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沈みゆく  作者: 藤原蒼未
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懐古ー (捨てられた女)

「あんなこともあったのね、馬鹿なこと」


 お藤は茶の間の違い棚を撫でていた。玄関に通じる廊下の方から兵蔵の視線を感じたが、気付かぬふりをして筆返しのなだらかな傾きに気持を集中させていた。黒い染みは墨の痕である。その丸を指先立ててなぞってみると、この染みは、あたしの嫁入りの前からあったのだと、懐かしさよりも、市井の生きた痕跡を深く知ってるこの棚に可笑しくも、嫉妬してみたくなる。


ーこの棚はこれからどうなるのだろう。


 まさか、おゆうに送るわけにもいくまい。だからといって、お紺に取られるのは耐えられない。


「あーっいやだ、いやだ」


 兵蔵の気配があるので意識して、心の中でつぶやこうと思った言葉が、頭に浮かんだまま口から出てしまっていた。はっと兵蔵を振り返ると、兵蔵の姿はそこにはなかった。客間にでも下がったのだろう。お藤は溜息をついた。厠は縁側の廊下の奥にあるので、お藤が立つ茶の間を通らなければ行けない。黙って帰ってくれていれば良いのだが、表戸を開く音に気付かぬ筈もないので、それは考えられなかった。


 お藤がいやだ、いやだと言ったのは、お紺に違い棚を取られることではなく、市井の家を追い出された後の自分の辿った足跡を思い出したからだ。


 先に馬鹿なことをと言ったのも、その、なんとも愚かな女の不誠実の記憶が鮮明に蘇ったからに他ならない。市井に捨てられ、空漠とした不安が、お藤をああいった行動に走らせたのか。お世辞にも道徳的とは言えない不健全な運命に、兵蔵まで巻き添えにしてしまったことをお藤はいまでも悔やんでいる。










 市井に突然の別れを告げられた日、お藤は何も持たずに家を出た。玄関の土間を下りると、「帰るのかい?気をつけてお帰りよ」と、台所から米をとぐ手を止めたお紺の声が追って来たが、お藤は答えなかった。

 表戸を開けると、目の前に兵蔵が立っていた。憔悴しているように見えた。魂の抜けたお藤を見るとうつむき、頬をひきつらせた。だらりと垂れたお藤の手を取った。


「送って行くよ」


 まるでこの展開を知っていたかのような兵蔵の言葉も、今のお藤に疑問に思う余裕はない。手を引かれるままに歩いたが、通りに出た時、裸足であることに兵蔵が気づき、お藤の手を引いて引き返すと、上がり框にお藤を座らせて、足の汚れを払ってやり下駄を履かせた。


 秋の短い日が落ちて、暗い闇が空に広がっていたけれど、裾の方はまだ青々として、白っぽい太陽の色さえ残す光景が幻想的であった。兵蔵はお藤の冷たい手を握りしめ、門前仲町の堀縁を歩いている。人通りが少なくなってきていたので、お藤の摺る塗り下駄の音が、人々の注意を引いたが、皆それぞれ忙しいらしく、興味の視線を向け続けたり、冷やかしたりする者はなかった。


「寒くはないか?」


 兵蔵は問いかけながら、自分の羽織の紐を解き、それをお藤の肩に掛けようとしたが、お藤は握られた手を離そうとしないので、羽織を脱ぐのも容易でない。まるで迷子になった子供が、やっと肉親に再会した場面のように、ぎゅっと痛いほど兵蔵を握り返してきた。


