懐古ー(沈みゆく)
行灯に火を入れようとしてお藤は手を止めた。火打石を握りしめ、膝に置いて肩を落とすとふっと、溜息とも薄ら笑いとも取れる息を吐いた。
「危ないじゃないの」
一人言をいい、畳に片手をついて身体を押し上げるようにして立ちあがろうとしたが裾を踏み、よろめいて倒れてしまった。横座りのままぼんやりし、自堕落的な気持で崩れるように横向きに寝そべると涙が流れた。
「いろいろなことがあったわね。修治さん………」
手の中から火打石が転がり、傍にあった火口箱にぶつかった。涙は際限なかった。悲しいのか、悔しいのか、将又いまが嬉しいのか。意味のないように、無駄に涙は流れ続けていた。
自分は可哀想な女だと悲観していた。四十も年の離れた男を一途に愛し、その男に受け入れられ嫁にして貰ったまではいいが、結句、男を痛めつける結果となってしまった。
夫の、浅はかなほどの、若い妻への深い愛情の裏返しを、その真意を測ろうともせず、夫に遠ざけられると身近な男で己を偽り、今度はその男にも捨てられた。ぼろ切れのようになって初めて夫の真実を知ったのだけれども、時は既に遅すぎた。
兵蔵との日々は、兵蔵の兄の死までは穏やかであった。一つの諍いのない生活であるのに、あれは偽りの愛であったのではないかと今は思う。兵蔵に自ら肌を晒し、二人、巣籠もりのようにして暮らした日々を後悔している。その半年、病魔に冒され、弱り切った身体を横たえる夫を犠牲にした。この報いは甘んじて受けねばならず、お藤は今一度、市井との愛を貫こうとしていた。
「よっこらしょ」
とお藤は立ちあがると、ふらふらとした足取りで二階への梯子を上った。途中、二度ほど段を踏み外したのが可笑しかった。泣き顔に笑みを浮かべ、お藤は書室の襖を閉めた。
市井と暮らしたこの家は、小さな坪庭に至るまで片付き、誰に見られても、恥ずかしいものは一つもない。市井の長すぎる日記も、昨日、庭で一人、焼き尽くした。黒煙が立ちのぼり、目の前で火花が散っても怖くはなかった。
お藤は焼きながら、日記を読んでいた。詠む度に一枚はがして火に投げた。その日記には、市井と知り合ってからの二十年の歩みが克明に記されており、懐かしくもあり、恥ずかしくもあり、また我が身が殆ど滑稽であったので、幾度も苦笑いをしなければならなかった。日記を読み進めていると、想い出でだけで、市井との歩みをもう一度遣り直したような気にさえなれた。最後の日記の日付は市井が亡くなる当日であり、洗濯物を干すお藤が市井に振り向いて終わり、何故か未完と記されていた。
「さあ、修治さん、待たせたわね」
お藤は市井の文机の前に座っている。両の臑は紐で結びつけられ異様な光景だ。
「兵蔵さんがなかなか帰ってくれなかったのよ」
お藤は緋色の風呂敷包みを懐から取り出すと、縁側の方に膝を向けた。
「でも、もう大丈夫。二人きり………これからも一緒よ。あたしは修治さんの妻だもの」
胸をゆっくり開いて息を吐き、風呂敷の中から和紙にくるまれた懐剣を出して顔の前で眺めた。この懐剣は、富子の情夫源蔵が生前所持していたものである。世間一般には隠していたが、武家出身の源蔵が、祖母の代から受け継いだ由緒あるものらしい。鞘の彫り物が美しかった。源蔵の死後、富子が形見分けされ、毎日、丁寧に手入れして飾っていたのを数日前に持ち出した。
雲の別れ間から斜陽が射し、お藤の瞼を眩しくした。一度目を瞑ってから、覚悟の目を開ける。そして懐剣を掲げるようにして両手で持ち、剣先を喉に向け顎を上げた。薄く目を閉じると、懐剣で一気に喉を突き刺した。
「お藤っ、お藤ちゃん」
兵蔵の声が薄れ行く意識の中に入ってきた。お藤は微笑み。赤く染まった膝の上に両手を重ねた。
