懐古ー(乱れた若い恋人)
「兵蔵さん、もう帰ってね」
お藤はやんわりと、兵蔵を傷付けない言い方をしたつもりだが、客間で振り返った兵蔵の表情は厳しかった。胡座のままこちらに向き、手招きをしてお藤を呼んだ。
「掃除は終わったんだね」
眼光の厳しさとは裏腹にやさしい声で兵蔵が聞いた。
「ええ、さっき見たでしょう」
お藤は襟足を撫でつけいた。
「お藤、もういちど聞くけど………」
「しつこいわよ兵蔵さん。あなた、私にしたことを覚えてないの?もういいわ、あなたが悪いんじゃないもの」
お藤は軽く額に手を当てて、ふふっと溜息のような笑い方をすると背筋を伸ばした。毅然とした表情で兵蔵を見た。過去の過ちを思い出し、そのような行動に出た自分を諫める意味で、わざと兵蔵を突き放すような態度に出たのだ。僅かに残るお藤の自尊心がそうさせていた。
「帰って頂戴よ。ね、兵蔵さん」
「それがお藤の真の望みならそうするが、しかし、お前、これからどうする?」
「さあてね」
お藤は伸ばした両手を絡めるようにして前で組んで、ゆっくり身体を揺らした。はっとした。また兵蔵の前で女になってしまったと自覚し、すぐに腕組みに変えた。兵蔵を下から突き上げるように睨んだ。
「今夜はここで考えるわ。明日、実家に戻るかも知れないしね。そんなこと明日にならなと分からないけれども、どちらにしても兵蔵さんには関わりのないことだわ。さっさと帰って欲しいの。もう充分想い出話もしたでしょう。想い出話をしたいから家に来たいと言ったんじゃない兵蔵さん。掃除をさせたのは悪かったけど、もう満足でしょう。ささ、終わり、終わり、終わりなのよ………」
「そう邪険にしないでくれよ。お藤………」
悲しくなると言い残し、兵蔵は市井の家を出て行った。土間でぼんやり立つお藤を振り返ることもなく、薄闇の中を少し早歩きのように、素っ気なく行ってしまった。お藤とやり直せないことが確実だと知り、急に家に残した妻のことを気遣ったように見え、お藤は、兵蔵から、二重の仕打ちを受けた気がして虚しくなった。表戸を閉め、家に上がるために片脚を高く上げたけれど、急に脱力し、上がり框に腰を下ろして柱に凭れかかり虚空を見上げた。
「出会わなければ良かった人達ってきっといるわ」
そんなことをつぶやき、涙がこぼれた。
実家を抜け出し、一時行方不明になってまで市井の家にゆき、驚天動地に暴れたその夜、お藤は兵蔵の家で一晩を過ごした。勿論、その前に、実家の神社には帰っていたし、兵蔵の家に行くことは、母の富子や、祖母の了解を得ている。
お藤が「今夜はどこかに泊まりたい」などと大胆なことを言い出した時、いちばん驚愕したのは、富子でも、祖母でもなく兵蔵である。何を言い出すんだいお藤ちゃんと、緊張からか、裏返った、恰好悪い声を出していた。
富子と祖母は寛大なのか、放任なのか、はたまた兵蔵を男と意識していないのか。「いいじゃないか、いじゃないか」と、兵蔵を茶の間に通して餅菓子と茶で持て成し、その間に娘の背を押して巫女装束から、蚊絣に着替えさせると、祖母が素早く髪を銀杏返しに結った。
「さあできましたよ」
風呂敷包みを胸に抱いたお藤の姿は、兵蔵が餅を喉に詰めそうになるほど美しかった。
お藤の希望で駕籠には頼らず、二人は本所まで歩いた。道を行く、大勢の男の視線がお藤にそそがれるのを、兵蔵は心配そうに見ていた。今のお藤は投げ遣りで、声を掛けられれば、誰にでも付いて行ってしまいそうに心細い。兵蔵の少し後ろに距離を保って歩くお藤は、お藤であってお藤本人ではないような気が、兵蔵はしてならなかった。
