第7話:素手剣聖の特技と、ブレス・トードの魔力ジェル
<素手剣聖、地下迷宮に入る>
王都地下迷宮の入り口は、湿った土の匂いと、微かな魔物の鳴き声が響く暗闇だった。義輝は、神剣の代わりに腰に普通の冒険者用の剣を差しているが、それを抜くつもりはない。これは討伐ではない、推しのためのお使いなのだ。
義輝は、リリアが求めるブレス・トードの生態について、脳内で情報を整理した。
(ブレス・トードは、非常に聴覚が敏感だ。そして、硬化前の魔力ジェルを採取するには、完全に無防備な「熟睡状態」でなければならない。しかし、ブレス・トードは常に強酸性のブレスを排出しており、近寄るだけでも危険だ。戦闘力を封印した今、必要なのは…)
義輝は深く息を吸い込み、迷宮の空気に神経を集中させた。
彼の推し活における隠された特技、それは「推しのライブの音響調整で培われた、究極の聴覚と繊細な魔力制御」である。義輝は、ライブ会場で、フローラの声が最も響く音響バランスを見つけ出すために、膨大な時間を費やしていた。その結果、わずかな音の乱れ、魔力の波の変動を、正確に聞き分けられるようになっていた。
<カノーの情報戦と、最初の素材>
迷宮を進む義輝の横を、ライバルのカノーが、高性能の魔導羅針盤を頼りに、駆け足で通り過ぎていった。
「ふふ、素手剣聖殿。私はギルドマスターから最短ルートを聞き出しています。あなたのように、勘と聴覚に頼っているようでは、フローラ様にお使いを頼まれる資格はありませんよ」
カノーは、資金力で手に入れた「情報」こそが最強の武器だと信じている。
義輝はカノーを無視した。彼の耳は、カノーの足音すら、迷宮内の不要な雑音として処理していた。義輝が頼りにしているのは、迷宮の暗闇の中で響く、ブレス・トードが呼吸によって発する、微かな魔力の振動だった。
しばらく進むと、義輝の聴覚が、特定の周波数の振動を捉えた。
(これだ。ブレス・トードの熟睡状態の呼吸パターン。魔力放出が最も安定し、涙腺が弛緩している瞬間だ!)
義輝は、壁のひび割れ一つ踏まないよう、全身の鎧の重さを感じさせないほどの極限の軽業で、ブレス・トードの巣に到達した。
そこには、巨大なカエル型の魔物が、文字通り泥のように眠っていた。
<剣聖、ブレス・トードを揺り起こす>
「よし…」
義輝は、懐から取り出した普通の剣の先端に、微量の魔力を込めた。この魔力は、フローラの『アクア・ソング』のイントロの音量を再現したものだった。繊細すぎて、通常では魔力と認識されないレベルの微弱な振動だ。
義輝は、ブレス・トードの涙腺に、その剣先をそっと近づけた。そして、フローラの歌の振動を再現した魔力を流し込む。トードは、わずかに体を震わせたが、起きることはなかった。
「リリア様が求める『硬化前のジェル』は、刺激を与えると即座に強酸を生成する。しかし、推しの歌の波動なら、ブレス・トードの脳に『心地よい眠気』として伝わるはずだ!」
義輝は、剣の切っ先で涙腺を優しく撫でた。すると、トードの目から、真珠のような透明な液体が滲み出た。これが、リリアが求める硬化前の魔力ジェルだ。
義輝は、持参した特殊な保存瓶で、そのジェルを一滴残らず慎重に採取した。
「よし。ブレス・トードの涙腺採取、成功。所要時間、カノーの最短ルートを上回る、推し活特化の最短時間だ」
<カノーの焦りと、義輝の分析>
ブレス・トードの素材を確保した義輝が、ミミックの生息する最深部へ向かおうとすると、来た道を慌てて引き返してくるカノーと鉢合わせた。
「な、なぜだ!?最短ルートはまだ先のはず…義輝!お前、もうブレス・トードの素材を手に入れたのか!?」
カノーは、義輝の手に持たれた保存瓶を見て、驚愕した。
「当然だ、カノー。貴様は最短ルートの地図に頼りすぎている。地図は魔物の生態までは教えてくれない。フローラ様の歌声を聞き分ける私の聴覚は、ブレス・トードの睡眠サイクルを正確に捉えた。推し活の経験値が、貴様の資金力を上回ったのだ」
カノーは悔しそうに羅針盤を叩いた。
「くっ…だが、アリスの求める『ミミックの無垢な歯車』は別だ!あれは、最深部の複雑な迷路の先にしかいない。そして、鍵穴を傷つけずに歯車を抜き取るには、王室御用達の精密加工魔法が必要だ!剣聖の武力では、絶対に無理だ!」
カノーは自信満々にそう言った。彼は、最深部のミミックを処理できる精密加工魔法の使い手を、すでに迷宮内に潜入させているのだ。
義輝は、カノーの言葉を聞き流し、再び迷宮の暗闇に目を向けた。
(精密加工魔法…なるほど。だが、アリス様は『趣味の魔導時計』のパーツとして求めていた。彼女は、『精密な手作業』そのものを推している可能性がある。精密加工魔法など、邪道だ)
義輝の推し活論理は、カノーの計算をさらに狂わせる方向へと向かい始める。神剣を封印した素手剣聖は、推しへの純粋な愛と洞察力だけを武器に、最も危険な最深部へと進んでいった。
第7話 完




