懐古ー(若い二人の淡い想い)
懐古とは、回想の場面でありますので、年代の違う場面が最初と途中からで分かれます。
「塩っ気が多かったかしら?」
お藤は兵蔵の唇の端についた米粒を取って食べ、両手で自分の握り飯を頬張った。
「いや、お藤のこしらえるものはいつも良い塩梅だぜ。うちのとは大違いだ」
「またそんな憎たれ口をたたいて。言い付けちゃうわよ」
「ふん。どうでもいいや」
兵蔵は気分が萎えるとでも言いたそうな不平顔だ。家の掃除が一段落し、お藤と兵蔵は、二階の、かつて市井が使用していた書室の縁側で握り飯を食べていた。最初、兵蔵は茶の間で、お藤だけが書室の縁側で食事を取っていたのだが、一人じゃ味気ないと言って、兵蔵も二階に上がってきたのだ。
大人が二人腰を下ろすのが精一杯な狭い縁側は、往来を行き来する人々の話し声が良く聞こえる。詳細な、秘密めいた会話の内容などが小耳に入ると、思わず身を乗り出して下を覗いてしまうのだが、そうすると、なぜか、その見知らぬ人たちの人生の一端を盗み見しているような気がして怪しく愉しい。
それが知り合いならなお愉しいが、お藤の知り合いは皆、ここを通る時は縁側を見上げるようにして歩いているので、通りと縁側の上と下で目が合ってしまい、互いに奇遇を装った挨拶を交わしたりするのが気詰まりでもある。
下を歩く人々への感心を保留し、景色を愛でる仕草で真っ直ぐ向くと堀割が見える。お藤のように人見知りのしない性質の女には顔見知りが多く、猪牙舟の船頭の殆どが知り合いだ。と言っても、専ら川面と縁側の付き合いで、地上で言葉を交わした回数は少ない。彼等はお藤の姿を認めると、客を乗せているのにも関わらず、軽く手を上げて微笑した。お藤の方は声を上げて、時候などを延べ、両手を大きく振って見せるので船頭の受けが良い。
市井が執筆で相手をしてくれない時お藤は、この縁側で過ごすのが日課のようなものだったので、自然と彼等との交流を持つようになったのだ。
「もうすっかり秋なのにね、どうしてこんなに暑いのかしら?」
「毎年、こんなもんじゃないか」
そう言う兵蔵の額には玉のような汗が並んでいた。
一階は、萎えるような暑さで、その暑さを表現すると、それはまるで見えない帳で家を覆われたかのような感じである。二階の縁側はまだましだ。風の動きがある。それでもじりじりと焼き付ける日差しは、瓦や天上を通り抜け、頬や、肩を熱くした。
「暑いわね、死んじゃうわよ」お藤は笑い、袂を押さえ手を振っている。不思議に思った兵蔵がお藤の見る方に目をやると、堀割を、猪牙舟が何艘も忙しく行き交っていた。お藤は船頭に手を振っているのだ。向こうから、「暑いなっ!」という声が飛んだ。お藤は答えずに手を振り続けている。顔は満面の笑みだ。相当の親近感を持つ男らしい。相手が若い男ではなく、よいよいの爺さんなので兵蔵は眉をひそめて苦笑いをした。
堀の水は連日の残暑で、どろっとした濃い緑に変色している。
「あれに乗るなら、歩いた方がましだな」
兵蔵のつぶやきにお藤は気付かないようだ。無心に手を振り続けている。「お藤ちゃんは相変わらず別品さんだね」声の方を兵蔵は膝立ちになって見て、ふっと小さく息を吐いた。その表情には嫉妬の影があった。
「美味しい?」
漸く座り、握り飯を食べ始めたお藤が聞いた。膝立ちになって手を振っていてはきりがないので、舟の間隔が開いたところでお藤は身体を室内の方に向け、縁側の柵に背を凭せ掛けた。両脚は伸ばし、形の良い脹ら脛は室内に投げ出された。つま先は音頭を取るように動いている。この体勢ならば、いちいち船頭に手を振る必用はない。
「丁度いいよ。お藤の手の味がする」兵蔵は言ってから眉をあげて意味深な微笑をした。
「呆れた」お藤はしらけた顔をした。
「変なこと言わないでよ。ちゃんと手を洗ってから、握ったんだからね」睨むようにして言った。
暑さのせいからか、お藤は食欲がない。朝食は抜いたので、昼時になってから飯を炊き、梅干しを入れた握り飯を五つ拵えた。二つはお藤、残りは兵蔵の分である。兵蔵のは幾分、大きめに握っておいた。
「本当にからくない?」
口いっぱいに握り飯を頬張っている兵蔵は口が聞けないので、首と手を振って、からくないよと返した。そう?とお藤はうなずいて、自分の握り飯をじっと見た。
