懐古ー(嫉妬)
「兵蔵さん、少し休んでお茶にしましょうかね」
掃除の手を休めたお藤は身軽な身のこなしで台所に立って行った。長く座って畳を拭いていた背を伸ばそうと腰に手を当て、仰けに反って欠伸をすると、背後に人の気配を感じた。
「疲れたんだな」
そう言って兵蔵はお藤を背中から抱き締めた。若く硬い体躯は力強かった。お藤は息を止めて、兵蔵の気の済むまでと、諦めたように力を抜いていた。
「あまり無理をしないようにな」
お藤にその気がないのを察したのか、兵蔵は耳元で囁くと茶の間へ戻った。
ーこの家ではやめてほしい。
どっと疲れを感じた。お藤は姉さん被りを外し、兵蔵の唇の触れた首筋を拭き、茶の間に聞こえぬよう、小さく溜息を漏らした。
お藤は今年二十九になる。若いころに比べ、やはり体力は衰えていたのを、数日前の祥月命日で改めて知った。市井は一年前に病でこの世を去っていた。市井の強い要望で、常識とは異なる納骨の場面などは、お藤を痛く狼狽させたものだ。
これまた市井の希望だが、最期の願いと土葬より火葬を選んだことで、金銭は余計に必用だったが、どこに隠し持っていたのか、倹約家の市井はかなり蓄財していたので、つましく暮らせば、残りの人生、お藤は仕事をしないでも生きていけることも分かった。
市井を亡くしてからの一年、納骨をしていなかったので、お藤はまるで市井と共に寝起きしているような気がし、そうメソメソすることもなく生活をしてきたのだけれども、数日前、納骨を済ませ、市井の遺骸のない家に一人きりになってしまうと急に何も遣る気が起こらなくなってしまった。夜明から日暮れまで縁側に佇むといったような、懶惰な生活を続けてきた。倦怠感ばかりで、生きることへの張り合いがなかった。
お藤は氷の入った桶で冷やしておいた竹筒を取り水気を拭くと、昔、一度だけ使用したことのある江戸切子に注いだ。無色透明の硝子の茶碗が、麦色に染まっていくのを見ていると、「勿体ないから使わないわ」と出し惜しみした過去が、なんだか、とてつもなく滑稽なことだったように思えて来た。
江戸切子を使いたくないと拒んだのはお藤であった。壊れたらいやだからと言うと、市井は、形のあるものは、いつかは壊れるのさと笑っていた。
しかし実のところお藤は、江戸切子が壊れることを気にして使用しなかったのではない。
十三の時に、初めて江戸切子を使用した時、恋敵であるお紺が、まるでそれがお紺と市井の品のように、この硝子細工を扱い、褒めたり、眺めたりして、挙げ句の果てには、「どう珍しいでしょう、五つあるから、どうか一つ持って帰りなさい」と言った。市井の品を勝手に、憎らしいと思った。
江戸切子を見ると、あの日のお紺の驕慢な様子がありありと脳裡に浮かんでくる。市井の締まりのない顔付きもいやだった。いつの日かお藤は、江戸切子の入った木箱を、家の隅にある納戸の奥へ追いやってしまった。市井からせがまれると、ギヤマンの方を差し出していた。
「暑いわね」
こうして兵蔵と向き合うと、お藤は窮屈さを感じずにいられない。首に巻いた手拭いで額の汗を拭い、ちっとも動かない空気を恨めしそうに見渡した。室内はまるで蒸し風呂のようだった。
「ああ、暑いな」
兵蔵は盆の上の茶碗に手を伸ばして、うっと小さく唸った。十六年も前のことを兵蔵も思い出したのだろう。あの日、兵蔵も一緒に、この江戸切子で麦湯を飲み、焼き団子を食べた。たが兵蔵はそれ以上、その想い出に触れようとはしなかった。お藤もそのことについては口を噤んだ。あまり愉しい記憶ではない。
「ねえ、兵蔵さん。昔、昔のことだけど、あたしが、何ヶ月もこの家に来なかったの覚えてる?」
「覚えてるよ。焼き餅やいたんだろう。先生が、お紺さんを泊めたことに」
「まあ」
お藤はきつい目をして兵蔵を睨んだ。元もと、気の強い眼差しを持つ女である。こうして睨むと、大の男の兵蔵でさえ気が萎える。兵蔵は麦湯を持っていない方の手を振って苦笑した。
「ちがう、ちがう。ただ、それが原因で、お藤が家に寄りつかないのではと、先生が気にしていたんだよ。お紺さんが泊まったかは……、ん……詳しいことは知らない」
「やはりね。そうだと思ったのよ」
十数年以上も前のことでも、思い返すたび、お藤は嫉妬した。同時に感情を、どうにも抑制できない自分を、人として如何なものかと蔑んだりもしている。
「聞かなかったのか、先生に?」
「聞いたわよ」
お藤は穏やかに言って、手拭いの下の襟をなおした。その時、襷掛けをしてることに気付いたので、襷を外しながら喋った。
