懐古ー(儚い人)
「兵蔵さん、眠ってしまったんだわ………」
市井が消えた家の一室、整理を一段落させた兵蔵が、一階の客間で昼寝をしていた。お藤は二階にいる。かなかな蝉の音に、うっとりと耳を傾けていた。凛とした川の流れのようであり、潔く儚く美しい。お藤は蝉時雨が好きであった。
お藤はこうしていると、床に伏せる市井の看病をしていた日々を思い出す。あの頃はまだ、市井の病状には起伏があり、血痰は見られなかった。元より、市井がお藤の前では気丈に振る舞い、血のついた手巾や手拭いなどは、ひっそりと隠していたので、市井の病気が悪化していることに、お藤が気付かなかっただけという見方もできる。最近になり、血で真っ赤に染まった布を納戸の奥から見つけたお藤は、両手で抱えるほどに堪った血の汚れ物を胸に抱いて号泣していた。
睡魔に頭を心地良く包まれ瞳を閉じた時、ふと、近所に住んでいた「奈津」とう名の友達のことを思い出した。そう遠くない過去の筈なのに、お奈津の顔は、輪郭がぼんやりと浮かんで来るだけで、はっきりとその容姿を思い出せないのが歯がゆい。
お奈津は門前仲町の裏店に、二人の妹と母の、三人で暮らしていた。お奈津の父親は以前、腕の良い鳴物職人だったと聞いているが、お藤がお奈津と知り合った頃には既に他界していたので、父親との面識はない。
お奈津とは、お藤が市井と所帯を持ったころに知り合った。お奈津に、着物の洗い張りを頼んだことが始まりである。お藤が十六の頃のことである。
それまで家のことの殆どを実家の母や祖母に任せていたお藤は台所や、針仕事などといった類のものとは、全く関わりのない風に過ごしてきたので、嫁いで半年もすると、垢汚れた着物が堪るばかりになった。山のような汚れものをどう処理をして良いものかとお藤は悩んだ。裕福な家庭で育ったお藤は古着なんていうものも着たことがないので、以前、母が付き添って世話をしてくれてたように、着物を新調しようとしても、一人で呉服店に入るのも心細く、また布地を買ったところで仕立て方が分からない。買い物に出掛けてみても、呉服屋の前まで行ってはみても、いつもしょんぼり二の足を踏む。
まさか、お紺に汚れものの処置の仕方を聞くのも口惜しく、だからと言って、市井に相談するのは憚られた。やはりこんな小娘を貰うのではなかったと思われるのがいやだった。実家の母や祖母に話せば、そら見たことか。と小言を言われるのが落ちだ。お藤は思案した。しかし悩んでいても汚れた着物は増えるばかり。いくら、下着や襦袢、半襟を洗ってみても、泥が跳ねたり、誇りや、汗で汚れた着物を着るのは気持が悪い。もう限界である。お藤は意を決して市井に尋ねた。
「修治さん、着物はどうやって洗いましょうかね?」
振り返った市井は、明らかに呆気に取られた顔付きになっていた。お藤はめげずにこう付け加えた。
「いろいろと頭をめぐらせてみたのですよ。でもね、分からないの」
まだ十六歳。小首をかしげれば市井の表情は緩む。と、思ったが甘かった。市井は、腕組みをし、顎をひいて奇怪なものでも見る目付きになっていた。
「どうりで……」
溜息交じりにつぶやいた市井は、大きく息を吸い込んだと思ったらまた大きく吐き出して、お奈津の店の場所を教えてくれたのであった。
お奈津という娘の家は、お藤の暮らす門前仲町からほど近い西念寺という寺と道を隔てた裏通りにあった。
その裏店の背後には武家屋敷の高い壁、両脇は他の裏長屋の板壁に囲まれていたので、息苦しさを感じる造りではあったが、お藤が訪ねた時刻が早かったこともあり、朝日が木々の梢を輝かせていたし、棒手振りや、おかみさんたちの忙しそうな声が賑やかで、そこに、手習所に通うには幼すぎる子供達の笑い声や、泣き声が交じると、人間の生きる力を見るような爽快な感じを受けた。そこは貧しさゆえの陰気な雰囲気など微塵もないような場所で、市井が日頃、裏店の女房衆のことを、「山の神」と呼ぶ理由が分かるようだった。当然、一見しただけで内情など計れないが、お藤は浮き足立った。
「ここからしら?」
仕立屋の看板を探すのにもそう手間取らなかった。お藤のか弱い力でも、指を突っ込めばすぐに割れそうな羽目板の壁に、風が吹いたら飛んで行ってしまいそうな板葺きの屋根ではあったが二階造り。お奈津の店と思われる家の横の路地には日光に向かって板が置かれ、そこに数枚の、洗い張りをしたばかりと思われる着物が貼り付けてあった。
