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沈みゆく  作者: 藤原蒼未
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懐古ー(幼い恋心)

この物語は、主人公のお藤と兵蔵とが思い出を振り返る場面からはじまり、その後、回想へ入ります。

「ねえ兵蔵さん、襖ぜんぶ開けちゃってくれる?」


 暦の上では秋だと言うのに、肌を刺すような強い日差しが、小さな庭を焼きつけていた。古ぼけた畳を乾拭きするお藤の額から汗が滴り落ちている。引き分け襖の片方だけが、なぜか閉じており、息苦しいほどに暑い。もう片方の襖も開けて全開にすれば、少しは熱を逃せるのではとお藤は考え、縁側で寛ぐ兵蔵に声を掛けたのだった。


 兵蔵は庭に向いていた身体をひょいっと居間の方へ翻し、手を使わず、足の先で襖を開いた。勢い余ってばたんっという激しい音がした。兵蔵に尻を向けて畳を拭いているお藤の顔が鋭く彼を振り返った。お藤と目が合うのを避けるように、兵蔵は元の通り、縁側で胡座を掻いて庭を向いたが、すぐに板敷きを見つめるように顔をうつ伏せた。


「全く………」


 お藤は溜息交じりにつぶやいた。兵蔵はまさか女であるお藤を恐れている訳ではないが、小言を言われるのは適わない。しかし覚悟した顔でゆっくりとお藤に向いた。お藤は拭き掃除の手を休めていなかった。この一年の間にすっかり痩せてしまった身体を忙しく動かしている。背中で交差する赤い襷と、露わになった白い二の腕が、日中でも薄暗い部屋の中でも鮮やかに浮かんで見える。


 お藤は片手を畳について、右手だけで、い草の流れを順序よく撫でるように拭いていた。膝の手前まで拭き終わると、彼女は今度、背中を伸ばして腰を突き上げた恰好で敷居からまた拭きだすのである。


 ふと悪戯心が芽生えた兵蔵が顔を斜めに下げて、お藤の着物の裾から股の付け根辺りを覗き見ようとしたが、お藤の両の足の踝はきちんと合わされていたので、股の付け根どころか、襦袢の端さえも見えなかった。ちぇっと兵蔵が舌打ちをしたのを聞き逃さなかったお藤がキッと振り返り、諫めるように兵蔵を見た。兵蔵は苦笑いをし、手枕で仰向けになった。


 お藤は四半刻も同じ場所にいる。何度も同じところを拭いては、時折、汗を拭うように、雑巾を握り込んだ腕を、額や頬に当てる。拭っているのは汗のような気もするし、涙のような気もする。お藤の存在を確かめるように、時折、覗き見る兵蔵の顔がやるせなく沈んだ。


 お藤の拭く畳のその部分だけは、茶褐色に汚れていた。「取れないのよね」と震えるような声を発する以外、お藤は無言であった。


 お藤は黄八丈を粋に着こなしていた。お藤の好きな着物で、また、この家の主だった男、つまりは、お藤のかつての亭主が好んでお藤に買い与えた着物の殆どが黄八丈であった。


 今朝、半年ぶりに会うお藤が黄八丈を着ているのを見て、今はいない亭主を忘れられないのだと改めて知り、兵蔵は愕然とした。お藤に悟られぬよう平静を装うのが精一杯であった。


 全く壮絶な人生だと、兵蔵は天上を見つめながら、甘い背徳に彩られた過去を思い出していた。










 二人が出会ったのは今から十六年前。当時十四の兵蔵は四十を過ぎてやっと花開いた遅咲きの戯作者・市井一鷹に憧れ、師匠と扇ぎ、市井の弟子になりたい一心で市井の家へ通い詰めていた。しかし市井は弟子を取らない。兵蔵の申し出を断り続けたたが、兵蔵は諦めなかった。兵蔵もしぶといが、市井の頭も固い。厭だと言われているのに、雨の日も風の日も、例えば嵐の日でも、兵蔵は足繁く市井を通い続け、市井に無視されながらも、家の掃除や台所仕事などをして機嫌を取った。


 市井が兵蔵を弟子と認めなかったのには、自身の方針とは別に、ひとつ大きな理由がある。兵蔵は市井の暮らす町と同じ深川で産声を上げたが町人ではない。食録三百俵の旗本の次男坊なのである。即ち歴とした武士である。武士身分であるから戯作者になれないなどという法を信じている訳ではなないが、未だ年若く指針の定まらない兵蔵の将来を担うことを重荷に思い、市井は兵蔵を避けたのだ。