市井との生活が長かったお藤には、塩気が強いように思われた。しかし若い兵蔵の口には合うようだ。「ここにこうして二人で座るのは初めてだね」
握り飯を全部平らげた兵蔵は、冷えた麦湯を飲むと物憂げな声を出した。
「うん」お藤はうなずいた。まだ一つ目の握り飯を持つ手を膝の上に置き、顔は兵蔵ではない、黒江町の方を向いていた。汗に滲んだ髪の生え際が艶めかしい。兵蔵は切なげに目を細めた。
「どうした?先生のことを思い出しているのか?」
「いいえ……」
「そうか……」
「終わったのね、すべて……」
お藤は言うと、食べかけの握り飯を皿に戻し湯飲みを取った。
真冬でもない限り、市井とお藤の二人は良くここに座り、人の従来を眺めては、いろいろと勝手なことを想像して笑った。市井は抜け目のない男で、こういう何気ない日常からも、次の物語の手掛かりを探しているようだった。人間観察に長けていて、たまにお藤を連れ煮売屋や、水茶屋にゆく時でも、同じ店ではなく、遠出になっても別の店を探し、そこの給仕人に特徴を求め、めぼしい人物に出会うと、にやりと口元を緩め、実際よりもかなり大袈裟に、物語に登場させた。自分好みの、美貌の女を発見した時などは、それはもう詳細にその女を描くのであるから、まだ年若いお藤は良く悋気を起こしたものだ。
お藤はとても嫉妬深い性質である。ある時、書室を掃除していたお藤は、市井の机の引き出しの中をなにげに開けると、そこに女の名が連なった用紙を見つけた。昔の女の名の一覧だと勘違いしたお藤は激しく嫉妬し、それをびりびりに破いて捨てたことがある。
数刻後、帰宅した市井が、
「おかしいな、登場人物の名を決めるために、思い当たる名を書き出した用紙があった筈なのだが、ないな、見なかったかお藤」机を覗き込んで探していた。これにはさすがのお藤も焦った。
「いいえ、知りませんよ」と惚けておいて、急いでゴミ捨て場に駆けて行って粉々になった紙を掻き集めると、市井には見えないように繋ぎ合わせて、どうにか、こうにか、五十もあろう女の名を、筆で丁寧に書き写したものだ。市井の居ぬ間に、そっとその用紙を机の中にしまったけれど、それがお藤の筆跡であることは一目瞭然で、市井から叱られることを覚悟したが、部屋に戻った市井は、それを探し当てると、手に取り、しげしげと眺め、「とんだ徒労だな、お藤」と、盗み見するお藤に背中越しに言うと、肩を揺らして笑っていた。
「どうした?」
思い出し笑いをするお藤を、兵蔵は怪訝な表情で見つめた。
「ううん、何でもないのよ」
お藤の癖である。一人勝手に思い出し笑いをし、人に咎められると、何でもないのよと、手を振る。そしてまた笑うのだ。兵蔵は馴れていたので、それ以上は追究しなかった。
「あの日のことを覚えているか、お藤?」
「……?」
「俺が十六で、お前が十五の秋だったかな、二人で遠出をしたことがあるだろう」
「ああ……」
お藤は、溜息のような返事をすると、二人で駆け落ちしたのよね、と微笑んだ。あの頃は必死だったと、兵蔵は苦笑いし、お藤の膝に躊躇なく手を伸ばした。
境内を穿くお藤の目を、木々の隙間を抜けて斜陽が射した。「まぶしい」お藤は髙箒を胸に抱き込み眉間を寄せた。軽い目眩に襲われた。その場に蹲ろうとすると、脇下に腕を入れて支えられた。お藤は何事かと一瞬、硬直したが、すぐにその緊張は解きほぐされた。淡い沈香のような香りがする。しかしそれは沈香ではない。少し色気はないが、嗅ぎ馴れた線香の香だと知っている。軽く目を閉じ、修治さんと、つぶやいて意識が消えた。
「なんで兵蔵さんなのよ」
お藤は腹が立っていた。市井が迎えに来てくれたのだと思い込み、安心して身体を預けたのに、目を覚ますと、枕頭に座って顔を覗き込んでいたのは兵蔵だったからだ。色白の、つるんとした剥き卵のような肌を、これ見よがしに近づけて、ああ、良かったと目を潤ませる兵蔵を疎ましいように顔を背けた。
「なんてことを言うんだろうね、この子は」
母の富子が怒っている。人が寝ているというのに、ばたばたと埃を立てて室内を行ったり来たり忙しない。源蔵の具合が悪いのだ。傍を離れるいると落ち着かないらしい。
「兵蔵さん、気にするんじゃないよ。昔っからこの子はこうなんだから。全く人の好き、嫌いが激しいんだよ」
「そっそうなんですか………好き嫌いが激しいので………」
兵蔵はあからさまに落ち込んだ。
