懐古ー(信じられない!夫の裏切り)
「もう帰ったら」
お藤の言葉に、兵蔵は驚いたように振り向いた。振り向いてすぐ、時を確かめる風に、窓外に目をやった。
陽はとうに傾き始めていた。いまだ青い空に、目映いばかりの光りが、地上へと向かって輝く帯を放出している。その廻りを夕焼け雲が、黄昏色の町に一層の、しかし物悲しい彩りを添えていた。頬を撫でる秋の訪れが、道行く人々を感傷に浸らせているかのように見えた。皆一様に、去りゆく夏の名残を探したが、浮かれた、天からのご褒美の季節はもう終わりなのだと顔をひきしめている。これから迎える、長く厳しい季節への心構えをしているようでもある。渡り鳥が、朱と青の間を並行して飛んでいた。
「いや、なぜ?」
兵蔵は上体を起こしてそう言った。
「全く、お昼を食べて、客間の整理もほどほどに、いびきを掻いて寝ていたくせに、いい気なもんね」
寝汗で、襟がべったりと濡れている兵蔵に、冷たく冷やした手拭いを渡しながらお藤は眉をしかめた。
「掃除も、もう全て済んだのよ」
「もう………?あっいや、すまん」
兵蔵が袖脱ぎになったので、お藤は急いで立ったが、兵蔵に袖を掴まれた。
「何かしら?」
わざと冷たく振り向くと、兵蔵は気圧されたように、あっ、いや………と言って、袖を離し、手拭いで首筋の汗を拭ったが罰が悪そうだ。お藤の目を見ることができないでいる。
「兵蔵さん、もういいからね。本当よ。手伝ってくれてありがとう」
お藤は座り直してそう言った。掴まれた方の袖を、汚れでもついてないかしらとでも言いたそうな顔でひらひらと翻して眺めている。兵蔵は気にしてない顔で素肌を拭いていた。夕日に染まった兵蔵の若い肌は、艶ややかであった。一旦、目を上げたお藤はまたうつむいて袖で遊んだ。
「もう、いいって。良かないだろう………いい訳なんてないんだよ」
「………」
兵蔵の声が、いつもの調子とは違って聞こえた。武士のくせに頼りないと、幼い頃から兵蔵の背中を叩いて過ごしてきたが、この十数年で数回だけ、兵蔵のことを頼りに思った時期がある。袖の柄を眺めるふりをして、お藤は兵蔵との切ない日々を思い返していた。
市井が労咳と診断されたのは、お伊勢参りから戻ってすぐのことである。当初は倦怠感を訴える程度のもので、生活にも支障をきたさなかったが、病魔は市井の身体をゆっくりとした速度ではあったが、着実に蝕んでいるように見えた。起きているのが次第に辛くなり始めると、市井は書室に夜具を敷いて寝た。遣る気が出れば、机に向かい筆を取り、苦しくなれば横になるといった生活を送っていた。
労咳と診断されて三年ほどがすぎたころ、郷里から、市井の一人娘が、夫と、まだ四つになったばかりの孫を連れて江戸へやってきた。市井の病が重いので、一度、孫を見せに来てくれないかといった旨の手紙を、お藤がしたため、再三に渡って出していたのだ。
寒い季節や梅雨を避け、春の訪れと共に国元を出たので、思っていたよりも愉しい旅だったと市井の娘、おゆうは言ってけらけらと笑った。
おゆうには、市井に内緒で旅費を送っていた。節約家の市井であるが、まさか娘夫婦と孫の旅費を支払うことに愚痴を言うとは思えない。しかし市井には秘密でおゆうらを呼んだ。あっと驚かせたいという悪戯心が動いた。金は実家からこっそり貰った。この事実を市井が知ったら、どんなに落胆するだろうかと内心びくびくしていた。
おゆうとの文の遣り取りは、市井と所帯を持った当初から続いていたが、実際におゆうと会ったのは今回が初めてである。おゆうは少し小肥りの、肌のきめ細かい女であった。昼過ぎ、日本橋まで迎えに出たお藤を目聡く見つけて、背後から、わっと抱きつかれたのには仰天したが、三十も半ばのおゆうの屈託のない笑顔を見て、この人とは仲良くなれるとお藤は直観したのである。
「良く分かりましたね?」
驚かされて、お藤は胸を押さえてそう言った。
「だって、黄八丈に、犬を連れている女の人なんて、他にいないじゃない」
日本橋で待つお藤の目印として、文に特徴を書いておいた。犬は最近、実家で飼い始めた野良犬で、この日だけ拝借した白の中型犬である。母の富子や祖母は、「お藤がいなくて寂しい。お前の変わりだよ。この犬は文句を言わないからもっとかわいい」などと、失礼なことを言ったが、犬は人懐こく、肥り気味で、寧ろおゆうに似ているように思われた。