 戯作者になりたい兵蔵と、お藤がどういう風にして知り合ったたかというと、それは以外と単純である。お藤も兵蔵同様、市井の家へ、市井の意思とは関係なく無断で通っていた一人だったからだ。


 お藤との初対面は兵蔵にとって衝撃的であった。ふつうのしもた屋に、まさか巫女装束姿の娘が、茶の間の長火鉢の前にちょこんと座っていたからだ。火鉢の縁に読みかかけの読本を添わせ、背筋を伸ばして顔だけ向けていた。季節は冬だったので火鉢の炭は赤く、土瓶から湯気が吹き上げていた。兵蔵は内心、本が燃えやしまいかと心配した。小さく頭を下げると、お藤は微動だにせず、何も言わずに、またにこりともせず、真っ直ぐ兵蔵を見つめた後、ふと見つめるのにも飽きたように吐息を漏らし、再び読本に目を落とした。


 お藤がなぜ巫女装束姿であったかというと、理由は簡単で、お藤は深川蛤町付近、黒船稲荷の宮司の姪で、巫女である。幼いが美貌の娘で、肌は雪ように白く、頬はほお紅を塗ったかのように、ほんのりと赤い。お藤は兵蔵より一つ若い十三。性格は至って勝ち気。その勝ち気さは、目の奥の、芯の強い輝きに現れていた。


 お藤は実家の境内の掃除と、朝拝を終えると、さっさと神社を抜け出して門前仲町にある市井の家へ上がり込むのが日課であった。そして頼まれもしないのに、兵蔵と競い合うようにして市井の身の回りの世話を焼いた。


 お藤は兵蔵とは違い、戯作者になることを目指している訳ではない。唯その頃よりもまだまだ幼い時分から、市井の書く人情本の愛読者であった。勧懲に拘らない市井の作風をお藤は好んだ。


 市井は黒船稲荷の参拝を毎朝する。ある日の朝、お藤の祖母の配慮で、市井と話しをする機会が持たれた。それ以降、殆ど断りもなしに家に出入りするようになっていたのだ。


「お藤、もうそろそろ帰った方がいいんじゃないか、お守り売りもしないでいつも遊び歩いていると、お母さんが嘆いていたぞ」


 市井は日暮れ前になると筆を置き、一階に下りて茶の間を覗いては、熱心に本を読むお藤にそう伝える。しかしお藤は知らん顔だ。「修治さん。いいのよ気にしないで」見向きもせずに本を読み続ける。


 修治というのは、市井の本名である。十歳の頃から市井の家へ遊びに来るようになったお藤は、この戯作者を、修治と本名で呼んでいた。尤も市井の方は、幼いお藤から修治さんと呼ばれることに抵抗がない訳ではない。しかし彼がいくら「おじさんと呼びなさい」と訂正しても、「はいはい」とうなずくだけで、一向に直す気配がない。


 お藤のその態度には、これもまた市井の元へ通う、お紺という女への嫉妬が含まれていた。お紺は年の頃、四十も半ばを過ぎた大……年増女であったが、まだ十三と幼く、棒のように細い、胸も発育を見せていないお藤とは比べものにならないほどの色気を発していた。


 お紺は市井と二十年来の付き合いで、現在は古い友人のように振る舞っている二人だが、過去に、共に暮らした時期がある。その事実がお藤を悩ませた。市井に淡い恋心を抱くお藤の嫉妬は、可笑しいほど杞憂なのだが、若すぎるお藤にはお紺の存在が耐え難い。


 お藤は幼いころに父親を亡くしていたので、お藤の、市井へ寄せる想いは、麻疹のような一過性のものだろうと誰もが思っていたし、お藤が祖父ほど年の離れた市井を、父親のように慕っていて、その気持を恋と勘違いしているのだろうと市井すら信じて疑わなかった。


 いつか時期が来れば熱病も冷め、同じ年頃の男に惚れ、もしその男が次男、三男坊であれば、一人娘のお藤の元へ婿入りしてくれるだろうと、まあ、周囲の大人は高を括っていたのだ。