「おっかさん。そんなこと言って、兵蔵さんを慰めるところか、傷付けてしまったじゃないの」
「えっ………何のことだい?」
「いやいやいんです。できればそれ以上、掘り下げないでいただきたい………」
兵蔵の目の下は、隈のようにみるみる青くなった。
「ほらね」お藤は兵蔵を見てから、富子にうなずいた。
「ほらねじゃ分からないよ」
富子には兵蔵の銷沈の意味がちんぷんかんぷんだ。若い二人に構っている暇などないといった風に、「ただの月の物のせいで具合が悪くなっただけなんだから」と、去り際に、恥ずかしい捨て台詞まで残した。
「そろそろ、お暇しようか……」
月の物と聞いて、兵蔵の顔色は、高熱でも煩っている人のように真赤になった。恥ずかしくて、掛け布団の中にすっぽり顔を隠したお藤は、うんうんと二度うなずいた。立ちあがった兵蔵が、床に置いた刀を腰に差している音が聞こえる。
「お藤ちゃん。元気になったら、また先生の家においでよね」
お藤は夜具の下で首を振ったので、兵蔵は困ったように立ち竦んでいたが、やがて、「じゃあ」と言って出て行った。兵蔵が去り、障子が閉まると、玄関の方から、富子の大声が響いた。
「あらっ兵蔵さん、帰るのかい。なんで、なんで、なんで?おやつでも出そうと思っていたんだよ」
「あっ。いいえ、忙しいのでお暇させていただきます」
「いいじゃないか、冷たいね」
しつこく迫る富子に、兵蔵が何か、いい訳がましいことを言ってるのが、布団の中のお藤にも聞こえたが、富子のうるさい声がそれにかぶさり、はっきりとは内容は分からなかった。
「あれじゃ、岡場所の女郎だよ」
やっと顔を出して一人つぶやいていると、富子がばたばた上がってきた。
「兵蔵さんたら、気を遣うことないんかないのにねえ。変な人だよほんとに」
「なんだかねえ、兵蔵さんを、居難くしたのは自分じゃないの」
「あたしがかい?それは違うよあんた………」
富子はしゃべり続けていたが、お藤は、背中を向けて、
「あたし、兵蔵さんを嫌ってなんかいない」と言った。富子は自分のおしゃべりで忙しいらしく、お藤の言葉を聞いていなかった。源蔵の元へ戻りたい気持が、富子の物言いを、早口で捲し立てる口調にしていた。
兵蔵さんを嫌いじゃない。お藤は心の中でもつぶやいた。嫌いどころか、寧ろ、好意を持ってる方だ。この一年半、市井の家に行かなくなったお藤の元を、兵蔵は毎日、訪ねて来てくれていたし、しっかりとお賽銭だって入れてくれる。ありがたい参拝客でもあった。
兵蔵は大抵、夕刻時に神社へやって来る。そしていつも決まって、「よっ」と手を上げるので、お藤がにっと笑うと、有り体なことを一言、二言、つぶやくだけで帰っていく。これで一年が過ぎた。母・富子が言うように、兵蔵が自分に気があるとしたら、随分、奥手だとお藤は思う。
兵蔵は華奢だが上背があり、出会った当時に比べ、男らしさも増したと、お藤は感じていた。夏でも、一向に焼けない肌を除けば、鼻筋も通り、眼元はきりりと涼しく、笑顔が人懐こい青年だ。剣の腕の方は知らないが、とにかく文学には明るい読書家だ。次男坊なので、侍はいつやめてもいいのだと、以前は口癖のように語っていたが、最近はそんな愚痴めいたことも言わなくなった。自分の文筆の才能を疑い始めているのかも知れない。
市井は時折、兵蔵に対し冷たく当たり、苦い顔を見せる。そして決まって、「戯作者なんてつまらねえぞ」と言うのだ。文筆で収入を得、それで飯を食い、土地を買い、家を建てることの難しさを解くが、兵蔵は聞く耳を持たなかった。
市井の暮らす、門前仲町のしもた屋でさえ、借家なのだから、市井は別に、自分だけが類い稀な才能に恵まれたと自慢しているわけではない。
「人生の経験を積んで、苦渋をたくさん味わい、その後で、書いてみたらどうか」と市井は諭す。
「想像の世界だけでは、人の心に響く作品は書けないんだよ」と市井は言うのだ。次男といえども、武家に生まれたのだから、有り余る体力は文武に注ぎ、良い婿入り先を探して貰うのが良いと、道筋を立てて聞かせるのだが、余りしつこく言うと、「私には才能がないのですね」と泣き顔をして、酷く落ち込むので、それも面倒だとでも言いたそうに、市井は、話しを切る頃合いを計って席を立つのが常であった。