「良かった。なんだか気になってね」
襖を開けた兵蔵は安堵の声を漏らした。真っ暗な部屋の中、背中を向け、しょんぼりと座るお藤に歩み寄ると肩を抱いた。お藤の首が力なく後ろに投げ出された。
「うそだ………」
兵蔵の声が失意の底に沈んだ時、お藤は瞼を閉じた。
「ごめんください」
お藤は市井の玄関先にいた。自分でも驚く程、心に余裕がある。「はーい」というお紺の声を聞いた時、初めて心の臓が高鳴りだした。梯子から人が下りてくる。古い板のきしむ音が聞こえる。市井の部屋で、お紺は一体何をしていたのかと、今更ながらの嫉妬に胸がふさがれた。
それにしても、如何にも慎重に、一段、一段、下りる足音は、お紺の年令を感じさせるようだった。
今時分………というお紺の愚痴めいた独り言を聞いた。
「どなたでしょう?」
「お藤ですよ」
お藤は声を張っていた。表戸の向こう側が戸惑っている。少しすると、無言のまま心張り棒は外され、戸が開いた。
「ご無沙汰で」
お藤は昔のように、きりりと睨むような目付きでお紺を見下ろした。お藤よりも、頭一つ分ほど小さくなったお紺はうつむいたままで身体を戸の後ろに除け、右手を流してお藤を迎える手付きをした。
「ありがとう」
「遅いので驚きましたが、いいんですよ別に」
沈んだ声だった。お紺が全身で表す暗さにお藤は震えてくるようだった。市井の病状が気になった。土間で立ち竦み、二階の方を見上げた。暗くて何も見えない。お紺が置いた手燭が、上がり框の上で大きく光っていたが、軸は短く、今にも消えそうである。ゆらゆらと命のあるもののように、炎は身悶えていた。
蝋燭なんて、随分と贅沢をしているもんだと、自分の時は菜種油しか使用することを赦されなかった事実に戸惑った。
「お上がりになって」
お紺はそう言うが、お藤はただお紺に振り向いた。お紺はうつむいている。肩が以前よりも狭く感じる。年のせいだけではなく、この一年という年月が、お紺にとって必ずしも仕合わせなものではなかっからではないかと、お藤は自分に都合の良い解釈をした。しおれた銘仙のお紺は顔を伏せ、老いた自分を恥ずかしがるように背中を向けた。
「修治さんは?」
お紺が顔を振り向かないので、お藤はお紺の後頭部に話しかけている。
「お休みになったのですよ」
「外から見たとき、二階の、修治さんの書室の灯りが漏れていたけれど?」
「ええ………」
「お紺さん、こちらを向いて下さらない?話し難いわ」
「………」
「修治さん、大丈夫なの?」
お紺は黙って振り向いた。消えそうな蝋燭の光りに下から照らされたせいだろうか、お紺の顔は酷くやつれて見えた。以前は、ふっくらすぎるほど膨らんだ下ぶくれの頬の肉がそげ落ち、昔の艶が消えていた。目線は以前として伏せて、手は虫のように摺り合わせている。
「老けたでしょうあたし?」
低い声に、心の中を見透かされたようでぎょっとした。お藤の愛想を浮かべたが唇はひきつり、上手く笑顔を作れていない。お藤は、
「いいえ暗いのでね分かりません」と曖昧な答えをした。
「もう疲れてしまって………」
お紺は溜息交じりに言うと、蝋燭立てを取って先立って行った。消えそうだった蝋燭の炎はまだ燃え尽きないでいた。お紺は梯子の前で立ち止まり、土間で棒立ちになるお藤に目配せをした。
「どうぞ、先生もきっとお待ちですよ」
お藤は躊躇っていた。酔いの勢いに任せて戸を叩いたは良いれど、市井に会う勇気がない。兵蔵とのことも頭を擦ったが、それ以上にお紺の憔悴が気に掛かる。お紺のやつれた顔を見れば、市井の病状が良くないのは火を見るより明らかだ。やせ細り、生きた屍のように変貌した市井がぼんやり浮かんできて足踏みした。
「さあ、いらっしゃいよ。あたしももう限界なんだから」