犬を繋ぐ紐を四歳の孫広太郎に持たせ、広小路を気の済むまで散歩をさせてから、待たせてあった駕籠に乗って、門前仲町の家に向かった。駕籠は全員分で四丁必用だった。痛い出費である。
犬を乗せることは、手間を余分に支払うことで駕籠かきと話しをつけてある。犬はちゃっかりとしていて、出会ったばかりの広太郎の膝を選んで乗った。広太郎がいちばん操りやすいと考えたのであろう。日頃からずる賢いところのある犬である。長い舌を牙の間から出して目付きがいやらしい。
それは良いが、広太郎の方が、犬よりも小さいような気がした。壁際に押し潰されながらも、きゃっきゃっと愉快な笑い声を立てているのが微笑ましいようだ。
三百年ほど前の遠い昔、惚けかけのの太閤秀吉の醍醐の花見ではないが、一の駕籠にお藤、二の駕籠におゆう、三の駕籠に広太郎と犬のしろ、最後がおゆうの亭主という順である。
「お藤ちゃん、お藤ちゃんたら」
駕籠の前後で、身を乗り出してお藤に話しかけて来るほどおゆうは気さくであった。とは言っても聞き取りづらい。何度も聞き返すうちに、駕籠かきが気を遣い、最終的には並行して走ってくれた。お江戸八百八町、狭い江戸、飢餓があっても、火事が起きても、人口は減るどころか増える一方、怖ろしいほどだ。横並びの駕籠を見る道行く人の目付きが痛かった。
おゆうが最後に江戸に戻ったのは、おゆうが嫁いで六年ほどが経った時だったというから、市井とも十数年、会っていないことになる。しかしその当時なら、お藤が市井の元へ通い詰めているのと重なるので、どうして出会うことがなかったのか、互いに首をかしげた。
おゆうの夫、又兵衛は大人しい男で、おゆうに全栄養を奪われているのでは心配になってしまうほど、細くてひょろひょろっとした男だった。おゆうの父親市井と郷里が同じことで親近感。良くあることである。江戸生まれで、江戸から離れたことなど一度もなかったおゆうを娶り、津軽の実家の家業である下駄屋を継いだ。
おゆうは何か言う度に、この夫の背中を叩いて、けたけた笑う。そんな豪快にも見えるおゆうを見つめる又兵衛の目がやさしくて、お藤はついついうっとりと二人を見つめては、心の奥に澄む闇に眉をひそめた。市井の病が胸を衝いて、お藤に自由な喜びを与えない。
「お爺ちゃん、きっと驚くわよ」
玄関の軒下にしゃがんで、お藤はひそひそと広太郎に耳を近づけた。その時、お藤の声に気づいた市井の「遅いっ」という怒鳴り声が飛んだ。又兵衛が守るように広太郎を抱き上げた。おゆうと又兵衛は顔を見合わせ、お藤に大丈夫かと、目だけで聞いている。お藤は微笑し、静かにうなずいた。
寝込むことの多くなった市井はこの頃、見当違いの悋気を起こすようになった。朝、実家へ行くと嘘をついて家を出て、帰りが昼過ぎになってしまった。お藤が留守なことで不便さを感じた市井の思考が、在らぬ嫉妬へと向かわせたのだろう。お藤は又兵衛に両腕を出し、広太郎を抱き抱えると「修治さんごめんね」と言って表戸を開けた。
「何をしていた……なっ、うっ……」
土間の上がり框に仁王立ちになっていた市井は、喉に物でも詰まらせたような鈍い声を出した。玄関から見える茶の間から、兵蔵が顔を覗かせ、にやにやと笑っている。兵蔵には、おゆう夫婦が来ることを打ち明けていたし、留守の間の市井の世話を頼んでおいたので、互いに目で、軽く挨拶を交わした。お藤の背中越しから、おゆうが姿を見せた。強張る市井におとっちゃんと微笑えんだ。その背後で、玄関に入りきれなかった又兵衛が頭を下げた。市井に茶を出したばかりなのだろう。盆を小脇に抱えた兵蔵が立ってきておゆう夫婦に会釈をした。場違いな武家の存在に二人は一瞬、顔を見合わせ戸惑っていたが、武家が成長した兵蔵だと気付くと懐かしそうに会釈を返した。兵蔵は十年ほど前、おゆうの上の子の妊娠の際、市井と共に津軽を訪ねたことがる。その時の記憶を思い出したのだ。残念ながらその時の子は三歳で早世している。
「まっ、あがりなさい」
困惑から解き放された様子の市井は言った。
「そうね、そうしましょう」
市井の腕を掴むようにしてお藤が上がり、「はい、お爺ちゃんよ」と孫の広太郎を渡そうとした。だが市井は、うっと唸り、広太郎を一瞥すると、顔を背けて、一人さっさと茶の間に入ってしまった。
「照れているのよ、嬉しくて仕様がないのにね」
