軍は恐怖のどん底にあった。

袁垓軍は静粛に整然と真っ直ぐに立っていた。

その先頭で袁垓は馬に乗り、背筋を真っ直ぐにして暗く沈んだ瞳で見つめていたと歴史は伝える。脚色豊かな三國志演技においては、


『人にして人を越え、その武は空翔る龍の如く、その気は天地を覆う呂布を袁垓は静かに見下ろしていた。親が癇癪を起こした子供を優しく見守る様に、神仏が暴れる龍を慈悲の心を持って見守る様に、袁垓は呂布を見下ろしていた』


と記している。

どちらが正しくその時の雰囲気を記していたかは確かめる事は出来ないが、袁垓は袁垓軍は恐怖を巻き起こす暴の嵐の前で、真っ直ぐに立っていたのは確かである。


呂布にとって浮き足立つ劉備軍も整然と並ぶ袁垓軍も大差ない。逃げる相手を追うのは面倒で、立ち向かってくる相手は弾き飛ばせばいい。ただ、居並ぶだけの袁垓軍に違和感を少しだけ感じはしたが、


「問題ない。(ゆえ)を殺そうとする奴等は殺すだけ」


頭上にかかげた方天画戟を力の限り振り回しながら呂布は駆け出した。

爆発した様に砂塵が舞い立ち、呂布に蹴り飛ばされた砂利が弾丸の様に袁垓軍を襲う。

ギギギ、と金属がひしゃげる音と共に兵士が仰向けに数人倒れ込む。袁家を象徴する金色の鎧に渦状の穴が穿たれ、背中側にまで貫通している。

同胞が倒れたのを見ても袁垓軍は動かない。

虎牢関から袁垓軍までは約五百メートルあるかないか、呂布から袁垓までもほぼ同じ。つまり、袁垓は呂布から見て最も目立つ大将首である。袁垓を守るべき関羽達は自軍の統率を取り戻すのに精一杯だった。いや、そう揶揄するのは少々意地が悪い。

誰だって予想出来ないだろう。

五百メートル、人が指先ほどの大きさに見える距離を秒で走りきる人間が居るなど予想出来るはずがないのだ。

最初の十秒は関羽達は呂布を見てすらいなかった。

次の十秒は劉備軍の恐慌が一層沸き立つのを檄を飛ばして恐怖に走り出す兵達の心を取り戻すのに躍起になっていた。

次の十秒は逃げ出した者を諦めた。

最後の十秒は叫ぶ兵士達の視線を追って振り返った。

数秒しかなかった。

呂布が袁垓に方天画戟を振り上げて踊りかかるのを見る時間は。

関羽、趙雲、張飛。

三國志を代表する武の象徴とも言える三人が三人共、虚をつかれたのだ。自らの背丈を越える武器を振り回し、五百メートル余りを一息に駆ける人間が居るなどと考えもしなかったのだ。

だからこそ、呂布は『人中』の呂布なのだ。

そして、それをずっと見ていたのが『最後の名門』袁垓で、その手足たる袁垓軍だったのである。



少し時間を戻そう。

呂布が虎牢関の門前から駆け出し、袁垓軍の前衛数人が倒れた時、それに反応したのは数人の隊長だけであった。

袁垓軍は一つの柱によってのみ成り立っている。すなわち、袁垓という常に背を伸ばし前を見るという事に特化した男に従い、それに倣うという形態に。

それ以外を許されるのは、袁垓という軸に依って成る兵士達を手足として動かす頭脳。孫策軍や黄布党本隊討伐時に従軍し、観察した者。

そして、それらの経験を文書化したものを読んだ者達で、それらはことごとく袁垓という『最後の名門』に死ぬまで付き従った精忠なる者達であった。

彼等は優秀だが傑出はせず、有能だが果断ではない。しかし、孫策軍や曹操軍の運用をよく見ていた。そして、その蓄積から優先順位を決める『機械の様な』判断力は優れていた。あらゆる面で傑出し、乱世にて更なる成長をする孫策や曹操は最後まで袁垓軍のこの一点は上回れなかったのである。