「お藤ちゃん、神社へお戻り。一鷹さんの(市井の筆名)世話は、私に任せなさいよ」


 お紺はいつも、お藤のもやもやを逆撫でする言い方をする。執筆の依頼にきた版元が待つ客間に、茶を差し替えに行ったお紺は、ちらと茶の間に顔を突き出し、「さあさあ子供はお帰り」と、にやりと微笑んで台所へ下がった。お藤は廊下に立って行って客間の方を見た。二階から下りてきた市井が入れ替わりに茶の間に入った。


 客間の方から莨の臭いが、煙と共に生き物のように這い出てきて、家中に厭な臭いを漂わせた。この版元は、病的なほど莨好きなのだ。お藤はその莨の臭いとお紺の厭味に顔を歪ませた。


「あら、お紺さんこそお帰りになったら」


 お藤は襠(巫女の穿く緋色の袴)の、股の辺りを両手で握り込むと、薄っぺらな胸を突き出す姿勢で進み出て、土間の脇にある、一般より比較的広い台所に入りお紺を睨んだ。お紺は困ったような顔を作り、お藤に振り向いた。

「でもね、お藤ちゃん、神社の方はいいの?お手伝いをしないといけないんじゃない?」


「いいのよ。あなたに心配して貰わなくても」


 お藤はつんと顔を横へ向けた。


「そうは言ってもねえ、もう日も暮れちゃうじゃない」


「そうだぜ。お藤ちゃん、帰んなよ」


 声のした方をお藤はきっと睨んだ。使い走りに行っていた兵蔵が、いつの間にか勝手口に立っていた。市井に頼まれた焼き団子の包みを右手に提げて、涼しい顔で笑っているが、初夏の、夕暮れ時の日差しが兵蔵の背中に覆いかぶさり、額際から流れる汗がきらきらと彼の輪郭を光らせていた。お藤は眩しくて眉をひそめた。整った眉が聡明で美しい。お藤はすぐに眉を平にし、切れ長の、一重だが大きな目をすっと細めた。


「まあ、いいじゃないか。お藤、団子を食べてから帰りなさい。そうしたらいい」


 三人の遣り取りを聞いていて、無理にも帰されそうとするお藤を不憫に思ったのだろう。焼き団子を惜しんでいると思われてもかなわない。市井が茶の間から助け船を出した。


「でも………」


 お藤は、ぎゅっと握り込んでいた襠を離して、開け放たれた襖にもたれ掛かった。寂しそうな表情で、市井の顔を見ている。市井は立って来てお藤の肩をそっと抱いた。


「それとな、麦湯をくれないか。こう暑くては堪らん。あちらにも(客間の版元)煎茶ではなく、麦湯を出しなさい。焼き団子も添えてな」


「そういたします」


 お藤が返事をする前にお紺が答えた。お藤は般若のような形相でお紺を見返したが、お紺は、棚の前にしゃがみ込み、うっすらと埃のかぶった二つの木箱を交互に見ている。


 背後に立ったお藤の目に、お紺の大きく抜いた襟が映った。汗で肌に吸い付いた、洗い古しの下着を市井が見ていないか確かめるようにさっと市井を振り仰いだが、市井は兵蔵が立っていた勝手口を見ていた。瞼を閉じたくなるほどの眩しいような西日が台所に入り込んでいる。市井はその光りの形を追うように、視線を走らせていた。


「ギヤマンにしますか、それとも江戸切子、それとも湯飲み?」


「ん、そんな物があったな」


 お紺の隣りに市井がしゃがんだ。その間を邪魔するように、お藤は二人の肩に手を置いて顔を割り込ませた。


「貰い物なんだよ。今年の初めだったかな?あの人がくれたんだ」


 市井は、客間の方を顎で指して言った。


「ふーん」


「江戸切子にしようかね」


 市井は言うと、


「さて、余り待たせてもな」と言いながら立ち上がり、帯の中に、襟を押し込むようにして居住まいを正し、客間へ向かった。


 今度の依頼は断るつもりだと、版元が来たとき、市井がお藤にこっそり耳打ちした。版元の依頼する滑稽本は、市井の趣味ではないらしく、そういうことに才能のある人間が書けばいいのだと市井は言うのだ。