「おっかさんや、お祖母さんが待っているよ。今夜はお藤ちゃんの好きな煮豆を作ったと言っていた」

「………」


 お藤は立ち止まって兵蔵の顔を見上げた。二八になった兵蔵は背丈があり、月代を伸ばした茶筅髷ではあったが清潔で、浪人生活の長さを伺わせるしおれた印象はない。


「先生のお考えは、数日前から聞かされていたんだ」


 兵蔵はお藤が心で思っているであろう疑問に答えた。お藤はただ真っ直ぐ兵蔵を見ている。言葉が理解できない者のようなうつろな目であった。


「私が今日、神社へ伺った時おっかさんとお祖母さんは泣いていたよ。お藤が不憫で仕様がないとね」

「………」

「しかし、これも運命なんだ。受け入れ難いとは思うが、投げ遣りになってはいけない。お藤ちゃんには、お藤ちゃんを心底、案じてくれる人々がたくさんいるんだからね」

「………」

「俺だってそうだよお藤ちゃん。お藤ちゃんの痛みを半分、いや、全て、できることなら変わってあげたいくらいだ」

「いつ………?」

「ん………?」


 兵蔵は腰を曲げて、お藤の目を覗き込んだ。


「いつから知っていたの?修治さんが、あたしと別れて、お紺と一緒になりたいと思っていたこと」

「あっ、それはな」

「兵蔵さん、昨日もうちへ来たわよね。その時はもう知っていたんでしょう。なのに知らないふりして、へらへら笑って」


 兵蔵が答えるのを遮るように、お藤はたたみ掛けてきた。


「みんなで相談して、あたしを馬鹿にしていたんでしょう。あのお紺も一緒になって笑っていたに違いないわ。そうに決まってる!」


 お藤が声を荒げたので、通り縋りの人々が訝しげな視線を投げてきた。兵蔵はお藤の肩を持って門前山本町まで歩き、細い路地に隠すように押し込んだ。お藤は抗う素振りを見せなかった。


「馬鹿にして笑っていたなんて、そんなことある筈がないではないか、先生だって………」


 そこまで言うと、兵蔵はうっと唸って口を継ぐんだ。ここで全てを話してしまえばお藤の心は楽になる。しかし市井の苦悩が水の泡になってしまう。


 市井が酷い喀血をして寝込むようになり、一月ほどが過ぎた頃の話しである。市井は見舞いに来た兵蔵を引き寄せると小さな声で日時を伝え、大切な話しがあるからと、お藤には内密に家に来てはくれないかと耳打ちしていた。 

 約束の当日、市井は計画通り、お藤を里の神社に遣いに出していた。兵蔵が市井を訪ねた時、市井は茶の間に、神妙な顔付きで座っていた。幾度も小さくうなずき、溜息を漏らしている様子から、市井がこれから話そうとしていることが、尋常なく重苦しいと察しられた。市井に対坐した兵蔵は、膝頭を掴んで、市井が話し出すのを黙って見守っていた。


 初秋のことであり、縁側の襖は開け放たれていて、そこから見える小さな庭の朝顔は力なく色褪せ、枝や葉は、命の限りを待っているかのように萎れていた。


 兵蔵は市井に目を戻し、お茶をお淹れいたしましょうかと尋ねると、市井は火のない火鉢の灰を掻き馴らす手を止めて、そうだねと殆ど聞こえない、つぶやきに似た声で言った。


 台所はきれいに片付いていた。お藤は几帳面な性格で、家での時間の殆どを掃除に費やすと言っても大袈裟ではない。ここ数年のお藤には、甘やかされて育った過去の面影は微塵もなく、四十も歳の離れた、病身の夫の看病をする良妻そのものであった。


 勝手知ったる家なので、兵蔵は戸惑うことなく湯を沸かすと、吊り戸棚から市井の湯飲みと、客用の湯飲みを取り出して盆に置き、煎茶の準備をした。


「悪いね」


 茶の間に入ると、市井は背を茶箪笥に凭せ掛けていた。具合が悪いのかと聞いたが、市井は黙って首を振り、背を離して、長火鉢の上に両手を重ねた。


「あれはね、お藤はね、ここで私の書いた駄作を読むのが好きだったんだ」

「はあ………」


 と兵蔵は言って市井の顔を覗き込むように見た。好きだったでは、まるで過去の話のようだと思ったのだ。市井は昔話でも語るようにあさっての方向を向いて目を細めていた。


「火が入ってる時でもするから、げす板に本を置いたら楽なんじゃないかいと言ったんだが、お藤はここが良いときかないんだよ」


 市井は火箸をつまみ上げた。


「これで湯を湧かして貰えば良かったな。味がね、まろやかになるんだよ、お藤は鉄の味があるからいやだと駄々をこねるんだがね」


 市井はそう言いながら、火箸の方ではない左手で、南部鉄に湯の入ってないことを確かめるように持ち上げて揺すったりした。


「重いんだがね、湯はないね」


 耳をやかんから離し、じろじろ見た後で畳に置き、火の入ってない炭を掻き乱すようにして、五徳を火箸の先で二、三度たたいた。そしてふっと笑い、げす板の上に置かれた湯飲みをどけて、可愛がってる犬の背でも撫でるように擦った。