お藤がそう言って振り返ると、さっきまでけらけら笑っていたおゆうが泣いていた。再会の嬉しさもあろが、病でやせ細り、六七とは思えないほど老け込んだ父親の姿を見て堪らなくなったのだろう。小さな声で、「あたしは親不孝」だと、江戸から遠く離れた北国に暮らす自分を罵っているようだった。
娘と孫に会えたことが余程、嬉しかったのか、この頃の市井にしては珍しく二刻近くも茶の間に残り、みんなと語らった。
少し早めの夕餉は、兵蔵を交えた宴のようであった。おゆうが飲むので、お藤も久しぶりに酒を飲んだ。夕餉の席では「け」という言葉が飛び交った。「けっ」とおゆうが煮物を指さして言い、「けー」と広太郎がおみおつけを指して言う。また「けえ」と背中を掻きながら広太郎が言った。
おゆうが言うけっは食べなさい。広太郎が言うけーは、ちょうだい。そしてけえはかゆいである。お藤はこの奇妙な津軽弁にいちいち興奮し、そして真似た。
夕餉を終えた後、お藤の留守中、市井の面倒を見てくれていた兵蔵が帰宅した。お藤は玄関先ではなく、表の通りまで出て兵蔵に礼を言った。
「先生が気にするといけないから早く中へ入った方が良い」
「そう………そうね」
疑い深くなった市井を気にした兵蔵の言葉は素直に聞いた。兵蔵に再度、礼を言うと駆け足に近い足取りで家に戻った。兵蔵の懸念通り、市井は渋い顔で茶をすすっていた。
これ以上は身体に触るかから横になりましょうと言うお藤に対し、
「私を年寄り扱いして気に入らん」と駄々をこねたが、おゆうに叱られて、渋々二階に上がった。梯子を踏み外さぬよう、後ろから身体を支えるようにして一緒に上るお藤の背後におゆうが付き添っていたが、市井が夜具に入ったのを確かめると、安堵の笑みを浮かべて一階に下りて行った。
娘の足音が一階に辿り着いたのを首を上げて聞いていた市井は、早速、枕頭のお藤の膝や股を擦り出した。目を瞑った満足顔だが、少し寝ましょうねとお藤が市井の手を搔巻の上にやさしく置くと、ふんと鼻を鳴らして背中を向けた。
お藤は子供のようになってしまった市井が愛おしい。母親になったつもりで言い聞かすと台所で片付けものをした。おゆうが茶の間に残りの膳を取りに行き、一瞬ひとりになると、ふと、さっき帰ったばかりの兵蔵を思いだした。
お藤と市井が所帯を持ってから、ぷつりと縁が切れてしまったように思っていた兵蔵と、両国の水茶屋でばったり会ったのは一年前。なんと十年ぶりの再会であった。とっくに許嫁と結婚したと思っていた兵蔵はまだ独り身で、縁談話はとうの昔に破談になったと言った。そのことが直接の原因で、家からは勘当同然に追い出され、現在は、本所松坂町の裏店に住み、提灯作りで生計を立てる傍ら、開いた時間に文筆をしていると言っていた。
十年も経つと、兵蔵の気持にも余裕ができたようで、それからちょこちょこと市井の家に顔を出すようになったのだが、その頃から、市井の態度が異様になった。
「おとっちゃん、あんなに気難しい人じゃなかったような気がするんだけど」
一階の客間に夜具を敷き延べながらおゆうは言った。声には不安の色がある。
「いつの頃からだったかしら?」
お藤は夜具を、膝の上に抱え込んだ恰好で、眉をひそめ、片手で頬をつつく仕草をした。それを見たおゆうは先程とはうって変わった明るい声でくすくすと笑い出した。陽気な性質で、長く落ち込むことができないらしい。お藤も相当、気性の明るい女だが、おゆうはそれを超えていた。
「何が可笑しいの?」
お藤が首をかしげると、おゆうはごめんなさいと言って、今度は大声で笑い出した。その声があまりに大きいので、お藤は寝ている広太郎を気遣った。母親の騒々しさには馴れているのだろう。広太郎は部屋の隅に敷かれた夜具の中で、大きく手足を伸ばして身動きひとつしない。又兵衛に至っては、床に寝転び、行燈の下で熱心に、市井の著作を捲っている。
「ごめんなさいね。可笑しいことなんてないんだけど、お藤ちゃんの仕草があまりに幼いもんで、つい」
おゆうはお藤が頬をつついたことを言っている。
「あらっ、変ね。あたしはもう二七ですよ。立派な大年増。若くなんてありません」
お藤は年下だが、それでも一応は継母である。背筋を伸ばして、仰け反り気味に張った胸をぱんとたたいた。おゆうは目を瞑って両手を振り