「でもね、笑って誤魔化されたわ。帰りなさいと言っても帰らなかっただけで何もないと。お紺とはもうとっくに終わったんだって」
「なら、それでいいじゃないか」
「うそよ。うそに決まってるじゃない。あたし、分かったんだから。子供だったけど、分かったんだから。いやらしい」
「おかしな女だな、お藤は」
「どうして?」
お藤は怪訝な顔をして兵蔵の目を覗いた。兵蔵はその額を指でつついた。
「あの日、もし先生とお紺さんの間に何かがあったって、お前がとやかく言える立場ではなかっただろう。本来、先生だって、お前に弁解などしなくていいのだから」
兵蔵は言うと、ふと視線を庭の朝顔に向けた。毎年、市井は朝顔を育て、夏の間、観賞を愉しんだ。九月になった今でも、支柱にきつく絡んで強く息をしている。朝、兵蔵がここに来た時は、水玉をたくさん乗せた瑠璃色の朝顔が大輪の花を開かせていた。
「先生はきっと、あの頃から、お藤を女として意識していたんだろうな」
ふいに兵蔵が、想い出を忍ぶような口調で言った。
お藤は最初、小首をかしげていたが、すぐに大きく首を振り、兵蔵の見つめる、同じ朝顔に目をやった。兵蔵は続けた。
「ただ、お前が幼すぎて、世間体もあるし、抑制していたんだと思う。先生は頑固というか、お堅いというか、頑迷なところがお有りだったからな。……そう思うよ、俺は」
兵蔵の声はどこか寂しくもあり、また、市井を戯作者として憧憬しながらも、その昔抱いた、お藤への想いに胸を痛めた日々を懐古しているようでもあった。
お藤は目を瞑り、昔のことを瞼の裏に浮かべた。
市井の家から朝帰りをするお紺を目撃したお藤は、かれこれ二月も市井の家に寄りつかないという鬱屈した日々を送っていた。だからといって一人、部屋に閉じこもり、蹲っていたわけではない。早朝いちばんに起き出して、身を清め、巫女装束になると、神殿の掃除をし、漸く起きだしてきた他の巫女らと、互いの水引を束ね合う。
その後、父の死後いやいや神主にさせれた叔父が祝詞をあげる間も、以前のようにうとうとすることなく、参拝者に御神酒を捧げる。それが終わると御札を作り、祈祷の巫女舞いをし、合間合間に授与所で、お守りや御札を頒布した。
特別なことがない限り、欠かすことなく参拝に来てた市井を、お藤は毎朝、注意深く探したが、この二月、遂に市井の姿を認めることはなかった。日課にしていた参拝に来ないということは、故意にそうしているとしか思えない。
ーやはり、お紺との間に何かあったのか?それとも、文筆の締め切りに追われているのか、だとしても二月は尋常でない。いやな想像に心が支配されて夜も眠れない日が続いた。心身共に衰弱している。このままではいけないと、お藤は市井への想いを断ち切る決死を固め始めた。
更に半月がすぎた。、市井が顔を見に来てくれるだろうという僅かな望みも露と消え、精も根も尽き果てた時である。果たして待ち人は現れた。
「御札をいただこうかね」
売店の長床几に腰を掛け、書物に目を落としていたお藤の心臓が、その人の声で一瞬、止まったような気がした。静々と本を閉じ、怖る怖る目を上げると市井が微笑んでいた。心臓が高鳴り、耳鳴りがし、夢か幻かと疑ったあと、市井の周辺を怖々と見た。お紺の姿があるのではと気にした。市井の足元に、雀が二羽、遊びながら舞い降りて、口うるさく囁きあうと、言い合わせたように同時に飛び立った。
お紺がいないことが分かってほっと一安心。しかし嬉嬉とした心とは裏腹に、お藤の顔は強張る。
「どの御札でしょう?」
お藤はわざとよそよそしく聞いた。
「安産だが」
「あっ安産……?」
「ああ、そうだ」
「随分と、早いこと……時期が早くても年がね……。お盛んなことでよござんす。はいはい安産祈願ですね……」
冷静を装うため、無意味に言葉数は増えたが、お藤の声は動揺し、指先もぶるぶる震えた。まさか、お紺が身持ちになるとは考えてもみなかった。床几が後ろに倒れるほどの勢いで立ちあがり、閉じた本の置き場所を探した。きょろきょろと周囲を見渡しながら、本は袂の中に押し込んだ。気が動転して、自分のしていることが分からない。袂の中にあるのは市井の滑稽本である。
あの日、江戸切子で麦湯を飲みながら焼き団子を食べた日、莨好きで女好き、狸に似た版元鶴屋菊兵衛からの依頼は断ると言っていた筈なのに、結局、市井は依頼を受け、徹夜もしない気楽さで、なんと半月ですいすい書き上げた。
