80.老臣タンゴ=ポルカ
ここにいてはいけない。
私は身振りで退却を合図した。トン、トンと空間を刻んで後退する人形に追随して、マモノビト達が潮になって引く。
子ども達のところまで退がると、仲間達が私の立つラインの後ろに逃げ込んで来る。それでいい、私より前にいてはいけない。
「無事か?」
短く問うと、絵里香と慎太郎が緊張の面持ちでこくりと頷いた。Drはいつもの饒舌な口を開かず、敵陣奥に現れた人物に目を細めている。
「ドロシーローズ……?」
同じ顔で褐色の頬、琥珀色の瞳が薄紫の硝子玉を覗き込んでくる。頷き返す。頷いた意味は自分でもよくわからない。
魔剣士、魔女がさっとその場に跪いた。全兵が倣う。獣王が頭を振り振り身を起こし、きょろきょろして、老人に気づくや慌てて平伏した。
将を筆頭に、『魔王』軍総員が畏怖を示している。私を初めとするマモノビトも、本能的な恐怖に息を忘れた。魔法陣を潜って登場した、背の低い割に肥えた老魔界人に――……ではなく。
老人の背後、未だ消えぬ魔法陣の向こうに在る気配が、識る者と直感する者、敵味方誰しもを戦慄させているのだ。
老爺は短躯で小太り、強そうには見えない。身なりも戦場に似つかわしい服装ではない。見るからに文官である。
「不甲斐ない。そなたら、それでも『魔王』軍を預かる三将か」
「……申し訳ありません、タンゴ=ポルカ老」
それも『魔王』軍三将を頭ごなしに叱責できる地位。大臣とか側近とか、おそらくそういう立場にある男。
「騎士団長殿、兵を惜しんで降伏しましたか。いけません、いけませんぞ。兵どもの命は陛下の伸ばされた手、使い尽くす覚悟なくして何の騎士団長か」
クドクド、ネチネチ。権勢を笠に着て嵩に懸かる老臣。
んー、物語だと碌な最期を遂げないタイプ。戦って強いのかはわからないけど、戦闘になったら状態異常魔法を連発してきそう。
と、そこで老魔族は詰る言葉を切った。
「とは申しましたが、此度の負け戦、三将が責とばかりも言えませぬか」
「……?」
顔を上げる魔剣士、タンゴ老はマモノビト陣営にじろりと目をくれ、
「ヒトをマモノに変えれば、人間界は放っておいても自滅しようとの、『魔王』陛下のお考え。斯くも効を奏さぬとは……このタンゴ、少々驚かされましたぞ」
忌々しさを雑えて嘆息した。
「我ら『魔王』軍は、思いもせぬヒトの強さに敗けたのやもしれませぬじゃ」
……あ、そういうこと? やっと理解した。
『魔王』が宣戦布告以来、沈黙していた理由。マモノビトになった我々が放置されていた理由。この世界で、奇妙で平和な“非”日常が回り続けていた理由を。
魔物と化した人間、マモノビトという種を蒔けば、怖れ、疑い、憎しみ、不和が萌芽する。『魔王』は手を下さず、互いに争い疲弊した人間界、絶望したマモノビトを兵力に、実った果実をただ刈り取ればいい。
私達の平穏な日々は『魔王』の深慮遠謀、狡猾なその手の上に転がされていたのだった。
あー……あーねー……
そんな『魔王』の策略を、我ら人類は撥ね除けたワケですが。
それさ、申し訳ないけど、人の心の真の強さとかじゃなくて。
「何かよくわかんないから、何もしないとこう!」
という極めてパッシブな、部屋の隅で膝抱えてる的な、“じゃぱにーず・ことなかれしゅぎ”からなんだ。打ち勝ったんじゃないんだよ、スルーしちゃったんだよ、伝わんなかったんだよ、そちらさんの作戦が。
でも、ねえ? 人間が魔物になって、それをスルーするって、『魔王』サマでも思わないじゃんねえ? ホント、ゴメンね? けどさ――……
大変なことも、辛いことも、悲しいことだって。受け流して、受け入れて、踏み越えてみんな今日までやってきたんだ。今、ここ、この場所に立っている人形には言えるんだよ。
それもまた、人の“強さ”だって。
だから、“私達”は『魔王』なんかに負けないよ。
老臣タンゴはいいだけ私を睨んで、自軍に向き直った。
「計略は外れたが、だからどうということもなし。手駒にならぬとあらば、一匹残さず始末するまでじゃ」
老は政治で鍛えた弁舌で、兵を鼓舞する。
「確かに第一次侵攻は失敗じゃ、が、しか~し! 諸君! これより第二次侵攻を始めますぞ~お!」
兵士達の目に緊迫が走る。
「……お出ましにございますぞ」
タンゴ老自身も、浮かべた笑みを固くする。
魔剣士らが甘んじて服従するのも、兵が畏れ跪くのも彼にではない。マモノビトの心臓を鷲掴んでいるのも彼ではない。
老いた狐が威を借る虎。異様威容の存在感が、魔法陣の向こうにある。
魔剣士をして身を強張らさせられる存在を背に、
「控えよ、下郎ども!」
タンゴ=ポルカの傲然が『魔王』軍の頭上を越え、我らマモノビトへ飛ぶ。私の傍らの慎太郎が呟く。
「姫、あいつヤベえよ」
「ああ」
「初対面の人をクソどころかゲロ呼ばわりだよ。絶対ヤベえ」
「うん、慎太郎、もうちょっと本読もう」
肩越しに見ればDrさえ真顔だ。何よりそれがヤベえと、変な判断基準で陶器の胴に内蔵されてもいない、内臓が冷える。
老臣がここぞと権勢を振り翳し、高々と宣した。
「大『魔王』……カルナバル・ズーク陛下の御成りである!」
先触れに応じ――……
「冷たい風が吹いている」
二つの“世界”の壁を越えて――……
ついに『魔王』が、私の“世界”に降臨した。