「いやいや、まだまだ若いわ。現にあたしよりも十も若いじゃないのさ」
おゆうはお藤よりも、少なく見積もっても十五は年上の筈であるのだが、十に留めた。又兵衛が訝しげにおゆうを見てにやりと微笑んだ。おゆうは素知らぬ顔で話しを続けた。
「でもね、これからお藤ちゃんのこと、おっかさんて呼ぼうかしら」
「まあ、嬉しい」
お藤は両手の指先を胸の前でからめて、少々大袈裟すぎるほど腰を浮かせて喜んだ。
「そうそう、その態度が幼いのね」
おゆうは弾んだ声でそう言うと、お藤を真似て腰を浮かせて飛ぶような仕草をして見せた。
「そうか………それでね」不意におゆうは真顔になった。
「えっ?」
おゆうは四つん這いなると二歩ほど膝を寄せてきた。女二人の膝頭が殆どぶつかっている。
「だからよ。だからおとっちゃん、不安なんだわ」
「………?」
「おとっちゃんはあの通り、爺さんじゃない」
「そうかしら?」失礼ねと、お藤は心でつぶやいた。
「お藤ちゃんが若いもんだから、焼き餅焼いてるのよ」
あーっとお藤は言ったが、目は厳しくおゆうを凝視していた。市井と所帯を持ってかれこれ十一年が経つ。その間、一度だっておゆうは江戸の父親の様子を見に来たことがないじゃないか。いくら市井の実の娘といえども市井を惚けた老人扱いされることにお藤は苛立った。
「あの、兵蔵さん、お武家さんの」
おゆうが顔を寄せてきた。
「昔はまだ幼くてかわいいだけだったけど、今ではなかなかの男ぶりじゃない。あんな若い侍に家の中をうろうろされるだけで、自分と比較してしまうんじゃないのかしらね、おとっちゃん。老いを気にしていると思うわ、お藤ちゃんとの年の差もね」
「………」
お藤は言葉に詰まっていた。おゆうに指摘されたことに、軽い衝撃すら受けていた。迂闊だったと反省した。兵蔵はそんな市井の心の機微に気付いていたのだろうか。気付いていたからこそ、早く家に戻れと、家の外まで出て兵蔵を見送るお藤を追い返すようなことを言ったのかも知れない。
お藤は下を向いて唇を噛んだ。兵蔵とのことを、市井が気にしているなど、露ほども思わなかった。しかし言われてみて初めて真剣に考えてみると、思い当たる節が次々と浮かんできた。
兵蔵はお藤にとっては兄妹のような仲で、市井にとっても昔懐かしい弟子である筈だった。想像力豊かな市井がお藤と兵蔵を虚空の世界で結びつけ、四十も年の離れた兵蔵を恋敵にしているなど、思いも寄らないことである。勿論、お藤にとって市井は夫であり、兵蔵は昔馴染みでしかない。
「そんな………」
お藤は額を片手で押さえながら首を振った。おゆうの言葉が真実だとしたら、とんでもないことだと思った。知らず知らずに市井を傷付けていたことに、お藤自身も傷ついた。
「えっ、でもそんなに考え込まないで、ただの戯れ言なんだからさ」
おゆうが慌てたので、お藤は笑顔を作ってうなずいた。単純なおゆうは安心したようである。夜具を敷き終えたときには、元の元気を取り戻していた。闊達な良い性格だと、おゆうを本心から感心していると、
「お藤い、お藤はいるかい?」
と二階から市井の声がする。幼い子が母親を探しているような、悲しい響きを含んだ声であった。おゆうは父親の切なさにうつむいてしまった。おゆうもお藤と同じ様に、市井の焦燥を感じたのだろう。お藤は「はーい」と長めの返事をし、おゆうの手の甲をたたいて微笑んだ。
「あたしはね、修治さんが全てなんですよ、本当に。信じて頂戴よ」
「ありがとう」
有り難いものでも拝むようにお藤を見つめるおゆうの目には、今にも溢れ出しそうな大粒の涙が溜まっていた。
その夜、お藤は久しぶりに市井と同じ床で寝た。室内は、昼間の暑さを残していて、夜中でも快適ではなかったけど、市井に忍び寄る死の影に怯え、一人鬱屈に悶え、寝苦しい夜を送るよりもましだとお藤は思った。市井の苦悩も取り除いてあげたかった。
「暑い」と言って搔巻を外し、背中を向けて眠る市井の帯を掴むようにしていた。何かの加減で市井の寝息が途切れるたび揺り起こすお藤を、市井は迷惑そうに振り返った。
市井の体調の良い翌る日のこと、五人は富岡八幡宮まで散歩に出掛けた。季候通り、程よく照り付ける日差しの下を広太郎が元気に駆け回る。その広太郎をお藤が追い、歩く速度の、比較的ゆっくりな市井にはおゆうと又兵衛が付き添った。
