懐古ー(夢にまで見た暮らし)
「兵蔵さん、ごめんなさいね。こんなこと、ほんとはあたし一人がしなくてはいけないのに」
客間で茶道具などの整理をしてくれている兵蔵に礼を言った。兵蔵と同じ場所を片付けをしても良いのだが、二人でいると、どうにも前非を悔いる気持が起きてきて落ち着かなくなるのだ。
「梯子の上り下りがつらいわね」
梯子の下から市井の書室の方を見上げた。若い頃は、この梯子を一気に駆け上がったものだと、三十を目前にしたことで実感する、身体の衰えに嘆息した。
書室に入るとお藤はまるで、掌で何かを読み取るように、古い、茶褐色の机を撫でていた。しばらくそうしてから、顔を横向けて机に伏せた。日に何度もこうしている。こすることで、止まってしまった市井の心拍を、また感じられるような気がしていた。
瞼を閉じると、そのまま眠りに就いてしまうことも多い。昔、市井が外出をしていて寂しい時など、良くこの机に顔を伏せて寝ていたものだ。帰宅した市井が、そっとお藤を抱いて、敷いたばかりの夜具に寝かせてくれた。お藤は実は、市井の帰宅を知っていたし、狸寝入りをしていただけなのだが、市井に抱かれて寝かせられ、上から柔らかい搔巻が風を含んで身体に下りる瞬間が好きであった。なので土間の物音に気付いて目覚めても、寝ている振りをした。
「苦労ばかりかけちゃって……」
今はもう、市井に抱きかかえられることも、花びらのように柔らかな搔巻が降りてくることもない。悲壮感で涙を流していると、ふと市井と過ごした最初の夜を思い出した。お藤は薄目を開けて、照れたように微笑んだ。十数年前、お藤はこの部屋で女になった。
「全く、今ごろの若い娘は何を考えてんだろうね」
夏になっていた。祖母は、未だに半年前のお藤の無断外泊を思い出しては責めることがある。
「そんな昔のこと、持ち出して怒らないでよ」
昼食の後片付けをする下女の横で、お藤は憤懣を口にした。兵蔵と出会茶屋で一泊し、市井に面罵された日のことは、お藤にとっても充分、苦い想い出である。あまり蒸し返されたくない。
「後片付けもしないで水遊びかい」
祖母は皮肉を言い続けた。昼は素麺を食べた。台所にある桶の中の氷水に手を浸すと気持が良く、洗い物はすべて下女に任せ、幼い子供のように水遊びをしていることも、祖母は気に入らないようだ。
「あたしのことよりね、婆ちゃん。ちゃんと着物を着た方がいいよ。いくら年寄りって言ってもさあ、誰かに見られたら、それこそ災難だよ」
「あたしゃ別に構わないよ」
祖母は白い肌も露わな腰巻き姿である。夏場、家の中ではこれが祖母の常識で、大きく垂れ下がった雌牛のような乳房をぶら下げて、茶の間で団扇を扇いでいる。お藤は子供の頃から、祖母の行うこの夏の風物詩を嫌った。
「婆ちゃんじゃなくて、見た方が災難だって言ってるのよ」お藤は声を高くして言い返した。
「いやな子だね」
祖母は全く動じる風もなく、一度、止めてた団扇の手をまた忙しく動かし出した。
「今日も行かないのかい?」
境内にいた富子が汗をふきふき戻ってきた。台所に入るなり、じろりとお藤を一瞥した。お藤が未だ市井に言われたことに拘り、兵蔵との外泊の日から既に半年も経つというのに、市井へ謝罪に出掛けようともしないのが気に入らないのだ。神社でぶらぶらと遊び暮らす娘を嗜める口調で言った。
「だって来るなって言われたんだもん……フラれたのよあたし。何度も言わせないでよ」
「お前はそれで本当にいいのかい?」
「ええ」
お藤は背伸びをして、棚の上から針箱を取り、縁側に腰を下ろした。そのお藤を追い掛けるようにして、富子も縁側に座った。この半年の間お藤は朝拝以外の神事を放棄。巫女としても、嫁入り前の娘としても、府抜けた生活をしている。人に会うことを避けるかのように家に閉じこもり、半年もの間、鳥居をくぐって外に出ていないのだ。
「もったいないことしたね」
富子は襠の折り目を擦りながら、肩を落としてそう言った。
「修治さんのこと?」
縫いかけの白小袖を膝の上に置いて、お藤は首を曲げて富子を覗き見た。富子は顔を歪めて手を振り、
「あんな爺さんのことじゃないよ。兵蔵さんよ。あの人、あんたに気があったのにね。最近さ、上役に内伺いを提出したらしいよ。早速、許可が下りたってね。明日、本願書を藩庁に提出するって、昨日、教えに来てくれたのに、あんた会わないから……あれはさ、あんたの意見が聞きたかったんだよ。あんたを諦めきれないんだよ。あたしはそう思うね。あーあ、これでもう兵蔵さんは、どこかのお武家の娘さんのお婿さんになっちゃうんだね」
「………」
お藤の胸を、何かに刺されたような衝撃が走った。予期もしない動揺に驚き、縁側の向こう、百景のように美しく手入れされた庭へ目を移した。夏の日差しが木々や池をじりじりと燃やしている。かなかな蝉の音が降りそそいでいた。江戸風鈴が時折、涼しさを演出する。