お藤が境内で倒れた日から三日もおいて、兵蔵は参拝に来た。いつもより、おどおどした態度は、富子の言葉を気にしているからなのかも知れない。お藤は震えた仔犬のような兵蔵を見ると、ついつい意地悪をしたくなる。この日は朝から雨で、他の参拝客の姿も見えない。どういった経緯からか、兵蔵は真赤な番傘を差していた。
「あら兵蔵さん、珍しいわね」
お藤は一つ年上の兵蔵を目下のように扱った。傘を斜に構え、お藤に見えぬよう、身体半分を隠すようにして帰ろうとしていた兵蔵がふと足を止め、傘を真上に戻した。
「兵蔵さん、いらっしゃいな」
授与所の中から、お藤がひらひらと手を振ると、兵蔵は二、三歩横歩きし立ち止まり、ゆっくりとお藤に向いたが、まだ顔は隠したままである。見ると、刀の柄を袂で庇っている以外は、身体半分がびしょ濡れである。
「お侍は、傘は差さないんじゃなかったの?」お藤の頭の中に、ある出来事が蘇ったのでそう言った。
「………いや、それは」
立ち止まったまま、凍ったように動かない兵蔵が、お藤は面白くて堪らない。
「ほら、言ってたじゃない。随分と前だけど」
お藤は、二年も前のことを話している。
市井の家からの帰り道、突然の雨に降られたことがある。その日は、朝から雲行きが怪しく、お藤は傘を持って出ていたし、帰りも、その傘を忘れずに提げていた。永代橋を渡った向こう岸の旗本屋敷に住む兵蔵とは、帰る道筋が違ったのだが、その日に限って、どうしても送りたいと兵蔵がしつこいので、仕様がないと一緒に家を出て、なぜかさっさと先を歩く兵蔵の後ろを、とことこついて歩いた。
急な豪雨に町人が、手拭いを頭に被って走り出したり、雨宿りをしたりしているというのに、兵蔵は今日のように、刀の柄を袂で覆い隠して優々と歩いていた。
「兵蔵さん」
と背後から傘を掲げると、兵蔵は慌てたように飛び下がり、お藤を、不思議な生き物でも見るようにして見つめ、「結構………余り近寄らないで下さいね。おなごに寄り添われると困るのです」と、他人行儀な口を聞いた。「何なのよ!兵蔵さんが送るって言ったんじゃないの」むっとしたお藤は、ぷんぷん怒って、兵蔵など無視して帰った。
「あれは………」
兵蔵もあの日のことを思い出したようで、鼻の上まで傘を上げた。
「相合い傘を、………その、お藤ちゃんがしようとしたから」
「だって傘は一本しかなかったのよ」
「しかし私は町人ではない」
「あらあら本音が出た。じゃあ、どうして送りたいなんて言ったのよ」
「それは、その………」
「いいわ。別にもう気にしてないから」
お藤の声が笑っている。この時、漸く兵蔵は、隠していた目を見せ、そして苦笑した。
「いつもは侍なんていやだーて、泣き言を言っていたけど、最近はやめたのね」
「泣き言なんて……」
「とにかく、ここへ入っていらっしゃいよ」
兵蔵は、お藤の手招きに素直に応じ、売店の軒下に入って傘を閉じた。
「どうしたの、その派手な番傘?」
「鶴屋(版元)あの、女好きの菊兵衛の使いで、先生を訪ねて来た人の忘れ物を届けなくてならなくなってね、大事な用紙が濡れてはいけないからと、お紺さんが、どうしても、この番傘を差していけと言うので………」
兵蔵はそう言って、赤とんぼのような濃く渋い色をした番傘を恨めしそうに眺めた。
「ふーん、お紺がね」
むらむらとした胸騒ぎを、お藤は必死で押し殺ろした。
もうすぐ市井と約束した期限が迫っている。半月もすれば市井に会いに行けると、お藤は落ちつかない日々を過ごしていた。この一年半、お藤の心に揺らぎなどはなく、寧ろ会えない分、市井への気持が深まったようである。不安がない訳ではない。市井の真意は見え隠れしたままだ。例えば、この一年半の間に、市井がお紺を選んでいたとしたら、もうお藤が出る幕ではない。
「お紺はまだ女房のような顔で修治さんの元にいるのね」
お藤は言って、雲のような、白い溜息を吐いた。そんなお藤の感情の動きに気付かない兵蔵は、着物についた雫を手で払っている。
「あの人、まだ修治さんの廻りをうろついているのね」同じ様なことを言ってみた。
「うろついているだなんて、まるで夫婦のようだよ」
「………」
言った後、すぐ、あっ!と言って兵蔵はお藤を見た。お藤は不適な笑みを浮かべている。兵蔵はぎょと後ろにしりぞいた。
「二人は夫婦じゃないのよ。それとも祝言でも挙げたっていうの」
お藤が低く言うと、兵蔵は慌てて手を振った。