小走りの広太郎が転ばぬよう、陰のように寄り添いながら片手を伸ばしてお藤は追い掛けた。たまに掴まえて抱き上げては後ろを振り向き、遠く、豆粒のように見える市井を探すという行動を繰り返している。腕の中で魚のように暴れる広太郎に手を焼きながら、こちらに向かって歩いて来る市井の姿を眺めていると、市井に寄生する病が消えてしまったような気さえした。すると、解釈のしがたい涙が滲んできた。
「おばあちゃん」
広太郎が泣き顔のお藤を心配した。心細い声を出した。お藤は洟をすすり、
「おばあちゃんじゃないでしょう、お姉ちゃん」
「でもおばあちゃん」
広太郎は笑った。おばちゃんと呼ばれとお藤はふざけて怒り、眉間にしわ寄せて額をふっつける。その態度が子供には面白いらしい。丸顔に喜色を浮かべた、母親譲りの明るさでけらけら笑った。
「おじいのお嫁さんでしょう?だからおばあちゃん」
広太郎が首をかしげてお藤の唇をつついた。
「そうよ。おじいちゃんのお嫁さん」
お藤は広太郎の頬に口をつけた。広太郎は悪気なく頬を拭った。お藤が顔を横向け、頬を差して同じ事を要求すると、広太郎は照れたように唇を噛んだが、意を決したように息を吸い込むと、ぶつかるように唇を押しつけてきた。
「おいおい、広太郎」
すぐ傍まで来ていた市井が目を細めて広太郎の背を擦った。すると広太郎は身体を翻し、市井ではなく、母親の方に腕を伸ばした。広太郎を手渡すと、お藤の心に隙間ができた。どんなに可愛がっても、母親がいいのだと、至極当然のことに心が痛かった。我が子を胸に抱けない女の卑しさなのだろうかと唇を歪めた。
市井はその寂しいような、お藤の眼元を見逃さなかった。お藤を促すように、背を押して歩き出すと、私はお前と添えて良かったよと、耳元でつぶやいた。
「もう、これからが無い様な言い方ね」
お藤は笑って市井の肘をつついた。「お前と添えて良かったよ」これは市井の、ここ何年かの口癖である。お藤はこの言葉を言われる度に、なぜか腹が立つようだ。しかし遣り切れない思いを口に出したり、態度で表現するようなことはなかった。消えゆこうとする命の儚さに、市井も怯えているのだと分かるからだ。
昨夜、市井の夜具に潜り込んだお藤は、背中を向けて眠る市井におゆうの疑念を聞いてみた。
「馬鹿な」
市井は珍しく声を立てて笑った。
「全く女というもは、余計なことを考える。兵蔵のことで、お前に嫉妬をする訳がないだろう。大体ね、私は嫉妬などしたことはないんだよ」
「でも、いつもあたしが外へ出ると機嫌が悪くなるじゃないの」
「それはお前を心配してのことだよ。もういいから早く寝なさい」
市井は後ろ手でお藤の腰の辺りをたたくと、おやすみと言って目を閉じたのであった。お藤はそんなこともふと思い出した。
ーやはり気にしすぎよね。
八幡様の境内を走り廻る広太郎を追い掛けながら、お藤は昨夜のことを考え眉根を寄せた。こうして幼い子供と遊んでいても、突然に正気に戻り暗雲が胸を支配する。いやだいやだと首を振っても、市井をこの世から失う日が刻々と近づいて来ているようで、気が違いそうになる。
「さあ、掴まえるぞ」
振り向いて、ケケと笑う広太郎を正面から抱き上げて、市井らが待つ水茶屋まで連れて行った。市井らは餅菓子を頬張っていた。喉につかえやしないかと、ふだん餅菓子は禁止しているので、お藤の居ぬ間に、これ幸いと市井が注文したのだろう。そっちがその気ならと、お藤は少々意地悪なことを思い付いた。
「広太郎、さあ、修治ぃの元へおゆき」
市井は茶をすする手を膝に置いてお藤を見た。お藤はにやにやとしている。
「ほら、修治ぃだよ」
「しゅうじい?」
人差し指を口に突っ込んだ広太郎が不思議そうな目でお藤と市井を見比べた。餅菓子を頬に猿のように溜め込んだおゆうは笑いを抑えきれないようだ。顔を仰向けて胸を拳で叩いている。
「そうよ、お爺ちゃんの名は、修治というのよ覚えてね。だから修治ぃよ、修治ぃ」
「なんで語尾を伸ばすかねお前は」
市井は不服そうな声で嗜め、お藤に膝を向けた。お藤は市井の気色を窺いながらもまた修治ぃと繰り返した。
「修治であって、しゅうじいではないんだよ、お藤さん」
市井もわざと他人行儀な言い方で反発した。
「まあまあ、いいじゃないのおとっちゃん。おとっちゃんは広太郎の爺さんなんだから、修治ぃで」
「うっ………」
