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欺瞞(アパテ)の繭  作者: かのこ
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 あなたが死ぬときは私の元にいて。

 人生の最後に見るのが正妻である私ではなく、涙を流すのが他の女だなんて許せないから。私のためにも、子供たちのためにも納得できない。どれだけ浮気をしていてもいいから、最後にはうちに戻ってきてちょうだい。


 お主は、冗談を真面目な顔で言うんだな。

 私の言葉に、夫は笑いをこらえるような表情をした。ええもちろん冗談ですとも、という顔をする。

「俺が浮気相手のところで倒れたらどうするんだ」

「這ってでも帰ってくるのよ」

「エジプトにいてもか?」

 彼も自分の父親のことを思い浮かべたらしい。

 これはつまらない、その場限りの約束。

「ええ、地の果てにいても」


 私の母の二番目の夫は、死の間際にはあの忌まわしい女、エジプトの魔法を使うファルマケウトリアの元にいた。

 母はそんな夫に対して恨みごと一つ言わず、私たちの教育に努めた。世間の人々は母を賞賛した。女王を間近に見たことのある人々は、母はけしてエジプト女に美しさではひけをとらないと断言する。

 だとしたら、外面の美徳など結局は無意味なものなのだろう。夫をつなぎとめるだけの魅力ではなかったということならば。見てくれほどの価値はないと本質を拒否されたというのならば。

 なんて寂しいことだろうと少女時代の私は思った。他の女に男を奪われるだなんて。夫が別の女のところで死ぬことを選んだなんて。母が権力者の姉でなければ恐らくは、いつまでも笑い者にされたことだろう。

 義父の死は、正妻である母にとってはもちろんのこと、異父妹たちにとっても辛い思い出だった。母が夫に一番に愛されてさえいれば、子供に実父を与えていたはずなのだ。

 大人の世界には疎かった私は後ろめたさを感じながらも、母のようにはなりたくないと思った。他人が外見をどんなに褒め称えようと夫に捨てられる。これが現実。母はあんな男の妻であることに執着するよりもむしろ、絶縁状を叩きつけて即刻離婚すべきだった。

 だが最近、私は母の心境にあるのではないかと錯覚することがある。


 今どれだけ幸せだろうと、私は不安だった。

 夫が総督としてアシアに赴任した時には、私も子供たちを連れて従った。夫は私をローマに残したかったようだが、正妻としての意地のようなものもあった。距離を隔てられてしまったのでは夫の愛人たちと変わらない。ローマに置き去りにされた母の過去と重なった。30代も半ばになろうというのに、子供たちが当時の私の年齢に近づこうというのに、私は怯えていた。

「形の上だけでも、私を妻として扱って下さい」

 私は母のように物分りのいい女ではない。

 離れることが怖かった。 言うと夫は受け入れた。愛情からではない、面子の問題なのだと受け取ったのだろう。それでも構わなかった。

 私たちはお互いの父母の幻影を恐れていた。だからこそ夫は私に母とは違う女を求めた。美しさを誇るかのように着飾り、素直に泣き嫉妬するような女を、時として子供たちの母親であるより、妻であり恋人であることを、求めた。

 ――母のようにはなりたくない。

 毎日愛をささやかれたとしても、いつか彼の気持ちは他に移っていくかもしれない。男にとって言葉はその瞬間には真実だったとしても、永遠に有効だとは限らない。

 それだけではない。いつかまた、私は叔父に離婚を言い渡される日が来るかも知れない。

 その時には私の夫は命令に従うだろう。前夫が受け入れたように。そして私も納得するのだろう。

 ――それでも。

 彼に逆らってみて欲しかった。ローマのため、夫に私や息子たちを守るために立ち上がって欲しいと願うからではない。どれだけ自分が一族から憎まれているかも知らぬ叔父に、一度でいいから現実を思い知らせてやりたかったのだ。

 しかしそんな期待は叶ったところで、結末は無様だ。彼を危険にさらすことになるし、私たちも守られもしないだろう。そもそもこの結婚は叔父の無責任な命令から生じたものだ。彼や私を家族として縛り付けてきた。その鎖を彼が厭わしく思っていたとしても、仕方がなかった。


 私たちは本当の言葉を交わす、気持ちの通う夫婦にはなれないのかも知れない。私は家族だからと彼をひきとめておく気はないし、他の女に目移りをしても構わない。そんな部分は冷めているのかもしれない。

 私がユルスに執着するのは、彼が私の「夫」であるからだ。母のようになりたくない私は、「夫」に捨てられるのが怖かった。何よりも恐れていた。

 けれど私は彼を愛していないわけではない。時々、この思いを彼にうまく伝えきれなくて泣きたくなることがある。

 彼に愛して欲しい。他の女には触れないで欲しい。いつも私の元に戻ってきて欲しい。

 夫の気ままに遊ぶさまを、しょせん命じられた婚姻関係に過ぎないから、と割り切っているつもりのくせに、やはり心の奥底では幼い娘のままの私はそう思っている。元老院に、パラティウムへの伺候に、友人の家、愛人との逢瀬、それどころか何でもないただの用事で屋敷を出て行くとわかっている夫に、幼児のように泣いてすがりたくなる時すらある。

 でもそれを望んではいけない。そこまで彼にさせてはいけない。

 夫と離縁させられることなど、ローマではよくあることだと人は言うだろう。けれど私の母を含めた親族の間では、従妹が私の夫と結婚するためには、私が邪魔だと見なされたのだ。叔父と実母と、そしてまぎれもなく私の夫に。私は不都合な存在だったのだ。