「いい匂い………」


 市井の去った方を、お藤は見つめて大きく息を吸った。その姿を見る兵蔵が悲しげだ。兵蔵はお藤が好きだった。初対面の日、本を読む作業を止めて兵蔵を凝視したお藤の黒眼勝ちな目が、彼の心を掴んで離さなかった。市井の書く本の愛読者であり、また戯作者になりたくて、毎日、通っている行動の片隅に、お藤に会える恋慕の気持があるのは否めない。


 江戸切子で麦湯を飲み、皆で焼き団子を食べた夏が終わり、一年が過ぎていた。昨年に引き続き蒸し暑い夏の日のことである。お藤の純粋な心が壊れる事件が起きた。


 三日ほど家から出ることなく書室に閉じこもって執筆作業をしている市井の為に、朝餉でも一緒に食べようと、お藤は夜が明ける前から起き出して弁当作りに取り掛かった。飯を炊き、母の漬けた漬け物を切ってお重に盛った。その他のことは母が率先してやってくれたので、台所仕事が不慣れなお藤も安心できた。


 巫女の仕事である朝拝をしないことは、今朝に限っては、母の許可を得ている。朝日が昇ったころ、お藤は白々とした町中を跳ねるようにして門前仲町へ向かった。今朝のお藤は巫女装束ではなく、母のお古の、弁慶縞の着物を着ている。襟も、お紺ほどではないが、かなり抜いてみた。胸がぺしゃんこなのは気に入らないが、それもご愛嬌である。着崩れしなくて丁度いいと自分を慰めた。


 帯を締めた時、豊満な乳を帯に乗せるようなお紺の厚い胸が脳裡に飛び込んで来た。お藤は邪気を払うように激しく首を振ると、鏡の前に唇を突き出して薄く紅をひいた。唇をすり合わせて紅を馴染ませると、紅のついたままの小指の先で、片方の眉を隠してみた。


「眉を剃るのはのややを授かったとき……」


 お藤は一人つぶやいて微笑んだ。以前、母親が使い、余った鉄漿を塗って遊んだことがある。渋くて吐き気がしたが、いーっと笑うと、なかなか悪い顔ではないと思った。その時も、市井のお嫁になることを夢見ていた。


「修治さんはあたしをどう思っているのかしら?」


 割合い覚めた顔で独り言を言いながら、お藤は細めの長い眉を、眉墨で整えた。初めての経験だが、思った以上の出来映えに満足した。


 お藤の足取りは軽やかだった。時折、歩幅を狭くして、お淑やかに歩く努力をした。堪えようとしても自然と締まりのない顔になってしまう。


 お藤はいろいろと想像して歩いた。いつの日か、市井に大人の女として扱われる場面など想像しては微笑んだ。

 初めて垂れ髪、水引ではない髪型で市井の前に出る。今朝、大きな桃割れを祖母が結ってくれた。渋めの着物と似合うかどうか心配だったが、娘には娘の髪型があると、昔気質の祖母が頑として譲ってくれなかったのだ。


「ああ愉しみ」


 早朝の空を仰いで言った。その直後である。それまで軽やかだったお藤の足取りが、市井の町に架かる猪口橋の手前で固まった。


「お紺が……」お藤は無表情でそうつぶやいた。お紺が今、正に橋を渡り、家路に就こうとしていた。


ーこんな早くに、なぜ?


 夜明が香る朝で、忙しい江戸の町も人通りはそう多くない。お紺の方もお藤の姿を認めたようだ。勝ち誇ったような目付きでこちらに向かい、軽く頭を下げた。本人は意識していないだろうが、お藤にはそう見えた。


 お紺は昨日と同じ銘仙を着ていた。縦縞柄なので、肉付きの良いお紺がほっそり伸びやかに見える。幾ら着る物に金をかけないお紺でも、二日続けて同じ着物を着たことなど記憶にない。心なしか髪が乱れているようだ。これ見よがしに髱を撫でつける仕草が憎らしかった。


 後ろ姿になったが、懐から襟に手を滑らせているのが、その大きな手振りで分かる。よく張った尻を振り気味に、住まいのある、三十三間堂方面へ東に下るお紺の輪郭を、きらきらと眩しいほどの朝日が包んでいった。


「なんなの……」


 今年十四になったお藤だが、男と女が二人きりで、夜夜中にすることくらい知っているつもりだ。お藤は、料理の詰まった重箱を胸に押しつけるようにして抱え佇んだ。二段重の中身の殆どは母親がこしらえたが、卵焼きと握り飯はお藤が作った。砂糖や醤油、塩の量だって、五十代の市井に合わせて控えめにしている。