その本を昨日お藤は古本屋で購入し、今朝から読み始めたのだが、なかなか面白い。しかし、お紺のものになってしまった市井の著書を手にしている姿を見られるのはなんだか悔しい気がした。これは女の意地だと思った。結局、後ろ手で本を袂から出し、襠に押し込んだ。肘まで腕まくりをして安産祈願の御札を手に取った。
「どうぞ……」
「幾らだい?」
「水臭いわね。差し上げますよ」
お藤は市井を厳しく睨むようなきつい目を作り、必死で涙を堪えていたが無理だった。泣き出しそうになる顔を隠すように下を向いて、両手を掲げるうようにして御札を差し出した。
「それじゃあ悪い」
市井は静かに言った。
「いいんです。お祝いですから」
「そうか。しかしそれを頂く前に一つ教えて欲しいことがあるのだが?」
市井が腰を屈めて、お藤の顔を覗き込もうとしたので、お藤は両手を掲げたまま斜を向いた。
「おかしな子だ」
市井が声を立てずに笑っているのが分かった。いつもそうである。市井は軽く息を漏らすだけで、声を出して笑わない。
「今まで、どうして家に来なかったんだい?」
「……」
「私は、おゆうが子を宿したと言うので、郷里の津軽に帰っていたのだがね」
「へっ?」 お藤の肩がぴくりと動いた。
「兵蔵がね、どうしても供をしたいとせがむので、私は本意ではなかったが、親御さんの了解を得て、兵蔵も津軽へ連れて行ったんだよ」
「そっそんな……あたしも行きたかったわ」お藤はうつむいたままでつぶやくように言った。素直すぎる本音である。
「うん。次の機会にな」
「はい……きっと」
全てが自分の誤解だったのだと知ると、嬉しさが湧き出て、さっきとは違う意味で顔を上げられない。
「それで、お藤が来たら、しばらく留守にすると伝えてくれと、お紺にも頼んでいたんだがな……」
「お紺さん……?」
お藤はようやく両手を下ろして市井の顔を見た。お紺との誤解は消えた訳ではなかったことに気付くが、いまのお藤にとって、目の前にいる市井が現実であるなら、そんなこと、差ほど重要ではなかった。 お藤の頬を涙が伝った。市井は手を伸ばして、お藤の密集した、濃く長いまつげを指で拭った。お藤はその手を殆ど反射的に掴んで市井の目を、目をいっぱいに見開いて見つめた。
市井は困った顔をしている。しかしお藤に奪われた手を抜き取ろうとはしなかった。歯を見せずに、大人風に微笑んだ。市井の目尻に刻まれたしわを見て、お藤は、心が撫でられるような心地であった。
「女の意地を貫くため」と、お藤は粋がり。市井が御札を買いに来たからといって、早速、市井の元へ出掛けて行くような行動は取らなかった。
「明日、必ず行くわね」と、市井の手を取り、交わした約束も破った。
翌る日参拝に来た市井に対し、
「あたしもいろいろと忙しいのよ」と、大人びた口調で言い、そっけなくあしらうと、上位に立ったような良い気分がした。
その翌朝、市井は参拝に来なかった。機嫌を損ねたのかと不安になったが、お藤は市井を訪ねなかった。
その翌朝も市井は来なかった。お藤に焦りが襲ったが、そこをぐっと耐え、市井の訪れを待った。しかしお昼に近づいても、市井の来る気配はなかった。
空が茜色に染まった時刻になった。売店の中でぼんやり指を見つめていたお藤が急に立ち上がった。隣りの巫女がぎくりとお藤を見上げた。
「行ってくるわよ」
夏のジリジリと焼ける西日を背に受けながら、お藤は湯屋へ急いだ。胸には大きな風呂敷包みを抱えている。髪は、祖母にせがんで結髪にしている。時間帯のせいか、町内の馴染みの湯屋には顔見知りがいなかった。お藤にとってはあれこれ詮索されなくて幸いである。お藤の家には内湯があるが、湯屋好きのお藤は巫女の仕事に制限されない限りは湯屋を使用した。
湯から上がると、いつもの三助が背中を流そうと近づいて来たが、手拭いで胸を押さえて首を振ると、にやにやしながら他へ行った。お藤はこの三助が大の苦手であった。お藤より、十は年上だと思われる。前歯がなくて、顔付きがいやらしい。一日中、湯気を浴びてるせいか、肌のつやが良い赤ら顔がお猿のようだ。
だいたい男に身体に触れられること自体に抵抗を覚える。のぞき窓からも、なるべく遠く離れ、素肌を見ず知らずの男に晒さないよう、工夫しているくらいだ。
三助の手は借りず、肌の隅々まで綺麗に磨いたお藤は、ぬか袋や桶などは預けて、この日は、麻の浴衣に着替えた。すると、道行く男たちが振り返るほど可憐に仕上がり、娘が匂い立つようであった。