「いやいや、深い意味はない」と弁解した。しばしの間、二人は他愛のない世間話をした。話すこともなくなると、二人はぼんやり宙を見た。(夫婦のようだ)という兵蔵の言葉が頭から離れない。この一年半、嫉妬が胸に巣くい、堪れない日々を過ごしてきたのも事実である。やはりお紺に負けたのだと悲しくなった。
「あの、お藤ちゃん」
兵蔵が妙に神妙な顔付きでお藤に向き直った。
「今日、ここへ来たのは、ただ参拝がしたかったからではないんだよ」
「知ってるわよ。あたしの顔を見に来たんでしょう?」
お藤は兵蔵をからかった。しかし、兵蔵はそれに乗って来なかった。どこか物憂げに、お藤の目を見つめている。お藤は不意に居心地の悪さを感じ、目を逸らした。
「大切な話しがあるんだ。聞いて貰いたい」
兵蔵の声は真剣だった。お藤は少し怖くなった。薄暗い境内を見渡して、意味もなく微笑んでみた。兵蔵は一歩、前に出て、お藤と視線を合わせようとした。途端、お藤はうつむいた。
「縁談がね、そんな話しがあるんだ」
「あたしに?」
お藤は顔を上げて指で自分をさした。
「俺にでしょう、普通………」
「ああ、兵蔵さんに。良かったじゃない」そっけなくもあり、ほっとしたようでもある言い方だった。
「………」
「それで、いつが祝言?あたしも呼んで貰えるのかしら?」
「お藤ちゃん。ちゃんと聞いて」
兵蔵は軽く首を振って、お藤の気持を探るように上目遣いで見た。
「お藤ちゃん。急に驚くかも知れないが、俺と一緒に逃げてくれないか」
「へっ……」
お藤は首をかしげた。兵蔵の言ってる意味が分からない。
「お藤ちゃん」
次の瞬間、兵蔵は売店の中に入り込み、お藤の手を引いた。
「痛いわよ。兵蔵さん」
緊迫した事態なのに、なぜかお藤は冷静だった。
「行こう」兵蔵はうなずいた。
足を踏ん張るなど、抗うこともできたが、どうしたことか、お藤は抵抗しなかった。火鉢を飛び越え、冷たい雨の下に出ると、急に立ち止まり、着替えてくるから待っててと言って、足早に家に入り、線香が燃え尽きるのより早く、家から出て来た。
髪は下髪であったが、絣の着物に真綿の詰まった半纏を着て、頬を赤く上気させていた。
「さあ、どこへ逃げる?」
どう見てもお藤の方が積極的に見える。兵蔵は圧倒されたように二三歩後ろずさったが、すぐに気を持ち直し、行くよ。とお藤の手を取った。
「待って、兵蔵さん。あたし傘を忘れたわ」
幾分、小降りになってはいたが、お藤は言うと、白い空を見上げて片手をかざし、目を瞬いた。
「傘、傘……?あっ、こんなところにお紺さんと同じ傘が、これお藤ちゃんのだろ?」
兵蔵は売店に立て掛けてあった真赤な番傘をさしてそう言った。
「兵蔵さんて馬鹿ね。それ、兵蔵さんが差してきた、お紺の傘じゃないのさ」
「あっ……」
声を無くした兵蔵の袖をひっぱり、お藤はもう一度、「どこへ逃げる?」と聞いた。
「こんなところちょくちょく来るの?」
二人は茶屋の一室にいた。四畳半程度の座敷に衝立で仕切られた、三畳ほどの間には夜具が一組、延べてあり、覗いたお藤を凍らせた。
「いや、初めて」
濡れた着物を衣桁に掛けながら兵蔵は言った。
ここへ来る途中、お藤は二人で傘に入ろうと幾度も言ったが、兵蔵は「武家の身分、相合い傘は駄目だ」と、他人のような顔をして先に行くので、お藤は小走りで、人と傘の間を縫って歩くのに必死であった。これではお藤の考える道行きとはほど遠い。黙々と後ろを歩くお藤は馬鹿馬鹿しくなり、何度か、引き返そうかと立ち止まった。しかしこの一年半の退屈な日々に舞い込んだ、思いも寄らぬ「遊び」に、元もと好奇心の強いお藤の心は高鳴っている。お紺と市井への当て付けも手伝い、理性や秩序などで、自分の行動を抑えることができなくなっていた。
「でも、他には脇目もふらず、一目散に、ここに来たじゃないの?」
「ここの場所だけは知っていたんだよ。入ったことはない。そんな根性、俺にはないだろう。意気地なしだからさ」
「そう、そうね。あたしは場所も知らなかったわ」
「だろうね………知っていては困る」
意気地なしという言葉をお藤に否定して貰いたかったのか、兵蔵は軽く眉を下げたが、お藤は気付かぬようだ。
「ここへ来る、あの曲がった大きな橋で、あたし転びそうになったのよ」
「そうなのか?」
「知らないの?」
お藤は責めるような口調で言った。