「どうして上手くいかないかね。次男だったんだろう。うちに入り婿にきて欲しかったね」
「何を言ってるの、婿だなんて……あちらは三百石のお旗本よ。うちとは身分が違うの。屋敷だって、すごいんだから」
「そんなこと言ったって、きっと台所は火の車だよ。持参金を弾めば、あんたが嫁に行くことだって出来たかも知れないじゃないか。別にうちなんて継いで貰わなくたっていいんだからさ。一度きりの人生。好きなように生きたらいいんだよ」
外で人の声がした。富子は言うだけ言うと、はーいと大声で返事して茶の間を出て行った。お藤は母の背中を目で追いながら、母の人生は仕合わせではなかったのかと、ふと思った。八王子の百姓の娘が、ひょんなことから十六で神社に嫁ぎ、すぐにお藤を身籠もったが、神主であった夫は、所帯を持ってわずか八年で死去してしまった。富子はまだ幼いお藤を抱え、気の強い元気な姑に気を遣いながら、馴れない神社の仕事を切り盛りした。やがて妻子持ちの源蔵と恋仲になった。源蔵は妻を離縁こそしないが、富子と寝食を共にすることを選んだ。
日向の身だか、日陰の身なのか、はっきり分からない生活を、富子は十年近く続けてきて、今は七十代の源蔵の介護をしている。疲れからか、美しかった容姿も、ここ一年ですっかり衰えてしまっていた。
少しもうろくが始まった気配のある源蔵が小さく荷物をまとめ、
「妻の元へ帰らせて貰います」と土下座をすることがあるという。
「あんた、本気なのかい?」富子が聞くと、
「ああ」と返事をする。
「俺は間違ってたんだ。しかしお富も良く無いぜ………」
いつものもぐもぐと歯の抜けた口調ではなく、若い青年のような、はっきりとした論調で議論を始めようとするのだ。
「分かりました、もう聞きたくない」
と源蔵の言葉を遮って、富子が部屋を出ようとすると、「富ちゃーん。いかないで」と爺さんに戻る。
「源蔵が心底望むのなら、奥さんのところに返してあげたいけどさ。惚けて役立たずになったから追い出したなんて世間に思われたらいやじゃない。町中の蔑みものじゃないか。それにあたし、源蔵をすきなんだよね。奥さんに渡したくないんだよ」
悲しく笑う富子は心身共に疲れていた。
「兵蔵さんがね……」
お藤は膝に目を落とした。兵蔵の吉報を、晴れ晴れと祝福する気になれない自分に嫌気がさした。己が仕合わせではないと、人間はこうも卑屈になるのだろうかと、自身を蔑み落ち込む。
半年前、茶屋の一室で、兵蔵に結婚を勧めたのはお藤である。お藤は兵蔵の告白を断り、市井への想いを打ち明けた。明け方まで一睡もせずに泣き腫らした兵蔵は、親の勧める縁談を承諾することに決めたのだ。
市井への暇乞いは早々と済ませたようである。市井を訪ねた兵蔵はそこで初めて、お藤が市井の家の出入りを禁じられたことを知る。兵蔵の決断は鈍り始めた。
額を畳に擦りつけ、父親に詫び、上司への内伺を伸ばして貰った兵蔵は、三日も置かずに神社を訪れては、お藤に会うことを熱望したが、お藤はそれを頑なに拒否し続けた。会っても兵蔵の期待には応えられない。もう二度と、彼をあのような憂き目に遭わせたくないのだ。
「会いに行こうかしら」
お藤がぽつりとつぶやいた。
「何か?」
十五になったばかりの下女が台所から首を伸ばし、好奇の視線をお藤に向けた。
「おいで」
お藤が手招きをすると、下女は前垂れで手を拭きながら、待ってましたとでもいうように軽捷にやってきた。人懐こい丸顔を綻ばせ、お藤に膝を突き合わせている。北国の田舎から奉公に出て来た、この頬がリンゴのように赤い娘を、お藤は可愛がっていた。二人は特に意味を持たない世間話で笑っては、愉しくお喋りをして時をすごすのが常である。田舎訛りを気にし、人前では無口なこの少女も、お藤の前では快活だ。時折、言葉が通じないのもまた愉しい。
雲が太陽を隠し、室内が一瞬のうちに暗くなった。二人は黙り、室内を見渡した。それを潮に、お藤は立ちあがった。いつの間にか、寝てしまった祖母が、裸のままで柱にもたれ掛かり、凄まじいばかりの鼾をかいていた。
「やはり、ここは出て行こう」
お藤は縫いかけの白小袖を、裸の祖母にかけて微笑した。縁側に振り向くと、お藤を振り仰ぐ下女の目に、うつすらと涙が浮かんでいた。
「おや、お藤かい」
半年振りにお藤を見た市井の最初の言葉である。
「ご無沙汰してしまって。入ってもいいかしら……?」
身体半分が見えるだけ襖を開け、お藤は殊勝に頭を垂れた。廊下に三指をついて、ひれ伏すように腰を曲げている。
「もちろんだよ」
市井は筆を置き、身体を向けて腕を組んだ。
「お母さんには断って来たんだろうね?」
そう言うのと同時に、市井は窓外に目をやった。外はもう暗くなり初め、町は、掛行燈の灯りで彩られている。