お藤は湯屋から直接、市井の家に向かった。母には、遅くなれば、市井に送って貰うと伝えてある。しかし、お藤に帰る気などない。
市井の家に着いた。市井は突然のお藤の訪れを、腑に落ちない顔をして見つめ、
「どうしたの?」
と聞き、その背後からお紺が顔を覗かせたので、ムキになり、「入ってはいけないのですか?」と、多少、強い口調で聞き返した。市井は明らかに当惑している。
「いやいや、そんなことはない?」
その言葉とは裏腹に市井の顔は緊張し、身体全体で、お藤が土間に上がるのを拒否しているように見えた。お紺は家の主のような顔で、堂々と台所へ消えて行った。
この問答はお藤を深く傷付けたが、引き返すことができないでいた。家に上がり込むと、お藤はすぐに夕飯の準備に取り掛かった。既に米は磨いであったし、味噌汁は兵蔵が作っていた。
兵蔵の態度はよそよそしく、それもお藤を傷付けた。まるでみなんで、お藤を部外者扱いしているような被害妄想に襲われた。三人の生活が出来上がったこの家に、お藤の味方は誰一人いない空気であった。
「今夜はあたしに任せて下さいな。みなさんお帰りになって」
言葉を以前と同じように強い口調にすることで、どうにか心を支えた。
「どうしましょうかね?」
お紺が廊下をそわそわと行き来する市井に向かって聞いた。お紺の得体の知れない自信が、体中から漲っているのが悔しい。市井とお紺の関係が復活したことは明らかであった。
「お藤の好きにさせてあげないさい」
意外な市井の反応に、お紺は腕組みをして反発したし、兵蔵は愁眉を曇らせていたが、市井の判断がお藤の力となり、他の者の反応など、どうでも良い感じがした。
今夜、お藤は一世一代の大決心をして来たのだから。
兵蔵とお紺の二人を追い出したお藤は早速、前垂れをすると、くるくると動き出した。干物を焼き、青菜を刻んでお浸しにし、大根、こんにゃく、椎茸、里芋を、醤油と砂糖で味付けをし、唐辛子を加えて煮るのだ。
「いい匂いがするな」
煮しめの香りに誘われた市井が、何度となく台所を覗いてきた。その度に堅苦しさが胸を刺したが、お藤は自然を装い、細々と動いた。
普段、甘やかされているお藤にに、台所仕事は少々手間取った。市井は腹をすかせているようで、さっきからしきりに胃の辺りを擦っている。
「もう少しですから、待っていてね」
鼻の頭に汗を滲ませながら言うお藤に、市井はやさしい微笑みを返した。
「随分と豪勢な!」
普段、粗食の市井は目を瞬いて、戯けたような表情を見せ、一つの膳には盛りきらず、二つを並べた膳の上の料理をじっと見つめていた。
「少し手間が掛かりましたが、召し上がれ」
お藤も市井と差し向かいで膳を二つ並べた。
「お藤がこんなに料理上手とは、思ってもみなかったよ」
「ふふ……」お藤の、襷を膝の上で畳む手付きが照れている。うつむいて、「恥ずかしい」と言い、下唇を噛んだ。
「浴衣も良く似合っている」
「はい」お藤は、指で藍染めの浴衣の袖口を摘み、両腕を広げて見せると、袖を顔に持って行き、またうつむいた。そんなお藤を可愛らしく思ったのか、市井は笑い出した。
「さてな?」
市井は膳の脇をちらちらと覗いた。
「……?」お藤が小首をかしげた。
「酒はないのかな?」
「あっ!」
酒のことをすっかり忘れていた。お藤は慌てて立ってゆき、台所で湯を沸かして燗を付けた。湯が沸く間、悩んだ揚げ句、お藤は自分の分の盃も用意して茶の間に運ぶことにした。この家に着いた時から生じた、胸に刺さる棘のような痛みや憤りを解消するのに、酒の力を借りようと考えた。
「どうぞ」と、市井に酌をして、市井が口をつけるのを見てから、自分の盃に、独酌で酒を満たそうとすると、市井が驚いたように目を見開いた。
「お藤も飲むのか?」
「はい。そうですよ」
「いつも飲むのか?」
「初めて」お藤はちろっと舌を出した。
「なら、やめときなさい」
「なぜですの?」
「あまり若い時期から飲むと、発育に害を及ぼすと、どこかの書物で読んだことがある」
「発育?」
「そうだ。脳や、身体の発育に悪いのだ。成長が遅れるのはいやだろう?」
ー確かに。お藤は心でつぶやいた。さっき湯屋でしげしげと自分の身体を眺めたけれど、細いだけで、女らしいところなど何処にもなくがっかりしたばかりだ。脱衣所を裸で走り廻り、大人に怒られていた五つ、六つの男の子と、なんら変わらない体型をしているような気がしてならない。あばらの少し浮き出た胸板には、花の蕾のような乳房があるだけだ。だいたいこれを、乳房と呼べる代物なのかも分からない。同年代の女友達と比べても、お藤は発育が遅いようだ。いま成長が止まってしまっては困る。