「あれは酒も好きだろう。冬の夜に限らず、夏の暑い時分でも銅壺には酒が入っていたからね。それを今度は」


 市井はもう一度、長火鉢のげす板に手を組んで乗せた。


「こちら側に座ってね、私に上座を譲ってくれるんだが、ここに手を置いて、まるで愛しいものでも見つめるように酒が燗になるのを待つ姿がね、かわいらしくてね」


「お藤ちゃんは上戸ですから」


「いや、そんなことはないんだよ君。あれはね、人がいる時は気を張って酔ってないふりをするんだがね、二人きりになった途端に足元がふらつき、胸を押さえて苦しそうにするんだ。決して強くはないんだよ」


 はいと兵蔵が納得したようにうなずいた。市井は何故かすまなかったという風に手を顔の前で振った。


「こんな話しをするために、君を呼び出した訳ではないんだ。実はね………」


 市井は残った茶をすすると、瞑想するように瞼を閉じて黙りこみ、深く呼吸した。再び目を開けた時には、先程の懐古に浸るような目付きではなくなっており、何日も、いや、何年も考えあぐねいた思いを打ち明けようとする強い決断の色を目の奥に光らせていた。気圧された感じで兵蔵は姿勢を正した。


「驚かないで聞いて欲しいんだ」

「………」

「お藤を離縁することにした」


 兵蔵は声を出すことができなかった。市井が悪い冗談を言ってるとは到底思えない。喉の奥で唾を飲み込むと、驚愕よりも、抗議の目を市井に向けた。


「お藤ちゃんは、承知しているのですか?」

「いや、あれにはまだ話してないんだ」

「ならば、そんな大切なことを何故、他人の私に………」

「まあ、話しを聞きなさい」


 市井は兵蔵を宥めるように穏やかな口調で言うと、掌の中にあった湯飲みの中を一度覗き、げす板の上に戻した。


「あれはきっと納得しないだろう。亭主の私が言うのもなんだが、あれは貞淑な女でね、私の死期が近いことを知りながら、こんな年寄りがくたばった後も、貞操を守り通そうとするに決まっている。あれの残りの人生を考えたら、少々の荒療治をしなければならんのだよ兵蔵、分かるかい」

「荒療治?なんのことです」


 そう聞き返した時、二階から、おゆうの怒鳴り声が聞こえた。昼寝をしてた広太郎が、母親が寝ている隙に部屋を出て、勝手に梯子を下りようとしていたのを叱っているのが、おゆうの叱る言葉から分かる。広太郎が泣き出した。


「賑やかな家だ」


 市井が廊下の方を覗くようにして首を伸ばした。「賑やかな家だ」兵蔵はその一言が気に入らなかった。娘と孫がこの家に来ていなければ、果たして市井はお藤と離縁しようと考えただろうかと、ふと思ったからだ。兵蔵はその疑問を率直に市井にぶつけた。市井は顔色を変えず、