「兵蔵さん、さっさと行っちゃうんだもの、知らないわよね。本当に転びそうになって怖かったんだから」
お藤は束ねた髪の毛のやり場に困ったように、首の前に垂らすと、馬の尻尾を撫でる仕草で、うつむいた。
「それで、これからどうするの?あたしたちどうなっちゃうんだろうね」
「………」
部屋の隅に正座した兵蔵は、叱られた子供のように首を垂れて膝を掴んだ。
「兵蔵さん、実は何も計画していなかったのね。そうだと思った」
「いや、そんな訳では、ただ………」兵蔵は黙り込んだ。
「ただ、何なのよ」
なかなか話しの進まない兵蔵に、お藤は苛立ちを覚えた。連子窓の脇まで立ってゆき、外を眺めた。小雨から、雪に変わった景色が美しい。多く水分を含んだ雪の雨が、まるで大きなお堀のように、茶屋のある小島を囲む池の中に落ちては消えた。
「お藤ちゃんと、ゆっくりと静かに話しがしたかったんだよ」
兵蔵も窓に目をやった。
「ほれっ」お藤は変な声を出すと、「逃げようなんて気はなかったんじゃないの?」
と兵蔵を見ないで言った。「水に浮かぶ水鳥たちは寒くないの?」とつぶやいたが兵蔵には聞こえなかった。
「確かに、逃げるというのは唐突すぎたかも知れない。けどねお藤ちゃん」
兵蔵は顔を背けるお藤が怒っているものと勘違いしていた。よしっと気合いを入れるようにして立ち上がり、お藤に近寄ると、勇気を出して、そっと肩に手をふれた。
「何すんのよいやらしい」
「えっ!」
お藤は凄い顔付きで兵蔵を睨むと、兵蔵から離れ、火鉢に寄って手を摺り合わせた。兵蔵は室内の寒さと心の冷えで顔を蒼くして、茫然と窓際に立ち竦んでいる。
「ここへ座りなさい」
「……」
お藤に促されるまま、火鉢を挟んで座った。お藤に対坐した。一体、どういった経緯があり、お藤に逃げようなどと言ったのか、詳しく説明させられた。
兵蔵の説明に依るとこうである。今年の春、六歳上の兄が妻を娶ったことで、次男である兵蔵の婿入り話しが俄に動き出した。そんなところに、昨日、記録所役の父親の元へ、父の朋輩で親交の篤い、御馬頭取の男が屋敷を訪ねてきて、兵蔵を、今年十五になったばかりの娘の婿にどうかと持ちかけた。
父の朋輩の男には娘が四人もあるけれど、昨年、四十にして漸く授かった男児を生後一月で亡くしたばかりで、妻も来年四十なれば、もう子供は望めないと諦めたらしい。そこで兵蔵のことを思い出したようである。
もちろん、すぐにという話しではなく、祝言は二、三年後の話しである。しかしお藤に思いを寄せる兵蔵は納得をしなかった。生まれて初めて父親に抗議した。兵蔵の父親は烈火の如く怒り、
「武士を捨て、戯作者になりたいなどと懶惰な性根は我慢がならぬ。縁を切ってやるから遠慮なく家を出て行け」と、兵蔵を家から追い出した。今朝の話である。
この、不思議な小島のような茶屋の存在は、剣術道場の先輩などから聞かされていたし、男女が密会をする場所だということも充分理解している。作為的に幾度か前を通ったこともあるので、兵蔵はこの小島に興味があった。いつかお藤を連れて来たいなどと、大それた考えこそ抱いてなかったが、以前からの関心が、兵蔵の足を自然とここへ向かわせたのかも知れない。しかし問題があった。肝心の金を持ち合わせてないのだ。衣桁に着物を掛ける時、兵蔵は初めて、そのことに気が付いた。
「愚か者」
「すまん」
話しを聞き終わったお藤は微笑んでいたが、内心、複雑であった。金なら充分用意してきた。その心配は要らない。しかし、果たしてここへ二人で泊まるべきかどうか、判断しかねている。家を出て来る時は、一泊くらい、旅に出る感覚で泊まっても良いかと思っていたが、ここにこうして兵蔵と膝を突き合わせると、やはりそれは不自然な行為のような気がしてならない。お藤十六、兵蔵十七。もう立派な大人である。お藤の心は、焦りと不安でいっぱいであったが、それを兵蔵に知られることに抵抗があったので、むりに笑顔を作ることで自分自身をも偽った。
「兵蔵さん、その娘さんとお会いしたことあるの?」
女中が料理を運んで来た後で、お藤は聞いた。年寄りで、怖い顔付きをした女中であった。若い二人の懐具合を気にしているのだろう。疑わしげな目付きで兵蔵とお藤を見比べてから座敷を出て行った。
「いやな感じの人ね。あたしたちが心中でもするかと疑っているのよきっと」
