01.プロローグ:『魔王』と『人形』
私、安治川大治郎は、どこにでもいるごく平凡な中年サラリーマン……だった。
その日。日本中のあらゆる場所の空に、刻を同じくして、『魔王』などというふざけた存在が出現するその時までは――……
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私はとある商社に勤める営業課長で、齢は40と6。妻と、今年受験生の高3の娘、高1の息子とマンション暮らしをしている。もちろん普通にローンだ。
子ども達は高校生となると父親との会話も減り、それに伴って妻との話題も減少傾向だが、と言って格別不仲というわけでもなく。
ありふれた一般的な家族、それなりに幸せ……だと思う、たぶん。
自分で言うのも何だが、私は真面目が取り柄というやつで、取り立てて面白味のある人間ではない。家庭も仕事も堅実、悪く言えば無難を良しとし、出世街道を華々しく走りはしないが、さりとてお荷物社員でもなく。
つまり普通。顧みれば我ながら普通過ぎるくらい、普通。
そんな私の日曜日。休日のささやかな楽しみとして散歩がてら書店を覗き、喫茶店でゆっくり時間を掛けて珈琲を楽しんだ。
缶ではなく喫茶店で頼んだものくらい、気取ってコーヒーではなく珈琲と表記したいものだ。
買い求めた新書の頁にひと区切りがつき、店を出ると、道行く人々が妙にざわついていた。人々はみなぽかんと、空を、同じ方を見上げている。
何だろうとその視線を追うと……
空に『魔王』がいた。
「……どこのゲームの中から来たんだ?」
人間、あまりの衝撃を受けると、かえって冷静になるものらしい。茫然となりつつ、私は私が呆れたように呟くのを聞いた。
巨大な人影が、ビル群の間から見下ろしていた。
よく見るとその巨影は透けていて、実際そこにいるのではなく、空に立体映像を映しているのかもしれない。それでもじゅうぶん驚くべきことだ。
そして私の呟きに違わず、“彼”は実にゲーム的な姿をしていた。
漆黒の長髪。額にねじくれた二本の角を生やし、病的なまでに青白く、瞳の色は深紅。纏う豪奢な装束もまた黒く、冷ややかな威厳をもって地上を睥睨している。
名乗るまでもなく誰もが思った。「あ、『魔王』だな」と。
後に報道で知ったことだが、この時、時刻は午後4時少し前。『魔王』は日本全土の首都圏から地方都市、集落、離島に至るまで、つまり人間の存在するあまねく場所に同時に姿を現していたのだという。
周りの人々が「え、何?」「特撮? イベント?」などと言い交わす。若い子達がこぞってスマホを翳しているのはSNSにでも上げるつもりなのだろう。我が子達がここにいても同じことをするのだろうな。いい根性だと感心すべきか、今時だ。
そんな人間達の様子を蔑むように見下ろしていた『魔王』は、やがて、満を持して重々しく口を開いた。
「余は『魔王』――……『魔王』カルナバル・ズーク」
うん。まあ、そうでしょうね。
「人間どもよ、余はお前達の“世界”に宣戦布告しに来た」
それは……怖ろしい宣言だったが、それもみな大方は予想していた。どう見ても、観光で来日なさった登場の仕方ではないよ。
『魔王』とやらは人間どもの反応の薄さに、一瞬「あれ?」という顔をしたが、
「ふはははは! 恐怖のあまり声も出んと見えるな!」
いかにも『魔王』的哄笑、常識的解釈で己を納得させたようだ。
「ふふふ……だが、安心するが良い」
余裕を取り戻された『魔王』は、鷹揚に言った。
「余は神々と違い、慈悲深い。そなたらを根絶やしにしようとは言わぬ。生かしておいてやろう、ひと握りの者は」
「……ただし、この『魔王』の尖兵としてであるが、な」
『魔王』がそう宣告するや、蒼穹が一転朱に染まり、不気味な閃光が街に降り注いだ。人々が驚愕する、中で、幾人かが突如身もだえ、喉を掻きむしり始める。
私も、苦痛に襲われた一人だった。
何だ、これは……! 息ができない、体が焼ける……! 視界が真っ赤になり、思わず膝を折る、舗道に両手をつく。
そんな私の目の前で、苦しむ人々に異変が起きた。
傍らにいた高校生くらいの少年の、右腕がぼこっと膨れ上がり、獣のような体毛に覆われていく。向こうで中年婦人の顔が鱗に覆われる。あちらでは老人の服の背を、蝙蝠のような翼が突き破る……
そこここで、苦痛と恐怖の悲鳴が交錯する。
「僥倖を悦ぶがいい、選ばれし者どもよ――……」
魔王の哄笑が、惨劇の上に降る。
『魔王』の尖兵……それは……
人を魔物に変えて、手先に……?