「はい」お藤は囁くような声で答えた。
「まあ、そう畏まらずに、頭をあげなさい」
市井はお藤の着物と丸髷を珍しいように見た。大きく作った髷に、桃色の手絡が可愛らしい。色とりどりの花びらが降ったような、目にも鮮やかな振り袖を着ている。子供らしい丸みのあった頬はすっきりと尖り、大人の女への成長過程の美しさを充分すぎるほど匂わせていた。お藤はそっと頭を上げ、両手を膝の上に揃えた。どこまでもお淑やかだが、気の強い眼差しは、市井を睨むように見据えている。
「丸髷に振り袖とは、今日もまた、とんちんかんな恰好をしている」
「昨年、おっかさんが仕立てて下さいましたのよ。嫁入り前に一度は着て欲しいと泣かれましてね……、祖母様が髪を結ってくれた後でしたので、また結い直すのかと姑根性丸出しで祖母様はひがむし。母の富子は富子で、それなら髪結いを呼びましょうよといきり立つ始末。二人の間に挟まれて、大変なの。あたし……」
どちらも立てるには、人様から見てとんちんかんなこの恰好でも、丸髷に振り袖にするしか仕様がなかったとお藤が言うと、市井は声を立てて笑い出した。お藤の悩みは真剣なので、笑う市井をいやな目で見つめている。
「いやいやすまぬ。騒動の様子が眼に浮かび、それがあまりにも可笑しくてな。お前の家は、いつも愉しそうで良いな」
「はあ……そうかしら?」
市井の笑い声を聞いたのは過去にも例が少ない。お藤はまるで小鳥のように、首をくねくねと右、左と傾げた。
「ところで嫁入りとは?そんな話でもあるのかな?」
市井は胡座になり、若いお藤に素足が見えぬよう、裾の合わせ目を直しながらそう言った。お藤が黙っているので、
「そうか、兵蔵の元へかな?」と、続けた。お藤の強い眼差しは一旦隠れ、細く長い首は前に垂れた、白いうなじの綺麗な娘である。市井は見とれた。しかしすぐに視線を本棚に移し、自分を諫めるように渋い顔付きをした。
「……気になりますか?」
「ん、そうだね」
胡座を掻きなおした市井の、冷静で落ち着いた声の感じに、お藤の張り詰めた緊張は悲しく解された。やはり、市井が自分を女としては見てくれていないのだと実感させられた。
「好きな人の元へ嫁ぐのが、あたしの幼い頃からの夢でしたので、今日は決心をして参りました」
玉砕覚悟である。目を上げて、胸を張った。
「好きな人?」
市井の目も、口調も、惚けているようには見えなかった。お藤はもう一度、反り返るように胸を張り、
「先生が赦してさえ下されば、もう神社には帰りませんよ。ちゃんとおっかさんや、祖母様の承諾も得て来ましたからね」
「ふむ……」
市井は腕組みをして首を前に倒した。目を瞑っているようなので、お藤は断りなしに部屋に入り、襖を閉めた。市井は動かなかった。
「それで、わたしの答えが必用なんだね?」
「そうよ」
お藤はそう即答した。市井は「ん………」と低い唸り声を上げている。
「修治さん。そう考えこまないで頂戴」
「ん………」
ーもしかして惚けたのかしら。
お藤は心で毒突くと、イーとやって舌を出した。
「そうね………」
市井は顔を上げ、腕組みの片方の手で、剃った髭の後を確かめるように頬をさわりながら本棚に視線を移した。お藤は市井の視線を本棚から奪おうと一膝寄せた。
「どうなの。他に想う人がいないのなら、あたしをお嫁にして欲しいのだけれど、だめかしら?」
市井は目を細め、口を覆うようにして、今度は壁を向いて笑った。そして、うんうんと幾度も小さくうなずいた。自分を納得させているようであった。
「お藤は十六かね?」
「はい。もう大人です」
「大人ね。年だけ重ねても大人とは言えないのだよ」
お藤はその細い眉をひそめ、小首を曲げた思案顔だ。
「それとも、もう大人の女になった………その、そんな経験でもあるのかね?」
「大人の経験?」
益々、市井の質問の意味が分からなくなった。お藤は眉間にしわを寄せ、険しい表情で考えた。そうしてから、「あーっ!」と奇声を発して手を叩いた。市井がびくりとお藤に向いた。
ーきっと兵蔵さんと茶屋に泊まった時のことを聞きたいのだわ。お藤は一人で納得していた。
「内緒です」
「ほほう、内緒ね」
お藤が意地悪をすると、それまで平静だった市井の顔に陰りがさした。お藤は勝ったような気がし、愉しくなっていた。居住まいを直すと、再度、三つ指を着いた。
「おかみさんにしてくれますか?」
「まずは質問に答えなさい」
「質問というのなら、ちゃんと質問の内容を教えて下さいな。そんな遠回しな言い方じゃわかりませんよ」
「内緒と言ったじゃないか」
「そうですけど、内緒の意味だって、修治さんとあたしとの心の中が同じとは限らないでしょう」
大人ぶった口調でそう言うと、お藤は姿勢を正して市井を見据えた。
「大人になったでしょう。あたし」