お紺の声ははっきりしていたが、どこか投げ遣りに聞こえた。限界とはどういう意味だろう?脱いだ下駄を揃えてから、膝立ちでお紺の方を見ると、一瞬、「きゃっ」と悲鳴を上げそうになるほど、お紺の姿は幽霊のようであった。
「おゆうさんは?」
市井の娘と孫の気配がないので聞いた。もっとも遅いので寝ているのかも知れないが、それにしてはお紺が疲れすぎている。お紺は首を振り、もう半年も前に帰られましたよと答え、また一つ、深い溜息をついた。
お紺が先に上り、上がりきるのを待つようにしてお藤も梯子を上がった。一段、一段、重い軋みを立てながら上るお紺とは違い、お藤はとんとんとんと軽やかな音を出した。
「お藤かね?」
市井の声である。襖の小さい隙間から、暖かな色をした光りが廊下に漏れ、同時に薬の匂いがしっとりと二階を漂っていた。
お藤と呼ばれた途端、お藤の全身の力は抜けてしまい、梯子を上がりきった所に腰を下ろした。
ー修治さん………。
両手で顔を覆い、肩を揺らして泣き出した。市井の懐かしい声には、以前と同じ包容力があり、力もあった。市井や兵蔵に捨てられ、ぼろ切れのような心で実家に戻り、家族の胸に飛び込んだ時よりも、もっと深い、安堵の心地がここにはあった。
帰るべきところは、この家なのだと実感した。市井に近づくことは、傷つくことだと思い込み、このしもた屋を避けて遠回りをした日々がなんともおかしな徒労であったと気付いた。
お紺に肩を叩かれ、お藤ははじけたように立ちあがると、いっさんに部屋に駆け込んだ。
「灯りを消してくれ」
市井の叫びに似た声に一瞬、立ち止まったが、見ると市井は夜具を頭まで上げている。
「今、消しますね。修治さんたら、まるで生娘のようよ」
お藤は言って、枕元にある行灯の火を吹き消した。廊下にお紺がぼんやり立っているので襖は開いたままだ。室内は市井が望むような暗さにはならなかったが、お藤が廊下の光りに振り向くと、お紺はほんのり笑って襖を閉めた。室内が真っ暗になった。お紺の足音は梯子を下って行くのだが、一体これまでお紺はどこで寝ていたのかふいに気になった。
「お紺さんは、どこで寝ているの?」
久しぶりの再会での一言目に、お藤は自分で驚いた。夜具を掴む市井の指先を握るようにして下げさせながら、曖昧な笑顔を向けた。市井は抗いもせずに顔を出したが、気持、お藤から顔を背けている。
「下だよ。客間で寝起きをしているんだ」
「ずっとなの?」
「ああ………」
「家はどうしたのかしら?八幡様の向こうの家は………」
お藤が言い終わらぬうちに市井が咳き込んだ。お藤は暗闇に白く浮かぶ寝巻きを頼りに、背中を向けた市井の背を擦った。
「苦しいの………?」
咳はすぐに治まり、市井は仰向けになった。暗がりでも、目を瞑っているのが分かる。寒い空気から肩を隠そうと夜具を押さえてやると、指先が市井の素肌に触れた。お藤は見えない糸を手繰り寄せるように、市井の首に顔をうずめた。一年ぶりだというのに、躊躇いも抵抗もなかった。まるで一晩だけ家を空け、昨日までは、普通に一緒に過ごしていた気がした。息を吸い込むたび、薬の匂いが鼻腔をついた。
「お前が来ると思っていたよ………いや、願っていたと言った方が正確かな」
市井は言うと、幼い子供にするように、お藤の背をぽんぽんたたいた。お藤は多少遠慮がちに離していた身体を、夜具の上から市井に添わせた。
「会いたかった」
甘えた泣き声でお藤は言った。
「私もお前に会いたかったよ」
市井は両腕を組むようにしてお藤の身体を抱いた。そして、寒くないかいと聞き、お藤がうんとうなずくと、夜具の下に招き入れた。
「修治さんの匂いがする」