「そう思ってくれても構わんよ。随分と身勝手な言い分だということは承知しているからな」

「お藤ちゃんは厭だと言いますよ、別れたくないと………」

「そこで荒療治と言ったんだ………私はね、死んだら亡妻と共に眠ろうと思っているんだよ。同じ墓に入るという意味だ」

「なっ………」


 兵蔵は目を見開いて市井を凝視した。膝の上の拳が固く震えた。


「悋気持ちのお藤はさぞ怒るだろうね。私はどこで眠ったら良いのだと」


 市井はまた手を振り、眠るというのは、死んだ後のことだがねと付け加えた。


「お藤ちゃんが怒るのは当然でしょう。お藤ちゃんは紛れもなく貴方の妻なのですから、それを何を今更」

「ああ当然さ。しかしそれはお藤が妻でいて、私が死んだ時の話しであって、別れて独り身になった私がどこの墓に収まろうと、人にごちゃごちゃ詮索されることではない」

「しかし………」


 兵蔵は呆れたように首を振り、


「お藤ちゃんは貴方の妻ではないのですか?まだ別れ話も切りだしていないんですよ!」


 兵蔵の語調が強まったところで、市井は胡座を掻き直した。長く起きていたことで顔に疲労の色が出ている。沈着な面持ちで瞼を閉じた。


「前妻と一緒の墓で永遠の眠りに就くことと、お紺をね、この家に入れることでお藤は離縁を承諾するだろう」

「ちょ、ちょと待って下さい。お紺て、あのお紺さんですよね?」


 市井は眼を瞑ったまま軽くうなずいた。


「それが、この愚かな判断が、どれほどお藤ちゃんを悲しませるのか分かっていて言っているのですか。下手をしたら自決するかも知れませんよ。正気の沙汰とは思えない」

「だからだ、それで君を呼んだじゃないかね」

「………」


 兵蔵は怒りを隠せない。市井を真っ直ぐ睨む目が、お藤への同情と市井への憤怒で赤く滲んでいた。市井は静かに目を開いた。


「君にお藤を頼みたいんだ」

「………なにを」兵蔵は首を振ってうなだれた。

「心が折れたお藤のことを、君が守ってくれないかね。君がお藤に心を寄せていることは、前々から知っている。今でもその気持に変わりがないこともだよ」

「………」

「君を見ていたら分かるんだよ。だから君は身を固めようとしないんだろう。君は私の死を待っていた」

「なっなんてことを!」


 兵蔵の頬を涙が伝った。憤りで身体が震えている。立ちあがろうとしたのを市井が手で制止した。兵蔵は新しく流れた涙も拭わずに市井を睨み下ろした。


 市井の推測は、あながち間違っているとも言えない。親の決めた縁談を勝手に破談にしたのも、噂で市井が労咳に侵されていると知ってからだ。市井が言うように市井の死を、指折り数えて待っていたわけではないが、心の片隅に、そんな邪悪な感情が隠されていなかったとも言い切れない。


 兵蔵は立ちあがろうと上げた片膝をがくりと元に戻し、唇の端を卑屈に曲げた。


「責めてる訳じゃないんだよ。ただな、このままの状態で私が死ねば、お藤が不憫だ。私はね、お藤に人生をもう一度遣り直して貰いたいんだよ。これでも身勝手な言い分に聞こえるかね?」


 市井は胸を軽く擦りながら、上体を箪笥に託すように凭れ、首を垂れた。慌てて兵蔵が手を差し伸べようと膝を上げると、市井はその恰好で手を荒く振った。


「見てみなさい、こんな老いぼれ………あれはまだ二十七だというのに、私には、子など、こさえる作業もできやしない。それがどれだけ惨めなことか、若い君には分かるまい」

「………」

 兵蔵は市井から目を背けた。


「娘にも納得をさせた。娘は泣いていたが、お藤のためだと心を決めたようだ。あとはな、兵蔵、君だけが頼りなんだ。君にお藤を守って貰いたい」


 玄関を出る時、市井が背後で、


「最近ね、物忘れも酷いんだよ。お藤には、賢い男だと思われながら死にたいものだ」


 市井のつぶやきは、兵蔵の胸に重くのしかかった。若く美しい娘を妻にした男の老いの哀しみを、初めて知ったような気がした。兵蔵はその日、返事をしなかったし、市井のつぶやきも無視したが、心の底では、市井の懇願を受け入れる気でいた。


 放心状態のお藤の手をひき、実家の神社に連れて行くと、一の鳥居の前で、お藤の母、富子と祖母が首を伸ばして待っていた。辺りはすっかり闇に包まれていたので、光沢を帯びた朱の鳥居だけだ異様なほどに目立ち、その奥は真っ暗で、全く神の聖域とはこういうものだと実感させられ、少し怖ろしい気分でもあった。