市井はそんなお藤を眩しいように見つめた。
この二年の間に、お藤の背丈は、富子を越すほどにすらりと伸びた。贅肉のついていない、細い身体は以前と変わりないが、胸元に女らしい膨らみを見せているのが着物の上からでも分かる。生まれたての赤児のようだった肌は、艶ややかに光りを持ち、薄くひいた紅と、素顔の頬の赤味が眩しいほどで、吸い込まれそうな色気を出している。市井は自制をするようにお藤から視線を逸らして、机に片手を置いた。
「お紺さんはいないようだけど?」
「もう帰ったんだよ」
「お紺さんを気にしているの?」
「それは全くない」
「この二年、心配だったのだけれど、そうならそうで仕様のないことですし………」
お藤が言うと、市井は話題を変えたいような感じで咳払いをし、声の調子も静かに、
「最後に会った日から、半年で、お前がこの家に来なくなってから二年にもなるんだね。随分と私も年を取ったよ。お藤とは違ってね」
「ええ、ですから二年の間のことは、少しはっきり聞きたいのです。とは言っても、いまのあたしは空気が足りないみたいに息苦しいから、包むような言い方を上手くして下さると助かるのですが」
「お紺のことかしら?」
この質問は避けられないと、市井は覚悟をしていた気がする。遠い過去、妻を病で泣くし、まだ乳飲み子だった娘を抱えて途方に暮れている市井を慰め、貰い乳に走ってくれたお紺に愛着を覚え、ごく自然に男女の間柄になった。
その頃、お紺は酷い暴力を振るう亭主から、やっとのことで去り状を受け取ったばかり。お紺に寄れば、摺物職の亭主とは十代のころ恋愛で結ばれ、十数年連れ添ったけれど子が授からず、そのことが原因なのか、亭主は酒を飲むと暴れだし、時にはお紺の息の根が止まるほど、顔の原型を留めぬほど殴り倒したらしい。
「石女を貰い損をした」と、殴りつける亭主に我慢ができたのは三年ほどで、着の身着のままで知人の家へ逃げだし、亭主と暮らした裏店の大屋に仲に入って貰い、離縁に至ったのだが、市井との出会いはその直後のことである。
市井とお紺、市井の娘おゆう三人の生活は十年続いた。結果的、お紺と、昔別れた亭主との復縁とも取れないが、ちょこちょこお紺が世話を焼いてあげていることが露呈した時、お紺は市井の家から出されたのだ。そのお紺が再び市井の家へ出入りをするようになったのは、ひょんな偶然からで、市井が湯屋の帰りに立ち寄った馴染みの店に、たまたまお紺が働き出したことによる。
数年ぶりの再会に、運命の糸の繋がりの錯覚に陥った二人はその夜のうちに肌を寄せ、懐かしがったものだが、お紺の話をよくよく聞くと、未だあの亭主との関係は切れていない。幻に熱を上げたのも束の間。虚空の幸福の虚しさに興醒めした市井は、再度お紺を突き放した。
けれども市井の住居を知ったお紺は、翌る日から何食わぬ顔で市井の元を訪れ出した。最初の夜のこともあったし、無下に突き放す訳にもいかず、お紺のことも嫌いではない。元来、優柔不断な性質の市井は、そのままずるずると、お紺を招き入れてしまう始末になったのだ。
お紺との肉体的な関係は、お藤に見られた朝が珍しいことではなかったのだが、子供のお藤に、市井とお紺の微妙なふれ合いは見抜けなかったらしい。そういう訳で、あの朝のお藤の直感は、お藤が女として成長した証拠でもあった。ただこの二年に限っては、市井がお紺を褥に招くようなことは一度もなかったのも事実である。「厄介なことを覚えていてくれたものだ」市井は心でつぶやくと、少し困ったようにお藤の帯の辺りを見た。お藤が帯揚げの結び目を指先で潰すようにしていたからだ。
「そう………」
お藤の指に力が入った。市井はそれを見ながら少し間を置いて、
「あの朝も、さっき言った通りなんだよお藤」
「ほんとう?」と、お藤。潤むような目で市井を見た。お紺との馴れ初めから別れを話した市井であるが、お紺の不貞と、それからの市井との親密な交わりのことは隠した。
「ああ。きっとそうだと、お紺も言うだろう」市井は意味深な言い方をした。お藤の眉間にまた小さなしわが寄った。そして、
「良かったわ」目を瞑ってつぶやいた。
「私のことより、お前自身のことだが………」
「そんなに気になるなら試してご覧なされば?」
「変な言い方だ。それに、てんで答えになっていない」
「修治さんの真似をしたのよ」
お藤はそう言うと、市井の背後に廻り、躊躇いも見せず背中に頬をつけた。
「そんなことをしてはいけない」
腕を組んで遠くを見る市井に構わず、お藤は額をふっつけた状態で首を振った。
「早まると、後悔して泣くことになる……良く考えるんだお藤」
「あたしの心は六年も前から決まってるんだから、後悔して泣くか泣かないかは修治さん次第よ」
「………」
お藤が言いながら市井の腰に腕を廻した。市井は石の地蔵のように固まっていた。