お藤は情けない顔で、まだ酒の注がれていない空の盃を盆に戻した。
会話の成り立たない、ぎこちない食事が終わり、お藤が洗い物をしだすと、市井は逃げるように湯屋へ行った。半刻余りで戻ってきた市井に、
「今夜は泊まってもいいと、おっかさんに言われているから」と、大人には見え透いたような嘘を言うと、市井は困惑の色を見せ、
「そんな訳にはいかないんだよ。送るから家に帰りなさい」
と首を振ったが、いくら言い含めようとしても、お藤があまりに頑固なので、結局、市井は折れた。
「では客間に夜具を持って行きなさい」
「へっ……?」お藤は肩透かしを喰らった風にしょんぼりとうつむいた。しかし市井と同じ部屋で眠りたいなどと駄々をこねて、家に追い返されても困るので、渋々だが、二階の市井の寝間から、客間へと夜具を下ろした。市井も手伝ってくれた。
湯屋から戻った市井は、書室で仕事をしていた。夕餉が遅くなったこともあり、時刻は四つ(十時過ぎ)を廻っていた。客間に夜具を敷き述べたお藤は、持参した読本を行燈の下で読んでみたり、肘掛け窓から月を眺めたりしていたが、心が騒いで落ち着かず、何をしても集中ができないでいた。
時折、市井が梯子を下りてくる音がすると、横になっていてもすぐに起き上がり、襖に耳をつけて市井の動向を窺った。半刻の間に、厠に立つこと二回、台所で水を飲む気配は一度。市井もお藤と同様に、落ち着かないようだ。
嘘をついて出てきた実家のことも気になったが、祖母はとっくに寝ている時刻だし、母はきっと源蔵の離れに泊まっていると思われた。ここ最近、源蔵の体調が悪い。境内をふらふらと散歩する姿も、殆ど見受けられず、家の中で過ごすことが多くなった。富子によれば、源蔵は尿意をもよおす回数が増え、夜中に何度も厠に立つので、その度に隣りで寝ている富子が付き添わなければならず寝不足らしい。昔気質で意地っ張りの源蔵は、「着いて来るんじゃねえ。俺は子供じゃねえんだ」と粋がるが、強気の言葉とは裏腹に、足元はよいよいと、あっちふらふら、こっちふらふら。転んで骨でも折ったら、それまた大変だと、源蔵を宥め梳かし着いて行くのだが、昼間、思う存分寝ている源蔵は良いが、富子には毎日の神事がある。四十を目の前にして体力の衰えは身に染みる。日々がそんな感じなのでお藤に構ってる余裕はないといった風だ。
源蔵には妻子がある。富子は、源蔵の妻と面識があるらしく、いわば妻、公認の関係らしいが、お藤は納得していない。源蔵は良い人だし好きだったが、妻子を悲しませてまで我を通すところは嫌いである。また、妻帯者である源蔵に寄り掛かり、他人の不幸を顧みない母を、お藤はどこかで蔑んでいる。厳格な祖母は、娘のその様な暮らしぶりは家の風儀が乱れると、昔は良く叱っていたが、今ではもう諦めている。祖母と源蔵は犬猿の仲だ。
母の富子はすらりと背丈があり、美貌の人だと世間で評判が高い。若かりし頃に限らず、お藤の父親であり、富子の夫であった男が病死した直後でも、富子を妻に迎えたいと願う男は多かったと聞く。引く手数多の富子と、源蔵がどの様な切欠で男女の仲になったか、詳しい詳細をお藤は知らないが、二人は父の死後すぐに親密な関係になったと推測できた。
富子は三十半ば。源蔵とは四十近く歳が離れている。そういうところは、お藤と市井の関係と似通っているが、絶対的な違いは、市井には妻はいない。嫁に行った亡妻の忘れ形見の娘が一人、嫁ぎ先の郷里に居るだけだ。市井の娘のおゆうの夫も津軽の人なので、二人は同郷ということになる。
そんな訳で市井に妻はないが、お紺というお藤にとっては、とても厄介な存在はある。しかし市井とお紺の間には、法的になんの束縛がない。母の富子と自分の立場は違うとお藤は威張って富子に言い返したことが一度だけあり、富子を泣かせた。
お藤は富子が源蔵を愛する気持を全く理解できないわけではない。「今はしわしわ、よぼよぼの爺さんでも、昔は男ぶりが良かったのよ」と、母はいつも自慢している。微笑ましい限りだが、しわしわよぼよぼとは、酷い言い草だ。源蔵が聞いたら怒るだろうと、お藤は、富子がそれを言うたびに、忍び笑いをしてしまう。
「決行の時が来た」
