第42話 プライバシー
風呂場の鏡に映った自分を見て、南郷さんの言葉を思い出す。
南郷さんは、屍怪について知ったことがあると話していた。そしてそれは、彩加と葛西さんに伝えてあると。
朝食を終えたところで、彩加と葛西さんから話を聞いた。
備蓄倉庫に避難したこと。屍怪に襲われたこと。怪我の治療のため、保健室へ向かったこと。
屍怪は引き戸を開けられず、プラスチックボトルが当たっても無反応。音を鳴らして転がるボトルを、追っていったか。
相変わらず屍怪については、解らないことが多いな。それでも今はある情報を活かし、進んで行くしかない。
託された思いを受け、ひとりでに奮起。全身の汚れを洗い流すため、シャワーのレバーを下げる。
「っつ! 冷たっ!?」
そこで体に降り注いできたのは、全く温かみのない冷水。温度調整をして試すも、温水に変わることはなかった。
ってことは、みんな。冷水を浴びたのかよ。
冷たくて、長くは浴びられそうもない。さっさと洗い流して、撤退したほうが良さそうだ。
雪に閉ざされた冬を越え、春を迎えた北の大地。
しかしとは言え、まだ五月。気温は上がりきっておらず、冷水を浴びるに厳しい季節であった。
他に手段もなさそうだし。仕方ないな。
冷水を浴びる覚悟を固めたところで、脱衣所に誰かがきた気配。
「ごっめーん! 言い忘れてたけど! お湯は出ないのよっ! ヤカンにお湯を入れてきたから! 合わせて使って――――」
開かれる風呂場の扉に、ヤカンを持ったハルノ。
しかしこちらは、衣服を纏わず。すでに全裸の状態だった。
「ちょっ! ちょっ! わかったからっ! ヤカンは置いといてくれっ!」
慌てて局部を隠すも、両手で隠せる範囲は限られる。
「ごっ……ごめんっ! もう入っていると思わなかったからっ! 鍵も閉まってなかったし!」
赤面してハルノは目を逸らし、慌ただしく去っていった。
鍵を閉め忘れたとはいえ、いきなり入ってくるのかよ。
全く。プライバシーもあったもんじゃない。
***
防災袋に水と食料を詰め、いざ出発のとき。
ここから先は気を抜けば、すぐに危険が迫る世界だ。家に居て緩んだ気持ちを、引き締めねぇと。
目的地となるのは、各々の家がある岩見沢。
札幌から岩見沢までは、約四十キロ。今は電車や車と、便利な移動手段は使えない。己が足で歩く以外に方法はなく、長く険しい道になることが想定された。
札幌駅から同心北高校までが、約四キロ。この状況をそのまま当て嵌めると、十日以上の道のりになるのか。
進む先によっては、建物の倒壊や車両事故。屍怪に襲われるといった、不測の事態も想定される。
となれば迂回を迫られることも、必然。順調にいって十日と想定するなら、それは希望的観測に過ぎなかった。
電車や車を使えば、一時間程度で帰れたのに。
今じゃあどのくらい時間を要するかも、わからないのよ。
「なあ。やっぱりよ。車を使ったほうが良いんじゃね?」
耳元でソッと呟いたのは、周りの目を気にする啓太。
「みんなで決めたろ。今は歩いて行こうぜ」
先の民家で、話し合いをした結果。帰宅に車を使用することは、とりあえず保留となった。
「でもよ。どれだけ距離があると思ってんだよ。ずっと歩きは、どう考えても厳しいじゃん」
徒歩で帰宅をすることに、啓太は不満があるようだ。
車の使用が保留となった理由は、悪路や騒音。道路には転がる瓦礫に、放置された車が多数。走るに邪魔となる障害物があり、エンジン音に走行音と必然的な問題もあった。
「気持ちはわかるけど。進めもしない中で車を動かしたら、屍怪を呼び寄せるだけだろ」
動けぬ中で屍怪が集まれば、窮地に陥ること必死。楽を求めて起こした行動は、悪手になること間違いなしだった。
「そりゃあ、そうだけど」
現実を踏まえて考えても、啓太は納得できずにいる様子。
「車も多いからな。街中は危ないと思うし。先に行ってから、また考えようぜ。街を過ぎれば、状況が変わるかもしれないからな」
全員で話し合い、決めた結果。再び話を蒸し返せば、時間のロス。加えて、全体の士気を落としかねない。
今は何よりまず、札幌の街を抜ける。先へ進むことを、優先すべきと思った。
***
札幌の街を進むのに、土地勘がある者はいなかった。岩見沢の陵王高校に通う、自身にハルノと啓太は言わずもがな。
美月は通学する峰女子高の周辺地区しか知らず、彩加と葛西さんは同心北高校へ通い始めて一ヶ月未満。学校と通学範囲しか、把握していない状況である。
札幌の街を進むのに、土地勘がある者はなしか。今更ながら、実に心もとないメンバーに思えるぜ。
「あそこに誰かいませんか?」
民家から脇道を歩いて進み、主要道路へ戻ったところで美月。
見つめる先には、【スポーツジム】と書かれた建物。敷地内の駐車場には今も、百台規模で車が止められている。
「あれって、普通の人。じゃないわよね?」
駐車場を徘徊する人を見て、疑問を投げかけるハルノ。
「だろうな。相手をする必要もないし。気づかれる前に先へ進もうぜ」
徘徊者の正体は、屍の怪物と称される屍怪。遭遇する度に相手をしては、足止めされているに他ならない。
無駄な労力と、時間ロスは避けたい。屍怪を回避できるなら、するに越したことはなかった。
「寿司とか。かなり懐かしいじゃん。最後に食べたの、いつだったかな?」
【回転寿司】と書かれた看板を見て、感慨深そうに啓太は言った。
札幌駅から離れるも、まだまだ市内の栄えた場所。道沿いには和洋中の飲食店に、衣服店やスーパーマーケット。銀行に不動産仲介業者など、様々な業種の店舗が並んでいる。
「思い出せないくらい、前に感じるな」
直近の出来事が強烈過ぎて、以前までの日常は今や遠くに。学校に通っていたことや、通常の生活に関する全面。
今は屍怪の存在を常に気にし、生きていかなければならない。もちろん食事も選り好みできず、寿司など手の届かぬ代物であった。
っつーか寿司の云々以前に、食料はどこかでぶつかる問題だよな。
今はまだ店や民家に、食料が残されているから良いけど。いずれは自力で、確保できるようにしないとか。
以前までの需要や供給。流通が滞りなく行われていた世界は、終わってしまった。
店や民家に残される食料は、有限。食し持ち運べば無くなり、二度と補充されることはない。完全に蓄えが無くなったとき。食料危機となるのは、必然の話であった。
事態が終息して、元通りになれば良いけど。現状を見る限り、簡単な話に思えない。
最悪の場合。自家栽培で凌ぐとかか。でもそうなると、問題は冬だよな。
北海道の冬は雪に閉ざされ、野菜などの栽培は困難。凍てつくような寒さは、マイナス三十度を超える日もある。
食料問題に寒さ。どちらにも対応できなければ、北海道の冬を生き抜くことは難しいだろう。
いや、今は先のことを考えている場合じゃない。
まずは帰ることが第一だ。他のことは全て後回しで、必要となればそのときに考えよう。