兵蔵の裏店に帰る前、二人は両国広小路で天ぷらを食べた。お藤は元来、食の細い性質である。付け加え、精神的に衰弱しているせいか、海老と蓮根、銀杏の三串しか食べなかった。口の廻りが油で光り、それが妙な色気を出していたので、兵蔵は思わずごくりと喉を鳴らしてしまった。手前の天ぷらより、お藤の唇に塗られた天ぷら油の方が、断然、魅力的であった。
家に着くと、お藤はすぐに眠りたいと言い出した。夜具が一組しかないと告げると、うんとうなずき、枕屏風を開いて勝手に夜具を敷き始めた。なるほど長いこと人の女房をしていたことだけあって手慣れている。兵蔵は少々、呆気に取られたようにお藤のことを見つめていた。
「お座りになったら?」
お藤は敷いた夜具の横にちょこんと腰を下ろし、まるでこの家の住人のように手招きした。土間と茶の間の敷居を跨いだところに突っ立ていた兵蔵は、あっうんと言って、腰から外して、手に提げていた刀を刀掛けに掛けた。緊張しているのか、何も障害のないところでつんのめりそうになり、口に拳を当てて咳払いをした。お藤はくすくす笑っている。
「茶でも入れようかね?」
「ううん………あたしはいいけど、兵蔵さんが飲みたいのなら、湯を沸かしましょうか?」
お藤が立ちあがろうとしたのを兵蔵は手を振って止めた。自分から言い出したのだが、茶が切れていることに気付いたのだ。お藤が来ると分かっていれば、お茶の葉くらい買っておいたのにと首の後ろを叩き、明日の朝食の米が足りるかなどと考えていた。
「そう………」
お藤は座り直し、部屋の中を見渡している。兵蔵は几帳面な性質なので、部屋の中は整頓されていたが、内職の提灯が、隅の方で重なっているのを見られるのに多少の羞恥を感じていた。六畳の茶の間は夜具を敷くと足の踏み場もない。どこに座ろうかと兵蔵がきょろきょろ思案していると、お藤が寝ましょうと言って来た。
習慣なのか、お藤はまだ暗いうちから朝食の仕度を始めた。搔巻から抜け出ようとするお藤の手首を掴んで、どこへ行くのか?と兵蔵が聞くと、お藤ははにかんだ顔を背け、朝ご飯を作るわねと言ったのだ。もう少し寝たらどうと、お藤の手を引いて胸の中に入れ背中を抱いたが、お藤はだめだめと言って身仕舞いをし始めた。薄闇の中で、お藤の華奢な身体が忙しなく動いている。お藤はすぐに台所に立って顔を荒い、房楊枝で歯を磨いていた。その音を聞きながら、兵蔵は起きかけた上体を倒した。
身体には、お藤の匂いが熱く残っていた。まさかこんな喜ばしい展開になるとは。兵蔵は昨夜のお藤の様子を目の裏に思い浮かべながら、ひっそりと微笑んだ。
半年が過ぎた。お藤は相変わらず兵蔵の家に住んでいた。三月ほど前、市井との離縁も整い、お藤は人別帳でも独り身になれたのだが、兵蔵はお藤を妻に迎えようとはしなかった。例え申し込んだところで、それをお藤が受けたどうかは分からないが、日々の暮らしの中でお藤が時折見せる暗い陰が完全に消え去るまでは、このままの関係でいようと兵蔵は考えていた。
裏店の住人はごく自然に、お藤を、兵蔵の女房だと信じ込んでいるらしく、お藤もその様に彼等に接していた。大屋には事情を説明してるので、お藤が兵蔵の籍に入ってないことは承知しているが、鷹揚な人物で、とやかく口だしをしてくることはなかったし、口が硬く、人前ではお藤を兵蔵の女房として扱ってくれた。
お藤の実家へは、二人一緒、月に何度か出向いた。富子の方は、三日と開けずにお藤に会いに来た。最初のうちは良かったけれど、お藤の離縁が決着すると、二人の関係を黙認していた母や祖母も、最近ではやかましい。
富子の口調はやんわり遠回しであったが、祖母などは露骨に、お藤を貰う気はないのかと聞いてくる。
「婆ちゃん、あたしはもう嫁に行く気なんてないのよ」
お藤はその度に苦笑し、軽く返していたが、祖母の脅迫じみた催促に、兵蔵は時折、興醒めする気持であった。
