第1話:雲雀蒼空の一日
日々は静かに流れていくようで、実際には小さな選択と習慣の積み重ねでできている。
雲雀蒼空の一日は、誰にでも似ているようで、どこにもいない誰かの物語でもある。
淡々とした時間の中に、ふと灯る熱や、胸の奥でだけ鳴る音がある。
この物語は、そんな“揺れ”をそっとすくい上げるためのものです。
あなたの中にも、きっと似た瞬間があるはず。
どうぞ、蒼空の歩幅に寄り添いながら読んでください。
おかえり、蒼空
七時二十二分、雲雀蒼空は家を出た。
玄関の鍵を閉める。そして施錠を確認する。もう一度確認する。
習慣ではなく、単純に鍵を閉め忘れてることがあるから。
閉まっていることを確認して、ほっとする。
いつも、鍵が開いていることはなくても、それでも繰り返す。
今朝の空は、どちらかと言えば白が勝っていた。
でも曇りなのか晴れなのか、どちらとも着かない微妙な色。
蒼空は空を三秒ほど眺めて、イヤホンを耳にはめる。
歩く速度は速くも遅くもない。
急いでいるわけではなくて、無駄がないだけだ。
信号は渡れるタイミングで渡る。
人混みは最短ルートで抜ける。
駅の改札はICカードで通る。
ホームに上がってすぐ、電車が滑り込んでくる。
いつもの電車、いつもの乗車口。ほかの乗客とともに流れ込む。
座れる席があれば座る。でも今日は空いていなかった。
ドアの端に立って、窓から景色を見つめる。
景色が進行方向と逆に流れていく。
蒼空は流れる景色を見つめながら、頭を空っぽにしていた。
何も考えない。
正確には、考えることが何もなかった。
今日やることは頭の中に入っている。昨日の夜に確認を終えた。
終わりの見えている仕事を、朝からもう一度考え直す必要はない。
イヤホンの中では何も流れていなかった。
ただ、ノイズキャンセリングが効かすことで、外の音を遮断したかっただけ。
* * *
会社に着いたのは、八時五十一分だった。
始業は九時。九分の余裕。
蒼空はそれを余裕とは思わなかった。
適切な到着時刻だと思う。
自席について、備え付けのデスクトップPCの電源を入れる。
画面が立ち上がり、パスワードを入力してログインする。
最初にメーラーを立ち上げて、メールのチェック。
三十二件の新着、未読のメール。
スクロールしながら、必要なものを振り分ける。
必要なメールは六件だった。
残りの二十六件は内容を把握済み、急いで対応の必要はない。
ただ、今日返信をしなくてもいいものだとわかる。
「雲雀さん、田中部長の資料って、昨日頼んでたやつ―—」
隣の席の同僚が、タイミングをみて話しかけてくる。
半身だけ、こちらに向けて尋ねてくる。
名前は佐々木。入社三年目の後輩。
席が隣だけあって、話しかけてくる頻度が高い。
悪い人間ではないとは、思っていた。
「直しておきました。共有フォルダの、プロジェクトBのフォルダの中です」
「あ、ほんとですか。ありがとうございます。助かりました」
「はい」
それだけだった。
佐々木が何か言いたそうにしているのは分かった。
感謝を告げたいのか、雑談に持ち込みたいのかのどちらかだろう。
でも、すでに蒼空は画面に視線を戻し、作業に戻っていた。
会話が終わったことを、背中で伝えながら。
喋らなくても回る。
回るから、喋らない。
午前中の仕事は淡々と進む。
資料を直す。
数字を確認する。
合間に、メールを返す。
一行か、二行。それで伝わる。
伝わるなら、それ以上書く必要はない。
誰かが何かを察してほしそうにしていたら、察して動く。
頼まれる前に片付ける。
そうすれば声をかけられるか回数が減る。
減った方がいい。そのほうが楽だ。
蒼空は仕事が嫌いではなかった。
ただ、好きでもなかった。
必要だから、やる。それだけ。
* * *
昼は、十二時ちょうどに席を立った。
コンビニには立ち寄らなかった。
自販機の前で一瞬立ち止まって、素通りした。