「修治さんが決めていいのよ」
「どうしてこんな老いぼれがいいのだ」
「年なんて関係ないじゃない。好きなんだもの。傍にいたいのよ」
「小さい時に親父さんを亡くしたからなのか、それとも、私の書く愚作に恋をしているのか?だとしたら、とんだ勘違いなんだよお藤」
「勘違いなんかじゃないわ」
「兵蔵とのことだが………」
「拘るのね」お藤は言葉を遮った。
「若い二人だからね………」
「向こうには許嫁が、御存知でしょう?」
「ああ、しかしね、お前と兵蔵の、あの晩もことを、私は厭なんだよ。女々しいと言われてもね、過去のことでも、きちっとしておきたいのさ。隠されるのは、なんだか本意じゃないんだ」
「粘るわね。隠さなくてはならないことなんかないのよ。これ以上どう弁明しろというの」
「全くお前の言う通りだ」市井は苦笑いをし、ゆっくりと身体を回した。
「あっ………」という、お藤のびっくりしたような声の後、物音一つしない静寂が続いた。やがて薄闇の中を、静かな衣擦れの音がした。しかし室内はひっそりとしていた。火影に浮かぶ二つの身体が、ゆっくりと畳の上に落ちた。
小半時余りが過ぎたころであろうか、市井が疲れたような息遣いを漏らした。
「振り袖の帯の結び方っていうのは、あれだね、どうなっているんだろうね。これは、お袋さんの抵抗かね……。本当にお富さんは、私たちのことを賛成してくれたのかい、お藤?」
お藤はくすくす笑っている。そして、「いいわ自分で解くから」と言うと、市井が、「いいや、そういう訳にはいかないんだよ」と笑いを含んだ声を漏らした。室内はばたばたと忙しい。
暫くして、漸く衣擦れの音が止んだ。室内に静寂が戻り、また小半時ほどが過ぎた。
「そこまで泣かなくてもいいんじゃないかな……こっちが虚しくなるよ」
「だって……」
お藤は市井の胸の中にいた。細い肩が、外灯と月明かりの仄かな光りに白く浮かんでいた。お藤の泣き方はしくしくではなく、子供のようにしゃくり上げる泣き方だ。市井の胸に顔を埋め、責めるように時折叩いた。
「あんなこと、変態だわ、ふつうじゃないもの」
「人聞きの悪いこと言うもんじゃない。余所で言ったら、私は本当に変態だと思われてしまう」
市井はほとほと疲れたといったような声を出した。
「だいたい枕絵や艶本か何か、指南本のようなものを目にしたことはないのかね?」
「ないわよそんな変態本」
お藤は拳を作り市井の腕を叩いた。
「修治さんの本にだって、こんなこと書いてなかったわ」
「当たり前だ。娘だって読むかも知れないんだよ。恥ずかしい………」
我が娘を出した直後だというのに、まだ生々しいお藤の肌の感触が思い出され、市井は不思議な感覚を覚えた。
「自分の娘に読まれて恥ずかしいこと、あたしにするなんて酷い」
「………お前だって、こうして私に身を任せようとしたのだ。全て承知のことだと思うだろう」
市井は長い溜息を吐いた。
「もう、なんだか穢れてしまったわ」
「そこまで言うかな」
「お願いしたじゃない。いやなのだから途中でやめて欲しかった」
「途中………」
こうお藤に責め立てられると、まるで自分が無垢な娘を手籠めにしたような罪悪感に苛まれる。市井は「こちらの方が泣きたくなる」と、自分でも聞き取れないような声で言った。
「薄汚い女になってしまった気がする。もうおっかさんの顔も見られない」
「そんなこと言ったって、ああでもしないと赤児は授からないんだよ。お前だってね、生まれて来なかったんだ」
「………想像させないで、いやらしい」
「私たちはね、花粉じゃないんだよ」
「あたし、お花に生まれてくれば良かったわ」
市井はお藤の肩を軽く叩くと、手枕をして、暗闇の天上を見つめた。片腕にはお藤の頭が乗っている。そろそろ腕が痺れてきた。しかし引き抜こうとすると、猿の子のようにお藤がぎゅっとしがみついてくる。泣き通しのお藤に押されて、押されて、市井はもう、夜具の上には乗っていない。そろそろ机の下に潜り込んでしまいそうだった。
「なあ、お藤」
お藤は泣くのをやめて顔を上げた。
「私はもうこの年だ。それほど先は長いとは思えないが、お前の気の済むまで、私の傍で暮らさないか」
お藤は上体を起こすと、市井の胸の上に身体を乗せた。娘の匂いがふわりと漂い、市井は渋面を作った。
「お嫁にしてくれるってことかしら?」
さっきまで泣いていたとは思えないほどの大胆な態度に市井は当惑したが、そうしながらも、お藤の額にかかる髪を撫でつけた。額際には汗がしっとり滲んでいた。
「責任を取らねばな」
「それだけですの?」
お藤が体重をかけてきた。お藤の、まるで少年のような細い腕には似つかわしくないほどの胸の膨らみが二つ、市井の裸に押しつけられる。お藤は市井の顔を両手でそっと挟み、顔を近づけて口づけをした。市井はぎょっと目を見開いた。