「ごめんください」
訪いを入れると同時に表戸が開いたので、お藤は顔面に風を受けたように、瞬いた目を丸くした。
「あらっ」と言い、にこりと笑ったその人がお奈津であった。歳はお藤と同じ筈なのに、お奈津の方が少しお姉さんに見えたのは、お奈津の育った環境の厳しさのせいだろうか。お藤は一瞬で、お奈津を好きになった。
「たくさんなんですけど………あの、市井の」
「ああ、市井さん。先生のおうちの方ですね。はいはい」
両手いっぱいになるほどの大荷物を抱えたお藤の姿を眺めるようにして見たお奈津は、持っていた空の盥を上がり框に置いた。
「溜めましたね」微笑みながら洗濯物の入った風呂敷包みをお藤の腕から受け取った。
「ええ、お恥ずかしい」
「いえいえ」
お奈津は笑って手を振ると、上がり框の狭さにきょろきょろと目を走らせて、にこりとお藤に向かって微笑んだと思ったら、「窮屈なところで」と言いながら、後ろ向きで茶の間に身体をひっこめ、そこで膝を折り、台所の敷居に三指をついた。
「奈津でございます」
礼儀正しい人だとお藤は感心した。はて、二階家といえども狭小住宅。膝を折る場所が見当たらない。自分はどう対処すべきかじたばたと足踏みしていると、二人の遣り取りを聞いた、お奈津の母親だと思われる婦人が、茶の間の奥から顔を覗かせた。お奈津に良く似たきれいな女である。
「おっかさんなのよ」
お奈津のおっかさんも殊勝に頭を下げてお辞儀した。直後、十代前半の娘と、まだ五、六歳に見える娘二人も、姿を見せた。朝餉の最中だったのだろう。幼い娘の方の膨らんだ頬にご飯粒、手には箸が握られていた。皆、粗末な継ぎ接ぎの着物を着ていたが、一様に明るい気を醸し出していた。
「これこれ。すみませんね、妹なんですの」お奈津は後ろ手にしっしと手を振った。
「あらまあ可愛い」
「市井さんのお内儀様ですね、まあお若い」
茶の間から母親が立って来た。前垂れを外し、それを丸めて膝の下に押し入れると、また丁寧に一礼した。すぐに後ろを向いて、お藤の持参した汚れ物の入った風呂敷包みを解きだした。
「これで全てではないのですが、一度には持ってこれなかったもので………」
「お姉ちゃん」
汚れ物を見られる恥ずかしさで口籠もるお藤の着物の裾の合わせ目を、幼い方の妹がひっぱった。口はまだもぐもぐと動き、裾を引く方でない手には箸が握り込んだままだ。
「こらこらいけません」
お奈津が慌てたように妹を叱ったが、お藤は「いいのよ」と、屈んで視線を合わせた。間近で見ると、やさしい、丸い目をした女の子で、思わず頬がゆるんだ。
つい先日、お藤の妊娠が判明したばかりである。そのせいもあってか、お藤は幼い子や、赤ちゃんに殊更、興味がある。おかっぱの頭を撫で、膨らんだ頬をつついた。妹は目だけで笑った。
「かわいい。お幾つかしら?」
妹が答えないので、顔を上げてお奈津に問うて見ると、
「五つでなんです」と、お奈津は答えた。妹はお藤の着物をひっぱり、その手を開いて五つと教えてくれた。紅葉のように小さく、肉付きのよい指が愛おしく思えた。
この縁が切欠で、お藤とお奈津は、急速に親しくなり、市井の仕事が忙しくて相手して貰えない時などは、決まってお奈津の家に遊びに行っては、洗い張りの手伝いや、着物の仕立て方などを習った。
その後、お藤が流産した際も、お奈津は自分の事のように嘆き、悲しみに打ちひしがれたお藤を親身になって慰めてくれたものだ。
そのお奈津が労咳でこの世を去ったのは、出会いから七年経った年の暮れである。
それよりも遡ること一年前、市井の倦怠感や、厭な咳はやはり労咳と診断されていた。お奈津の表情と市井とは似通っていたので気になったお藤が何度となく、医者に診て貰うことを勧めのだが、お奈津には、十年ほど前に病死した父親の薬代の借財があった。お奈津の家は、お藤が思うよりもずっと困窮していたのだ。咳とともに血痰を吐いたと聞いて慌ててお奈津の元に、当時の市井の担当医を連れて行ったのだが、時すでに遅く、医者はお奈津の状態を絶望的だと匙を投げた。
あれほど親しくしていたのに、台所事情も把握せず、お奈津を見す見す亡くしてしまったことで、お藤は自分を責め、悔恨に苛まれる日々を送った。