そうこうしているうちに、思いもよらぬ出来事が兵蔵の身に降りかかった。兵蔵の兄の彦五郎が急死したのだ。五月のことであった。
梅雨に入り、連日うっとおしい天気が続いていた。この日も、激しい雨が裏店の屋根を打っていた。うすら寒いので、兵蔵とお藤の二人は若夫婦のごとく夜具にくるまって遊んでいた。雨の音で遮られ、五つの鐘がいつもより遠くに聞こえた。
「あれ、誰か来たかしら?」
夜具の中から首を伸ばしてお藤は土間の方を向いた。
「うっちゃとけ」
兵蔵は言うと、お藤の肩を抱いて引き寄せよせた。外では風が強くなり、木々のざわめきが怖ろしいほどだった。暫くして、
「あらっ、やっぱり誰かいるわ」
お藤はがばっと搔巻をはね除けると、着物の前を掻き集めながら足早に土間に下りていった。確かめるように板戸に耳をつけて様子を伺っている。兵蔵はふっと小さな溜息を吐き、手枕で天上を見ていた。
「どなたでしょう?」
髪の乱れを撫でつけながらお藤がそう言ったので、兵蔵は肘枕でお藤の方に目をやった。やがてお藤は振り向いて、怪訝な目付きで首をかしげた。兵蔵は一挙動で立つと、誰だと言いながら土間に下り、お藤を守るように背に廻して心張り棒を外した。この時、兵蔵の兄が急死したことを報された。
この日から僅か一月後のことである。世継ぎのない兄に代わり、兵蔵が家督を継ぐことを承知しなければならい事態となった。雨の日に何度も戸を叩いていたのは、実家からの遣いの者である。
兵蔵の家は三百扶持の旗本で、死んだ兄は記録所役であった。兵蔵も同じ役職に就くことになるのだが、侍を捨てた気になっていた兵蔵に、家に戻る気はない。しかし母親に泣きつかれ、兵蔵も自分の信念を曲げざるえなかった。しかしそれならばせめてお藤を娶りたいと兵蔵は切望したが、その希望が通ることはなかった。全く勝手な話だが、兵蔵の母親や親戚は、兵蔵に似合った娘と、既に相手を決めていて、そういう事情からも、自分たちの考えを一歩も譲ろうとしないのだ。お藤はこの年二十八である。実家の方ではお藤の身の上を調べ上げていた。出戻りで、その上、数回赤児を流産している女など、妻どころか、妾としても価値がないと、兵蔵の実家は言い捨てた。
実家の決めた女は二百扶持の旗本の娘で、父親は御徒頭である。年は十七と若かった。
「仕様がないわね」
兵蔵から全てを打ち明けられたお藤は笑顔でそう言った。
「すまぬ………」
頭を深々と垂れる兵蔵を、お藤は今にもべそを掻きそうな顔で見つめていたが、目の前で泣くのは堪えた。兵蔵との未来を想像しなかった訳ではないが、兵蔵の将来を、自分のような女の存在で駄目にするのは本望ではなかった。
あれだけ蜜にお藤を愛した兵蔵であったが、あの雨の日の出来事以来、二人の暮らす裏店に帰って来ることが少なくなった。昼間ちょこちょこっと戻っても、すぐに忙しそうに出て行ってしまう。身形も以前とは違って折り目があり、凛々しい。伸ばしていた月代も剃り、小さな所作の一つ、一つが、まるで他人のようによそよしく冷たい。そうお藤は感じ、二人きりの生活に疎外感を覚えた。お藤は兵蔵との別れを、身近なことと意識した。
「分かっていたし、いいのよ」
明日、出て行くという兵蔵に、お藤は笑顔で対応した。兵蔵は下向いたまま言葉を失っていた。すぐには無理だが、時を待って側室になって欲しいという都合の良いことを言おうとした自分を恥じた。
実はこれよりも少し前、兵蔵は親の決めた許嫁と会う機会を持っており、その娘の初々しい可憐な仕草に心を奪われそうになっていた。いや、殆ど奪われたと言ってもいい。