市井が苦虫を噛み潰した顔で唸ったので、お藤は不憫になり、隣りに座って市井の膝に手を置いた。市井は別に、お爺ちゃんと呼ばれる事を拒んでいる訳ではない。ただ、お藤に「爺」と呼ばれるのが、とてつもなく厭らしいのだ。今回も、娘たちの意識が他を向いている時を見計らって、「お前は私をお爺ちゃんていうんじゃないよ」と念を押していた。そこをお藤はつついたのだ。少し悪戯の度がすぎたとお藤は反省をした。
「ごめんね」
「ううん、いや、いいんだ」
お藤の声に合わせて、市井も低い声でうなずいた。
三日だけの滞在で、おゆうの夫又兵衛は帰国した。又兵衛の田舎の両親は健在である。二人共五十代前半で若者のように良く働く。ゆっくりしておいでと快く送り出してはくれたが、店を継いだ以上、又兵衛には責任がある。「秋には迎えに来るから」と愛妻を名残惜しそうに見つめ、帰って行った。
「女房がそう長く家を空けるものではない、お前も一緒に帰りなさい」
市井は居残りを決めたおゆうを説得したが、おゆうは頑として聞き入れなかった。市井の命の灯が、そう長くないことは医者でなくとも容易に判断できるし、もって一年だろうと医者も診断している。おゆうは帰ることを拒んで、二階の寝間を、市井の許可なしで広太郎と占領した。お藤は鼻歌交じり。市井と自分の荷物を書室に運んだ。
おゆうが家に残ってくれたことはお藤にとっても励みになった。時に沈みそうになる気分を、底抜けに明るいおゆうや、幼い広太郎の存在で救われた。お藤は以前よりも明るさを取り戻し、一人、廊下の隅で泣くということも、必然と無くなっていた。
おゆうが来て、二ヶ月ほどがすぎた日の夜のこと。お藤は市井の背中にぴたりと寄り添っていた。目は開いている。真夏の寝苦しさも幾分か癒えた頃で、秋の匂いが、開け放した窓から吹き込んでくる風に含まれていた。
「どうした?」
市井は振り向かずに言った。お藤は答えず、細帯を解いて胸をさらした。小ぶりだが、子供を産んでない分、形の良い乳房を保っている。そう、市井が褒めてくれると、お藤は頬を赤らめ顔を市井の首にうずめる。褥での市井の褒め言葉は、子を抱けない妻への、せめてもの慰めだとお藤は解釈していた。
「寂しいの?」
「寂しいのよ。ここずっと………でしょう?」
お藤の要求が分かったのだろう。市井は困ったような声でうなずいた。
「こっち向いてくれる」
お藤が市井の肩を軽くゆすると、市井はゆっくり仰向けになった。いつもよりも大きく見える黄色の月の明かりが窓から射し込み、それだけで妖艶な雰囲気を室内に演出しているようだ。なのに市井は天上を物憂げに見つめるだけで、お藤の方を見ようとはしない。
「随分とご無沙汰で」お藤は軽口をたたくような、ふざけた口調で言った。恥ずかしかった。
「うん」
「あたし、やっぱり諦めきれないのよ、………赤ちゃん」
「うん」
「どんなことしたらいいかしら赤ちゃん欲しいんだけど、何をしたら授かるの………教えてくれない?」
お藤はくすくす笑った。別に可笑しくもないが、笑わなければ、こんな言葉を言えやしない。
「………」
市井は答えずに、変わりに黙り込んだ。上体を起こしたお藤が市井にかぶさろうとすると、
「すまん」
市井は言うと、今度は素早く背中を向けて、顎を胸に付けるようにして丸まった。お藤は襟を掻き合わせ、「わがまま言ってごめんね」と細くなった市井の身体を背後から抱き締めた。
その夜から数えて五日目、市井は激しい喀血を何度も繰り返した。丁度、見舞いに来た兵蔵が、医者の元へと走ってくれた。兵蔵は、年老いた医者を背負うようにして連れてきた。しかし医者は首を横に振るだけで、これ以上、手の施しようがないと匙を投げた。年は越せないだろうから覚悟をしておくように言い残した医者を見送ると、お藤は軒先で茫然と立ち竦んだ。年が越せないという言葉に、お前と一緒になれて良かったという市井の口癖が、頭を反芻して離れない。
どれほどの時間そうしていたのだろう。医者を送り届けた兵蔵が戻って来て、ようやくお藤は家の中に戻った。
病床に伏す市井にはお藤が付き添い、おゆうは家のことをこなしてくれた。秋も深まった頃になると、お紺がひょっこり現れた。市井の襟を寛げて、身体を拭いてたお藤がぽかんとお紺を見上げると、お紺は「先生に呼ばれたの」と言って、市井の枕頭に膝を折った。
ーなぜ今頃?