「そうかい………どんな匂いか聞きたくない気分だね」
市井は喉の奥で軽く笑った。
「お爺さんの匂い」
「ほらな」
「嘘よ、薬と………」
「薬と?」
ふふとお藤が悪戯な笑い方をした。市井は腕の中のお藤から上体を離し、顔を覗き込むようにした。お藤は市井に顔を寄せるようにして、
「愛してる人の匂いよ」
と言い頬に口吻をした。以前よりも増して頬は殺げ、肉は頼りなくやわらかく、湿った臭いがした。お藤はその頬に、自分の頬を、子猫がするように摺り合わせた。こうすることが昔からの癖であり、お藤の気持は安らいだ。
「厭味なほどに張った肌だなお藤」
市井がにこにこ微笑みながら、酒臭いと付け足した。
「そうよ、あたしは若いんだもの」
兵蔵と飲んだ酒には言及されたくないので、お藤は酒については返答をさけた。階下でかたりと音がした。あっ!と言い、お藤は半身を起こした。お紺のことを忘れていた。突然やってきた自分に、さぞかしお紺が傷付けられただろうと気を病んで、お藤は起き上がろうとしたが、市井の腕がそれを止めた。
「いいんだよお藤。私達はね、そんな関係ではないんだ。お紺にここに来て貰ったのは、お前を家から追い出すためで、私の提案だ。お前を離縁すると言った時、お紺は泣いていたよ。これまで親身になって私の看病をしてきたお藤が可哀想だって。でもね、お藤のためだからと長い間、説得したんだ。おゆう、兵蔵、お前の実家。その誰よりも、お紺の説得には殊の外手間がかかったほどだ。しかしお紺は一度やると決めたらとことこん芝居を貫いてくれた。あんな大芝居をしてお前を追い出したんだ。当時、お紺にも慕う男がいてね、今もね一緒に住んでるんだ」
お藤は目をまん丸くして市井を上から凝視した。目が馴れて、市井の輪郭がくっくり姿を表していたが、目の下に浮かんだ隈が、市井の目と繋がり、まるで空洞のようだった。
「本当だよ」
市井はお藤の頬をそっと撫でた。
「今でもその人が家で待っいてる。理解のある人でね、以前は摺物職で、今は物紙漉職人だったかな?ん………とにかく、おゆうを津軽へ返してからというもの、つきっきりで私の世話を焼いてくれていたから随分と疲れているんだよ。そろそろ開放してあげたかったんだが、お紺も情の深い女で言うことを聞かない。私もなかなか死なないもんだから………」
「死ぬなんて、いやなことを言わないでよ」
お藤は市井を抱き寄せて泣いた。全てが市井の仕掛けた愛情のある芝居であったことを初めて知った。お紺を酷い女だと、嫉妬に狂って恨んだことを悔やみ、自分の思慮の浅さを心から恥じていた。
「お前が悪く思うことはないんだよ。私が浅はかだったんだ。それでお前を二度も傷付けることになった」
「二度も?」お藤は泣き顔を上げて市井を見た。市井の目が悲しく濡れていた。
「兵蔵さんのこと?」
「ああ、兵蔵が、まさか………お前を裏切るとは思わなかった。すまない」
「………」
お藤は言葉が出なかった。兵蔵が自分と暮らした日々も作り物だったのかと誤解した。兵蔵との暮らしの中でも市井の存在を忘れた時などなかったけれど、それでも兵蔵を愛する人と慕った心に偽りはない。もしあの日々までもが自分を救うための虚構だとしたら、それほど悲しいことはない。
「いやいや違うんだ」
お藤の動揺を見抜いた市井が焦ったように早口で言った。
「兵蔵はお前を好きだったんだよ。ずっと子供の頃からね。その気持に嘘はない………しかし遺蹟を継いだのなら仕方がない。お武家にはお武家の仕来りがあり、束縛がある」
ふーっとお藤は長い安堵の溜息を吐いた。しかしすぐに、兵蔵との若い淫楽の日々が思い出され、市井への裏切りに身を縮めた。