稲荷神社の娘で、粗野な部分のある気の強いお藤に比べ、その娘には武家の習わしの下で育てられた気品があった。所作や言葉の端々からも、武家で生きる人間同士、同じ空気を感じていた。これまで、お藤しか見て来なかった半生は一体なんだったのだろうと思い、過ぎた時を悔やんだほどだ。兵蔵はこの一月という短い間に、幾たびもその娘と会っている。三度目の時など茶屋の一室で、もうじき妻となろうとする娘の肌を味わった。
「そんなに考えこまないでよ、ねっ。本当に大丈夫なんだからさ」
「どうしたものか………」
「あら、往生際の悪い人ね」
お藤は今日のことをちゃんと予感していた。堂々とした態度で接している。滑らかな白い肌も、人が羨む美貌も、手放すのが惜しいほどに艶めかしく輝いて見えた。兵蔵の心が、離れかけていたお藤の方へと傾いた。
「いや、お藤。俺はね、お前と別れたくない」
見苦しいほどに兵蔵は狼狽えている。その姿を見て、お藤の哀しみは消え、なんだか全てが馬鹿馬鹿しく思えて来た。優柔不断な兵蔵や、そんな兵蔵を慕った自分さえも情けない。
「元もと友達だったじゃないの。これからも友達に戻ればいいだけの話しよ」
と言って腰を上げ、茶の間の柱に凭れて外を眺めた。夏の盛り、この薄暗い家の中にも、この時刻になると漸く斜めに日が射しこむ。お藤は取り込むことを忘れた洗濯物を茫然と眺めた。別れの時期、季節が春先なら良かったのにと思った。秋を一人で迎えるのは、あまりにも寂しすぎる。兵蔵に心を蹂躙されたが、それでも兵蔵という男は、市井に傷ついたお藤の心を灯した人なのだと改めて実感した。半年で芽生えた愛着もある。兵蔵を失いたくなかった。
「お藤………」
立って来ようとする兵蔵をお藤は目で制した。目を伏せて軽く首を振り、やさしく微笑んだ。
「感謝しているのよ兵蔵さん。あたし、あの時、市井に捨てられた時ひとりだったら、今こうして生きていないもの。兵蔵さんは本当に良くしてくれたわ。兵蔵さんとのこと、全て、あたしが望んで、あたしが選んだ道んだもの。兵蔵さんの人生を縛る気なんてない」
お藤は自分自身に言い聞かせるように、一気にそう言った。
「………」
「兵蔵さん、読本はまだ書き続けるんでしょう?あたし兵蔵さんの本を貸本屋で借りてみたいわ。いつかね、必ずそうなる日が来ると思うのよ。だから諦めないでよね」
「俺はね、分からないんだよ」
「黙って」
お藤は静かに嗜め、物干しから洗濯物を手早く外すと、丸めるようにして固め、箪笥を開けて私物を風呂敷に包んだ。その様子を兵蔵は直視することができなかった。胡座の中にがくりと肩を落として首を垂れ、居眠りでもしているかのようにぴくりとも動かない。
「全ては収められないわね。そうね、明日にでもまた来ようかしら。その時に掃除をしておくわ。差配さんには兵蔵さんから話しておいてね。お願いよ」
「どこへ行くんだい?」
兵蔵は捨てられた仔犬のように小さく震えていた。お藤は、風呂敷を包む手を止め、背を伸ばして兵蔵を見た。
「おかしなことを聞くわね、神社よ。あたしの帰る場所はそこしかないじゃないの。とおに生娘ではないけれど、朱の袴を穿いてもいいわよね。だって婆ちゃんだってまだ現役の巫女なんだから。図々しい神社ね。アハハハ」
お藤は片手で口を隠し、背を倒すようにして笑った。悲しさや、苦しさを、軽口を叩くことで消そうとしているように見え、兵蔵を余計苦しめた。外見、項垂れている兵蔵より、元気に振る舞うお藤の方が遥佳に動揺している。しかし市井の時に見せた、荒々しい嫉妬や憤りは、いまのお藤にはない。無論、恨みもない。寧ろ、これまでお藤を一途に想い、市井からの痛みを癒してくれた兵蔵への感謝の気持ちは計り知れない。市井を愛し、慈しんだ時を、お藤は大切にしている。そのような日々を、兵蔵にも、自分とではないけれど、他の女と共に過ごし、生きている実感を味わって貰いたいと願うと決めた。