お藤は愚痴を言ってから、話題を兵蔵の許嫁に戻した。兵蔵は親の決めた娘のことは知らないと首を振り、幾分、赤味のさしてきた顔で、茶をすすった。
「そう。なら会ってみたらいいんじゃないのかしら。好きになるかも知れないじゃないの?」
「残念ながら、その娘を気にいることはない。なぜなら俺には、既に心に決めている人がいるからね」
兵蔵はお藤を見た。いつものおどおどした目付きではなく堂々と真っ直ぐ見つめている。お藤は困惑した様子で、兵蔵さんて一途なのねと言って笑い、腹が減ったと食事を始めた。。兵蔵の気持には気付かぬふりをした。
その夜、二人は衝立を挟んで寝た。夜中、衝立越しに兵蔵は、お藤へ抱く恋心を、洗い浚い打ち明けた。しかしお藤はその兵蔵の気持をきっぱり断った。そして明日にでも、市井の元へ行くつもりだと言うと、兵蔵には、武家として生きることを勧めた。それが兵蔵にとって最良の道だとお藤は信じている。
文筆の方は、いずれ、兵蔵が年を取り、隠居してからでも遅くはない気がしていた。兵蔵はお藤の提案については、真剣に考えると返答したが、そう言った後すぐ、すすり泣きのような声が聞こえてきた。森閑とした小島の、殺風景な室内は哀しみに包まれ、異常に寒い。兵蔵の押し殺した声の切なさに、お藤までも悲しくなり、夜具の中で忍び泣いた。
翌朝、勘定を済ませると、お藤は兵蔵一人を残して茶屋を後にした。
お藤が明け六つの鐘を耳にした時、兵蔵は既に起きていた。身形もきちんと整えた恰好で、先に行ってくれと言ったからだ。昨夜、眠れなかったのか、酷くやつれた顔が印象的で、目など真赤に充血していた。しばし泣いたあと熟睡してしまったお藤は、兵蔵の憔悴に胸を痛めた。
「ここの払いは、今日にでも先生の家に行ったときに返すよ」
そう言う兵蔵の、泣いて腫れたような目を、お藤は直視できずに、「いいのよ、そんなこと」と言って部屋を出た。
お藤は家には戻らず、昨夜、兵蔵に告げた通り、市井の家へ真っ直ぐ向かった。実家のことは気にならなかった。明日帰ると、走り書きを自室の文机の上に置いてきた。
母の富子はきっと、市井の家に泊まったと安心しているのに違いない。富子は理解のある女である。お藤の生きたいように生きなさいと言ってくれている。口うるさい祖母のことも、きっと母が宥めてくれていると確信した。
贅沢だとは思ったが、昨日の遠出で足が痛い。お藤は茶屋に、町駕籠を呼んで貰って門前仲町へと向かった。
永代橋を越えた辺りから、町は幼い頃からの見慣れた景色に変わった。一晩のことなのに、涙が出そうになるほど懐かしく思い、それがまた可笑しくて、一人、笑った。
兵蔵の、打ちひしがれた顔が、時折、胸を支配し、お藤の心に暗い陰を差すのが邪魔なようにも感じた。首を振って顔を覆い、大丈夫だからと何度も自分に言い聞かせ、気持を市井に向けようとしたが、いくら市井と過ごした愉しい過去を思い浮かべてみても、すぐに兵蔵への心配に気持を奪われる。胸をしめつける不安が頂点に達した時、お藤は声を上げて駕籠かきの足を止めた。
思い詰めた兵蔵が、死んでしまうのではないかという考えが、お藤にまつわりついた。戦慄した。根拠はない。ただ、兵蔵の蒼白く、憔悴した顔がそう思わせた。
さっきの茶屋に着くと、当然だが、兵蔵は去っていなかった。予想はしていたが、来てみないことには納得できない。次にお藤の向かった場所は、兵蔵の屋敷だ。屋敷の門前で駕籠を下りた。
知り合って間もない頃、この屋敷の前まで来たことが一度だけある。高尾稲荷に近いその場所は、長屋塀が、部外者を拒むかのように聳えている。
まだ十三だったお藤は、兵蔵と、自分の身分の違いを見せつけられたようでふと寂しく思ったものだ。
「これじゃ気軽に遊びに来れないわ」というお藤に、貧乏旗本だよ、いつでもおいでと笑って言った兵蔵を逞しく感じた。
「ああ、一度、来ておいて良かった」
お藤は、門の脇に設けられた番所を見つめて、そう言った。武家屋敷というものは、門前に表札など掲げない。なので目的の屋敷を捜すのは手間が掛かる。以前、来たことが役に立ったのだ。
お藤は一度、深呼吸をすると、荒い息を整えるように目を瞑った。
「お藤ちゃん」
遠くから、叫びに似た声に呼ばれた。深い安堵がお藤の胸を満たしたとき、身じろぎもしないで笑い出してた。傍に走り寄って来た兵蔵は、訝しそうにお藤を見つめ、そして、