つまり私も、選ばれてしまっ……
「智香……絵里香、慎、太郎……」
妻と、子ども達の名を呼びながら、私の視界は闇に閉ざされた。ただコンクリートに額を打ちつける衝撃だけがあった。
指一本動かせない暗黒に……バリッ……メキメキ……グチャッ……周りで人体が変容していくおぞましい音を聞きながら、私の意識はそこで途絶えた。
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……――どれくらいの時間が過ぎたのか。
目を開く。長い間気を失っていたのか一瞬の空白だったのか、見当がつかない。
いずれにしても惨劇はまだ進行中だ。逃げ惑う人々、そして倒れた人々は次第次第にヒトならざるモノへと変わっていく。
……私も、か?
ギクリとした後、ジワリと恐怖。私はうつ伏せに倒れた自分のカラダを、動かそうと試みる……動く。身を起こそうと、舗道に手を触れる。
かちゃ。
何だ、今の音は。コンクリートに、何か固いモノが触れる音。私は自分の手のひらに目を凝らす。
そこにあったのは、人形の手だった。
艶やかな陶器の真っ白な肌。指が、球体になった関節でつながっている。指先には爪がない。
え?
動かしてみると、目の前の信じ難いモノは、私の思うように動いた。では、やはり、これは“私の手”……なのか?
弾かれたように身を起こす。立ち上がる。ちょっとバランスを崩してよろめいたが、幸いカラダは動く。痛みもない。が……明らかに視線が低い。180近い私が見ていた世界ではない。
全身の動作、関節が妙にギクシャクとする。見覚えのない黒い装束を着ているらしい。いや、そんなことより……
腕が、カラダが、ひどく細くて小さい。
阿鼻叫喚、人々がパニックになり、人外がのたうつ地獄絵図を見回し、もう遠い昔のことに思えるさっき、出てきた喫茶店の窓に歩み寄る。
「……何だ、これは?」
ガラス窓に映る“少女”から、そう問われた。その声は楽器かオルゴール、或いはボカロのように作り物めいて聞こえた。
違う。“少女”ではない。“少女人形”だ。
淡い銀の髪、真っ白な頬、透明に近い薄紫の瞳。
その肌は白磁、眼は硝子玉。
背丈は小学生ほどに低い。典型的な魔女装束、ハロウィンの仮装、黒いフードのローブを身につけている。精巧で人間そっくりで、しかし明らかに作り物の愛らしい顔立ち。唖然としながらカラダを動かすと、少女人形の鏡像が同じ動作を真似る。
ということは、信じられないが……
やはり、これは私なのか……
混乱を増す街角に独り、私は立ち尽くす。
頭が真っ白になって、今は何の感情も湧かなかった。茫然と見上げた空は何事もなかったかのように青く、『魔王』の姿は既になかった。
まるで悪い夢だ。
私は夢うつつの気持ちで、自分の頬をつねってみた。
陶器の頬はつるりとして、指先がつまめるものはなかった。