お藤の意思は固まった。必死の形相で客間の廊下に立っていた。胸には、実家から隠し持って来た木枕を抱えている。市井のいる二階へ通じる梯子を見上げ、「女の一念岩をも通す」と、どこかで聞いた言葉をつぶやき、意を決した。
灯りがないので、足探り、手探りで一段、一段、梯子を上り、頭が二階の廊下に突き出た。市井の部屋の襖から、灯りが漏れていない。
ー寝てしまったかしら。
ここまで来るのに、無駄に時を過ごしたことを悔やみながらも、お藤は客間に引き返そうとはしなかった。そっと忍者のような忍び足で近づいて、膝を折って襖に手を掛けた。
「修治さん?」
開ける前に声を掛けてみた。僅かな間はあったが、熟睡していたとは思えない明瞭な声が返ってきた。
「ん、お藤かね?」
ー他に誰がいるというのだ。などと皮肉りながら、お藤ははいと、返答した。
「何か用かね?」
その声の感じは冷たかった。
「ええ、開けますよ」
「……」
答えはないが、お藤はめげずに襖を開けた。
「入りますよ」自分を励ますように言った。暗闇の中で、市井が起き上がったようだ。お藤は膝を摺って中に入り、襖を閉めると木枕を抱えて、立って市井の輪郭が浮かぶ夜具の傍に寄った。
「どうしたのだお藤……」
市井の声に、焦りの色が見えた。お藤は座ると、一緒に寝てもいいですかと尋ねた。
「それは……」
市井は声を詰まらせた。どう対処して良いのか思案している様子だ。お藤は答えを待たずに市井の夜具に潜り込んだ。同時に市井が脇にずれ、お藤に眠る場所を与えてくれた。ここまで大胆な行動を取ると、もう緊張はない。胸に抱えていた木枕を頭の上の方へ片手で置いた。髪が崩れることは気にしない。
「枕を持って来たのだろう?」
「ええ、でもいいのです」
「……」
腕から伝わる市井の身体は固かった。お藤の勝手な予定では、市井の腕が枕代わりになる筈である。そう、早熟な友達が教えてくれた。きっと木枕は必用ないのだ。
「怖い夢でも見たのかね?」
市井は何度か咳払いをすると、そう言った。明らかに市井の方が動揺していた。
「いいえ、でも、一緒に寝たいと思って」
「……」
「いいわよね?」
お藤が甘えた声で返すと、市井はゆっくり上体を起こし、胡座を掻いた。
「修治さん……」
「良いか、お藤、聞きなさい」
お藤の言葉を遮るように市井は言うと、胡座を掻きなおしたようである。大きな溜息が聞こえた。お藤はそっと目を閉じた。初めから、順調に事が進むとは思っていない。拒まれることも覚悟の上であった。なので枕も持参した。
「余り傷付けないで下さいね」
市井の溜息を聞き、お藤の勇気は失われていた。次の言葉を聞くのが怖くなった。
「お前を傷付けようとは思っていない。唯ね、一つ質問があるんだ。男と女が、同じ褥で寝るということの意味を知っているかね?」
お藤は答えなかった。人形のように目を閉じて仰向けに横たわっていた。鼻から息を吸い込み、吐き出す音を聞かれるのも恥ずかしかったので、薄く唇を開いて空気を吸っていた。
「自分ではどう思っているか分からんが、お藤はまだ子供だ」
「そうは思いませんよ」
「いや、そうなんだよお藤」
「……」
「私とお前とでは、親子以上に歳が離れている」
「ええ」
「父子のように、共に寝ることにお前が違和感を感じないのは仕様がない」
「なら、いいじゃありませんか」
「しかしなお藤、世間はそうは見ないんだよ。二人で寝たことが外に漏れれば、私は……若い娘に色ボケしたと嘲弄されてしまう」
「世間なんて、どうでもいい」
薄目を開けて見ると、視界がさっきより鮮明になっていた。市井が胡座の中にある指に目を落としている姿が確認できた。お藤は再び目を瞑った。
「私が良くないのだ。お前も変な風聞が流れでもしたら、お嫁にだっていけないよ」
「……」
「さあ、分かったら、下に戻って寝なさい」
「いやです」
「……」
お藤は目を開けて天上を見た。暗くてぼんやりしていたが、昼間、見るよりも、天上は高く思えた。寝転んでいるせいだろうと考えながら、市井の次の行動を待った。市井が息を吸い込むたびに緊張が身を包んだ。心臓の鼓動の高鳴りを耳にまで感じた。鼓動が市井に聞こえてしまうのではと恥ずかしくなるほど、強く脈を打っていた。初体験への緊張からではなく、真実の言葉で傷付けられることを恐れ、自己を防御するがゆえの心臓の高まりのようでもあった。次第に胸に息苦しさを覚えた。
「我が儘を言うもんじゃないよ」
しばらく黙したあと、市井は強い口調でそう言った。
「お紺さんは泊めたでしょう。なぜあたしがいけないの」
「あのな、お藤……」