「あたしの気が済むのは、二人一緒にお墓に入ってからよ。それまでずっと一緒にいましょう」
「………」
息苦しいほど首に縋り付いてくるお藤の背を、市井は咳込みながら擦っていた。
市井とお藤の祝言は、お藤が純潔を失った日から約二月後。身内の者と差配に家主、極親しい友人、それに版元の鶴屋菊兵衛だけの質素なものだった。神様へ、新生活の誓いを立てた神社は富岡八幡宮。神殿にうつむくお藤の顔は綿帽子で隠れていたが、白い手の甲に滴り落ちる涙が際限なくて、まるで、お藤が夢見た仕合わせの成就を告げているようで、参列した人々の目頭を熱くした。
郷里に暮らす、市井の娘夫婦にも一応の連絡は入れたが、昨年、生まれた孫が幼いのを理由に参加を断ってきた。何も父親の再婚に反対している訳ではないが、お藤の年令を聞いて、激しい動揺を見せたのは真実のようだ。
鶴屋菊兵衛は五十代の肥った男で、版元の他にも手広く事業を展開し、金儲けに勤しんでいる。お藤に言わせると鶴屋は、肥った醜い虎の容貌らしい。しかし溢れんばかりの財力で、何人もの妾を囲っていた。菊兵衛という男は金持ちのわりには厭味のない気の良い男で、男女に限らず自分が気に入ると、とことこん面倒をみる。お藤のことも可愛がり、「年頃になれば妾にしたいと思っていたのに先を越された、悔しい悔しい。でも良かったなお藤」と、うれし涙か、将又悔し涙をこぼして祝言の酒を呷っていた。
お紺と兵蔵両名にも祝言の通知は出していた。
お藤と市井が結ばれた日の翌朝、いつものように家に来て、台所仕事などをしていたお紺だが、やつれ顔で二階から下りてきたお藤の姿を見咎めると、「あらあら、そう、そうなのね」と言って庭の水遣りをし、そのまま黙って出て行ってから、ぴたりと家には寄りつかなくなった。祝言にも来なかった。
お紺のことは気にするなと市井は苦い顔をしたが、祝言の日までの二月の間、お紺が、もしや死んでしまうのではと案じたお藤は、「お紺さんの様子を見に行った方がいい」と市井に詰め寄ったことが何度もある。
お藤はお紺の不貞の過去を知らない。未だ、昔の亭主とお紺が繋がりのあることを知っている市井は、お藤の思いやりを相手にしなかった。「冷たい人だ」とお藤が市井の人間性を疑い始めた頃、家に遊びに来た菊兵衛に、「一月ほど前からお紺さんは、うちの店の手伝いをしているんだよ」と教えられた。
市井の書いた稿本に、誤字脱字がないか、市井の代わりに清書をしているらしい。更に市井とお紺、二人連れで時折、甘酒を飲みに出掛けている事実まで聞いたから驚いた。
「本当に甘酒なのか、いかがわしい茶屋ではないのか!」
菊兵衛から、思いがけない情報を得たお藤は無論、嫉妬でいきり立った。市井の筆を奪い取り、書き上げたばかりの、何枚も重ねた草稿の上に筆を掲げて脅した。
「墨でどろどろにしちゃうから」
「待て、待て、待て……冷静に、静かに話そう」
お藤の手を刺激しないように押し退け、束の草稿を抱えてうろうろと狼狽える市井の姿を見ていたら、お藤の怒りは次第に解れ、すると、嫉妬に気を違えた自分の方が愚かのような気がし、可笑しさが込み上げてきた。五十代の市井は最早若妻で精一杯。浮気に使う体力がないことくらい、お藤がいちばん良く知っていた。
兵蔵の方は、お藤宛ての文をしたため、それを下男に託した。内容は簡素なものであったが、必死で自身の感情を押えようとしているのが、文章全体から伝わってきた。達筆の兵蔵の筆が、読み進めるのが苦しくなるほど乱れていたからだ。
来年の話だそうだが、記録所役を務める父親の口添えで、高禄の武家の用人として勤めることが決まっているという旨のことが、つらつらと書いてあった。肝心な、兵蔵の許嫁のことや、祝言については何も記るされていない。お藤はその文を何度も読み返し、一度、胸に深く抱いて涙を落とした。
祝言から三年の月日が経った。お藤は十九、夫の市井は今年五九である。春先に市井は体調を崩した。倦怠感が抜けないと言っては、柱に背を凭せ掛け、休息を取ることが多くなった。食事も余り取らないので医者を呼んで診て貰ったけれど、疲労だと診断されただけで薬も出なかった。
その年の夏、母富子の情夫である源蔵が息を引き取った。七四だったと言うから大往生である。夜、寝る間も惜しんで病床に伏せる源蔵を看病していた富子が、必然的に源蔵の死に水を取ることになったのだが、翌朝、遺骸は早々と本妻の元へ引き取られて行った。無論、富子が葬儀に参列することは赦されなかった。源蔵の遺物はそちらで処分してくれと、わざわざ本妻がやって来て頭を下げたらしい。化粧料の名目で、金を包んでよこそうとしたらしいが、その申し出を丁重に断り、金を受け取らなかったのは、富子の、女としての意地なのであろう。
