第323話 人喰いの悪魔8
「法律や人権や、“普通”って、人が勝手に決めた概念ですよね? 自然の摂理でも、神様の意志でもない。ただ人が作ったもの。なら……自分が殺されても構わないって思っている人なら、他人を殺してもいいんですか?」
少年の声には迷いがなく、目も鋭く体の内側を射抜いてくる。
「……」
息を吸うのも忘れそうになるくらい、言葉が喉の奥で引っかかる。
ただの詭弁でも、屁理屈でもない。少年の言っていることには、確かに一理ある――そう思えてしまうから。
「それに、法律や人権を掲げる国だって戦争をしています。正義の旗を掲げながら平気で人を殺し、国の名の下に命を奪っている。それでも人は、人を殺しちゃいけないって思えるんですか?」
追い討ちのように続けられた少年の言葉に、頭の奥が鈍く痛んだ。
正論だった。社会やルールの中で生きていたくせに、そのルールが簡単にねじ曲がることを知っている。正義が人を殺すこともあると、本当は知っているのだ。
「……君の言うことは、間違ってないと思う。正しいでも、それでも俺は……人が人を殺すことは、許されないと思っている」
口を開いたとき自分でも驚くほど、言葉は真っ直ぐに出た。理屈でも論理でもなく、一つの感情として。
「矛盾しているよな。筋が通ってないって、わかっている。でも、人間なんて矛盾の塊だ。理屈じゃ説明できない感情があって、どうしようもなく未熟で、不完全な生き物だと思う」
少しでも揺らがないように、拳を握りながら答えた。
「俺は誰かが誰かを殺すとか、嫌なんだ。平和とか、穏やかさとか、そういうのが……俺にとっての“正しさ”なんだと思う」
完璧な答えなんて、たぶんどこにもない。だけどそれでも、今の自分に出せる精一杯の答えだった。
「正しいのに、ダメなの? それはたしかに、矛盾しているわ」
まるで毒気を抜かれたように、少女はぽつりと呟く声音だった。
迷いの色がその瞳に浮かぶ。少女はゆっくりと猟銃を下ろし、視線を外して背を向けた。
――今だ。
「……二人は、なんで人を襲っているんだよっ!? 集落の人たちが……何をしたっていうんだっ!?」
張り詰めていた空気がほんのわずか、緩んだのを感じて思わず声が出た。
殺すまでの理由があったのか? 俺には、そうは思えない。
でもならばなぜ子どもの二人が、どうしてそんな残酷な行為に手を染めたのか。人の肉を喰らうなんて、人でありながら獣よりも凶悪な所業を、どうして選んだんだよ。
抑えきれずに声が出たのは、その理由がどうしても知りたかったから。
怖かった。けれどそれ以上に、彼らが背負ってきた何かを見逃すことができなかった。
「正確には、何もしなかったのよ」
少女は小さく息を吐き、ふたたびこちらを向いてそう呟いた。語るように吐き出すように、視線は遠く滑り台の先へと向いている。
「知っているかしら? わたしたち……山の奥にある児童養護施設で育ったの」
「……ああ。聞いたぜ」
呟く少女の言葉に、静かに黙って頷いた。
丸山さんと集落の人たちから、断片的に話は聞いている。廃墟となった施設に、かつて子どもたちが暮らしていたということを。
「じゃあ、もう隠すこともないわね」
少女の表情にはどこか達観したような、諦めと怒りが混ざった色が浮かんでいた。
「あの施設で行われていたのは、体罰という名の日常的な虐待です」
すると隣にいた少年は、黙って背を向ける。何をしでかすかと思えば、ゆっくりとシャツを脱ぎ始めた。
……なんだよ。……これ。
その背中を見た瞬間、完全に言葉を失った。皮膚に刻まれた無数の痕。鞭で打たれたのだろう。肉が裂け治りきらないまま、再び開いたような傷跡が幾筋も刻まれている。
加えて、焼きごてのような跡すら混ざっている。それは暴力が長い間当たり前のように、そこにあったことを背中が何より雄弁に物語っていた。
――地獄だったんだ。生きながらにして、何度も殺されるような。
息を呑んだ。目を逸らすこともできなかった。いや、逸らしちゃいけないと思った。
『人を殺すな』だの『人として許されない』だの――そんな言葉は、急に薄っぺらく感じられるほど。この子たちは、誰にも守られず。叫んでも届かず、ただただ地獄に捨てられていたのだ。