「親の言う通りにすることに決めたよ」
と言って笑顔を見せた。兵蔵の無事を知って、お藤は涙を流した。それを見た兵蔵も貰い泣きをしていた。
兵蔵は市井の家まで送って行くと言って粘ったが、さっき走って来た時、左足を庇うようにしていたのを見ていたので、長歩きで足を痛めた兵蔵に無理をさせたくなく、「一人で大丈夫よ」お藤は断り、永代橋を東に歩いた。
市井の家が近づくにつれ、胸がどきどきと騒いだ。通り縋りの人達は皆、同様に肩をすぼめて寒そうだったが、お藤の身体は火照って熱いくらいだ。
陽岳寺にほど近い、富岡橋のたもとに来ると、身仕舞いを正して笑顔を作った。お紺がいることは計算ずくだ。昨日、兵蔵は市井とお紺を夫婦のようだと語っていた。その言葉は、喉に骨が刺さったように気になるが、それでも市井を信じていた。一年前の別れの朝、お藤を抱いた市井の腕の感触は、子供に対するものとは違うはず。もっと深く、遣り切れない男女の情交に似たものを感じた。といってもお藤には経験がないので、感覚でしか分からない。昨夜の兵蔵のように、今夜お藤が涙で枕を濡らす結果となっても仕様がない。全て覚悟の上だ。
家の前に着くとお藤は、市井のありふれたしもた屋を仰いだ。しばらくそうしていたら、興奮していた気持に落ち付きが出た。
見慣れた古ぼけた格子戸を開け、飛び石を軽快に歩いた。玄関先で立ち止まって周囲を見渡した。家を照らす光りの強さが違う以外は、一年半経っても変わったところがない。安心した。表戸に手を掛けた時、突然、叩き付けるように扉が開いた。扉が自分に向かって倒れて来るのかと思い、お藤は驚愕し三歩下がった。目の前には、懐かしい市井がいたが、どうも様子が変だ。
「修治さん、お藤よ……」
語尾は殆ど聞き取れないほどに小さかった。お藤の前に立つ市井の目は、憤怒で赤く滲んでいた。予想外の異常な光景に、お藤はまた、二歩も下がった。
「どこに行っていた?」
聞いたことのない怖い声である。母の富子が心配して、市井を訪れたのだと分かった。ここで、理解のある母親像は抱懐した。
「お母さんが泣いて心配していたぞ。神社でも大騒ぎだ。お母さんは、お前がここに来るのではと、昨夜、一睡もしないで……、明け方帰って行ったんだぞ」
「………」
「何とか言いなさいっ!」
市井はお藤が飛び上がるほど大きな声で怒鳴った。幼少期に父親を亡くしているお藤は、男に怒鳴られた記憶がない。亀のように首を肩に埋めた。すると手首を掴まれた。
「どこへ行ってた、お前はそんなふしだらな娘になったのか」
と詰め寄られると、お藤は本当に怖くなり、声も出なくなっていた。
うつむくと、市井は裸足であった。お藤は髙下駄を履いているせいか、背が市井の肩を越していた。一年半前は、背伸びをしても胸の辺りに頭があった。こんな状況下で、また背が伸びたのだと実感していた。少し嬉しかった。思わずくすりと笑ってしまった。
「ふざけているのか?」
市井の声に諦めのような色が見えた。お藤は慌てて顔を上げると、無言で首を振った。市井は煙たそうに目を細め、もう一度、どこへ行っていたのかと、しつこいように聞いた。
「兵蔵さんと……」
「兵蔵?」
市井の顔が驚愕に歪んだ。首をかしげ、そのまま小さく首を振ると、お藤を掴んでいた手首を更に強く握り、お母さんが心配している、帰るぞと言って、畏縮するお藤の手を引いて歩き出した。市井は裸足のままであった。昨日の雨で地べたはぬかるみ、足袋がみるみる汚れていった。お藤が何度も「裸足ですよ」と言ったが、市井は振り返ることも、お藤に答えることもなかった。潔癖に近い市井の、目を疑う行動に、お藤は当惑していた。
蛤町に架かる橋のたもとまで来ると、お藤は足を踏ん張った。立ち止まった。市井が振り返り、怒った目を投げかてきたが、お藤は歩こうとしなかった。市井に無言で引っ張られ、転びそうになりながら、二、三歩歩いては、また立ち止まるを繰り返し、とうとう神社の一の鳥居の前まで来てしまった。遠くで祖母が髙箒を放り投げ、富子と叫びながら神社の中へ走って行くのが見えた。お藤の目に涙が浮かんだ。
「もう、二度と、私の家に来てはいけない」
市井は低い声でそう言い、富子の姿を認めると、お藤の手首を離して、別れも言わずに足早に去って行った。
つづく