第5話 雲を抜けた
雲雀蒼空にとって“空を飛ぶ”という行為は、単なる移動ではなく、記憶と現在が重なり合う特別な時間だ。
747の静けさ、雲を抜けた瞬間の青、幼い頃に見た雲の絨毯——それらが今の蒼空を形づくっている。
この章は、彼女が空を愛する理由の断片をそっと拾い上げた物語です。
あなたの中にも、きっと忘れられない“最初の青”があるはず。
どうぞ、その記憶を重ねながら読んでください。
おかえり、蒼空。
那覇まで、約二時間半。
機体は青い空の中を、南へ向かって飛んでいた。
眼下には雲の絨毯が広がっている。
白くて、平らで、果てしない。
その上を、機体の影がゆっくりと流れていく。
蒼空は窓から目を離せなかった。
何度見ても、飽きない。
なぜ飽きないのか、自分でもうまく説明できない。
ただ、見ていたかった。
それだけだ。
* * *
シートベルトサインが消えた。
蒼空はショルダーバッグからスマートフォンを取り出した。
那覇着後の乗り継ぎ時間を確認する。
那覇到着が九時五十分予定。那覇発宮古行きが十一時十分。
乗り継ぎは八十分。余裕がある。
スマートフォンをしまった。
CAさんが通路を歩いてきた。
「お飲み物はいかがですか」
「コーヒーをください。ブラックで」
「かしこまりました」
カップが手元に来た。
両手で包む。熱い。
一口飲んだ。苦くて、熱かった。
窓の外を見た。
雲の絨毯の向こうに、水平線が見える。
空と海の境界が、どこまでも続いている。
* * *
ふと、思い出した。
あれは何年前だっただろう。
平日の、閑散期。羽田から新千歳へ向かう便だった。
747だった。
搭乗してみたら、機内がガラガラだった。
百人も乗っていなかったかもしれない。
広い機内に、ぽつりぽつりと乗客が座っている。
あの静けさは、今でも覚えている。
CAさんがギャレーからすぐに来てくれた。
満席のときとは違う距離感で、話しかけてくれた。
飲み物のおかわりを、すぐに聞いてくれた。
グッズをくれた。
絵葉書をくれた。
機体の絵が描かれた、小さな絵葉書。
747の、横顔。
蒼空はそれを今でも持っている。
捨てる理由がない。捨てたくない。
そう気づいたのは、だいぶ後になってからだった。
満席の747とは、音が違った。
エンジンの音は同じはずなのに、静かだった。
機内の空気が、違った。
あの日の747は、自分だけのために飛んでいるみたいだった。
* * *
もっと遠い記憶もある。
小さかった頃、家族と乗った飛行機。
どこへ行ったのか、もう覚えていない。
何を食べたか、何を見たか、それも覚えていない。
覚えているのは、窓から見た景色だけだ。
雨だったか、曇りだったか。
地上はぐしゃぐしゃだった。
離陸して、雲の中に入って、揺れて、暗くなって。
そして、抜けた。
一面の青。
雲の絨毯。
太陽がそこにあった。
小さな蒼空は、窓に顔を押し付けて、ただ見ていた。
言葉が出なかった。
言葉にする必要がなかった。
地上がどんな状態でも、雲の上はいつも晴れている。
あのとき、身体でそれを知った。
それが全部の始まりだったかもしれない。
と、今は思う。
でも当時の自分にそんな自覚はなかった。
ただ、きれいだと思った。
ただ、もっと見ていたいと思った。
それだけだった。
* * *
2013年3月のことも、思い出した。
747が国内旅客路線から退く、その最後の時期。
那覇から羽田へのラスト便は、満席で取れなかった。
発売と同時に埋まった。当然だ。みんな同じことを考えていた。
悔しかった。
だから、一つ前の便を取った。
羽田から那覇へ向かう便。
ラストではない。でも、最後に近い。
乗ってみたら、ほぼ満席だった。
那覇行きのラストに乗れなかった人間が、羽田行きに殺到している間、
こちらも最終便と変わらない747の中にいた。
それでもCAさんがギャレーから来てくれた。
飲み物のおかわりを何度も聞いてくれた。
グッズをくれた。
絵葉書もくれた。
窓の外に、青い空が広がっていた。
那覇に近づくにつれて、海の色が変わっていった。
深い青から、透明な青緑へ。
蒼空はずっと、窓の外を見ていた。
那覇→羽田のラストには乗れなかった。
でも、あの羽田→那覇は、自分だけのものだった。
そんな気がした。
747はもう、国内線では飛ばない。
あの機内の静けさも、あの距離感も、もう体験できない。
でも蒼空の中には、ちゃんとある。
あの日もらった絵葉書と一緒に、ずっとある。
* * *
機内アナウンスが流れた。
「まもなく那覇空港に着陸いたします。シートベルトをお締めください」
蒼空は窓の外を見た。
雲の下に、海が見えてきた。
エメラルドグリーンの、沖縄の海だ。
那覇が近い。
蒼空はシートベルトを締めながら、スマートフォンを取り出した。
次の便の搭乗口を確認する。
那覇発、宮古行き。搭乗口、十四番。
まだ先がある。
それが嬉しかった。
まだ飛べる。今日はまだ、終わっていない。
機体が高度を下げていく。
海が近づいてくる。
那覇の街が見えてきた。
蒼空は窓から目を離さなかった。
降りたくない、と少し思った。
でも降りなければ、次に乗れない。
それでいい。
それが、修行というものだ。
読んでくださって、ありがとうございます。
蒼空が空を見つめ続ける理由は、派手な出来事ではなく、静かに積み重なった記憶の断片にあります。
ガラガラの747、絵葉書、雲を抜けた瞬間の光——それらは彼女の中で今も息づき、今日の旅路を支えている。
飛行機はもう同じ形では飛ばないけれど、蒼空の中には確かに残っている。
もしあなたにも、忘れられない空の記憶があるなら、この章がそっと触れられていたら嬉しいです。
次の旅も、まだ続きます。
Good Day!!