お奈津の死から半年も経たないうちに、お奈津の母親と妹たちは郷里へ戻ると江戸を出て行った。お奈津の上の妹は読書家で、いずれは自らもと和歌や古典文学を独学で学んでいた。勉学など、どの地にいても学べるのだが、江戸を離れるのは夢が遠のくようで、本意ではなかった筈である。働き頭であったお奈津の死は、一家の運命さえも変えてしまったのだが、そんな時でもお奈津の家族は、冷たい世間を僻むような事を、一言も口にすることはなく、郷里での新生活に、明るい光りが見えるようだと笑っていた。
生前、お奈津の方でも何度となくお藤を訪ねて来てはお喋りに興じることがよくあった。亡くなる二年前のことだが、お奈津には好いた相手がいた。相手は呉服屋の手代で、お奈津より五つ年上の善兵衛という男であった。
善兵衛とは、お伊勢参りで知り合った。とは言っても、お伊勢参りに行ったのは、お藤と市井の二人で、中登で伊勢に来ていた善兵衛には、桑名の旅籠で知り合った。
手甲、脚絆、杖に笠という旅姿に身を包み、行李には東海道中膝栗毛を忍ばせて、日本橋の、まだ明けぬ夜に心を踊らせたのは四月のことで、その頃、市井はまだ労咳を発症してはいなかったが、体力がそうあるほうでもないので、通常なら往復十日ほどで行ける行程を、京までは昇らずして、約一月を目安に旅立った。
市井の体調を見ながらゆっくり歩を進め、初めの休憩は品川宿の料亭で取った。ここまで見送りに来た、富子と共に、料亭の二階から巻き銭をして旅の縁起をかつぎ、結局、酒の入った三人は品川で一泊。翌朝、富子に別れ、小田原まではなんとか三日で行けたが、ここからが本当の難所であった。
無理をすると身体に触るというお藤の助言を聞かず市井は、「若い者には負けん!」と意地を張り、山駕籠や馬にも乗らずに、ぬかるんだ坂道を登り切り、峠越えを達成した。すると以前よりも生き生きとして見えたから気は持ちようである。
息切れでどきどき胸を震わせて、箱根の関所を通過すると、安堵で一気に疲れが出たのか、結局、二日も箱根宿に泊まることとなったので、やはり駕籠や馬を頼った方が良かったのである。
箱根の関所を初め、行き先先で親子と間違われ、市井の機嫌は日を増す毎に悪くなった。本来なら祖父と孫娘ほどの違いがあるのだから、「修治さんは若く見られるってことだよ」と宥め梳かし、大井川に辿り着いた。
しかし、ここでまた問題が発生。普段から、「贅沢はいけない普通がいちばん」が口癖の吝い市井が、大井川を渡る際、人足の肩車で充分だと言い出したのだ。知らない男の肩に跨るなど、お藤にとって身の毛が与奪ほど気味が悪い。そこで、「徒渡しなんかして、人足にあたしのそそを覗かれても良いの?」と泣きべそを掻いて脅かした。市井はうーんと考えながら人足らを見渡し、「かわいそうだ」と、左手の平に拳をうった。かわいそうだ!の意味は分からなくても、お藤は蓮台に乗って、すんなり川を渡ることができた。市井もお藤に見習って肩車はよした。
赤坂では今度、お藤の方が機嫌を損ねた。淫売宿で名高いこの場所だけは足早に通り過ぎたかったのだが、足腰が痛いと市井が言い出した。年甲斐もなく無理に無理を重ねたので仕様のないことだ。比較的、清潔で、安全そうに見える宿を探して泊まったのはいいのだけれど、夕餉前に問題は起きた。お藤は湯上がり、部屋で寛いでいた。畳に仰向けに横になってみたり、腹ばいで、両脚をばたつかせ、肘をついて庭を眺めてみたりしていたら、一緒に湯に行った市井の戻りがどうも遅いことが気掛かりになった。市井は長風呂の性質ではない。体調でも崩したのかと急に心配になり、殆ど一挙動で起き上がって湯まで駆けていくと、なんと市井が気持ち良さそうな惚け顔で湯女に垢擦りをされているではないか。お藤の悋気が爆発した。
「あんた、何をしてるのよ!」
「背中を流して貰っているだけだ。人助けのつもりなんだよ」
「人助け?なんの人助けなのよ、いやらしい」
「ほらな、みんな大変なんだよ。少しでも金になればあの娘も助かるだろう。私は何も触れやしないんだし」
「物は言い様ね」
薄笑いを浮かべながら弁解する市井に対し、「助平」と、顔を真赤にしてお藤は赦さなかった。無論、亭主の裸の背中を、他の女、それも女郎になり得る女が流している情況が気に入らなくて怒ったのだが、、だがそれ以外にも、お藤にはどうも得心がゆかない理由がある。湯屋へ行く時は別として、家で行水などする際、どういう心理からか、市井はお藤に背中を流させない。それ所か、裸を見られることさえ嫌がるのである。妻の自分には身体を隠し、他人の女には喜んで裸体を晒す市井の性根に腹が立つと、お藤はいきり立った。