 母の富子も祖母も、幾つになっても浮き上がるような白い肌を持っていたので、二人それぞれ鳥居の左右の柱の前に立っていると、まるで白狐の化身のようにも見え、しかしそれにしては少々老け気味のような気もしないでもないが、祖母の方など、腰が曲がっていて、二つに折った丸い体型に、真っ白になった心細い髷、そこからひょこんと伸びた首に顔が付いているものだから不気味なこと例え様がない。


「ああーお藤!」


 祖母は余程、目が良いようで、神社の通りに架かる黒船橋のたもとのお藤を目聡く見つけては、両手を伸ばして、手の先をひらひらとさせて叫び飛んで来た。


 その様子を目の当たりにした通り縋りの若者が、「ぎゃっ狐憑き」と言って逃げ、危うく堀へ落ちるところであった。兵蔵はその若者を不憫に思った。


 お藤の母はお藤を見た途端に顔を覆って泣き出した。二人共、市井から聞いて事情を知っている。事情を聞いた時は困惑し、「十六の生娘を散々いじくっておいて、二十七の大年増になってから捨てるなどと何を勝手はことを」と市井に猛反撥したが、よくよく冷静になって考えてみると、市井の提案が、お藤にとって最も良いことのような気がしてきたらしい。あとはお藤から目を離さず見守るだけだと、涙ながらに兵蔵に語ったのは三日前のことである。


 「お藤、良く帰ってきたね。おおーよしよし」


 兵蔵とお藤が橋を渡ったところで祖母はお藤の両手を取り、そう冷たくもない手を温めるように掌に入れた。お藤は下駄の先を見つめるように、顎を襟の中に深く埋めてうつむいている。


「ささ、婆に顔を見せておくれ」


 祖母はそうやって向かい会って立っていると、お藤の胸の位置に顔があるので、上を向けばお藤の顔は見えそうなものなのだが、祖母はなぜかそう言うと、手を後ろに廻して、腰をぐぐぐと伸ばした。殆ど垂直に伸びた。意外と背が高く、お藤の背丈と殆ど変わらないことに兵蔵はぎょっとした。祖母はお藤の顔を両手で上げた。お藤は暗闇にも分かるような蒼白い顔をしていたが、もう涙は流していなかった。


「良かった良かった。器量良しは泣いても器量良しだ。なあ兵蔵さん」

「ええ、お藤ちゃんは別品さんです」

「ほれ、今の言葉を聞いたかい?別品さだってよ」

「………」


 お藤は黙っていたが、唇の端がはにかんだ。


「兵蔵さん、お藤はわっちに似てるかね?」わっちというのは、祖母の口癖で自分をさしている。

「はい、とても」

「聞いたかお藤。婆に似てるとよ。どういう意味か分かるかい?」

「………」


 お藤はかすかだが首を捻った。


「婆が別品さんだから、お藤が別品だということじゃ。ひゃひゃひゃひゃ……」


 祖母は腰に手を当てて、仰向けに仰け反って笑ったので、兵蔵は驚愕を隠せなかった。それまで前のめりの祖母の姿しか見ていなかったので、後ろに反ったことが魔法のような気がしたのだ。良く見ると、前歯の四本以外は抜け落ちて空洞のようになっていた。突如冷たい風が吹き上げてきて、兵蔵は身震いした。お藤も寒さを感じたのか、長く細い首筋を撫でた。


「寒くなってきたわ。中へ入りましょうよ」


 それまで鳥居の前で傍観していた富子が寄って来た。泣いて寒いらしく、袖の中に両腕を入れて先だって歩いて行った。近くで見た時、焦燥と疲労とが交じりあった顔をしていたのがやるせなかった。


 富子は歩く速度の速い人で、兵蔵らが鳥居を潜る時、既に富子の姿は闇と同化して、下駄が玉砂利を蹴る音しか聞こえない。普段、涼しく鳴る虫の音さえも不気味なようで、真っ暗な境内の奥は得体の知れない何かに覆われて暗い。夜の境内は、少々の落ち度も赦さない厳格すぎる神に支配されているような、そんな錯覚さえ起こしそうだった。