「呂布が来ます」


「黄布三万を撫で切りにした時の情報は?」


「ここに」


ここまで十秒


「斬殺しつつの前進か」


「悪鬼の如くの言葉が当てはまる」


「それは正確ではない。黄布三万の動揺を誘う演出もあるな」


更に十秒


「黄布三万の時は広い平原だった」


「三万全てを斬った訳ではないな」


「ここでは死体が邪魔になる。斬殺はないと予想する」


更に十秒


「両側は崖ならば逃げ場は少ない」


「倒すのは不可能かと」 


「やはり数『数が力』となる。袁垓様の言葉のままに」


次が最後の十秒


「優先順位は一つ」


「袁垓様の撤退を促す」


「ならば(くだ)す命令は一つ」


『構え』


袁垓軍が槍を並べ、呂布に二万の殺意を向ける。

そして、呂布が袁垓に踊りかかる数秒にて


『突撃せよ!』


袁垓軍の頭脳が命令を降し、手足が動き出した。

関羽ならば、趙雲ならば、張飛ならば十秒あれば下せた判断。

しかし、経験と知識さえあれば凡人でも五十秒で判断を下せる。

そして、濁流の様な数の力が人を越え龍にすら例えられた万夫不当の武人、呂布奉先に叩き付けられたのだった。


「邪魔」


呂布の一合で十人からなる袁垓軍の兵士が吹き飛ばされる。比喩ではなく、後衛の兵士を飛び越えて吹き飛ぶのである。

人外の膂力(りょりょく)を持ってしても不可能なそれは武の化身とも言える呂布だからこそ成せる技。

しかし、濁流は止まらない。

吹き飛び開いた隙間に流し込まれる様に袁垓軍の兵士が雪崩れ込む。

呂布が方天画戟を左右に打ち振るう度に十人からなる隙間が出来るが、呂布が一歩を踏み出す前にそこへ袁垓軍の兵士が槍の穂先を揃えて突撃を繰り返す。

愚直。

ただひたすらに突撃を繰り返すそれは愚かと呼ぶに相応しい。袁垓軍の兵士は一秒毎に数を減らし、状況を好転させる事も出来ずにただ同じシチュエーションを繰り返す。

黄布三万を撃退せしめた呂布にはそれより少ない二万の袁垓軍など容易いはずだった。

だが、呂布の顔色は冴えない。

袁垓軍の槍は呂布の体には届かず、呂布の腕の一振りで確実に数を減らしている。

だが、呂布は一歩も進めず袁垓も一歩も退かない。

状況は膠着していた。

水車の様に腕を振るい続け、方天画戟は風車の様に唸りを上げ、人は木っ端の様に弾き飛ぶ。

だが、果てが無い。僅か五十秒で縮めた五百の距離の先にあったこの尽きぬ人の壁が貫けない、砕けない、蹴散らせない。

農民から盗賊に落ちた烏合の衆は最初の一当てで蹴散らせた。軍隊崩れの山賊も最初の一陣を崩せば士気は崩壊した。三万の黄布ですら呂布の足を止める事すら出来なかった。戦場の経験数に限ればこの場で呂布を上回るのは片手で足りる程に限定される。その呂布を持って初めての経験は、恐れを知らぬ死兵ではなく破れかぶれの突撃兵ではなく、恐れも恐怖もその顔に浮かべながらも、それを上回る信念を宿す統制された軍隊。数の力を体現する『名門』の力。近代でようやく実証された組織化された集団の威力を世界で初めて体験したのは個人の力の極み。人中の呂布奉先だったのである。あるいは二万の濁流は龍を飲み込んだかも知れない。

だが、袁垓の頭脳達は撤退を選択した。


「袁垓様、失礼致します」


袁垓の馬の口を取り、袁術軍の方へ向ける。


「……」


袁垓は何も語らない。これから起こる残酷な事実に語る口を持っていなかった。

袁垓の頭脳たる隊長達は最大の敬意を持った礼をした後に晴れ晴れとした顔で言った。


「おさらばです。願わくば生まれ変わりまた袁垓様の元で仕える事をお許し下さい」


それは自分勝手な願いだったのだろう。ただ、そうあれば、そう在りたいという自分勝手な願望。無表情、無感動な袁垓の体が震えた様に彼等には見えた。多分、気のせいだ。袁垓は袁家はこの程度では揺るがない。自分達如きが死ぬ程度では『名門』は揺るがないのだ。

それは確信。

他の有象無象の太守や刺史が治める領地の明日の糧さえ確かではない農民とは違う。袁家の下ならば十年、二十年更にもっと先までも安泰であるという信仰に近い信頼。

だから、託せる。次に賭けられる。自分達の死は次に繋がる糧となる。確かな明日の糧となる。だから、唯一無二たる自分達の大事な『名門』を見送れるのだ。


「……!」


ぐっ、と袁垓が目をつぶる。そして、


「忘れぬ。お前達の顔も名前も」


絞り出す様に小さくこぼれた言葉に彼等は更に深く礼を取った。


走り出す袁垓の馬を見送り、彼等は呂布に向き直る。人は吹き飛び、そこに更に人が流れ込む。呂布という名の暴力の嵐は倒せない。だが、その足を止める事は出来る。

たったそれだけを実証する為に払った犠牲の責任を取る為に彼等は剣を腰から抜き払い、叫んだ。


「我等、袁垓軍の兵なりて名も無く名誉も無く立ち会い申す!」

「呂布よ、ああ呂布よ。貴様の強さは天下一等なり!」

「されど袁垓様には届かぬ。届かせぬ。我等、雑兵の首でも手柄にするがいいっ!」


袁垓の頭脳たる彼等の名前は歴史に刻まれていない。ただ、彼等の残した『実証』は残り、受け継がれていく。それをこれから見ていこう。ただひたすらに華麗に、雄大に滅んでいく『名門』は彼等のような名も無く名誉も無い者達によって美しく飾られていくのだから。

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