お藤の焼き餅焼きには馴れている市井でも、この時ばかりは手を焼いた。しかも見知らぬ土地なので、怒るお藤に離れ、息抜きに出掛けることも億劫だ。狭い六畳間、いやでも顔を付き合わせて飯を食い。二つ並んだ夜具で眠った。無論、今夜は唯眠った訳ではない。市井の細やかな努力があり、翌朝、お藤は笑顔になっていた。
精神的にも、肉体的にも疲れ切った市井を横目に、桑名までの七里の渡しの船の上、お藤は「海だ、海だ」と小娘のようにはしゃいだ。
対照的に、昨夜余分な体力を消耗した市井は、約二刻の船旅の殆どを寝て過ごした。到着のころ、体力の方も回復し、お藤の方を見ると、船酔いですっかり青い顔をしているではないか。明日のお伊勢参りを前に宿を決めた頃にも、お藤はぐったりと病人のようであった。
その宿で善兵衛に会ったのである。善兵衛は大店の手代らしい品はあるが、どこか叩き上げの強さを眼の奥に忍ばせた男であった。中背で小肥り。人の良さそうな笑顔が爽やかな印象を与える青年である。善兵衛は商人の気安さで、相部屋になった市井やお藤に話しかけてきた。
「おっお内儀はどこか身体の具合でもお悪いのですか?」
娘さんではなく、最初から内儀とお藤を呼ばれたことで、市井の機嫌が良い。軽く人と交わらない性格なのに、にこにこと笑って返事をした。善兵衛の、言葉のつかえるような話口調も、市井が見知らぬ旅人への身構えを解いた理由なのであろう。
「ええ、船酔いをしただけですよ」
「左様で……」
善兵衛は眉を寄せ、申し訳なさそうな顔をし、衝立の向こうで早々と夜具に横たわるお藤の方へ目をやった。市井もそちらの方へ向き、
「休めばすぐに治るでしょう。まだ若いのでね」
と夜具の下でごそごそと動く、お藤の足の先を眺めて目を細めた。
「お若い。さっ先程、ちらとお内儀を拝見いたしましたが、やや、お綺麗な方で羨ましい」
言葉よりも唇だけが何度も動いて、漸く声になる。市井は善兵衛に痛ましいような、しかし親しみを感じた。
「いえいえ、若いだけの、取り柄のない女ですよ」
「ごっ謙遜でしょう」
善兵衛は膝の上に揃えていた手をしきりに擦っている。どこか落ち着きのない態度で部屋の中を見渡した。
大名行列と遭遇した訳ではないのに、意外なほどに宿場は客でごった返し、市井らはここでも平旅籠が見つからず、この飯盛旅籠で善兵衛と相部屋となったのだけれど、六畳ほどの客間を衝立で仕切っただけの、なんの変哲もない殺風景な部屋に押し込まれた。
行燈をに火を入れる時刻には未だ早いので、室内は余計に薄暗く、どこか寒々とした印象があり、襖の絵などは、椋鳥のようにも見えるし、肥った鳩のようにも見え、また、ただの汚れとも見える。判別ができないほど黄ばんでいるのである。
「いえいえ、わがままな女で手を焼いております」
市井が本心で答えると、善兵衛は目尻にしわを作って微笑んだ。何も言わない。人との交わりよりも読書が得意の市井には会話の糸口が見つけられない。市井は黙って汚れた襖を見ながら指先を弄んでいた。目線を襖からお藤の衝立に移すと「あれだ!」と思った。何度も寝返りを打つお藤を心配したように見て膝を立てた。しかし、行こうとする前にお藤が起き上がって来た。市井は舌打ちをしたい気持で元の円坐に座った。
「お客様?」
余計に具合が悪くなると、木枕を外して寝ていたので、お藤の髪は乱れ、寛いだ懐もそのままだ。
「同じ部屋に泊まらせていただくんだよ。お藤」
「へえ」
お藤は善兵衛を気に留めない。幽霊のような、しとしととした足取りで市井の横に座ると、幼い子供が親にするように身体を凭せ掛けた。
「他に人がいるのだから、きちんとしなさい」
市井が見かねて小さく叱ると、善兵衛の方が気を遣い、失礼しますと言って廊下へ出て行った。
「ほら見なさい」
「………」
お藤はまだ胸がむかむかするようで、頭を市井の肩に預けると、懐に手を入れて、はあはあと幾度も弱い溜息を漏らした。
「お藤あのな………」
市井がお藤の不作法を諫めようとした時、女中が行燈の火を入れに入ってきた。お藤と同じ、二十代前半と見える娘で、良く肥えて、色白で、無意味なほどに愛想を振りまくが、感じは悪くない。
女中に夕餉の用意と酒を頼み、ついでに同室の客、善兵衛を見掛けたら声を掛けてくれと言い付けていると、お藤はむっと黙り、一人さっさと湯へ行ってしまった。
