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四季君はちょっと不思議

作者: みかみ

「だからさあ、ホントに行ったんだって! ログハウスのパン屋に! あの山の中腹あたりにバス停があって、そこから二十分くらい歩いたところだったんだよ。お前の顔くらいビッグサイズなやつが、棚にずらーっと並んでたの!」


 いつもの部活帰り。工藤くどう先輩の顔は珍しく真っ赤だった。先輩はサッカーの試合中だって、あんなに興奮しはしない。いつも、鷹の目を使うみたいに、冷静に戦況を読んでいて、顔を赤らめるどころか、大声を出すのも必要最低限な人だから。

 そんな先輩が、部活仲間達に笑われながら、夕暮れの空にそびえる黒い大きなお山を指さして、喚いていたのだ。


「バッカ。あんな山、道路が通ってるだけで、店どころか民家もねえって」

「あんなとこで店やっても客なんか来ねえじゃん」

「小学生んときの話だろ? 記憶違いじゃねえの?」


 揃って工藤先輩を笑ったのは、先輩と特に仲が良い三人だ。一年の部員は、入部してまだ一月足らずとあって、同じくマネージャー一月目のあたしと共に、先輩四人の後ろにしずしずと従っている。


 これまで食べた中で一番うまかったパン屋があそこにある。と空腹を訴えるお腹をさすりながら、工藤先輩が目の前の山を指さした事に、この話は端を発する。

 それは、先輩がただ一度だけ、今は亡きお母さんと行ったという、山の中のパン屋さんだった。素敵な思い出だ。けれど悲しい事に、そこにいる誰一人として先輩の話を信じなかった。


「……おし!」


 大きなスポーツバッグを背負った四つの背中を見つめながら、あたしは小さな声で気合を入れた。

 このつつみ 真理絵まりえ。サッカー部を支えるマネージャーであるならば、キャプテンの大切な思ひ出と面子を守るため、ひと肌脱がねばなりますまい。

 ――そう。あくまでこれは、マネージャーとしての仕事なのだ。中学生の頃から密かに憧れている工藤先輩に褒めてもらおうとか、山の中のパン屋を見つけたら、あわよくば一緒に行こうとか、決してそんな不純な動機で、幻のパン屋捜索を決心したんじゃない。



「なあんで見つかんないかなあ。動機が不純だから、山の神様が隠してんの?」


 次の日曜日。あたしは、鬱蒼とした山林の中にのびている道路の片隅で、水筒の蓋を開けつつ、一人ぼやいた。

 先輩が言った通り、山の中のバス停は存在した。駅から隣町まで山越えルートを取るバスだけが、そのバス停を経由していたのだ。だから晴れ予報の本日、あたしはお姉ちゃんの登山服を借りて、朝一番のバスに乗り込んだ。

 けれど、昼近くになってもパン屋は見つからない。グーグルアースの映像では、建物らしいものがバス停の東側にあるのは確かなのだ。それがパン屋かどうかはまでは分らないけれど。

 トイレに行きたくならないよう、水分摂取は控えめにしてきた。けれど、喉の渇きが限界に達してしまい、水筒の水をかぶ飲みする。

 生い茂る枝葉が日陰を作ってくれているけれど、今日は五月にしては蒸し暑い。風もあまり吹いていない。散々歩いて火照った体に、氷入りの水道水が染みわたる。


「はああ~、命の水だぁ」


 感動のあまり、大きな独り言を空に向かって吐いた次の瞬間、ぐううとお腹が音を立てる。リュックを下ろしたあたしは、持参してきたクッキータイプのバランス栄養食を探った。けれど、すぐに思い直し、リュックの蓋をそっと閉める。


 この空腹を利用しない手は無い。お腹が空けば、嗅覚が敏感になる。落ち葉の甘さと草木の青臭さで満たされたこの空気の中から、パンを焼く臭いを嗅ぎわけることだって、できるかもしれない。

 犬か狐になったつもりで、くんくんと鼻を動かしながら歩いていると、黄色い看板を見つけた。中央には黒い紙を切って貼ったみたいな、猪を象ったと思われる動物のイラストがある。


