最後の図書館員
その図書館には、もう誰も来なかった。
サクラは毎朝、埃をかぶった棚の間を歩きながら、背表紙を指でなぞる。紙の感触が、今や世界で最も贅沢なものになっていた。
外では、人々が記憶を〈クラウド〉に預けて生きていた。読んだ本も、見た夢も、愛した人の顔も——すべてをデータに変換し、脳から切り離す。「重さがなくなる」と言う人もいた。「軽くなれる」と。
サクラには、その軽さが怖かった。
ある雨の夜、扉が開いた。
入ってきたのは、若い男だった。濡れた髪を額に貼りつかせ、何かに追われているような目をしていた。
「本を、探しているんです」と彼は言った。「タイトルは分からない。ただ……母が昔、読んでくれた話で」
サクラは彼を奥の椅子に座らせ、温かいお茶を出した。
「どんな話でしたか」
「海の底に、城があって。そこに眠っている王様がいて……王様は、覚えることをやめた人たちを集めて、一緒に眠っているんです」彼は手のひらを見つめた。「母は、先月〈クラウド〉に移行しました。今では僕の顔も、わからないみたいで」
サクラは立ち上がり、最も古い棚へと向かった。
三十分後、彼女は一冊の本を持って戻ってきた。表紙はほとんど消えかけていたが、ページを開くと、かすかにインクの匂いがした。
「これかもしれません」
男はページをめくり始めた。読みながら、彼の表情が少しずつ変わっていった。目が、潤んでいった。
雨がやんだ頃、彼は本を閉じた。
「そうです、これです」静かな声で言った。「母は、僕にこれを読んでくれていたんだ」
サクラは微笑んだ。
「貸し出しカードに名前を書いてください」
男は驚いたように顔を上げた。「まだ、そんなものが?」
「ここではまだ使っています」
彼はカードに名前を書いた。山田 蒼、と。
扉が閉まる音がした。サクラは本棚に寄りかかり、目を閉じた。
紙は重い。言葉も重い。忘れたことも、忘れられないことも、全部ひとつの体で抱えていくのは、確かに大変だ。
でも、重さの中にこそ、その人がいる。とサクラは思っていた。
翌朝、また埃をかぶった棚の間を歩きながら、彼女は背表紙をそっとなぞった。