この頃のお藤といったら、一人娘の我が儘が本性を露わして扱い辛い。いま笑ったと思ったら、何が気に入らないのかしかめっ面をしてぷいとそっぽを向いてしまうこともしょっちゅうだ。市井が他に気を向けることをあからさまに嫌い、この時も、市井が女中にやわらかく話しかけるのが勘に障ったのだろ。嫉妬とまではいかないが、市井の気を引きたいのである。
「疲れてしまう………」
市井は凝っている左肩を揉んで首を回した。
お藤が部屋を出て行って暫くは、縁側に出て所在なげに中庭を眺めていた市井だが、外もいよいよ暗くなってきた。薄闇の中では、小さな庭を支配する二本のソテツの緑も確認できない。彼は部屋に戻り、行燈を引き寄せて日記を書き始めた。
「遅いな」
市井はつぶやいて、部屋の中央を見た。料理も酒も既に運ばれてきている。なのにお藤はおろか、善兵衛さえも戻ってなかった。市井は訝しげに眉根を寄せた。あちらこちらで酒宴でも始まり、旅籠の中は賑やかである。
「あの気紛れ娘は全く」
独り言を言って立ち上がったが、膝頭を押さえて耳を傾けた。男女が愉しく語らう声が聞こえてくる。市井は文机に片手を置いて、もう一つの膝を起こした。よいしょとは、声に出さなかった。
立って襖を開けて、身体半分だけを出して声のする方を見たが、廊下の奥は暗いだけで人の姿は確認できない。女の声の主がお藤であることは、彼女独特の、童女のような、はじける笑い声で分かる。いつもは目を細める笑い声が、今夜に限っては、市井の胸の奥を締め付けた。
「馬鹿な………」
善兵衛に嫉妬した自分に対してか、軽々しいお藤への怒りで発したのか、市井は首を振り、また暗い廊下の奥を見た。二人は廊下の角で立ち止まっているようだ。姿はないけれど、若い男女は愉しげであった。咄嗟に、孫ほど若い娘を嫁に貰った己の無分別を呪うような気持になった。
二人に気付かれぬよう、そっと襖を閉めた市井はまだ書きかけだった、開いたままの日記の前に座った。筆を取ったが、お藤の声が邪魔して集中できない。日記を閉じ、行燈片手に部屋の中央へ行って膳の前にゆっくり腰を下ろすと、手酌で酒を三杯呷った。空きっ腹に酒は胃に響いた。市井は渋面で胃を擦った。熱燗は、すっかりぬるくなっているというに、お藤はまだ善兵衛との会話に熱中している。腹ただしい笑い声だった。胡座の膝の上で盃を握る指先に力が入る。焼けのように盃を膳に返すと、二人の声が近づいてきた。市井は襟をなおした。
お藤と善兵衛の二人は部屋の前に来ているというのに、廊下で立ち話をして、なかなか襖を開けようとはしない。耳をそば立てている訳ではないが、襖一枚隔てただけである。二人の会話の内容は、例え耳を塞いでも漏れは入ってくる。話しの中身は善兵衛の身の上話である。戯作者の卑しさなのか、市井の嫉妬は消え、興味心の方が先に立った。いつの間にか、顎を撫でながら話を聞いていた。
善兵衛は十二の年に郷里である近江から、日本橋の呉服店に奉公し、現在は手代、年は二十七だという。此度は中登で京の本店へ挨拶に参った帰りのお伊勢詣らしい。人当たりの良い話し方をする男だが、どこか油断のならない優男風な印象を、さっき部屋で話した時も市井は感じたし、こうして、人の女房であるお藤と立ち話をしている様子を考えても、善兵衛の素行、殊、女の扱いは察するに容易かった。
善兵衛は女馴れして見える。会話が上手な男であった。そう中身のない内容の話しに、お藤がいちいち反応を見せて哄笑しているのが、市井は気に入らない。徳利が空になっていた。
「おい、いい加減に中へ入ったらどうだね」
市井は怒りたい感情を押し殺し、鷹揚に言った。
「あらら」
お藤が襖を開けた。「何があららだ!」市井は心で毒就いた。お藤は鉄漿の塗られた歯を丸出しに市井に笑うと、全く悪ぶれた風もなく市井の隣りにどかんと座った。石鹸の良い香りがし、市井は思わずお藤の懐の辺りを見た。
「船酔いはもう良いのか?」
「うん」
お藤は両手で胸を押さえて、こくりとうなずいた。善兵衛は部屋の隅で荷物をごそごそ探っている。「あっ、そうそう」
お藤は忙しく立ったと思ったら、襖の手前で立ち止まり、市井ではなく、善兵衛に振り向き、
「お酒を注文しましょうか」と微笑みかけた。歯は見せていない。
市井はますます機嫌が悪くなった。善兵衛が、私が行きましょうと、慌ただしく廊下に出たので、二人の若い男女はたわいない掛けあいをして戯れ合った。
「お藤、お前が行けばいいんだよ。善兵衛さんでいったかね、どうかそいつを使って下さい」