「ばかやろう」

 無意識なまでに自然に流れた大粒の涙を手荒く拭い、それでもお藤は市井の家に行くのをやめなかった。若い娘が、泣きべそを掻きながら歩く様は尋常ではない。通り縋りの棒手振りや、商人風情の男共に、奇怪なものでも見るような目付きで見られた。


 武家屋敷と裏店、堀割に囲まれるように立つ市井のしもた屋は、二階造りで表通りに面している。板壁の隙間から、洗い立ての洗濯物がひらひらと揺れ、光りと影を作っていた。


 お藤は今朝、市井にして上げたいと思った世話を全て、お紺に先を越されたことにも憤っていた。


 ーあたしだって、修治さんのとこに泊まる覚悟はあるんだから。お藤は心で叫び、市井の玄関先に立った。下を見ると、抜け目ないお紺が撒いた打ち水に腹が立つ。お藤は大きく息を吸った。


「ごめんくださいな」


 普段、訪いを入れることなどなくどしどしと上がり込むお藤も、今朝だけは用心した。早朝、突然の訪問に、後ろめたい気持の市井が慌てふためく顔など見たくなかったからだ。返事がない。だが、人の動く気配は、板戸越しにも感じられた。


「ごめんくださいね、修治さん」


 涙は渇いていたが、未だ泣き顔である。声を出すたびに、胸が苦しくなった。人の気配が板戸の向こうで止まっている。


「修治さん、いるんでしょう?」


 三度目でようやく返事が返ってきた。


「おお、お藤かい、開いてるよ。どうした……ん?」


 市井の声は、いつものように平静でやさしかったが、お藤は扉を開けなかった。市井も制止したままだ。


「修治さん、昨日は一人で寝たのかしら?」


 聞くつもりなどなかった言葉が意思に反して突いて出て、お藤はぎょっと唾を飲み込んだ。


「ああ、そうだが………さあ入りなさい」市井の声は当惑していた。


「お紺さんを見掛けたんだけど」

「そうかい、そうかい……」

「そうなのよ。どうしてかしら?」


「………」市井の答えはなく、二人は板戸を挟んで黙したまま突っ立ていた。お藤は唇を噛んだ。


「節操のない人は嫌いよ修治さん」


「ああ………」


「修治さん。お弁当をこしらえたのよ。二人で食べようと思って。でもここに置いとくわね。もう帰るわ」


 お藤は言うと駆け出した。今朝はこれ以上市井と接触を持ちたくなかった。市井とお紺が、薄汚い生き物に見えて仕様がない。背後で表戸の開く音とがした。「お藤、待ちなさい」と叫ぶ市井の声に振り向かなかった。修治さんは追っかけてきてくれるだろかと、多少の期待はしたが、それは自惚れであった。


 大通りに出た時、大八車と接触しそうになり、お藤はどきりと立ち竦んだ。材木を積んだ車力に怒鳴られるのを覚悟して肩を竦めたが、車力はお藤を一瞥しただけで何も言わなかった。


 竦めた肩を落とし、ほっと胸を撫で下した。その時、早足に近寄る足音を聞いた。家の中なら、それが市井のものかどうか迷うことはないのだが、早朝とはいえ、江戸の町は起き出してきて、物や、人の動きが激しくなる。あちらこちらに植えられた木々から漏れる小鳥のさえずりもうるさく判断がつかない。


「お藤ちゃん」


 兵蔵の声である。お藤は一瞬がっくりと肩を落としたが、すぐに気を持ち直し兵蔵に向いた。


「どこへ行くの?」


 兵蔵の問いには答えず、「ついてきて」と、言うと、お藤は先立って歩き出した。


「お藤ちゃん、先生の家には寄ったのか?」


「ううん……」


 泣き顔ということもありきまりが悪い。お藤は振り向きもせずにそう言うと、前だけを見据えていた。


 蛤町の狭い路地を抜け、左に折れると黒舟橋が見える。川を超えると、松平家の長屋塀が朱の鳥居を挟んで建っている。ここがお藤の実家である。


「お藤ちゃんの?」


「そうよ。兵蔵さんて、八幡さまばかり参拝してるでしょう?」


 お藤はさりげなく言ったが、兵蔵は苦笑いするしかなかった。


 黒船稲荷の鳥居を一礼して潜ると、兵蔵は思わず足を止めた。狭いと思われた神社が意外と細長いことに気付く。境内の参道脇には無数の幟が閃いていて、正面には、空を遮るほど大きな銀杏の木が、御神木の威光でどしりと構えていた。境内は薄暗い。