 意味は分る。猪注意だ。


 山奥なのだから猪くらいいて当たり前だ。しかし、先日テレビで見た『猪に襲われた男性』のニュースを思い出してしまった事で、あたしの全身が、じんわりとした不安に包まれる。


 ニュースの記憶を払拭するように頭を左右に振ったあたしは、熊じゃないだけマシだわと自分に言い聞かせて前進を始めた。けれどそれに続いて、猪より鹿の方がよかった、などという考えも浮かんでしまい、舞い戻って来た不安と心細さに負けて、きょろきょろと辺りを見渡す。

 すると突然、左の草むらが大きな音を立てて揺れはじめた。


「はっ!」


 これは絶対、猪に違いない。目があったら頭突きされる。噛まれる。最悪命とられる!

 惨殺死体みたいな自分の姿が頭に浮かび、逃げなければと本能が叫ぶ。あたふたと回れ右しようとしたその時、ぼん! と大きなものが木々の間から飛びだして来た。驚きのあまり脚がもつれ、尻もちをつく。

 逃げられないならせめて目が合わないようにと、ぎゅっと両目をつむった。

 猪よ私は道祖神だ! だからさっさと通り過ぎてくれ! と祈っていると、「およ?」と人の声がした。多分、男の人だ。

 ゆっくり目を開けると、猪がいるはずの場所に立っている人物が、あたしを見下ろしていた。あたしと同じ歳頃の男の子だ。ゆるく波打つ長めの前髪と、その奥にある、とろんとした垂れ目には、とても見覚えがある。


四季しき……くん?」

「堤さん?」


 やっぱり、四季雄司しき ゆうじ君だ。


「「こんなとこで、何やってんの?」」


 あたしと四季君の問いかけが重なった。



「堤さんも、山歩き?」


 あたしの登山ルックを頭からつま先まで視線でさっとなぞった四季君が、楽しげに目を細める。

 『も』、という事は、四季君も山歩きをしていたということだろうか。シャツにジーンズという、コンビニに行くみたいな軽装で。しかも、非常食どころか、水すら持たず。

 

 立ちあがったあたしは、お尻についた泥を叩いて落としながら、「山歩きっていうか……」と言い淀んだ。こんなところでパン屋を探していると言えば、変人扱いされるのではないかと危惧したからだ。けれど、そうだこれにはマネージャーとしての崇高な目的があったのだと思い出し、むんと胸を張る。


「サッカー部の活動の一環で、パン屋を探してます!」

「パン屋!?」


 四季君の垂れ目が大きく開かれ、声が裏返った。


「あるんだよ! 先輩が嘘つくわけないもん!」

「そうなんだ……。なに先輩?」

「二年の工藤先輩。サッカー部のエースだよ。知らないの?」

「はて」


 四季君がポケッとした顔で、こくん、と首を横に傾げる。彼は学校でもこんな感じだ。他の男子達みたいに、ちょっとでも自分を良く見せたいとか、カッコよく振る舞いたいとか、そういう気持ちが全然伝わってこない。良く言えば自然体。悪く言えば無頓着だ。


「ここら辺、俺の爺ちゃんの土地なんだよ。あっちの方に杉の大木があって、そこから向こうの沢あたりまでが、うちんとこなんだけど……」


 森の中を指さしながら説明してくれた四季君は、その手を自分の口元に持ってくると、「けどパン屋なんてあったかなあ」と呟いてまた首を傾げた。


「四季君はどうしていきなり飛び出してきたの? 猪にでも遭遇した?」

「いや。遊んでただけ」

「遊んでたって……」


 トレイランニングというやつだろうか。それとも、山菜取りだろうか。何にしても、ここら辺の土地主なら何か有益な情報を訊き出せるかもしれないと思い、あたしはポケットからスマホを取りだした。衛星画像を開き、件の建物周辺をズームする。