デスクの引き出しから取り出したのは、バランス栄養食のゼリー、一本。
カロリーは二百キロカロリー。
ビタミンとミネラルが十三種類。
味はグレープフルーツと書いてあったが、グレープフルーツかどうかよくわからない味だった。
自席について、静かに飲む。
窓の外を見つっめながら、吸って。飲み込んで、また吸い込んだ。
ゆっくりと五分かけて、飲み終える。
空の容器を給湯室のゴミ箱へ捨ててから、席に戻る。
昼休みの残りの時間は、スマートフォンを見て過ごした。
ニュースではなく、航空会社 日本スカイネットのウェブサイト。
次のフライトの空席状況を確認した。
まだ埋まってなかった。よかった。
それだけで、あっという間に昼休みが終わる。
午後の仕事に戻った。
* * *
退社は定時だった。
十八時ちょうど。
PCをシャットダウンして、ジャケットを羽織る。
荷物を持って、椅子をデスクにしまいつつ、席を立つ。
「お疲れ様です。」と言いながら出口へ歩みを進める。
誰に伝えるわけでもなく、フロア全体に向けて挨拶をする。
その挨拶に対し、ちらほら返ってくる声があった。
蒼空はもう、フロア出口のドアに向かっていた。
エレベーターを待つ時間がもどかしく、嫌いだった。
階段で階下に降りることを選択する。
会社の外に出たときには、空はオレンジ色に変わり、夕方の空模様。
空はそれを数秒見つめて、駅に向かった。
* * *
帰り道、スーパーに立ち寄る。
最寄り駅から徒歩四分ほど。チェーンのスーパー。
特別好きでも、嫌いでもない。
ただ、見切り品コーナーが充実している。
それだけの理由で、ここに寄り続けている。
自動ドアをくぐって、野菜などの生鮮品コーナーを素通りして、惣菜コーナーに向かった。
時刻は十八時四十分。このくらいの時間が一番いい。
半額シールが貼られているが、売り切れていない。
狙い目の時間帯だった。
幕の内弁当。半額シール付き。大物だ。
おかずの種類も多い。
ボリュームもある。
今日は唐揚げよりも、これがいい。
そして手を伸ばした瞬間、別の手がその行く手を阻む。
スーツを着たおじさんだった。
蒼空より十センチは背が高い。
気づいているのか、気づいていないふりをしているのか。
そのまま弁当をカゴに放り込む。
蒼空は目標を失った手を、そっと引っ込めた。
思わず、舌打ちが出る。小さく、でも確実に。
おじさんは振り返らず、レジのほうに消える。
蒼空はそれ以上、何も言わず、ただ手元に並んだ唐揚げを一パック手に取った、
賞味期限は、今日。
半額シール。
五個入り。
まあ、逃した魚は大きいが、まあいい。
唐揚げでも、いい。
ほうれん草のごま和え。
賞味期限は、明日。
三割引シール。
これもカゴに入れる。
鮭の塩焼き、一切れ。
賞味期限、今日。
半額シール。
少し身が崩れているが、問題ない。カゴに入れる。
レジに並ぶ。
前には二人。その後ろに並んで待つ。
支払いはICカード。
袋は持参のエコバック。三百八十円。
戦利品を片手に、スーパーを出て家路につく。
見上げた空は、もう暗くなっていた。
* * *
帰宅したのは、十九時すぎ。
自宅アパートの玄関のドア、鍵を開ける。
電気をつけ、靴を脱ぎながら、肩にかけていたバックを床に落とした。
床に落ちたバックは拾わずにそのまま。
キッチンの脇を抜け、リビングに入る。
羽織っていたジャケットを脱ぐ。
ハンガーに掛ける手間が面倒で、クローゼットの扉の取っ手に引っかける。
ブラウスを脱ぐ。
スラックスを脱いで、今度は開きかけのクローゼットのドアに放り投げかける。
そして、代わりに引き出しから、高校から愛用の芋ジャージを引っ張り出す。
上下。色はエンジ色。
校章のプリントは擦れて少し剥がれ落ちている。
袖のゴムはさすがに伸びている。
でも、捨てない。
まだ着れるから、捨てる理由がない。