 兵蔵は心で誓った。「日が落ちて、ここを訪ねるのは二度とやめにしよう」稲荷社は兵蔵にとって、それほど怖ろしい場所であった。


 翌朝のことである。富子が血相を変えて、本所松坂町の兵蔵の裏店にやってきた。訪いも入れずに板戸を蹴破るようにして開けると、髪を振り乱し滑り込んできた。


「兵蔵さん、お藤が見あたらないんだよ」


 朝餉を食べる兵蔵の箱膳を、手荒に脇に寄せて顔を近づけてきた。


「そっそれは、もしかして………」

「行ったさ、市井の家には行ったよ。でもいないんだよ。お紺さんとかいう人が………」


 富子は悔しそうに舌打ちし、


「冷たい人だねあの人。女房面でさあ、あらっ、お藤ちゃんは、もう市井とは関係のない人ですから、ここへは来ないと思いますよ、なんて言うんだよ、蹴っ飛ばしてやろうかと思ったよ」

「ああ、それはですな………」

「だからさあ、蹴りはしなかったけどね」


 相当、腹が立ったらしく、富子は兵蔵の言葉を遮っただけではなく、胸元に掴み掛かる勢いで言った。


「悔しいから殴ってやった!」

「………」


 お藤の気性の激しさは、なるほど三代続いているのだと、変に納得しながら兵蔵は立ち上がり帯刀した。


「それじゃあお藤ちゃんを探しに行きましょう」


 と冷静に言った。富子はぽかんと口を開け見上げていたが、兵蔵に「お富さん」と再度呼ばれると我に返ったようにうなずいた。


 昨夜、兵蔵はお藤を送り届けるとすぐに帰宅したので、その後の、家族の経緯は知らないが、富子は余り睡眠を取っていないのだろう。憔悴が、目と頬に色濃く出ていた。兵蔵は、こんなにも母親を心配させるお藤に怒りさえ覚えた。


 富子は深川から駕籠で来たらしい。自分が探すので、家に戻って待っていて欲しいと兵蔵が説得し、無理矢理のように、待たせておいた駕籠に乗せたのだが、その前に簡単に、昨夜のお藤の様子を聞いておいた。


 お藤は用意された食事にも手を付けず、すぐに自室に引っ込んだらしい。心配なので、富子も同じ部屋で横になった。しかしお藤が寝返りを打つたびに目覚めていたので熟睡できなかったと愚痴っぽく言っていた。


 今朝は朝日が昇る前にお藤は起きだし、嫁ぐ前にしていたように、身体を清め、巫女装束に着替えて、まだ青白い空の下で、境内の掃除していたという。昨夜とはうって変わって元気そうで、笑顔まで見せて、くるくる働いていたので、富子はほっとしていたが、気付くとお藤の姿は神社から消えていた。


「危ない」話を聞いて兵蔵は不安にかられた。お藤の明るさは、この世の未練を断ち切ったからではと憶測した。徒歩で小名木川まで、注意深く目を配りながら歩き、ふと河瀬に目をやった時、烈しい水の流れの中に裸体で揺れるお藤の亡骸を想像した。厭な想像は、首を振って振り払い、兵蔵はお藤が選んで歩きそうな道を通った。


 富子によると、お藤は巫女装束姿である。目立つはずである。町中の、ありとあらゆる朱に目が惹きつけられた。ある時など、道の辺で佇む、寝起き姿の遊女まで覗き込んだが、髪を垂らした彼女は、下着に朱の湯巻きを巻きつけてるだけであった。二日酔いなのか、凄い目で睨まれた。


 昼の鐘を聞いた。焦燥が、兵蔵の胸を支配し始めている。お藤の行動範囲など、たかが知れていると軽く考えていたのに、本所、深川をくまなく探しても、お藤の消息は愚か、気配すら掴めなかった。


 神社に一度、戻ろうかとも考えた。今頃、箒を持ったお藤が、けろっとした顔で境内を掃除しているかも知れない。


 しかし、その前に、市井の家に寄って、お藤が立ち寄っていないか、外からでもいいから窺ってみようかと考えた。家の中に入るのは躊躇われた。


 黒江町の堀割まで来ると、物が烈しく割れる音が聞こえてきたのでどきりとした。最初、どこかの長屋で夫婦喧嘩でも始まったのかとも思ったが、それにしても怒鳴りあいの声が聞こえて来ない。妙に静かなことが厭な想像をさせた。何かが凄まじい勢いで倒れる音が聞こえると、兵蔵は刀を押さえて駆け出していた。