「いえいえ、他に用もありますので、お藤さんはどうぞ、ごゆるりとなさって下さいな」
「いいんですの?」
端から用事をする気がなかったのか、意外なほどあっさりお藤は下がった。
善兵衛が行くと、宿のあちらこちらから聞こえる酒宴がわびしいように室内は鎮まり返った。お藤は鏡台の前に座って後れ毛などを撫でつけている。市井はつまらなそうな顔で魚をつつきながら、眼の端に入るお藤のしなやかな動作を直視しないようにしている。そんな市井を横目で眺めるお藤は、市井の嫉妬を愉しんでいるようだった。
「良い人ね」
お藤はまだ鏡台に向かっていた。市井が答えないでいると、鏡を覗き込む動作をやめて、膝を市井の方へ向けた。
「善兵衛さんのこときらいなの?」
「いいや」
市井も流石に大人げないと思ったのか、箸を置いて笑顔を作り、すっと背筋を伸ばして閉まった襖を見た。濡れ縁に、雨の落ちる音が聞こえた。明日のお伊勢参りが案じられ、肩を落として眉をひそめた。
「いいやって?」
お藤には雨が降り出した気配が感じないのか、市井の答えを促した。
「好きでも、嫌いでもないよ。第一会ったばかりで人格なんて判断できない」
「やっぱりきらいなのね」
お藤は膝でいざって市井の傍に寄ると、鼻がふっつきそうなくらい顔を寄せてきた。いつものことなので、市井は平静だ。しかし普段のように肩を抱き寄せることはなかった。いつ善兵衛が戻るか分からない。年寄りが、みっともないと思った。外を気にし、襖を一瞥すると無表情でいた。
「遅いな、善兵衛さん」
お藤が言って溜息をついた。市井が冷たいので、お藤がわざと善兵衛の名を出していることは六十年も生きてきた市井にはお見通しだ。市井は汁椀を取って、目線まであげると、飲まずに膳に戻した。豆腐の味噌汁はすっかり冷てしまっている。
「何をしているのかしらね?」
「何って、酒の注文だろう。ついでに憚りにでも寄ってるんじゃないのか?」
「ふーん、そうね………」
お藤は甘えた声を出して上体を伸ばした。
「ちょっと」
と言い、襖を少しだけ開いて、首を付き出して廊下を窺うお藤に市井は呆れた。
「あら、雨、善兵衛さん、外に出掛けたりしていないわよね。雨に濡れてしまうわ」
「お前、いい加減にしなさい」
「何を?何をいい加減にするの?」
お藤は下向いて、首筋にかかる後れ毛を撫で上げている。市井は閉口した。もう我慢の限界だった。
「そんなに善兵衛とかいう男が心配なら見てきたらどうだい。私はあの男のことより明日の天気の方が気掛かりだがね」
「へっ、怒ってるの、雨だから?」
「お前は全く、頭が悪いんじゃないのか!」
語気を荒げる市井に、お藤は驚いたように目を瞬いた。
「それとも、善兵衛とかいう男と一緒に江戸に帰ったらいいよ。明日はどうせ雨なんだ」
「はい?修治さんの言ってる意味がちんぷんかんぷん」
お藤は襖を閉めて市井の前に座った。
「何も俺に遠慮なんてするこはない、元もと歳が離れすぎてるんだ。こうして夫婦でいること自体が奇怪なんだからね。だいたいなんだよ。善兵衛さんなて呼んじゃって、少しの間に、随分と親しくなったじゃねえか」
市井は言葉尻に舌打ちをすると、なんと片膝を上げ、そこに腕を置いて斜を向いた。話し口調といい、態度といい、まるでこれまで見たこともない市井の変貌に、お藤は目を丸くした。そこに善兵衛が戻って来た。人懐こい笑顔のままで「雨ですね、ひどくなりましたよ」と言った。
これが善兵衛との出会いである。その夜、雨は間断なく降り続いた。明日の予定は変更し、一日中、宿で寝て過ごすことに決めたことの安心で、善兵衛との酒宴は盛り上がった。
手代の善兵衛は独り身だというし、約束を交わした相手もいないと嘆くので、お藤がお奈津のことを紹介すると、江戸のお奈津に相談もなく勝手に話しを勧めた。
お奈津は着物の仕立てや洗い張りを生業としている。善兵衛は今こそ手代でも、このまま順調に進めば、十年もすれば店を出て妻帯することが赦される。やがて独立でもした時、お奈津のような器用な妻は、「即座仕立て」もなんなくなくこなせて重宝だ。善兵衛はこの話しに乗り気だった。
やがて江戸に戻ると、そう日にちも空けずに、お奈津と善兵衛を合わせる段取りをつけた。初め、お奈津は後込みする態度を見せたが、「会うだけだから」と、「いやだったら断ればいいだけ」だと説得して、八幡さまの水茶屋で二人を引き合わせた。
