第335話 終末世界のルール
天井まで届く大きなガラス窓から、柔らかな日差しが差し込み、床に長い影を落としている。陽光は磨かれたタイルを淡く照らし、白とグレーの石模様に、どこか冷たい優しさを与えていた。
両脇には小さなベンチと、観光案内の看板、そして東北を紹介するパネルが並ぶ。そのひとつひとつが、訪れる人々を迎えるために用意されたもの。だが今は誰もおらず、ただそこに『在る』だけだった。
「中心部ともなれば、さすがに数が多いわっ!!」
仙台駅の二階通路を東口から西口へ抜ける途中、駆けながら叫ぶは幼馴染の朝比奈ハルノ。
日本人の母と外国人の父を持つ彼女は、透き通るような翠の瞳が印象的なハーフの女性。整った顔立ちは誰もが目を引く美しさで、学校ではたびたび“モデルみたい”と噂されていた。オレンジのボアジャケットに白のパンツを合わせ、ポニーテールにまとめた明るい髪が跳ねるように揺れている。
「目的地に近づいているからとはいえ、ハルノ急げっ!! 追いつかれるぞっ!!」
背後から迫ってくる気配を気にしながら、決して捕まらないように走る。
通路の壁際には背を預けて、舌を突き出したまま崩れた死体。目を背けたくなるほど腐敗した姿は、かつて生きていた人間だったもの。
どこへ行っても、屍怪が多すぎるっ!!
心の内で叫び声を上げる中で、迫ってくるのは屍の怪物と称される屍怪。
スーツ姿の男性も、スカートの若い女性も。幼稚園服の子どもや、白髪の老人すらも例外ではない。かつて“人間”だった彼らは、もはや理性を持たぬ怪物と化し、生者に牙を剥く。
「急げっ!! 掴まって噛まれでもしたら、一巻の終わりだっ!!」
感染すれば、戻る術はない。体温は急速に下がり、肌は青白くなり、やがて正気を失って“そちら側”へ堕ちる。
それが、終末世界の絶望的なルールだった。
「くっ、こっちもかよっ!!」
ガラスの破片を踏んだ瞬間、足元からミシッという音が響いた。
細かく砕けた破片が靴底に貼りつき、わずかに足を取られる。息を呑みつつも、次の一歩を慎重に踏み出す。だが、時間はない――近くには奴らが迫っていた。
「……本当に、無人の廃墟みたい」
以前までの喧騒を幻のように、ハルノは天井の高いコンコースを前に言う。
自動ドアは電力を失ったまま開かず、冷たい床には転がった紙コップ。破れた新聞が散らばって、人が消えたことを静かに物語っていた。
「――いや、違う。人はいないかもしれないけど、決して無人ってわけじゃない。元は人だった、奴らがいる」
腐臭を伴いながら、うめき声とともに近づいてくる気配。
通路の向こうには制服の少女が、うつむいたままよろよろと歩いてくる。目は虚ろで、唇の端には乾いた血がこびりついていた。
「駅にいたらダメだっ!! 外へ出るぞっ!!」
そう判断して叫んでは、急いで手を取る。握ったハルノの手はひどく冷たく、それが今の現実を突きつける。
かつて長蛇の列を作っていた【ずんだ餅】の土産屋は、今は重いシャッターを下ろしたまま沈黙。ガラス越しに見えるパッケージは色褪せホコリをかぶり、誰にも見向きされることなく虚しく並んでいる。
「せめて料金くらい、払ってからにしてほしいぜ」
少しでも時間を稼げれば、無駄な事とわかっても思う。止まったエスカレーター。光を失った改札機。
もう誰もICカードなんてかざしやしない。今の改札を越えてくるのは、理性を失った屍怪たちばかりだ。
何もかもが、もう以前とは違っている。
この街も、この駅も、この世界も――すでに、人の場所じゃなくなったんだ。
***
「一刀理心流。――龍影斬」
静かな声とともに、背負う黒夜刀を抜いた。鞘から引き抜かれたその瞬間、空を裂いて駆ける龍の如く刃が軌跡を描く。黒き刀身が鈍く煌めき、次々と屍怪を斬りつける。それは酷く乾いた空気の中で、周囲に熱が広がる感覚。
黒夜刀は、ただの刀ではない。短時間ならば高熱を帯びる、特殊な武装ある刀。黒の鞘には銀色の二本線が走って、ソーラーシートが仕込まれている。鞘の上部には台形状に厚みある銀色の装置があり、発熱と蓄電の両機能を備えた機械。装置には黒く獅子の姿が描かれ、見る者を圧倒する威厳と迫力を放っていた。
「蓮夜!! 右も左も、どこからも来ているわっ!!」
周囲を見渡してハルノは、息を荒げながら叫ぶ。仙台駅西口の二階外に流れ出るも、包囲網は変わらない。屍怪たちは次々に押し寄せ、覆う闇が希望を少しずつ飲み込んでいく。
西口の先に広がるのは、沈黙した都市の輪郭。高層ビル群はただ黙して聳え立ち、街全体が時間を止めたように動きをなくしている。吹き抜ける風は閉じたシャッターを揺らし、ビルと駅舎をつなぐ空の回廊へ静かに流れていた。
「階段だっ!! ハルノ!! 急げっ!!」
追いすがる屍怪の群れをかわしながら、駅から伸びる回廊を抜けて。ハルノと一緒に駆けて、アーケード街へと滑り込んだ。
ガラス張りの店舗に展示されるマネキンは、無人の通りをじっと見つめるように立ち尽くす。かつては人々で賑わったカフェのカウンターも、今は埃を被って椅子は乱れたまま。色褪せたポスターが風に揺れ、すでに終わったセールの告知が虚しく貼られ続けている。左右どこの店舗を見ても、閉ざされたシャッターが光を遮っていた。
「……行ったかしら?」
運良く逃げ込んだ牛タン専門店の奥、ハルノは物陰に身を潜めながら呟く。
正面にはメニュー表の剥がれかけたタピオカ屋があり、再開を待ちわびるように居酒屋の暖簾が垂れ下がる。今は自分たちの声と息遣い以外に、聞こえてくるものは何もない。
「屍怪が完全に去るまで、このままやり過ごそうぜ」
荒くなった呼吸を整えながら、牛タン店の片隅に身を潜める。ふと壁の鏡に目をやると、そこには疲れた自分の姿が映っていた。
童顔とよく言われる顔立ち。僅かに茶色がかった短めの黒髪は、今日も相変わらずトップの一束だけが跳ねている。自分でもどうにもならないアンテナみたいな髪は、逃げる途中も何度も風にあおられていた。
紺色のアウターに、ベージュのパンツ。衣替えをしたのは季節が本格的に秋へと移り変わり、朝夕の気温がぐっと下がってきたからだ。
「そうね。走りっぱなしで、少し疲れたわ」
ハルノも腰を下ろし、軽く肩で息をしながら言った。
額には汗がにじみ、ポニーテールの髪先が湿って頬に貼りついている。息をつくその瞳に宿った翠の色も、今は少しだけ翳りを帯びていた。