「お紺さんとは、ここで一緒に寝たんでしょう?」
「ばかな」
市井は今度、声を立てて笑った。珍しいことである。お藤は眉をしかめて市井を見た。視線に気付いた市井が、お藤をやさしく見つめ返した。
「なんだ、そんなことを気にしていたのか。それならお藤の勘違いだよ。お紺はあの晩、茶の間で寝たんだ。何もありゃしない。ただ、予定よりもだいぶ遅くなったので、夜道が怖いからと、仮眠を取って帰っただけだ。しかしなぜ、それを知ってるんだい?」
「見たのよ」
お藤は尖った言い方をした。夕刻、市井とお紺の様子を見て、二人の関係の疑いは深まったばかりだ。市井が嘘を言ってる。そう、お藤は判断した。
「朝帰りするお紺さんをね」
「そうかね?」
「お紺さんもあたしに気付いたと思うんだけど、何も言ってなかった?」
「聞いてないな。しかしそれとこれとは、話は別だ」
「何が別なの?」
お藤は右手を伸ばして市井の膝の上の手を握った。市井の手の感触が、普段よりも固いのに違和感を覚えた。突然、理由のはっきりしない恐怖に襲われた。
「あたしを胸に抱いて寝てくれるだけでいいのよ。他には何も……ねっ修治さん」
さっき感じた恐怖とは裏腹なことを言っていた。言葉だけが自然に口を突いて出る。
「そうか……」
「そうよ。あたしを泣かせないでちょうだい」
市井は天上を見上げ、先程とは違う、軽い溜息をつくと、
「今晩だけだ」
と低く言った。さっきまであれほど拒む姿勢であった市井が、眠るだけというお藤の願いをあさっり受け入れたことに、今度はお藤の方が戸惑った。
「寝るよ」
市井は言うと、静かに身体を横たわらせた。不意に背中を向けられてしまい、お藤は呆気に取られた。
「修治さん」
背中をつついたが、市井の返事はない。痩せすぎの、堅い背中は、まるで城壁のようであった。市井の強い拒絶を感じた。
「抱いて寝て欲しいと言ったじゃないの……」
語尾に泣き声ま交じったが、市井は答えなかった。
「お紺さんへ遠慮しているんでしょう。酷いわ、こんなの……」
しくしくと泣きながら、お藤は市井の背中に顔を押しつけた。手を市井の腕の隙間から押し入れて胸に廻し、しがみつくように泣いた。すまんな……市井が囁いた気がしたので、泣き顔を上げて覗いたが、市井は瞼はぎゅっと閉じたまま、いくらゆすっても、何も答えなかった。
首筋に何かが纏わり付いているような蒸し暑さで目が覚めた。天上が、お藤の家のとは色合いが違っている。ああ、ここは修治さん家。怖る怖る隣りを見たが、市井の姿はなかった。階下で人の動く物音が聞こえていた。外は白く、町はとっくに目覚めていた。
「ああ。どうしましょう」
お藤には気掛かりなことがある。すぐには起き上がれないでいた。お藤という娘は、殊の外、寝相が悪い。眠りに就く時は、横を向きでも、目覚めると、必ず四肢を大きく広げた大の字になっている。夏場など、決まって細帯だけが腰に巻き付いているだけの恥ずかしい姿で目覚める。今朝もまた、自分の手足が外を向いて伸びていることが分かった。首だけ上げて寝姿を見ると、胸の下からきちんと搔巻が掛かっていた。指先で摘んで剥がしてみる。
「やっぱり……」
諦めたようにつぶやくと、お藤は首をばたんと倒した。木枕はなく、髱がやわらかく沈んだ。
搔巻の下は、あられもない姿になっていた。先に目覚め、お藤の裸体を不憫に思った市井が、搔巻で隠してくれたのだろう。子供のような身体だからこそ、その分、お藤の羞恥は大きかった。全部、見られること覚悟で市井の部屋に忍び込んだのだが、この様な形では見られたくはなかった。おまけにお藤は、口を開けて眠る癖がある。時にはよだれさえ垂らすのだ。なので絶対に、市井より先に目覚めたかのだが。
恥ずかしさが峠を越すと、昨夜のことを思い返していた。結局、夜這いは失敗に終わった。お藤はしばらく泣き続け、そのまま、いつの間にか寝てしまったらしい。
夜中、成就しなかった想いに忍び泣いた娘が、今朝、起きて見れば、布団の真ん中を陣取って寝ているのだから、市井も興醒めしたに違いない。「いったい修治さんはどこで寝たのだろう」などと考えながら、着替えを素早く済ませていたが、瞼が重かった。眠いのではなく、瞼自体が重いのだ。泣き過ぎて腫れているのかと、指先で触ってみたが、別段、異常がないようだ。お藤は、市井に気付かれぬように梯子をそっと下り、下の段で首だけ伸ばして市井が台所にいることを確認すると、忍び足で茶の間に入って鏡台を覗いた。
ーぎょっ!