お藤の言葉は声に出ない。疑念を胸に抱くようにしてお紺を見ていた。お紺とは十年も、顔を合わせていない。まだ労咳を発症する以前の市井は、版元の店でお紺と会っていたようだが、それにしてもここ数年は、一人で外出などしたことはなく、お紺とも疎遠になっていると思われた。
お藤の疑惑の矛先は、夫の実家の赦しを得て、未だ江戸に残るおゆうに注がれた。おゆうはそわそわと落ち着かず、「広太郎!」と自室の方に呼び掛けると、足早に部屋を出て行ってしまった。
「お久しぶり」
お紺は市井とお藤の二人を交互に見てそう言った。澄ました声だった。寒がりなので季節外れの筒袖の半纏を着ていた。市井は良く来たねと言い、自分で、乱れた襟を掻き合わせた。
「老けたな」
「あら、あなたも随分とお爺ちゃんになっちゃって」
二人は顔を見合わせて、何か目だけで会話をするように見つめ合うと、口の端で笑った。市井の言う通り、十数年の歳月は、お紺の身体から若さを奪い、老いだけが目立って見えた。髪にも白いものが交じっている。しかし元来持ち合わせた色気は健在なようで、眩しいほどにきらめくお藤を前にしても、後込みする様子は見られなかった。お紺のそのような態度と自信のようなものがお藤を余計、不安にさせた。
「お見舞いに来て下さったのですか?それとも夫に何か頼まれ事でも?でも夫はもう何も書いてませんのよ。もう筆は折ったようなものですの。おあいにく様」
お藤は自分でも驚くほどの言葉を吐いていた。口を開いただけで、あとは勝手に言葉がついて出た。市井が「これこれ」と嗜めると、お紺は、「いいのよ、相変わらずね」と、小さくだが、反発を見せた。
「もういいでしょう。夫はもう休みますので、帰って下さいな」
「いいえ、そうはいきません!」
お紺の答え方にお藤は動揺した。自分の知らない間に、何らかの事態が動いているような気がした。血が逆流して脳を圧迫するような、恐怖に似た感覚に襲われた。気持を少しでも落ち着けようと、暮色を濃くした窓外に目をやる。すると今度は怒りがわいてきた。お紺をきつく睨んだ、そのままの視線を市井に投げた。
「この人、何を言っているの?」
「あのなお藤。実はお前に話したいことがあるんだよ、それでお紺に来て貰ったんだ」
「はなし……」
お藤は市井を凝視した。目を見開いて、わなわなと震える指先で市井の胸の上の辺りの搔巻を握った。
「お紺、少し外してくれないか」
市井に促され、お紺は万事了解したといった表情で立って行った。その顔に、女の誇りのようなものを見た。長く離れていた年月など、微塵も感じさせないほど、まるでこの家の女房のように堂々としていた。お藤の青ざめた顔は、お紺の去った方向を茫然と見つめてた。
「いろいろと考えたんだがね」
市井の声が遠くに聞こえている。上体を、ゆっくり起こしているのが眼の端に移ったが、お藤は手を差し伸べる気もしない。
「お藤、こっちを向きなさい」
「………」
お藤は黙って市井に向いた。西からの日差しが市井の顔半分を暖かく包み、市井の黒い瞳が薄い茶色に光って見えた。
「お前、子供が欲しいと言っていたね」
「………」
「私はね、もう長くはないんだよ。分かっているだろう?お前の期待に応える体力などもう残っていないんだ」
お藤は市井を見つめる目を伏せ、膝の上の指を弄んだ。口元にうっすらと笑みを浮かべている。最悪だと、心の中で何度もつぶやいた。
「お前はまだ若い。まだまだ子供だって授かることができる筈だ」
「ふふふ」
お藤は小さく声を出して笑った。市井は表情を変えずに続けた。
「はっきり言おう。ここらで、もう私との縁を切らないかね」
「ふん………」
お藤は鼻で笑い、市井の差し出した手を邪険に払った。
「私はね、死んだら前の女房と、そう死に別れた女房と、同じ墓に眠ろうと思ってるんだ」
お藤はさっと顔を上げ、問うような視線で市井を見た。市井は険しい顔をしている。
「これはね、死んだ女房との約束なんだよ。生前、そう約束したんだ」