「これで終わりかな………」
「馬鹿ね、あんた」
兵蔵を気持良く行かせようと、折角いろいろな理由を思い浮かべ、自分を納得させていたのに、なんてことを言うんだろうこの人と、お藤は少々呆れ顔だ。こうなると逆にお藤に度胸が湧いてきた。顔が見えないほどに首を垂れる兵蔵に膝を寄せ、お藤は彼の頬を両手で挟んで上げた。途端ぎょっと驚いた。兵蔵が目を真赤に腫らして泣いていたのだ。この一月、家督相続で忙しかったとはいえ、家を継げることに浮き足立ち、若い許嫁にうつつを抜かし、半年以上も、夫婦同然に寝食を共にしたお藤をぞんざいに扱ってきた男の末路を見たような気がした。兵蔵はたいした男ではないなと、そんな思いがちらと頭をかすった。
「今更あたしが惜しくなったの?でもね、もう遅いのよ」
先程までの同情や、微かに残っていた愛情は消えたような口振りで、お藤は冷たい言葉を飾らずにぶつけた。やはり自分を捨てようとした男は憎い。憎いのよ。一分前までの考えが、こうも変わるものかと、お藤は自分で自分を疑うようだった。
「お藤」
縋り付いてくる兵蔵をはね除けることもせず、お藤は兵蔵の頭を胸に抱えた。
「いつでもいいのよ。どこにも行かないから、会いたくなったら神社へいらっしゃい。お友達としてなら、ちゃんと迎えてあげるから」
気が付くと、自分でも驚くようなことを言っている。これでは都合の良い女ではないかと自分を嗜めたが、もう遅い。兵蔵はお藤の望むような男らしい言葉は返さず、やはり、「うん。会いにいく」と溜息の出ることを言って微笑んだ。
秋も深まったころ、兵蔵が神社へ顔を出した。お藤と別れて初めてのことである。お藤の祖母は、箒を持って兵蔵の歩く後を追い、邪気でも払う様に足跡を消している。富子は笑顔で接したが、娘のお藤から見ると、明らかな嫌悪を瞳の奥に光らせていた。母も祖母も人の好き嫌いが激しい。
「あらっ珍しい」
売店の奥でお藤は笑って見せた。兵蔵は頭の後ろを押さえて照れている。先月、祝言を済ませたばかりなのは風の噂で聞いていた。ふんと、お藤は心で舌を出した。
「お藤ちゃんに会いたくなってね」
兵蔵は並べられたお守りや、御札の上に身を乗り出してお藤の耳にささやいた。
「若い奥方様はどう?」
お藤は厭味な口を聞いた。腕を組み、きつい流し目を兵蔵にぶつけている。兵蔵は苦笑いをした。
「うちの孫娘はね、お侍の妾になんかやらないよ!もう誰にもやらないんだ!」
参拝客が一斉に振り返るような大きな声で祖母が言った。殆ど怒鳴り声に近い。お藤は恥ずかしくなり両手を振って、しっしと祖母を追いやった。祖母は恨めしげな目で兵蔵を睨み、ちぇと舌打ちをすると境内の奥の方へ消えた。
「参ったなアハハ………」
周囲の視線を気にしながら、兵蔵は首の裏を叩いた。兵蔵に付き添っている下男も恥ずかしそうだ。腰を丸くして玉砂利を数えている。
「お藤ちゃん、今夜、空いてるかい?」
「はっ………?」
囁く兵蔵に、お藤はきつい一言を投げた。
「あんた、やっぱり馬鹿なんだね」
その夜、お藤は兵蔵の待つ小料理屋へと行った。誘われて、浮き浮きと出掛けた訳じゃない。兵蔵の目的は分かっていたし、そんな都合の良い話しに乗る気はなかったが、懐かしい尋ね人を無下に断る理由も独り身のお藤にはなかった。久しぶりに夜遊びをしてみたい気にもなっただけだ。
お藤が到着すると、兵蔵は陶然と酔っていた。酔った男はいやらしい。お藤が座るやいなや、腰を抱き寄せて来た。
「やめて下さいよ兵蔵さん。あたしはそんな気持で来たんじゃないんだから」
そう言って拒んでも、男の力は怖ろしく強く、いくら胸を押してもびくともしない。お藤は腹が立って兵蔵の額をぴしゃりと叩いた。
「いい加減にして。馬鹿にしてんだからもう」