「お奈津ちゃんは、働き者なのよ。まだ二十二だというのに、あたしと違って一家を支えているんだから凄いわ。あたしなんか、夫に甘えっぱなしだもの、ほんとにお奈津ちゃんを尊敬しちゃう」
「そんな………」
うつむいて、長椅子に敷かれた毛氈を指先でいじっているお奈津の替わりに、お藤はお奈津が如何に素晴らしい娘かと話し続けた。
「感心です……」
善兵衛も照れているようで、市井とお藤に出会った桑名の旅籠の時のような饒舌はどこにも見えない。色白の額に、玉のような汗を浮かばせて、殆ど下向き加減で黙り込んでいた。
「善兵衛さんだって凄いじゃないの。十二歳から親元を離れて厳しい修行に耐えているんですものね」
お藤はお奈津と善兵衛を交互に見ては、二人の反応を伺っている。お奈津が満更でもないことは、ここへ来る前に、二人相談し、示し合わせた合図で分かっている。善兵衛を気に入ったら焼き団子、嫌いなら心太を注文する手筈なのだ。お奈津は焼き団子を頼み、小半時を過ぎた今でも心太は注文していない。これはいけるぞとお藤は思っている。
「おっお奈津さんは、その、芝居は好きですかい?」
やっと善兵衛が、お藤を介さず直接お奈津に話しかけた。お奈津はうつむいたままであったが、はいとうなずいた。そして小さいがはっきりした口調で
「でも、観に行ったことはないんですよ」
「では今度、行きませんか?あっお忙しいとは思うのですが、是非、お連れしたい。ねっ、お藤さん、いいでしょう?」
お奈津は顔を上げ、微笑むお藤に向かってうんとうなずいた。
それから一年経った翌年の春のことである。お奈津が銷沈しきった顔でお藤の家を訪ねてきた。
「お奈津ちゃん、どうしたの?」
茶の間に通したが、しょげたお奈津を案じ、お茶を淹れるのも忘れてお奈津の重ねた手を取った。お藤のしなやかな手とは違い、皮の固い、あかぎれした手だった。
「昨日の晩のことなんだけど………」
お奈津が蒼白い顔を上げた。目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「善兵衛さんと………」
それ以上は言いにくそうに口を結んだので、お藤はお奈津の気持が落ち着くのを待つことにした。お奈津は何度も同じ様に「善兵衛さんと………」と言っては溜息を吐き出し、口を噤むを繰り返した。喉が渇いてるようでお茶ばかりを飲んでいる。四半刻あまりが過ぎ、三杯目のお茶をついだ時、ようやくお奈津は重い口を開いた。
「善兵衛さんと、両国広小路を散歩したあと、料理屋さんに連れられてね……」
そこまで聞けば、後のことは察しがついた。料理屋さんと言うのは男女の密会する茶屋のことだろう。そういった場所で男と女が何をするかは、未だに「ねんね」と市井にからかわれるお藤にも分かる。しかし肌を許した結果が良くないのだろうと思った。惚れた男と結ばれて、歓喜に浸っている女の表情ではない。今のお奈津はどこから眺めても、恋に破れて銷沈しきっているように見えた。
「お奈津ちゃん、初めてだったの………?」
お奈津は無言でうなずいた。蒼白い頬が赤く染まった。
「悔やんでるの?」
「ううん、後悔なんかしてないの。嬉しかったのよ。善兵衛さんのお嫁になると信じていたから」
「そう………」
お藤の、お奈津の手を握る手に力がこもった。腹の底の方から、例えようのない怒りが沸いてきた。胸を張って身構え、次に聞く言葉を慎重に受け止められるよう務めた。
「その、あのことが終わったあとなんだけど………」
お奈津はお藤の目を探るように見た。お藤はお奈津が言いたいことを知っているといった風に、強い視線でお奈津を見つめたままうなずいた。
「このことは、誰にも言わないでくれと釘を刺されたの」
「えっ?」
「善兵衛さんとひとつになったことを………」
お藤が唖然とすると、お奈津は握られていた手を引き抜いて、その手を顔の前で大きく振った。
「ちがうの、ちがうの。そりゃあ嬉しいから、善兵衛さんと、将来を誓い合った気がして嬉しいから、お藤ちゃんには教えたいと思ったけどね。こんなこと、他の人にべらべら喋ることじゃないことくらい、あたしだって知ってるのよ。お藤ちゃん以外の人に言う訳ないじゃない。なのに酷いじゃないの善兵衛さん。あたしのことは遊びだったんだわ」
お奈津はうつむいて顔を覆うと泣き出した。声は出さす、悲しさを絞り出すように泣いている。お藤はその肩を抱いた。細いが、働き者の肩であった。