「お前が兵蔵と暮らし始めたと、お富さんから聞いたんだが、年甲斐もなく泣きそうになったぞ。自分で別れを決めておきながら、しかも兵蔵にお藤を頼んでおいて分別のない男だ」
「どれだけ知ってるの?」
怖る怖るお藤は聞いた。
「全てさ、きっとな」
と言って市井は笑った。そこで二人は暫く黙り込んだ。この一年の間に起きた様々な出来事が走馬燈のように忙しく瞼の裏を駆け抜けた。
「いいの………あたしを赦してくれるの?」
お藤は聞いた。兵蔵とのことを赦してくれるのかという意味である。詳しく言わなくても、市井は理解していると思った。兵蔵の名を自ら出すことを今回は躊躇っていた。
「ああ、いいんだよ」
市井はお藤の肩をかるく揺すった。さっきまで兵蔵と、伊勢崎町の料理屋にいたことは黙っていた方が良いだろうと思った。不思議に罪悪感は消え、小さな隠し事が面白いような気分にさえなっていた。もちろん兵蔵とは食事と酒を驕ってもらっただけで男女の関係など何もない。
あの料理屋で兵蔵は虚ろに沈んだ目をしたまま話しだした。兵蔵が、十七の武家の娘を娶ったのは二ヶ月前。大人しい娘だとばかり思っていた妻が、実は嫁いで来る前、歌舞伎役者にはまり、蔭間茶屋に通っていたことを人伝に聞いたらしく。兵蔵はそれで落胆していたのだ。
真相は探るまでもなかった。十七の妻は娘ではなかったからだ。そのことで、妻を問い詰めるようなことはしないと言っていた。妻の父親は勘定吟味役で、兵蔵の家格より上である。その二女を急ぎ気味に兵蔵に嫁がせた理由が判明し、憤慨するよりも投げ遣りになっていた。
だからと言って、今は改心し、痛々しいほど兵蔵に尽くす妻を離縁する気も起こらないらしいから、話しを聞き終わっても、兵蔵が何をしたいのか、何を求めているのか、お藤にはさっぱり分からなかった。いや、分からない振りをし、自分の心を必死に閉ざしていたのかも知れない。
兵蔵への未練はない。たった一年足らずとはいえ、夫婦の真似事のように過ごしてきた仲なのに、まさか兵蔵が、気晴らしの相手をお藤に求めているのだとしたら、それは二人の築いた過去を愚弄する行為であり、またその様な言葉を兵蔵から聞きたくなかったので、お藤は一寸の隙も見せずに料理屋を後にし、それでも重く塞いだ心を紛らわす術を探せずに、ふらふらと、気が付いたら市井の家まで来てしまっていたのだ。
「死に損なった」
市井が軽い口調で言った。
「まだまだ生きて貰いますよ」
お藤も軽く交わした。
「お前が一人になったと聞いて、もう一度会いたいという欲がでたようだ」
「あたしをここに置いてくれる?」
「………」
お藤は起き上がり、夜具の下の搔巻の乱れを直し始めた。市井の足の指を包むように搔巻で覆った。
「桂庵先生は、いついらっしゃるの?」
桂庵とは町医者で、市井とは三十年来の付き合いである。
「あの藪医者は死んだよ。昨年の暮れかな………」
「まあ」
「三日コロリだと。私に、先は長くないよといっときながら奴の方がコロリと死んじまうんだから人の運命など分からぬ。今は、「でも医者」が来るよ。「でも」も、「藪」も同じか、全く江戸にはろくな医者がいない」
「憎くたれ口を聞いて」
お藤は横になった。天上が抜けて、星空でも見えているかのようだ。お藤の目はきらきらと輝き、宙で動いている。
「ずっと修治さんの傍で暮らしたいわ」
「うん」
「またお嫁にしてくれる?」
「役に立たたないけどいいのかい?」
「ふふ、何が役に立たないの………いいわ、別に」
お藤は顔を市井の首に押しつけた。市井の手を取り、寛げた胸元に差し入れた。あたたかい………と市井は言った。
「約束して」
「ん………?」
「灯りを消せなんて、悲しいことを言わないこと。あたしは修治さんの女房なんだから、何を見ても怖ろしくなんてないのよ。修治さんを汚いとか、醜いとか、思う筈がないじゃない………」