「お藤ちゃん」


 玄関の戸は開け放たれていた。兵蔵は駆け込むやいなや、そう叫んでいた。お藤の姿はどこにも見えないが、台所や茶の間は、台風が吹き荒れたような惨状であった。


 二階の梯子を駆け上がると、廊下の奥でお紺がうずくまっていた。膝と頭を抱えて震えている。おゆうと、広太郎の姿は見えない。市井は書室であろう。兵蔵は書室を睨むようにして向いた。


「裏切り者………」


 蚊の鳴くような小さな声である。兵蔵は全身の力が奪われ、身の毛がよだった。両目をきつく瞑り、唇を噛みしめてうなずくと、一歩、一歩、慎重に歩を進め、倒れた襖の前に立った。


「お藤ちゃん………」


 想像していた通りの光景がそこにはあった。部屋は荒らし放題に荒らされて、お藤が大切にしていた読本が無残にも引き裂かれ、紙吹雪のように散り散りになっている。


 お藤は部屋の真ん中で立ち竦んでいた。肩で大きく息をしている。白い小袖の胸の辺りは墨で染められ、一瞬すると染め抜きのようにも思われたが、窓際の箪笥が倒れていたので、その時に飛び散った墨だと分かった。すべては、お藤がしたことに違いない。もの凄い力だと、兵蔵は場違いだと思いながらも感心した。


 幸いだったのは、血の痕のないことだ。市井は割としっかりした目でお藤を真っ直ぐ見上げている。搔巻は部屋の隅に投げ遣られていたが、敷き布団や、市井の着物に乱れがないところを見ると、お藤は市井に危害を加えていないということだろう。


 なぎ倒された家具も、書物も、市井の傍を避けるようにして転がっていた。


「この人、あたしの看病は受けないというんですよ兵蔵さん」


 お藤は市井を見たまま言った。低く、暗い声が兵蔵の胸を打った。


「恥ずかしいって言うんですよ」


 そう言うと、お藤は膝から崩れた。市井は見守るようにして、窓外を向いたお藤を見ていた。手を差し伸べたが、すぐにその手を下ろした。


「無様な姿を見せたくないんですって。情けないったらありゃしない」

「お藤ちゃん、それはね」


 兵蔵の言葉を、市井が無言で遮った。兵蔵に向き直り、お藤に悟られないように小さく首を振っている。


「十一年ですよ、十一年。連れ添ってきた意味がないじゃないの。あのお紺には看病させて、女房のあたしには、病で醜くなった姿を見せたくないって言うんですからね。この人、昔からそうなの。背中を流してあげると言ってもいやだと断るし、いつもいつも、あたしに素の姿を見せようとはしないんだもの。あたしはこんなに素顔で接しているっていうのにね。いやになっちゃう………」


 顔を背けられているのではっきりは分からないが、お藤が笑っているように見えた。はーっと大きな溜息をつくと、頬に掛かった前髪を指に挟んで撫で始めた。


「こんなに滅茶苦茶にしては駄目じゃないか」

 兵蔵がやさしく叱ると、お藤はふふっと意味深に笑った。そうねと小さく言った。

「お母さんが心配して、俺の家まで来たんぞ」

「………そう」

「ここにもいらっしゃいましたよ」


 不意に声がして振り向くと、お紺が部屋の敷居越しに立っていた。お藤の幾分やわらかくなった態度が急激に硬くなり、殺気を含んだ目をお紺に向けた。


「貴方は、暫くの間、御自分の家に戻るわけには行きませんか?」


 お紺の存在が、お藤を狂気な女に変えているのは明白で、このままでは血を見ると兵蔵は怖ろしかった。お紺は廊下に正座すると、黙って市井を見た。市井もお紺を見ている。


ーこれはいけない。


 兵蔵は焦った。今のお藤は尋常ではない。ここで、市井が一言でもお紺を庇うようなことを言えば、お藤は何をするか分からないのだ。兵蔵は市井とお紺との間に壁を作るように移動し、二人の間に座った。身体はお紺の方を向いている。