「ほら、これ。家っぽくない?」


 四季君に見せる。山林をスプーンでくりぬいたような開けた場所に、煙突屋根らしきものが映っている。


「へー。ほんとだ」


 スマホを受け取った四季君が、長い指先でするすると画面を撫でながら画像を確認する。ほどなくして、「あー。はいはいはい」と、こくこく頷いた。何か分ったらしい。

 あたしは期待を込めて、四季君に近寄る。


「知ってる?」

「知らない」


 なんじゃそりゃ。思わず口にすると、ここら辺は普段の散歩コースから外れているから行ったことがないのだ、と四季君。

 遊びって、散歩だったのか。犬かよ。と心中で突っ込みながら、あたしは人差し指でスマホの画面をコツコツと叩く。


「でもココから近いはずなんだよね」

「確かに直線距離では二キロ離れてないみたいだけど、沢の向こうだし。道路使うとなると多分、ぐるっと回んないと。建物までの道は……あるっぽい、けど……」


 限界まで拡大した画像に顔を近づけた四季君が、難しい顔で、うーん、と唸る。

 その時、ブブブという虫の羽音が頭上から聞こえた。顔を上げると、黒っぽい小さな虫が一匹、ホバリングしていた。


「日本蜜蜂だ……」


 四季君が呟く。

 と、虫がホバリングをやめた。すい、とどこかへ飛んでいく。


「あっ!」


 叫んだ四季君がスマホをあたしに押しつけ、虫の後を追いはじめる。


「堤さん、こっち!」


 呆然としているあたしに振り返り、手招きした。続いて、驚くべき言葉を口にする。


「パン屋、見つかるかも!」

 

 背中のリュックと腰に下げた水筒が、ばいんばいんと跳ねて走行の邪魔をする。しかも上り坂が、何気に辛い。


「虫おっかけてどうする気ーっ!」


 あたしは苛々しながら、十メートルほど先を軽やかに走る四季君に叫んだ。四季君が、振り返らず答える。


「あれは蜜蜂だよ。ここら辺は今、椎の花が咲いてるから」

「だから何!?」


 答えになっていないとあたしが声を荒げた次の瞬間、四季君の前に浮かんでいる黒い点、つまり蜜蜂が、ふいと進行方向を変えた。道路を外れ、山林の中に入っていく。それを追いかける四季君も、躊躇うことなく草むらの中に飛びこんだ。


「嘘でしょー!」


 立ち止まったあたしを、「はやく!」という四季君の声が、木々の向こうから急き立ててくる。


 虫に刺されるのは嫌だ。マダニに噛まれるのも嫌だ。でも、置いて行かれるのはもっと嫌だ。

 あたしは意を決して、山林に足を踏み入れた。



「ひえええ!」


 名前も知らない梢や葉っぱに全身を打ちつけながら、あたしは走る。

 虫に刺される! マダニに噛まれる! 猪に遭遇するっ! 

 心は恐怖でいっぱいだ。けれどここで四季君を見失うと遭難必至! という最大の恐怖にお尻を叩かれ、無我夢中で四季君の後を追う。

 四季君は時折、後続のあたしを振り返りながら、「堤さんはやく!」と手招きをする。

 何度目かの手招きに、「分ってるよ、もう!」と返事をした直後、あたしは濡れた落ち葉に足を滑らせて、すっ転んだ。


「ま、待って!」


 斜面を駆け上っている四季君に叫ぶ。倒れているあたしの姿を見た彼は、急いで戻って来てくれた。


「怪我した?」


 訊かれたので一応、手や脚をチェックする。土で汚れているだけで、傷はなさそうだ。


「大丈夫みたい」


 ほっとして答えると、「じゃ、行くよ」と四季君があたしの右手を掴んだ。


 手を引かれる形で斜面を上りきると、今度は下り斜面が目の前に現れる。木々の間は落ち葉で埋まっていて、滑りやすそうだ。


「ごめんね。蜂、もう見失っちゃったよね」


 目を凝らして蜂を探している四季君に、息を切らしつつ謝った。この鬱蒼とした山林の中で、あんな小さいものを見つけられるはずがない、と。

 けれど驚いた事に数秒後、四季君の肩が小さく跳ねる。


「いた」


 そして四季君は、またあたしの手を掴むと、斜面を駆け降り蜜蜂の追跡を再開した。

 嘘でしょ、としか言いようがなかった。


 堆積している落ち葉を蹴って、倒木を跨いで、沢を飛び超えて、手を繋いだあたしたちは一匹の蜂を追いかけ続ける。

 疲れて足がもつれ始めた頃、ぱっと山林が途切れて開けた場所に出た。


「ほらやっぱり。当たりだった!」


 四季君が声を弾ませる。

 あたしたちの前には、一軒のログハウスがあった。地面は草ぼうぼうで、壁に苔がこびりついて一見すると廃屋みたいだ。けれど、小さなガラス窓の向こうには、一輪の白い花が花瓶に生けられていて、レースのカーテンもかかっている。人が住んでいる証拠だ。裏庭らしき空間には木箱が積み上げられており、蜜蜂はそこに入っていった。