夫人は六十代後半の品のある方なのだと、富子は涙を流して言った。二人の女の間に蟠った長い確執劇は源蔵の死により終演した。お藤はそう楽観視し、安堵に胸を撫で下ろした。
源蔵の四十九日が済んだころを見計らって、お藤は富子と源蔵の墓参りをした。墓前に座ると、今にも軽快な江戸弁が聞こえて来そうな気がし、もう会えない寂しさに、お藤も富子も涙した。
晩秋、お藤は流産した。流産はこれで二度目であったので、源蔵の死や、市井の体調不慮を案ずることからきる辛労が、流産を招いたとは思われなかった。子が腹で育たない身体なのだろうと、後の処置をしてくれた産婆が言っていた。
市井の先妻の仏壇脇に置かれる、小さな水子地蔵二体に手を合わせている時、もう二度と身籠もらないことを誓った。お藤は十九にして我が子を胸に抱くことを諦めた。
「先生はどんな具合?」
最近ちょこちょこ訪ねてくる富子が、風呂敷包みを解きながら言った。中には縫い上げたばかりの浴衣が入ってる。白地に真赤な金魚が数十匹も描かれた、まるで幼い女の子の着るような浴衣に、お藤は面食らった。
「普通よ。暑さで食欲は落ちているけど」
お藤は言いながら麦湯を差し出した。視線は派手な浴衣に釘付けだ。
「執筆の方はどうなんだい?」
「だるいから書く気になれないってゴロゴロしてるわ」
「そうかい……困ったね」
富子は一度広げ、畳んだ浴衣をお藤の膝前に置いた。
「あんたのだよ。似合うよきっと」
「……」
「気に入らないのかい?」
「あたしもう十九で人妻なのよ」
不満を口にすると富子は如何にも寂しそうな顔をした。お藤はあわてて、
「でも、ありがとう」と言って微笑んだ。源蔵を亡くしてからというもの、富子は、以前とは人が変わったようにお藤に依存するような素振りを見せる。お藤はそれをとても気にした。
「先生が書けないんじゃ、暮らしは大変なんじゃないか?たしか、夏にも暑いから書く気にならないとか言ってなかったかね?」
富子の探るような視線を交わし、お藤は内心、溜息をついた。富子の声など、まるで聞こえないような顔付きで茶をすすった。
「ここの家賃だって高いんだろう?」
富子は麦湯には手をつけず、膝の上で畳んだ風呂敷を弄んでいる。
「いっそのことさ、うちに戻ってきたらどうかね?」
お藤が睨むような目付きをしたので、富子は慌てたように手を振った。
「そうじゃないんだよ。二人でさ、あの……源蔵さんの住んでいた離れに住んだらどうかと思ってね。綺麗なんだよ。二間しかないけど、二人暮らしなんだから充分だろう。子供ができて人数が増えたら、建て増しすればいいんだしね」
「そうはいかないのよ」
お藤は突き放すように言うと、麦湯を盆に返した。片手を畳について、二階の市井を伺うように、廊下に目をやった。いつものことだが二階は静かで、人の動きは感じられなかった。
「修治さんにも男の意地ってもんがあるでしょう。四十も年の離れた女房の実家に転がり込むなんて、する人じゃないわ」
「でもね……」
と言いかけた富子の言葉を、お藤は遮るように言葉を重ねた。
「確かに、今年になって稿料は減ってしまったけどね、それでも蓄えは充分すぎるほどあるんだから、遊んでたって十年は暮らせるわよ」
「そうは言ってもね……」
お藤はもじもじと腰を動かしてうつむく富子の傍に寄り、母子が逆転したように、手を取って微笑した。
「おっかさん、寂しくなったらいつでも来てくれたらいいんだよ。ね、修治さんは、ああ見えても頑固な人だし、変に意地を張るところもあるから、神社に移り住もうなんて言ったら、あたし離縁されちゃうわよ」
お藤は声高に笑って富子の手の甲を叩いた。
富子が帰り、夕食の下準備も終えたお藤は、縁側に立って夕焼け雲を眺めていた。橙色に染まった入道雲の上の方は、まだ太陽の恵みで光り輝いている。あの先に、地上とは違う、別の世界があるのではと想像させるほど幻想的であった。幼少からお藤は、一日の終わりを告げるこの時刻を好んで眺めた。
「お母さんは元気そうだね?」
見とれていて、市井が下りてきたことに気付かなかった。振り向くと、身体が触れ会うほど傍にいた。
「相変わらずよ。お腹はどう空いた?」
「ん、空いてない」
「そう……」
お藤は市井の腰に片手を潜らせると、頭を肩に置いて夕焼けを眺めた。腰骨に手が触れた時、お藤は腕の力を弱めた。元来、細身の人であるが、日を追う毎に痩せてきているようである。市井に肩を抱き寄せられると、汗の臭いが鼻腔をついた。
「湯屋にいこうか?それとも行水する?」
お藤が顔を上げて聞くと、市井は「臭いか?」と聞きたそうな顔でお藤の目を見、「うん、湯屋に行こうかな」と、いつもと同じ返事をした。