昨夜の涙のせいだろう。瞼が異常に腫れ上がり、お岩さんの両目版のようだった。
ー源蔵さんがいけないのよきっと。お岩、お岩と、あたしが小さいころからお岩さんの話しを聞かせたりするからこんなことになってしまって……。
怒りの矛先を、なぜか源蔵に持っていったお藤が忍び足で客間に戻ろうとした時、市井が声を掛けた。
「お目覚めかい、お藤。今、朝餉をこさえているから一緒に食べよう。そうしたら一度、神社に帰りなさい」
「はい……」
返事はしたものの、面隠しのために顔をうつむけ、そそとした足取りで客間に向かった。背後から、味噌汁の、香しい匂いがしていた。家から持って来た荷物の中から布巾を取り出して、頭に巻いた。目が隠れるほど深々と姉さん被りをした。
昨夜、市井に抱いて貰えなかたが、今朝のお藤の気持は意外と晴れやかなものであった。一度、神社に帰りなさいと、市井は言ってくれた。またこの家に戻ってきても良いということなのだ。心が踊る一言だった。市井の声に、はしたない娘への憤怒の色はなく、どこかぎこちなさがあるものの、明るい声音に聞こえた。
井戸へ出て顔を荒い、房楊枝で歯を磨いて茶の間に戻ると、もう朝餉の膳が並べられていた。市井に促され、お藤は少し恐縮しながら、膳の前に座った。
大根の味噌汁には、刻んだ葉の部分が振りかけてあった。漬け物に梅干し、大根の葉を、塩ゆでして、細かく刻んだ菜っ葉を炊き込んだ菜飯もあった。菜飯はお藤の大好物である。いつか、市井が昼に出してくれた時、感動して三膳もお代わりをした。それを市井は覚えてくれていたのだろうか、残り物の有り合わせでも嬉しかった。
「昨夜は良く眠れたかな?」
聞かれた時、恥ずかしさで顔が赤くなった。頬が一瞬にして暑くなり、額に汗を掻いた。顔があつい。夜這いも恥ずかしいが、肌も露わな寝姿はもっと恥ずかしい。しかも胸は蕾である。
「いいや、いいんだよ。悪かった。そうだ、お藤は鮨は好きか?」
お藤の羞恥心を感じ取った市井が、慌てて話題を変えてきた。
「えっええ……大好き」
お藤は遠慮勝ちに言った。本当は毎日でも食べたいほど好きである。
「なら今度、食べに行こう。両国広小路に花火を見に行き、屋台で鮨や天ぷらを食べようか?芝居などもいいな。見世物は嫌いかな……」
普段、無言で食事を取る市井が、口に物が入ったままで喋りまくり、味噌汁で押し流すようにしていた。やはり、昨夜のことを気にし、また、今朝のお藤の無様な寝姿を見て、驚いているに違いないとお藤は思った。なぜか姉さん被りには触れて来ない。
「うん。そうしよう、そうしよう」
常に冷静で、物静かな市井の狼狽ぶりは、お藤を悲しくさせた。娘の浅はかな考えで犯してしまった間違いが、市井に、多大な負担を強いていると悟った時、市井の家にはもう来てはいけないような気がした。さっきまでの嬉嬉とした感情は水が引くように消えてた。
「高瀬舟を予約しようかね?」
「はい」
市井の言葉にいちいちうなずきながら、食事を口に運ぶお藤は心の中で重大決心をしていた。
「親子、いや、お藤は孫娘に見えるかな」
「修治さん」
お藤は箸を置くと、夢中で話す市井の言葉を遮った。市井は罰の悪そうな顔をしている。目のやり場に困ったようにうつむいて、膳の上の食物や、畳の縁などに視線を移動している。箸を置き、呼吸を整えるようにしてから目を上げた。
「すまんなお藤……」
当惑を目の奥に隠し、市井は言った。自分に怯えているようでもあった。
「きっと、修治さんと同じことを考えているのかな、あたし」
「お前は何を考えている?言ってみなさい」
お藤は唇を噛んだ。強く噛みすぎて、血が出そうであった。そうしていると、市井が膳を脇に寄せて、お藤に寄った。見えない何かに引き寄せられるように、お藤は市井の胸に飛び込んだ。市井の手が、悩みながらお藤の肩を抱いてきた。最初はふわりと包むようだった腕が、次第に力を増して、お藤の華奢な身体を抱き締めた。
お藤はしゃくり上げるほど泣いた。きっとこれが、最初で最後の抱擁だと確信していた。大好きな市井を、世間の嘲笑の的にしてはいけないのだ。人気のある戯作者が、小娘などに惑わされてはいけない。そんな風評が流れれば、市井は必ず江戸を出て、田舎に戻り、物書きなんて辞めてしまうだろう。
常識に拘る市井が、人一倍、世間体を気にすることは、この四年間、傍で見てきたお藤には良く分かっている。浮き世の羇絆から脱する道など、市井が選ぶ筈もなかった。
「修治さんあたしね決めたの。十六になるまで、もうここには来ないわ」
市井の胸の中で、お藤ははっきりした口調でそう言った。市井が軽くうなずいた。
「だから修治さんも、うちの神社に来てはだめよ」
「……そうか」
「あたしをさらって行ってくれるっていうのなら別だけどね、できないでしょう?修治さん?」
「……」
「うそうそ」
お藤は市井から身体を離した。両手はまだ、市井の袖を掴んでいる。
「もう二度、冬を越せば十六になるのよ、あたし」
「ああ、そうだね」
市井はお藤の手を取り、掌に入れてぽんぽんと軽くうった。
「一年半経っても、あたしの気持が変わらなかったら、修治さん、あたしをお嫁さんにしてくれる?」
「その時に考えよう?」
「意地悪ね。嘘でもいいのに……」
お藤は市井の胸にそっと顔をうずめた。もう泣きはしなかった。背を擦る市井の胸から出て、朝餉をむりっしゃり掻き込んでいると、お藤より先に食事を終えた市井が、茶の間の中を行ったり来たりしている。その様子を、お藤はじっと目で追っていた。
市井が庭に下り立って、露の滴る朝顔を眺めている。しゃがんで眺め、色褪せた緑の葉を摘んでは、袖の中に入れていた。庭木だけが夏の朝に凛と立っていた。
つづく