「汚い。醜いは酷いな」
「あら、まあ、ごめんなさい」
お藤は泣いていた。しゃくり上げて泣いた。喜びと失望の両方を手に入れた瞬間、そう遠くない時期に必ず訪れる恐怖を思い震えた。
しばらく泣き、いろいろなことを考えた。自分の帰る場所が、市井の胸の中にしかないということは分かっている。それならば、市井を失った時、自分も共に旅立とうかとさえ思った。そう思うと胸が幾分、楽になった。
それからの二月、お藤にとっても、市井にとっても、至福の境地と言える時間を過ごした。市井の体調は良く、ある日などは、深酒で寝過ごしたお藤に変わって、朝餉をこさえ、目覚めたお藤を喜ばせたほどだ。
節分の日は、年男がまき散らした豆を、夫婦二人、台所に座って食べた。お藤はこの時、市井の年の分、六十八個の殆どを、頬を猿の子のように膨らませて食べた。
年市には、深川八幡宮まで足を運んだ。人目を気にする市井が恥ずかしがるので、袖の中で二人、手を繋いで、翌年のことなど語らいながら買い物をした。
翌る日、町内の餅搗きが始まると、とうとう正月を迎える気配が市中に広がり、心が華やいだ。市井の顔色もすこぶる良いので、かねてからのお藤の要望を市井が聞き入れ、屋根船に乗って、大川を遊覧した。
お藤は来年の春にしましょうよと、急かす市井の袖を掴んで止めたが、市井は今日がその気分なのだと、耳を貸そうとしなかった。しかし幸いだったのが、真冬というのに、その日の日差しは暖かく、褞袍を着ているのが暑いくらいだったことだ。しかし暖かいと言っても一枚脱げばやはり、冬の空気が着物を通って肌を縮めた。
「こういうのもいいね」
とお藤が言ったのは、彼等の他に数名が乗り合わせる船の上であっても、寒い、寒いと言って市井に寄り添えるからである。「仲の良い親子ですな」と乗客に聞かれ、市井がやや不機嫌になった。市井が褞袍を着なさいと、言うと、お藤は口をアヒルのように尖らせて首を振った。その仕草が口吻を求めているようにも見えるので、市井はますます羞恥に顔を染めた。褞袍は市井とお藤の膝を温めていた。
実家の神社に二人連れたって行った時などは、富子も祖母も腰を抜かし、涙を流して驚いていた。「以前にも増して若返った」などと市井が年寄り老けて見えるのは事実なのに、二人はこぞって見え透いたお世辞を言った。しかし満更お世辞ではないのかも知れない。この頃の市井は若返ったように元気で、死の影など感じさせないくらいはつらつとしていた。
湯屋には二日置きに行った。湯に行かない日は、日の高い昼間、お藤が市井の身体を拭いて清めた。市井は以前のように、お藤から老体を隠すような真似をしなくなった。
市井が回復したようだという情報を得た鶴屋菊兵衛が、手を摺り摺り執筆の依頼をしにきたが、短編さえ仕上げる責任が持てないと言って仁瓶もなく断った。市井の中で断筆は決定されたらしい。しかし日記のようなものは書き続けていた。お藤が近寄ると閉じてしまうし、どこに仕舞ったのか、隠してしまうので、日記の内容を、市井の生前お藤は読んだことはない。
ある日、お紺が訪ねてきた。お藤が酒に酔った夜、市井を訪ねた夜に見たお紺のしおれた姿は消え失せ、五つほど若返ったようにも見えた。
お紺を迎えた市井は嬉嬉として愉しげであった。茶の間で二人、お藤の割り込めない話題ばかりをしていた。そうして時たま二人だけで懐古し、無言で笑い合ったりするものだからお藤もいい加減むかついた。
「お紺さん、もう一刻も経ちましたけど、帰らなくていいんですかね?」
それまで二階ですねていたお藤が市井の隣りにちょこんと腰を下ろした。
「あらまあ、いけない」