「聞いてないわ、そんなこと」
「お前に、言わなかったことは悪いと思ってる。言えなかったんだ………だがね、私は。心からそうしたいと願ってるんだ」
「………なんなの」
お藤の目から大粒の涙が溢れ、頬を伝い、際限なく流れ続けた。市井は搔巻を払って敷き布団に正座をし、お藤の涙を拭ってやった。涙は市井の指の上にも流れ、止め処なかった。
「あたしはどうしたらいいの。どこのお墓に入ればいいのよ」
縋るようなお藤の言葉に市井は胸を殴られたように項垂れた。しかしすぐに顔を上げ、再び険しい目を向けた。
「さっき言っただろう。お前は、理解が悪い女ではない筈だ。皆まで私に言わせないでくれ」
「離縁をしたいと言うんでしょう?」
そうだと、市井はうなずいた。
「どうしてなの?あたし、子供なんて要らないって言ったじゃない。もういいんだって言ったでしょう」
「子供だけの話ではないんだよ」
市井は声を荒げ、咳き込んだが、咳はすぐに治まった。お藤は、背中をさする手を、そのまま市井の胴に廻して抱きついた。
「お前を寂しい寡婦にしたくない」
言った後、市井は訂正するように首を振った。
「これから先、私の病は悪くなる一方で、惨めな姿を晒すことになるだろう。そんな情けない姿をお前に見られたくはないんだよ」
「何を言っているのかわからない………」
お藤は泣きながら市井を揺らした。市井はお藤の腕をたたき、幼子に言い聞かせるような口調でこう言った。
「私はね、お前の前では恰好つけていたいんだ。死に損ないの年寄りが、何をふざけたことと笑われてもね。ただね、正直な話し、気が張ってしまってね、気持を落ち着けて病と向かい合えないんだよ。分かってくれ」
市井は頭を垂れた。
「恰好なんてつけなくてもいいのよ。修治さん、あたしたち夫婦じゃない………もう、これじゃあ何のために、いままで一緒にいたのか分からない………」
お藤の泣きながらの言葉は、もはや何を言っているのか聞き取れないほどであった。市井はお藤の膝を二三度擦ると突き放すように、
「気持の底の方が通い合わなくて、なにが夫婦だ。私はね、お前のママゴトに付き合ってきただけなんだよ」
言い放った時、「おとっちゃん」と、襖を押し開くようにしておゆうが入って来た。
「そんな言い方ってないんじゃないの。酷いよ」
「お前は黙っていなさい。これはね、私とお藤の話しなんだよ。口だしして欲しくないね」
「でも………」
おゆうが口籠もった時、階下でお紺の声がした。夕餉の仕度を初めましょうかねと、呑気なことを言っている。お藤は「あっ!」と言うと、愕然と項垂れて、市井から身体を離した。幽霊のように脱力して立ちあがった。足は畳を摺るようにして歩き、柱に手を掛けて市井を振り向いた。突然の衝撃と辛労で、一瞬のうちに目の下が青くくすみ、酷くやつれて見える。
「お紺さんと、一緒になるんですね?」
魂を奪われたような声をしていた。市井はいいや、と首を振ったが、一度咳払いをすると、「死に水を取って貰おうと思ってるんだよ、昔からそう決めていた」と、はっきりとした口調で言った。
「死に水………お紺さんに?意味が分からないわ」
お藤は不気味なように笑った。
「お藤ちゃん」
おゆうは呼び掛けると同時に立ってお藤の手を取ろうとしたが、お藤は静かに首を振り微笑した。
「気持が落ち着いたら、また来ますから。荷物はそのままにしておいて下さい。あっ、邪魔でしたら捨てて貰っても構いませんよ」
一礼して立ち去るお藤を市井は無言で見送ると、胡座を掻いた膝の上に肘を乗せて額を抱え込んだ。
「おとっちゃん、本当にあれでいいの、ねえ………」
おゆうは這うようにして市井に寄ると、外を気にした、ひそめた声で聞いた。顔は子供のような泣きべそを掻いている。
「いいんだよ。ああでも言わないと、あの子は私の菩提を弔って生きる道を選んでしまう。私は、あの子の人生をこのまま閉ざしたくないんだよ」
市井は自分を納得させるように、幾度も小さくうなずいた。
つづく