「お藤ちゃんは先生の妻です。仮にも妻の前で、何ですかその態度は。貴方のそういった姿勢が、お藤ちゃんの悋気を呷っていると気付かないのですか?」


「兵蔵さん、誤解されては困りますよ。あたしは先生に望まれてこの家に手伝いに来たんです。妻だかなんだか知らないけど、お藤ちゃんは元から押し掛け女房同然にこの家に入り込み、若い身体を使って先生を誘惑し、女房の座に落ち着いたんじゃないか。先生はね、ずっと苦しんで来られたんですよ。いつもこう言っていた。気が付けば孫ほど年の違う女に惚れていた。いつ気が変わるか分からない娘の心変わりを恐れ、娘に好かれるために、必死で若作りしてきたけれど病気になってはそれも限界。そう言ってらしたわ。背中を流させないのだって、老いを見られるのが怖かったんだと、あたしは思いますけどね。そんな先生の気持にも気付かす、女房気取りとは笑い話にもなりゃしない」


 ふんと、お紺は唇の端を舐めた。富子か、お藤のどちらかに張られた時にできた傷だろう。唇が切れ、点々とした血痕が、矢絣の胸についていた。「お紺も災難だ」と、兵蔵に、同情の気持が動いた。


「可愛いだけじゃね、女房なんて務まらないんだ」


 そこまで言うと、市井がもう止めなさいとお紺を嗜めたがお紺は口を閉じようとはしなかった。


「お藤ちゃん、この際だから言わせて貰いますけどね」


 お紺は兵蔵の膝を片手で押すようにして、お藤と視線を合わせようとした。兵蔵が来たことで、安心したのだろう。さっきまで廊下の隅で震えていた女とは到底、思えない堂々とした態度である。お藤も膝を向け、目を細めるようにしてお紺を睨んだ。蒼白くやつれた顔が狐に憑かれているように妖艶で魅惑的である。神社を出る前に化粧をしたのか、唇は、人を噛んだように真赤だ。両手で、襠の股の辺りを握り込んでいる姿に、お藤の、お紺への強い憎悪が感じられる。


「あたしは、この人の女房だと思ってるんですよ」

「何を言い出すんだあんたは」


 兵蔵が驚きの声を上げたが、意外にもお藤は黙殺した。目だけはしっかりお紺を捉えている。


「元もと、あたしたちは夫婦同然に暮らした過去がありましてね、あたしと一緒だと、先生は心が安らぐと言うんですよ。この言葉は女冥利に尽きる。いくら若くてかわいい女房でも、安らげないんじゃあ、一緒にいて息が詰まるだけじゃないか」

「よしなさい」


 市井は言うと咳き込んだ。素早くお紺が立って行って、市井の背を擦り、身体をゆっくり倒してやっている。脂汗が額に浮かび、かなり苦しそうだ。気を抜かれたような顔で、市井とお紺を見ているお藤に対し、市井は手を振って、帰れと言っている。このままではお藤があまりに不憫だ。


「お藤ちゃん行こうか?」


 兵蔵は膝立ちになって、お藤の肩を両手で抱いた。お藤がうなずいたので、手に力を入れて立たせ、市井らに一礼して部屋を出た。部屋を出たところで、お藤の膝ががくりと抜けて座りそうになったが、兵蔵が腰に片腕を回して支え、慎重に梯子を下りた。


「めちゃめちゃね」


 土間に下り立ち、茶の間に振り返りお藤が言った。


「めちゃくちゃ?ああ、家の中か、そうだな。でもお藤ちゃんの気持が少しでも軽くなるんなら、この位いいだろう」


 兵蔵の言葉に、お藤は声を立てずに笑った。


 外へ出ると、風の冷たさを肌に感じた。冬が、秋の風情を待たずにやってきたような寒さであった。このように、季節を二つほど飛び越えられれば、今のお藤の痛みがどんなに楽になるだろうと兵蔵は悲しかった。








つづく

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