残りの着替えを済ませてしまう。
洗面台の前に立って、コンタクトを外し、レンズケースにしまう。
眼鏡をてにとりかける。黒縁、黒フレームの。
目の前には、自宅仕様になったもうひとりの雲雀蒼空がいた。
薄化粧の跡が少しのこっていたが、それを落とすのは後でいい。
今はまず、座って落ち着きたかった。
ローテーブルのノートPCを開き、立ち上げる。
フライトプランをまとめたファイルを開く。
昨夜途中まで組んでいたルートの続きだった。
スプレッドシートに、フライト番号と時刻と空港コード。
さらに、そのフライトで取得できるマイル数と運賃、乗り継ぎ時間が並ぶ。
ほかの人が見たら、何の表か分からないかもしれない。
蒼空には全部分かっている。
指がキーボードの上を走る。
「......羽田か伊丹か、羽田か、でも伊丹の方が乗り継ぎ......いや羽田、羽田でしょ、」
つぶやきが漏れる。誰も聞いていない。聞いていなくていい。
「羽田六時四十五分、あ、待って。これ第三ターミナルじゃん。移動込みで45分、いけるか、いけるな、いける、」
スクロール。検索。ページが切り替わる。
「でも、こっちのほうがマイル積めるんだよな、どっち、どっちだ、ていうかこの便、機材なんだろ、」
検索、また検索。ブラウザの別タブが開く。また別タブが開く。
「あ、B7(777)か。じゃあ、こっちでしょ。いや、待って待って、乗り継ぎ四十七分、保安検査込みで......ギリギリか、ギリじゃないか、余裕じゃないか、いやギリだわ、でもいける、いける、絶対いける、走らなくていいレベルでいける、」
独り言は部屋の中に消える。
誰にも届かない、届かなくていい。
「あとここ、特典航空券でとれるかな。とれたらもっと安くなる。とれるか調べよ。とれたらこのルート完璧になる、完璧になるじゃんね。」
タブが加速度的に増えていく。
それを追う蒼空の瞳が、少しずつ変わっていった。
昼休みに窓の外を眺めていたときの目ではない。
佐々木の話を聞いていたときの目でもない。
もっと、奥の方が灯っている。
ずっとそこにあったのに、今日初めて火がついたみたいに、静かに、確実に、燃えていた。
「あ、取れる、取れるじゃん、空いてる、」
前のめりになる。
「ちょっと待って、ちょっと待ってよ、これ全部繋がるよ、羽田六時四十五分発で、乗り継ぎ四十七分で、特典で取れて、マイルも積めて、修行にもなって、」
指が止まる。
画面を見る。もう一度見る。
全部、繋がっていた。
「あ、」
声が漏れる。
「よっしゃぁ!!」
気がついたら、立ち上がって叫んでた。
握った手を胸の前で押さえる。
芋ジャージのそでがぶかぶかと揺れる。
待って、待って、待って。これ完璧じゃん。
羽田六時四十五分発、乗り継ぎ最短四十七分、到着は現地の朝——
しかも修行にもなる、マイルも積める。特典で取れる。
なんでこんなに綺麗に繋がるの。
最高か、最高だわ。今日、サイコー!
今日ほんと最高、これ最高のルートじゃん。
隣の部屋から、ドン、と壁をたたく音がした。
蒼空は一瞬止まる。
「......すみません」
小声で言った。
全然反省してなかった。
足元のスーパーの買い物袋が、くしゃっと音を立てた。
唐揚げの油の匂いが立ち上る。
* * *
これが、雲雀蒼空のとある一日。
地上では、こういう女だった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
蒼空の一日は、特別な事件がなくても、確かに息づいている“物語”でした。
静かで、淡々としていて、それでもどこかに熱がある。
そんな彼女の姿を追いながら、あなた自身の一日にも小さな光が差すような、そんな読後感になっていたら嬉しいです。
また別の時間、別の空の下で、蒼空とあなたが出会えますように。
次のページでも、良い旅路を。
Good Day!!