「お奈津ちゃん、変な人を紹介してしまって、ごめんね………」
「いいの、あたしは本気ですきだったんだもの?」
「でも………つらい想いをさせてしまって………」
お藤が言うと、お奈津は震わせた肩をすぼめて、うんうんとうなずきながら、またすすり泣いた。そして途切れ途切れに
「これからは、人の目につかないところで会おうと言うのよ………」
お藤は俄然本性を表した善兵衛への怒りに震えた。しかし言葉ではお奈津を慰めることを言っていた。本人に会って真相を確かめなければならないと思っていた。お奈津の傷を癒すのはそれからでも遅くはない。善兵衛にも、男の言い分がある筈だと考えた。
「今は善兵衛さんも大変な時期だから、女にうつつを抜かしていると思われては困るのよきっと。お奈津ちゃんとのことを隠したいわけではないわ」
「そうかしら?」
お奈津の声に明さが蘇ったが、それも一時的なことで、お奈津が、いつもの明るい笑顔を見せることはなかった。お奈津は言わなかったが、もっと深く、暗い何かを、善兵衛との将来に見たのだとお藤は直観した。
町は既に仄暗くなっていたので、お藤は市井と共にお奈津を家まで送り届けた。春といっても日が落ちれば真冬と変わらぬほど寒く、昼と夜の空気が入れ替わったように風は冷たい。道行く人々もどこかうつむき加減で足早だ。
「湯の帰りに、一杯やろうか」
と市井が言った。外食は久しぶりのことだったので、お藤は嬉しくなって市井の腕に手を潜らせて寄り添った。
「お奈津ちゃんに会わせなければ良かったわよね、善兵衛さんを」
「だから言っただろう。善兵衛は遊び人だって」
市井は諫める口調でそう言った。確かにお奈津に、善兵衛を紹介することに市井は反対していた。しかし若者同士のことだからと、割とすんなり折れてもいたのだ。お藤は自分の行動を軽はずみだったと反省しながらも、お奈津の懸念が考えすぎであるようにと祈る気持でいた。お藤は善兵衛を訪れた。
「誰にも言うな」と言ったのは、お奈津とのことに覚悟が出来ていなかったからだと、善兵衛はお藤に告白した。更に問い詰めるお藤に、他の女の存在も白状した。善兵衛には、五年前に別れた女がいた。その女と、自身の働く店でばったり再会していた。その女と善兵衛は同郷で、別れていた五年間を差し引いても付き合いは親子ほど長い。里の想い出話しに耽って居るうちに親しさが再熱し、事もあろうに、お奈津を料理屋へ誘ったその翌る日、その女とも男女の関係を結んでしまったというのだ。お藤は平手を喰らわしたい気持を必死で抑え、お奈津に関わることは、金輪際赦さないと、念を押し、うなだれる善兵衛に承諾させた。
去り際、お藤は後ろ髪を引かれるように善兵衛に振り向いた。彼は店脇の狭い路地の壁際にしゃがんで、首を大きく垂れていた。情けない姿だと思ったのと同時に、「男前は辛い」と、善兵衛がほくそ笑んでいるようにも見えて寒気を覚えた。
それはともかく、お奈津が元気な笑顔で、家に遊びにきたのは嬉しかった。「あの男は駄目だ」というお藤の助言も聞かず、善兵衛と会い続け、最終的に仕合わせを取り戻したお奈津の笑顔は眩しかった。
夫婦約束まで交わしたと、意気揚々として話す姿を見ていると、この半月の間、お奈津が心配で心配で、眠れぬ夜を過ごしたことが滑稽であったが、嬉しい肩透かしを喰らわされたことの方を素直に喜んだ。
そんな仕合わせの絶頂の最中、お奈津は労咳に倒れ、本当に、呆気なく逝ってしまった。善兵衛の落胆は傍から見ても辛いものだった。この様な悲しい事態に陥って初めて、善兵衛の、お奈津への気持が本気だったのだと分かった。例の女とは手を切ったという言葉も信用できた。
大の親友を亡くしたお藤は失意の底に蹲った。これからやっと仕合わせになれると思った矢先のお奈津の不幸を呪った。人の世の理不尽さを知った。
天は果たして平等なのか?江戸の町を歩いていて、お藤はふと足を止めた。擦れ違う人々を眺めた。振り袖姿の華やかな娘の後ろを、風呂敷包みを胸に抱え、地味な小袖の襟に顎を埋めるようにして歩く娘の幸福は均等では無いはずだと、ぼんやり考えた。人の一生は、変質的な愛を持つ神の気紛れで、将棋の駒のように嘲られるのか?
お藤に悟られぬように背を丸め、口を覆い隠し、堪えた咳をする市井。その様子を家の中で感じるたびに、それでもお藤は、表現のしようのない不安を消したくて、変質的な愛を与えてくれる神に頼るのだ。
つづく