「信じられない……」

「いえーい」


 呆けているあたしに、四季君が嬉しげにハイタッチを求めてくる。あたしはのろのろとした動作で腕を上げると、四季君の掌に自分の掌を重ねた。

 片方の手は繋がれたままだったので、今から社交ダンスでも始めるみたいな、何だか妙ちくりんなポーズだな、なんて思ったのは……あたしだけかもしれない。



 玄関に回ると、看板が立っていた。木の枝を組んで作られた文字は、『山のパン屋』と読める。そのまんまのネーミングだ。店の正面は綺麗に草が刈り込まれていて、白い軽が一台、端っこに停まっている。そこは、駐車場のようだった。


「日本蜜蜂を見た時、製パン用に養蜂をしてるんじゃないかと思ったんだ。こんなとこでパン屋をしてるくらいだから、色々拘ってるかもって。うちの土地は俺が知る限り日本蜜蜂の巣は無いし、あいつらの行動範囲は二キロくらいだから、圏内だろ」


 四季君が蜜蜂を追いかけた理由を、楽しげに話す。

 蜂の巣の有無まで把握してるなんて、完全に縄張りなんだなあと感心しながら、あたしは入口に向かった。


 真鍮製のドアノブに、赤文字で『OPEN』と書かれた札がぶら下がっている。

 扉を開けると、小麦を焼いた香ばしい香りに出迎えられた。同時に、カランとドアベルが音を立てる。人はいない。照明はついているけれど、蛍光灯じゃなくランプだった。だからなのか、店内は何となく薄暗い。商品棚と思われる板を重ねただけの簡素な棚が左右の壁を埋め尽くしているけれど、そこにパンは一つも無かった。


「売り切れたのかな」


 四季君が残念そうに言ったところで、店の奥から「はいはーい」と声がする。ほどなくして、クリーム色のエプロンをつけた小柄な人物が現れた。

 禿頭に丸眼鏡をかけた、蜜蜂みたいなオジサンだった。



「よかったね堤さん。最後の一個、売ってもらえて」

「だね。晩御飯用のもらっちゃって、何か申し訳ないけど」


 自転車を押す四季君の横で、あたしは胸に抱えた得大の胡桃ブールを見下ろして苦笑った。

 店主曰く、あのお店はパン好きには密かな人気店らしく、商品は午前中には全部売り切れてしまうらしい。これは、店主が自分の夕食用にととっておいた、最後の一個だった。「一見さんなんて久しぶりだよ」とあたし達の来店を喜んで、特別に売ってくれたのだ。

 そんなこんなで千円ちょっとのお高い石窯パンをゲットしたあたし達は、四季君が乗って来たという自転車を回収してから、今、バス停に向かって歩いている。


「まだあったかい」


 紙袋越しに伝わって来るパンのぬくもりと、蜂蜜臭がほんのり混じった甘く香ばしい香りがたまらない。

 今日は早起きをしたし、ずっと歩き通しでお昼ご飯も食べていない。お腹がぺこぺこで、今すぐにでもかぶりつきたい気分だ。

 けれど、ここで食べてしまってはいけない。明日、工藤先輩にこのパンを見せなければならないのだから。


「あ、そうだそうだ!」


 工藤先輩の顔と一緒に、大事な事を思い出したあたしは、「ちょっとごめんね」と隣の四季君に断り、ポケットからスマホを取り出した。

 チャット型コミュニケーションアプリのロゴをタップして、『ともだち』リストから使い古されたサッカーボールのアイコンを探す。SHUNという名前がついたそれを選択し、電話マークを押した。