意外に素直なお紺の態度にお藤は少々拍子抜けをしながらも、土産に漬け物を持たせた。市井はお紺を表まで見送った。市井が表通りまで出て行ったのが気に食わないお藤は少し後ろから二人を眺めていた。二人並ぶと夫婦に見えるのも悔しい感じがし、性懲りもなく嫉妬が渦巻いた。
「ふん、いいのよ。あたしが修治さんの妻に見えたとしたら、わたしが老けすぎってことなんだから。修治さんが若返ればいいんだわ」
お藤は言いながら笑っていた。袂を摺り合わせ、良い事を思い付いたと両掌をうった。
「いやいや、寒かったね。お紺は話好きで参るよ。おやっ何をしているんだい?」
茶の間の長火鉢に縁に本を置いて、真剣な顔をしているお藤を市井は上から覗き見した。
「見ないで下さいな」
お藤は開いたままの読本を胸に押しつけた。
「誰のかね?」
著者が気になるらしい。横に座り、にこにこしながら南部鉄に手をかざした。
「教えないの」
「教えない?」
「あっ修治さんのじゃないのよ」
「ほう、そうかい」
お藤はそっと読本を開くと、顔の近くで読み始めた。
「そんな近くでは良く見えないだろう」
「見えるもん。修治さんのように遠くに離さなくちゃならない目じゃないもの」
「ああ、そうだったね」
市井は苦笑し、自分で茶を淹れて掌を温めた。
「ふーっ、この物語り涙が出るわ」
と言ってお藤は虚空を見上げた。感動しちゃうとも言った。
「へっそうかい。そんなにねえ」
市井が不服そうに言うのでお藤は斜を向いてにやりと微笑んだ。しめた、しめたと思っている。読みながら何度も溜息をつき、挙げ句の果てには本を胸に押し当て瞼を閉じた。
「おいおい」
市井が痺れを切らしたように指先でげす板をぱたぱた打った。かなり苛ついている様子である。お藤はそれが可笑しくて仕様がない。
「何でしょう?」声音を使った。
「何でしょうじゃないよ。いつまでも下らん本なんぞ読んでないで、夕飯の仕度でもしたらどうだい」
「そんなこと言ったってあなた。まだ昼過ぎじゃありませんか。さっき、お紺さんからの土産の鮨を食べたばかりですよ。忘れたんですか修治ぃさん」
「だから、修治のじをじぃと伸ばすんじゃないと言ってるだろう」
「まあ細かい」
お藤はまた本に目を落とした。市井はげす板を叩いた。
「おい」と声を張って咳込んだ。しかし労咳からくる咳ではなく、急に大声を出したことによる器官の乾きだ。
「あのな」
「何を怒ってるの?」
お藤は市井の背をさすりながら聞いた。声は明るく目も輝いている。市井は威勢を崩し大人しめに、
「茶を淹れなさいよ。茶を………それに茶菓子も欲しいもんだね」
「はいはい。ごめんなさいね。これからは大声を出さなくてもいいんですよ。お茶やお茶菓子くらいいつでも出してあげますからね。修治じぃさん」
「だからね、その修治じぃさんは止めなさい………」
と言い掛けて、市井は口をもぐもぐして黙ると、お藤が台所へ入ったことを首を伸ばして確かめた。お藤が読んでいた本の著者を探ろうと床に手を伸ばした。
「修治さん」
待ち構えていたようにお藤は襖の隙間から顔を覗かせた。市井はびくりと肩を震わせ、アハハと笑って見せた。お藤は口元を両手で覆ってくすくすっと笑うと、
「それは修治さんの書いた物語ですよ。何度、読んでも心が浚われちゃう。市井一鷹は日本一、天晴れ!天下一の戯作者」
ふざけすぎなくらいふざけると、照れ笑いを浮かべる市井の前に焼き団子を差し出した。
「門松を頼んだかしら?」
焼き団子の串を掴んで、市井が唐突につぶやいた。
「ええ、頼みましたよ」
「そうか、無駄になるかも知れないな」
そうつぶやく市井を叱るように睨み、串を口に運ぼうとする手をお藤は押さえ、