 夫に捨てられるのはいや。私の母のようになるのはいや。

 叔父に言われて結婚した。夫にも尽くしてきた。その結果がこれだった。

 身内にさえ裏切られた私を受け入れ、彼は新しい人生を与えてくれた。居場所を失い、華やかな従妹の陰で生きることを強いられた私を受け止めてくれる人がいた。

 それだけの思いで私は生きてこられた。

 私の言葉はいつも素直に声にはならないし、本心を偽って会話をしているように思う。

 子供たちには時々、「お母様はお父様をお嫌いなの?」と心配そうに顔を覗き込まれることがある。まるで私が少女時代に母に対して抱いていたような疑問。お母様はお義父様を愛していたの? 私にはどうしてもわからなかった。


 帰りの遅い夫のことを考える。

 ローマ市内に所有するいくつかの屋敷やインスラ(集合住宅)にも寝泊りすることがあるらしい。あまりいい噂は聞かない。彼の氏族名の裏にはローマへの謀反、という言葉が常につきまとう。アウグストゥスに批判的な集団に、彼の父親マルクス・アントニウスは今でも支持されている。今の世の中がなくば手に入ったかもしれない栄光を語る、負け犬の拠り所なのだ。

 どうか静かにしていて欲しい。今の穏やかな生活が続けばそれでいい。そう思いながらも、いつか、という思いがある。いつの日か彼が本当に私の元には帰らない日が来ることだろう。

 夜中なり早朝なりに彼が我が家へ帰ってくるとほっとする。ここに家庭があるのだと認識してくれているのだと思うと、嬉しくてそれだけで涙が出そうになる。それを彼はわざわざ私があてつけに泣いているのだと感じている。出迎えもしないことを、私が立腹していると誤解する。

 それでも彼は私の感情の起伏を嫌がらない。私に母とは違う、気の強い女であることを望んでいる。朝帰りにも平然とすましているよりも、機嫌を損ねる方を歓迎する。抑えているつもりでもつい言葉が荒くなる私との言い争いを、面白がっていることもある。

 理不尽な好みだと思う。夫が私の元にさえいてくれれば、私は母のように大人しい女でいられるのに。

 夫が帰宅したらしい物音がする。家内奴隷がそちらに寄っていき「奥様は起きている」と知らせに行く。夫が報告するように命じているのだ。

 仕方ない、と彼は手に女の喜びそうなものを持って、私の様子を見に来る。耳飾りなら必ずじかに私の耳に触れてからつけてくれ、高価な布であるなら私に羽織らせてから、たくましい腕の中に抱きしめる。

 特別な物なんていらない。けれど夫がこの家を離れていた時間の少しでも、私のことを思い浮かべていたのかもしれないという可能性は嬉しい。

 さほど大きくはないけれど、上質な石だとわかる。金の細工の鎖のついた首飾りを、私の首にかけて垂らした。満足そうに、彼は笑みを浮かべる。彼は私に贅沢に着飾らせるのが好きなのだ。私を、母とは違う女にしたいのだ。

 本音を言うなら疲れていて早く寝てしまいたい、というところだろう。子供たちの話も家内奴隷の言動についても、変わりばえもしない世間話も特に聞きたくはないだろう。


「アントニアのことなんだが」

 寝台に座り、夫は革のサンダルを脱ぎながら言った。

「再婚話を承諾するように、アウグストゥスからも命令されている」

 それは随分前から聞いている。私たちの妹の小アントニアは、4年前に夫であるドルススと死別し未亡人になった。31歳になったところだ。

「……あの娘は、子供のままですから」

 酒の匂い、緩慢な動作。かなり眠いのだろう。怪しい足取りで私の手を引いて寝台に引っ張ろうとする。いつもの手で、そのまま適当に話しながら寝てしまうつもりなのだ。

「頑固な娘だ。お主からも一度説得してくれ」

「はい。いつまでもこのままでは許されないでしょう」

 叔父が子供を産むことが出来る女が独身のままでいることを、許すわけがない。具体的には、20から50までの女が。

 私は手を払いのけて背を向けて横になる。夫もうん、と呟きながら私を背後から抱きかかえるようにして、首飾りを指でなぞっている。

「アントニアもまだ若い。これからも子供を産める。ドルススを失った寂しさも、再婚することで埋めることが出来るだろう」

 叔父も、そして夫も愚かだ。単純なことではない。身体が満足すればいいだけの男たちとは違う。女は心を満たし暖めてくれる男を求めるのだ。

 夫は私の背中に顔を押し付け、身体を包み込むようにして眠ってしまう。

 現代のローマの女たちはたくましくなったものよ、と男たちは嘆く。それはいったいどこの女の話なのだろう。よその国の女のことなのではないか。

 ユリウス家に関わる女は、まるで家畜と同列で、子を作るために存在する。あの男の気分次第の命令で、簡単に家庭を奪われ居場所を変えられてしまうような存在に過ぎない。

 なんて屈辱的なのだろう。女に生まれるということは。女という存在をどれだけ侮辱しているのだろう。

 私は出産にユリウス家の血筋と祝福されても、反発を覚えた。母方の曽祖母の実家の家名まで持ち出されるのはおかしい。私の子供たちはアントニウスなのに。

「あなたは、本当にそう思っているの?」

 私が呟くと、夫の呼吸が止まった。寝台の上に沈黙が訪れる。熱い手が伸びて私の手を捜し、指を握った。



不穏なギリシア神話の神様の名前シリーズ。

アパテの意味が 「欺瞞、不実、不正、失望」。しかも「欺瞞て何?」と調べても、これもよくわからない。

不実、不正、失望まで意味を持ってるらしいです。


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