 コール五回目で、呼び出し音が止まる。この瞬間、心臓がドキリと鳴るのは、いつものことだ。


『よお、堤。どうした?』

「先輩、見つけましたよ。先輩が言ってた、山の中のパン屋さん」

『え、マジで?』

「マジですマジです。今、買って帰るところなんですよ」

『そっか。お前、そんなにパン好きだったんだ』

「え? は、はい。そうですね。ぱ、パンが、好きなんです」


 つい、ちらりと四季君に目をやってしまう。物言いたげにあたしを見ていた垂れ目と視線が合ったが、すぐに逸らされた。

 あたしと先輩の会話は、四季君に聞こえているはずだ。あたしの気持ちにも、彼は多分、気付いているに違いない。

 気まずいよね、ごめんね四季君。と心の中で謝りながら、通話を続ける。


「それで、このパン、明日持って行くんで、一緒に――」

『ありがとな、堤』


 食べませんか。と誘う前に、先輩に会話のターンを持って行かれてしまった。


涼子りょうこがさ、食べてみたい言っててさ。俺らも来週、行ってみるわ』


 りょ……


「涼子、先輩? ですか?」


 すぎ 涼子りょうこ先輩。同じサッカー部のマネージャーだ。


『そうそう。あいつもパン好きでさ。パン屋の話したら、食いたいってうるせーの』

「そ、そうなん……ですか」


 随分、親しいんですね。という言葉をのみこむ。


『ああ。だから助かったわ』

「先輩方はその……」


 付き合ってるんですか。という質問も、のみこむ。


『ん、なに?』

「いえ! 迷わないように、気をつけて下さいね! バス停を降りたら、右じゃなくて左に進んで下さい。そしたら、車一台通れるくらいの舗装されてない道が右側にあるんで、そこをまっすぐです!」

『分った』

「それじゃあ、また明日、学校で」

『おう、またな』

「はい! おやすみなさい~」


 寝るには早すぎる時間だけれど、あははと笑って通話を切る。

 スマホをポケットにしまって恐る恐る顔を上げると、案の定、四季君がこっちを見ていた。彼は何とも言えない……そう、苦虫を噛み潰したような表情をしている。垂れ目効果も相まって、なんだか今にも泣き出しそうな感じだ。


「そんな顔、しないでもらえませんか……」


 いたたまれなくなったあたしは、足元に視線を落として、小声で頼んだ。



 帰りのバスは、三十分後だった。しかも、最終便だ。


「間に合ってよかった。それじゃ」


 ベンチに座ったあたしに明るく言った四季君が、自転車にまたがる。あたしは「ねえ」と彼を呼びとめた。


「一緒にどお?」


 ずっと胸に抱えていた胡桃ブールを指さすと、四季君が目をぱちくりさせる。


「え、でもそれは」

「いいのいいの!」


 四季君の言いたい事は分る。でも本当に、これはもういいのだ。

 あたしは袋からパンを取り出すと、あたしの顔くらい大きなそれを、半分に割った。


「あったかいうちに食べようよ」


 だってもう、明日持ってく必要がなくなったんだから。


 はいどうぞ。と大きい方を差し出して微笑む。

 

 四季君が自転車を降りて、スタンドを立てた。あたしに歩み寄り、「こっちでいい」と小さい方をあたしの手から抜き取る。


「今日一番頑張ったのは、堤さんだし」


 ぽつりと落ちてきた彼の言葉に、涙腺が崩壊の危機に陥る。


「そそそうだよホントにね! 有難く食べてよ!」


 強がりに任せて言い放ち、パンにかぶりつく。ふかっ、とした温かいものがあたしの顔面にあたった。次いで、柔らかくなめらな舌触りの中心部分と、ちょっと硬い皮の部分が、口の中をいっぱいに満たす。


「んんん!」


 生地も胡桃も予想していた以上に甘く、思わず目を見開いた。


 隣に座った四季君も、あたしと同じようにパンにかぶりつく。すぐに彼は「んっ」と声を出し、あたしに目配せしてきた。


 あたし達はお互い顔を見合せながら何度も頷き合った後、口の中のものをごくりと飲み込む。

 そして同時に、「「うま~い!」」と笑った。





〜おしまい☆〜




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