「初詣も行きますし、賑やかに神事をするのよ。あたし神社の娘なんだからね。門松だって頼んじゃったんだから、無駄になんかしないんだから」
「怒ることはないんだよ。深い意味なんてないんだよ。お藤」
市井はそう言って、お藤の額をひたひたと叩いた。
門松飾が届く前に市井は死んだ。
突然のことで、心の準備ができていなかったので、お藤はその日のことを、ぼんやりとしか記憶していなかった。正月は喪中で、結局、市井の言う通り、門松は無駄になったのは鮮明に記憶している。
あの日、早めの夕食を終え、茶の間を出ようとする市井が喀血した。見たこともないような大量の出血。畳一畳が、鮮やかな血の色に染まった。
「お医者っ!」
と叫んで飛びだそうとするお藤の裾を掴んで、市井は必死に止めた。お藤は最初抵抗し、それでもお藤の裾を掴んで離さない市井に戸惑ったが、市井の放った「もう死にたい」の一言で、心は固まった。
市井の身体を支え、梯子を上って二階の書室に連れて行くと、縁側の、眺めの良い角度に座り、お藤が市井を背後から抱いた。
「寒くない?」
「とても暖かいよ」
「死んじゃいやよ」
「そろそろ死なせてくれよ」
「分かったわ」
とお藤は言って市井を揺さぶった。
「ねえ、あたしもすぐに行くのよ」
「向こうで一人になってもかい?」
「ひとり?」
お藤は小首を傾げ空を向くと、宙を舞う鳥をしばらく眺めていたが、はっとし、眉をひそめて市井の目を覗き込んだ。「お藤」お藤の額をつつき、市井は弱々しく微笑んだ。
「私はね、前妻と眠るんだよ。分かってるね、それが遺言だ」
「そんな………」
「………」
「あたしをまた妻にしてくれたじゃないの」
「うん。こうしてお前に抱かれて死ねるのは至福だね」
「勝手だわ」
お藤は泣き笑いをした。ふしぎと嫉妬はなかった。市井の身勝手が、可愛くて思えて仕様がなかった。また、市井の本意が何処にあるのかも充分に理解していた。市井はお藤を、死の旅の道連れにしたくないのだ。残されたお藤の人生を束縛したくない。自惚れかもしれないが、お藤はそう解釈した。
「では、あたしは生きて修治さんの菩提を弔うのよ」
「それもほどほどにしなさい。お前はお前の人生を歩まなければならない。それにね、お前、死んだらどこの墓に入るんだい?」
「心配してくれなくても結構よ、あたしのうちは神社だもの。神道の遣り方で埋めて貰うわ」
「寂しくないか?」
「ちゃんも、おっかさんも、婆ちゃんだっているじゃない。きっとね、きっと、あたしよりも先に死ぬだろうからあの二人。今はしぶとく生きてるけどね」
こんな時だというのに、お藤ははじけるように笑った。
「ありがとう」
お藤が笑い終えると市井は軽く頭を下げた。
「こちらこそ。お嫁にしてくれてありがとう修治さん。あたし仕合わせだったわ」
市井はその言葉に和んだのか、唇の端を緩め、うっすらと開けていた目を静かに閉じた。
「修治さん、太陽が、屋根の上に落ちるよ」
「沈んでゆくのだよ………」
「どこへ………?」
「さあな」
「沈んで眠るの?」
「ああ、少しだけ………眠りたいのさ」
「また会える?」
「ああ、明日の朝も、陽はまた昇るのだよ………お藤」
市井の額が、お藤の顎に触れた。抱いている腕に力を込めてゆすり上げたが、身体は脱力して重かった。いつものように、お藤は市井に頬摺りをした。緩んで弾力のない肌はまだ暖かい。涙が、市井とお藤の間を阻むよに、頬を滑らせた。
もう一度、市井をゆすり上げ、小さな子に語るように言った。
「大好きよ」
寄せた頬を揺らしながら堀割に目を落とすと、斜陽の光りの下、川面がきらきら表情を変えていた。お藤はそっと瞳を閉じた。沈みゆく太陽が、最期の名残と、夫婦の顔を照らし始めた。
「了」