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最後の図書館員

掲載日:2026/03/26

その図書館には、もう誰も来なかった。

サクラは毎朝、埃をかぶった棚の間を歩きながら、背表紙を指でなぞる。紙の感触が、今や世界で最も贅沢なものになっていた。

 外では、人々が記憶を〈クラウド〉に預けて生きていた。読んだ本も、見た夢も、愛した人の顔も——すべてをデータに変換し、脳から切り離す。「重さがなくなる」と言う人もいた。「軽くなれる」と。

 サクラには、その軽さが怖かった。

 ある雨の夜、扉が開いた。

 入ってきたのは、若い男だった。濡れた髪を額に貼りつかせ、何かに追われているような目をしていた。

「本を、探しているんです」と彼は言った。「タイトルは分からない。ただ……母が昔、読んでくれた話で」

 サクラは彼を奥の椅子に座らせ、温かいお茶を出した。

「どんな話でしたか」

「海の底に、城があって。そこに眠っている王様がいて……王様は、覚えることをやめた人たちを集めて、一緒に眠っているんです」彼は手のひらを見つめた。「母は、先月〈クラウド〉に移行しました。今では僕の顔も、わからないみたいで」

 サクラは立ち上がり、最も古い棚へと向かった。

 三十分後、彼女は一冊の本を持って戻ってきた。表紙はほとんど消えかけていたが、ページを開くと、かすかにインクの匂いがした。

「これかもしれません」

 男はページをめくり始めた。読みながら、彼の表情が少しずつ変わっていった。目が、潤んでいった。

 雨がやんだ頃、彼は本を閉じた。

「そうです、これです」静かな声で言った。「母は、僕にこれを読んでくれていたんだ」

 サクラは微笑んだ。

「貸し出しカードに名前を書いてください」

 男は驚いたように顔を上げた。「まだ、そんなものが?」

「ここではまだ使っています」

 彼はカードに名前を書いた。山田 蒼、と。

 扉が閉まる音がした。サクラは本棚に寄りかかり、目を閉じた。

 紙は重い。言葉も重い。忘れたことも、忘れられないことも、全部ひとつの体で抱えていくのは、確かに大変だ。

 でも、重さの中にこそ、その人がいる。とサクラは思っていた。

 翌朝、また埃をかぶった棚の間を歩きながら、彼女は背表紙をそっとなぞった。

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