「すまん………」
兵蔵は今にも泣き出しそうな顔で頭を下げた。胡座の中で指を弄び、下唇を付きだした泣きべそ顔だ。
「何かあったの兵蔵さん?」
お藤は襟をなおしながら軽蔑の流し目をくれた。
「いや、落ち着かないんだ」
「はっ?」
「あの娘と一緒にいると、息が詰まるんだよ………」
「あの娘って、もしかしてお内儀?」
「ああ、喜美だ」
「ふーん、お喜美さんて言うんだ」
お藤は興味がないといった風に箸を取って、目にも鮮やかな豪華な酒肴をつつき始めた。
「刺身なんて久しぶりだわ」
仕合わせそうな顔で鯛のお造りを口に運んだ。
「お藤、聞く気があるのか?」
兵蔵は少々いじけた表情で、お藤を睨む真似をした。
「たまにでいいから、会って話しを聞いてくれないか?」
「いやよ」
「どうして?」
「痴話喧嘩を聞く気なんてないわよ。夫婦のことは夫婦で解決しなさい。あなたが選んだ道じゃないの」
「駄目なのか?」
「駄目!」
お藤はにべもなく言った。
「冷たいことを言うなよ」
「勝手なことを」
お藤は細切りにした鯉の切り身に、茹でた鯉の卵をまぶした料理を食べて目を細めた。兵蔵の愚痴など、どうでも良いと思っている。そりの合わない夫婦のために、この身を削って兵蔵の相手をするなど馬鹿げている。気晴らしをしたいのなら、岡場所や遊郭に行けばいいじゃないかと腹ただしい。
ーあたしは娼婦じゃないんだ。
お藤はちらと目を上げて兵蔵を覗き見た。兵蔵は陰気な雰囲気を座敷いっぱいに漂わせてうつむいている。考えたより、夫婦間の悩みは深刻なものような気がした。
兵蔵は駕籠を呼ぶと言ったが、お藤は断った。ほんの三月前まで二人、寄り添って歩いた通りなのに、兵蔵が所帯を持った今、人目を憚らなければならないなんて悲しいじゃないかとお藤は心が寒かった。料理屋に入るのも出るのも人目を避けて一人づつ。二人並んで町を歩くことさえできない。それで隠れるようにこそこそと駕籠に逃げ込みのはごめんだ。
「ばかやろう」
お藤は顔をうつむけて、地面を蹴るようにして気怠く歩いた。さっきまで酒で火照っていた身体も今や覚め、背中を押すように吹き付ける北風が、お藤の身体も心も冷たく凍らせた。かじかんだ手を口に当て息を吹きかけてみたが効果はなかった。袂袖に手を引っ込め、腕を抱き合わせ、首は亀のように襟にうずめた。
兵蔵と一刻を過ごした料理屋は伊勢崎町にある。少し遠回りになるが、お藤は大川沿いを通って家路につこうと考えた。下の橋を渡ると、お藤に馴染みのある町並みが広がる。普段なら横町を好んで帰るお藤だが、もう夜も更けていたし、見慣れた町に着いたことで、先程、漸く覚めた酔いが廻ってきたように足元が覚束ない。それで表通りを選んだ。
黒江町の堀割に架かる小さな橋まで来ると、市井の家が見える。人通りもなかったので、橋の真ん中で立ち止まり、ぼんやりと全体を眺めた。四つは廻っている筈だったが、二階の縁側からは淡い灯りが漏れていた。
ーまだ起きてるんだね。
背後に人の気配を感じ、お藤は俄に歩き始めた。一度は市井の家の前を通り過ぎたが、また引き返して玄関の前に立ったのは、お藤が酒に酔っているせいだろう。投げ遣りなほどに気が強くなっている。
これまでだって何度も、この家の前は通っている。しかし通り過ぎるだけで中の様子を知ろうとはしなかった。近寄りたいが、近寄れば傷つくことを知っている魔の家だ。なのでいつも横町を選んだ。
しかし今夜は違っていた。市井の情報は、母や祖母、友人までもが気を遣い、一切、お藤の耳には入って来なかった。一体、市井の病状はどうなのか。医者の話では長くても一年は持たないと言っていたのだが、その宣告を受けてから二年は過ぎていた。お藤は勇気を振り絞って訪いを入れた。
つづく