 お守りや、御札などを頒布する授与所の前を通っても、境内を掃く知り合いの巫女に出会っても、お藤は脇目を振らずに歩いていた。途中、一度も兵蔵を振り向こうともしない。玉砂利が軽快な音を立てて、お藤の後を追っているような気がした。


「ここよ」


 お藤は兵蔵を、拝殿に案内した。重厚に光る朱塗りの柱が二本、聳えるように建てられ、拝殿の奥には御祭神が鎮座する本殿があり、神聖な空気に守られていた。邪気の入る余裕のない空間である。


「兵蔵さんは神狐がお嫌い?」


「えっ!」


「だってほら、拝殿の前の神狐さんの目を見ようといなかったじゃない」


「目っ?」


 兵蔵はお藤の言ってる意味が理解できないらしい。眉をひそめた。


「そうよ、目よ目。怖いんでしょう?」


「………」


 二人は恐れ多くも、御祭神の鎮まる五つの扉の前に肩を並べて腰を下ろしていた。お藤は常のことなので気にしていないが、兵蔵は居心地悪そうだ。


「いや、そうじゃないけど」


 兵蔵はそう答えたが、お藤の指摘は満更、外れていない。兵蔵は稲荷神社の独特の威圧感を苦手としていた。まだ幼いころ、近所の高尾稲荷で遊んでいた時、狐の目が光ったような気がして以来、稲荷社からは遠ざかっている。


「罰が当たると思っているんでしょう?」


 お藤は抱き込んでいた膝を一層胸に押しつけ、兵蔵の顔を覗き込んだ。兵蔵はそっぽを向き胡座を掻いた。顔が熱く、火照っているのを隠したかった。


「罰、当たるわよ」


「えっ!」


 兵蔵は右手を付いて、お藤を見た。思った以上に顔が接近し、今度は本当に赤面してしまったので下を向いた。


「心配しないで、非常識なことをしたら叱られるだけだから。感謝の気持を忘れなければ神狐さんは守って下さるわ」


「そう……」


「そうよ」


 お藤は年上のような振りで顎をふんと上げた。


「ところで兵蔵さん」


 呼びかけたあと、お藤は正面を向いた。兵蔵は静かに顔を上げ、お藤の横顔を見つめた。


「修治さんと……お会いになったの?」


「今朝?ううん、まだだけど。先生の家に向かう途中でお藤ちゃんを見掛けたからさ……。お藤ちゃん、何だか怒ってるようだったし、心配になってね。何かあったのかい?」


「そうじゃないの。昨日、兵蔵さん、何刻ごろに帰ったの?」


「昨日は剣術の稽古があったから、夕刻には道場に向かったよ。なぜだい?」


 兵蔵は三日に一度の間隔で、剣術道場に通っている。


「そっか、そうよね。兵蔵さん、お侍さんなんだものね。どこの流派だったかしら?」


「陰流……」


 兵蔵は殆ど消え入りそうな声で答えた。親の無理強いで、新陰柳生流を習っているが、一向に上達せずに悩んでいる。しかも打込稽古は苦手で遣る気がない。普段から二本を帯びることさえ、重くて適わんと思っていた。武家に生まれたことに誇りも持っていない。戯作者を生業にしたいと心底、望んでいた。


「兵蔵さんが帰る時、お紺さんはいた?」


「いたかな……良くは覚えてない……」


 兵蔵は言葉を濁した。その態度から、お紺が居残ったことは確かだと思われ、お藤の胸は息苦しくなるほど痛んだ。


「そんなことよりお藤ちゃん。似合うよ、それ」


 お藤が黙って顔を上げると、兵蔵は身振り手振りで、お藤の髪型や、化粧、着物などを示した。しかし最後に、「巫女装束の方が好きだ」と付け加えてうつむいた。


「変な兵蔵さん」


 お藤がそう言った時、賽銭が、勢い良く賽銭箱に投げ入れられ、鈴の音が高らかに響いた。昨晩、新調されたばかりの鈴緒が賽銭箱に大きな音を立ててぶつかった。豪快な柏手が二回。間を置いてもう一回打たれたあと、「こらっお藤!」と罵声が飛んだ。