近頃、市井はお藤に素肌を見せる事を、極端なばかりに拒否をする。月、一度ほどに減った夫婦の営みの際でも、行燈の火を消せと、生娘のようなことを言いお藤を興醒めさせる。所帯を持ったころは、あんなにお藤を珍しがっていたのに、今では市井の方が恥ずかしがり屋だ。
湯屋を出ると、二人は真っ直ぐ家には戻らず、近所に新しく開いた煮売酒屋で食事をした。
「夕食のために買った食材が腐ってしまうから帰りましょう」と、お藤は外食に反対したが、
「そんなもの今夜中に近所に配れば良いだろう」と、市井が聞く耳を持たなかった。干魚と沢庵、大根の味噌汁だったので、無駄になるのは味噌汁くらいだろうと、最終的にお藤が折れた。
今夜は風もなく町全体が心地がよい。そのせいだろうか、市井の体調も良いようで、もう、酒を銚子で三本も空けている。無論、酒好きのお藤も手伝った。
「調子に乗って飲むと、また苦しくなりますよ」
酒を頼もうと、女中を呼ぼうとする市井の手を押さえてお藤は言った。
店は、水茶屋のような長椅子が三つ縦に並んだだけで飾りもなく薄暗いが、居心地は悪くなかった。長い脚を持て余し気味に座る市井の上体は、心持ち、前後左右に揺れていた。
「何を言ってるんだよ。私はね、お前よりも随分と長いこと生きているんだよ。自分の限界は自分で判断できる」
うるさいとでも言いたそうに市井はお藤の手を振り払い女中を呼び寄せて燗徳利を二本も追加した。お藤は呆れて溜息を吐いた。
「なんだいお藤、お前、私が酔うのが嫌いか、醜いと思っているのか?」
市井の口調は、酔っぱらい独特の、粘っこいものになっていた。お藤の知っている市井は、酒は飲んでも嗜む程度で、決して酔わない。ましてや飲まれたことなどない。何に対しても、惚れ惚れするほど自制が強い。こんな風に酔った市井を見るのは初めてのことである。
「私だってね、時には格好悪いんだよ……疲れるんだよ……」
「………」
「ここにいる連中だってね……」
市井の物言いは、明らかに普段と違っていた。片手を大きく振り上げて、店内を指した。
「みんな、お前のことはを、女房ではなく、私の娘だと思ってるんだよ。いや、孫だな。ハハハハ……」
市井が大声で笑ったので、店の客が皆、振り向いた。恥ずかしさでお藤は肩をすぼめた。こぢんまりとしているが、新しいだけあって、清潔な印象の店内には男の客が十名ほど、長椅子に座って肴をつまみに飲んでいた。奥には座敷もあるようだが客はなく、薄暗い店内の衝立の向こうは更に暗かった。板場には痩せた店主、おかみらしい女は女房なのだろう。小柄で愛想の良い四十女だった。他に女中が一人いて、馴れない手付きながらきりきりと良く働いている。
「あたしと一緒になったことが辛いの?」
しばらく黙っていたお藤が市井を覗き込むようにしてそう聞いた。
「あたしと一緒になったことを後悔してるの?あたしは毎日、嬉しいんだけど……」
「辛いな……」
市井は突き放すような冷淡な口調で答えた。お藤の気の強い目にみるみる涙が浮かんだ。
「すまん」
お藤の涙を見て、市井はがっくりと肩を落とした。盃を持つ手を膝の上に据え置くと、項垂れたように頭を垂れた。お藤は片手を市井の股に置き、首を曲げて市井の顔を見ていた。目を瞑った市井は、うんうんと小刻みな感じでうなずいている。
「お水を下さい」
お藤は手を振って女中に告げると、市井の盃を取って身体を抱き込んだ。市井は眠ってしまっていた。寝息を立て、苦しそうに眉間を寄せて寝ている。お藤は我が子を寝付かせるような動作で身体を揺らした。
「ご亭主、寝ちゃったわね」
水を運んで来たのはおかみである。気のよさそうな笑顔で水を渡すと、盆を抱え込んで腰を曲げた。
「あらっ夫婦に見えますか?」
いつも親子に間違えられるので、お藤は嬉しくなって頬を染めた。
「違うの?」
「そうですよ。うちの亭主なんです、この人」
お藤は言うと、市井の鬢に頬を擦りつけた。少し白髪が目立ち始めたようだ。髷も年々心細くなってきている。
「そうよね。いくら仲の良い親子でも、そこまでふっつかないもんねアハハハ」
(なーんだ)お藤は心で舌を出した。見た目ではく、行動で夫婦と思われたのだとがっかりしたが、これほどの年の差があれば仕方がなく、また実際、この頃の市井は実年齢より老けて見えた。
「とってもお似合いよ。きっと結ばれる運命だったのね」
おかみは、お藤が飛び上がるほど嬉しいことを言った。板場から呼ばれて去ったおかみを横目で見送り、市井の頬に口を寄せた。
「修治さん、帰ろうか?」
「うん」
うなずく市井に水を含ませ、勘定を済ませると、蹌踉とした足取りの市井の腕に肩を入れて、家までの堀縁を歩いた。ずり落ちそうになる市井の胴を掴んで時々ゆすり、空を見上げると満月だった。心地良い風に頬を撫れるたびに立ち止まっては、市井の乾燥した頬に口を寄せた。市井も意識があるらしく、苦々しく微笑んでは、すまんなと謝った。
つづく