「きゃっ」


 とお藤は立ち上がり、兵蔵もつられて立ちあがると、声を発した主の方を怖々と見た。白髪頭の七十近い年寄りが、背筋と首を伸ばして口をもぐもぐ若い二人を凝視していた。


「あら源蔵さん生きてたの?」


 お藤はきょとんとして小首を傾げた。源蔵と呼ばれた男はお藤と兵蔵を見比べると、腕組みをして、兵蔵だけを、吟味するような目付きで上から下まで眺めた。


「ほう、見たところお武家さんかい。お前さん、長男か、次男か?跡取り息子なら、うちのお藤は諦めとくれ」


 歯切れの良い口調の老人である。比較的、気の弱い兵蔵は、畏縮しそうになるのを必死で堪えてお藤を見た。誰?と小さな声で聞いた。お藤は答えず、兵蔵を残して賽銭箱の裏側まで進み、源蔵と向かい合うとこちらも腕組みをした。


「勝手なことを言って。あの人とはそんな関係じゃないのよ」


 お藤は言うと、顎をしゃくって背後の兵蔵を指した。兵蔵は人差し指を立てて、自分を指し、不服そうな顔をしている。


「あたしは嫁入りしますからね。入り婿なんていらないんだから」


 ふんとお藤は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。源蔵は如何にも愉しげだ。


「しかしおめえ、なんだそのトンチンカンな恰好はよ。桃割れに弁慶縞は似合わねえよ。紅なんぞ塗って、眉はそれ、海苔を張っつけてんのか?えっ?七五三以来だぞ。似合わねえ、似合わねえ。さっさといつものに着替えちゃいな。なあ若けえの。そう思わねえか」


「いや、それがしは別に」


 老人とはいえ、町人に「若いの」扱いされて、兵蔵は一層、不機嫌になり、怒さえ込む上げた。


「それがしときたかいハハハハハ」源蔵は豪快に、さも愉快ゆかいそうに笑った。


「なっ何がおかしい?」


「いやいや。すまねえなお坊ちゃん」


 源蔵はそれまでの厳しい目付きを改め、好々爺の相になった。兵蔵を気に入ったという風である。


「お藤ちゃんの容姿をとやかく言われましたが、御老体も、なかなか面白い恰好だと思いますがな」


 兵蔵は声を張ったつもりだが、耳の遠くなった源蔵には聞き取れなかったようで、耳に手をあてがって「えーっ」と聞き返された。


「源蔵さんの服装が変だって、兵蔵さんが言ってるのよ」


「俺のがかい?そうかね」


 源蔵は改めて自分の服装を眺めた。縞の着流しの上には派手な半纏をはおっている。兵蔵からは見えないが、背中には、おどろおどろしい幽霊画が描かれていた。


「そんなことはないと思うがな」


 源蔵は腕組みをした片手を顎に当てて思案顔を作った。そして強く手を打ち、


「わかった奴は田舎もんだろう。そうに決まってら」と言ってげらげら笑った。


 耳の遠い源蔵の声は大きい、朝の参拝客や、祈祷に訪れた人々が怪訝な目付きでこちらを見ている。相当、腹が立ったと見える兵蔵は、


「それがしは、江戸生まれの江戸育ちで、江戸の産湯に浸かった」と早口で捲し立てた。


 それでも源蔵は不信感を露わに、顎を指先で擦りながら兵蔵をしげしげと眺めた。兵蔵は唇を尖らせて斜を向いた。


「もうすぐ祈祷が始まる頃よ。ここを出ましょう。怒られちゃうわ」


 お藤が言うので、二人は本殿を出て、銀杏の木の下に避難した。口は達者だが、足元が弱々しい源蔵の手を取って、お藤が木の下まで導いた。


 木の根に腰を下ろした源蔵は、先程とはうって変わって真面目な表情になり、厳しい目を宙に浮かせた。

「おめえ、あれかい。あの戯作者の家にまだ通ってるのかい」


「………」


 お藤は答えなかった。今朝のお紺の姿が脳裡いっぱいに広がり、答えることができなくなっていた。


「やめとけよ、間違いがあってからじゃ遅い」


「間違いって……?」


「それはよ、その」


 源蔵は口籠もって咳払いをした。そのあと咳き込んだ。痰の絡んだ厭な咳だ。お藤はひどく悲しい顔をして、源蔵の背をやさしく擦った。兵蔵だけは、むっつりとしたままで、木と向かい合わせの捨て石に腰掛けている。


「おめえももう、数えで十六だ。嫁にいってもいい年なんだぞ。それがあんな助平爺の元に通ってたらろくなもんじゃねえ」


「修治さんは助平爺なんかじゃありません」


 お藤はむっと頬を膨らませた。


「おまえ、奴の書いた本を読んだことがあるか?」


「いつも読んでるわよ」


「いやらしい箇所があるだろう」


「そういう目で見るからいやらしいのよ」


「だいたいな、戯作者なんて代物はむっつり助平ばかりだ」


「似たようなものでしょう。源蔵さんだってさ」


「うっ……そりゃな、そうさ」


 源蔵は苦々しくうなずいた。愛用の杖に重ねた両手の上に顎を乗せて瞼を閉じた。初夏の爽やかな空気が源蔵の眠気を誘ったのか、こくり、こくりと居眠りをし始めた。すると、どこからともなくお藤の母の富子がやってきた。


「あらあら眠っちゃったのね」


 富子は兵蔵と軽い挨拶を交しただけで、源蔵を支えるようにして境内の奥へと消えた。


「だれなの?」


 兵蔵が聞いてきた。細長い神社の境内の奥の奥の方を首を伸ばして見ている。富子と源蔵の関係。源蔵という男の正体。かなり不審に思っているようだ。眉をしかめて、首を何度も傾げている。その態度には、去り際に源蔵の言った、「お藤はお岩のように、怖ええ女だぜ。しかし情が篤い。大切にしてやってくれ」の言葉が効いていた。


「ああ、源蔵さんはね、うちの境内に住んでるのよ」


「そうなの?」


 兵蔵は驚いた声を上げると、源蔵の去った方を、まるで透視するかのように目を細めた。


「おっかさんの、いい人なの」


 大変なことを淡々と話すお藤に、兵蔵は驚愕の目を向けた。どう見ても、富子は三十代である。外見だけだと源蔵とは、祖父と孫娘にしか見えない。いい人ということは、あの爺さんと……?脳裡に浮かんだ野卑な考えに当惑し、目をしばたたいた。


「源蔵さん、奥様もご健在でね。うちの母とも長いのよ。あたしが七つの時だから、おとっちゃんが亡くなった翌年からずっと」


「………」


「おっかさんと源蔵さん、孫ほど年が離れてるでしょう」


「………」


「だから、あたしが修治さんに恋い焦がれる気持がわかるのよ、おっかさんはね、きっと。本人に聞いたことなんかないけどね」


 衝撃すぎて声も出ない。兵蔵は黙ってうなずくしかできなかった。


「でも違うわ」


「えっ、何が?」


「だって、源蔵さんには妻子があるけど、修治さんは独り者だもの」


 お藤はそこでまたお紺のことを思い出した。胸が痛くなり、とうとう座り込んで膝を抱えた。


「お藤ちゃん」


 兵蔵はお藤の肩にかるく触れた。細く、か弱い骨の感触がした。


「修治さんね、二十年前に奥様を病気でなくされて、当時まだお子さんが乳飲み子でね、貰い乳をしながら育てたけど、奥様を無くした悲しみがなかなか癒えなかったと言ってたわ」


 お藤はいつか市井から聞いた身の上話を、兵蔵に詳細に話して聞かせた。前妻を亡くした市井は、その数年後にお紺と出会い、波長が合うのか意気投合。十年ほど一緒に暮らしたが、何か理由があって二人は別れたらしい。別れた理由に関しては、相手があることだからと言って市井は語ろうとしない。そのお紺が再び市井の家に出入りするようになったのは二年前で、以来お藤は、突然、現れた恋敵の存在に胸を痛めて過ごしている。


「兵蔵さん」


 お藤は言うと立ちあがり、空一面を覆うように聳える銀杏の木を見上げた。


「あたし、負けないからね」


「そうだな……」


 兵蔵は銀杏の葉の緑が移ってしまったように瑞々しく染まるお藤の頬を眺めながらうなずいた。





つづく

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