第301話 黒木回想禄8
「負けました」
対局相手が静かに敗北宣言を行い、張り詰めていた対局室の糸を断ち切る。
長くあり苦しくもありしかし熱かった、一カ月以上に及んだプロ試験本戦。最後の大一番となる一局を制して、プロ入りを決めた瞬間だった。
「……」
けれども胸に広がるのは、勝利の高揚だけではなかった。
対局を終えてホームレスの集会所へと、足を向ける途中にて気がかりとなる場所。それこそ昨日は柳岡さんと別れ、街中でも人目に触れ難い路地裏。
「……ざわざわ」
路地裏の方向にて集まっているのは、騒めく十人ほどの野次馬たち。
誰しも立ち入りを禁止すると、敷かれている黄色い規制線。奥には警察官や鑑識と思わしき人がいて、周囲は物々しい雰囲気に包まれている。
「ここで何かあったんですか?」
集まっていた野次馬の一人に、何が起きたのかと確認するように尋ねた。
「なんでも、ホームレスが襲撃されたらしいよ。物騒な世の中だねぇ」
野次馬が肩をすくめて言う言葉と同時に、路地の隅に目が行った。
点々と残されていたのは、赤黒く乾いた血痕。昨日の状況を知っているからこそ、最悪の事態が脳裏に過ぎってしまう。
「……それで、その人は?」
喉を焦がすように重たく、絞り出される言葉。
「中央病院に運ばれたそうだ。けどね……聞いた話じゃ、朝まで放置されていたらしいんだ。だから、生きているかどうかは……」
知る限りを教えてくれる野次馬の言葉は、心の奥に鈍い杭を打ち込むようだった。
そしてその瞬間に、全てを悟る。警察へ通報したというのは、柳岡さんがかましたハッタリ。本当は我が身一つで、危険を顧みず助けにきていたのだと。
***
「今日ここに、ホームレスの男性が運ばれて来ませんでしたか?」
中央病院の受付にたどり着いては、息を切らしながら問いかける。
「親族の方ですか? それなら集中治療室に」
看護師は少し怪訝な顔を見せつつも、すぐに案内をしてくれた。
通されたのは、集中治療室。無機質な白い壁の空間に、触れ続ける心電図の音。三台のベッドが並び、それぞれに点滴や生命維持装置が取り付けられている。そこに横たわるは、柳岡さんの姿があった。
「できる限りの手は尽くしました。もう少しでも、発見が早かったならば……」
医師は悔しげに眉を寄せ、処置の遅れを嘆いていた。
柳岡さんは腹部を深く刺され、意識不明のまま朝方に発見されたという。今こうして生きていること、そもそも奇跡と呼べるとの話だ。
「……柳岡さん」
ベッドの傍らにて声をかけると、ゆっくりと持ち上げられていく目蓋。たくさんの管に繋がれている状態であるも、まるで待っていたかのよう展開だった。
「うっ……。黒木君か? 結果は、結果はどうじゃった?」
酸素マスクをつけたまま息を吐き、質問をしてくる柳岡さん。
自分の状態よりも優先して、問うたのはプロ試験の結果。掠れた声で弱々しい姿となっても、自らの命を懸けた結果を知りたいようだ。
「勝ちました。これで、プロ入りです」
「ガハハ……。やはり、ワシの目に狂いはなかったようじゃ」
柳岡さんは痛く苦しいはずも、掠れた声で満面の笑みを見せていた。
人が本当の意味で喜び、心の底からの笑顔。柳岡さんは今まで見たどの時より、重傷を負ってもなお幸せそうだった。
「そうか……。それは……良かった」
柳岡さんは結果を聞いて、とても安堵している様子。
これだけ笑える元気があるならば、無事に峠は越えたのか。プロ入りしたとて柳岡さんには、まだ一度も勝ててはいない。学ぶべきところがまだ、この人からたくさんある。
「ピコピコピコンッ!! ピコピコピコンッ!!」
医療機器が鋭い電子音を発し、病室の空気が張り詰める。駆け寄る看護師の表情は険しく、モニターに映る数字が事態の深刻さを物語っていた。
「先生っ!! 意識レベルが急激に低下していますっ!!」
看護師が大きな声を上げれば、室内は緊迫した空気に支配された。
「見舞いの方は外へ!!」
処置を行うからと医師は叫び、出口へと退出を促される。
しかし震える手を伸ばして、何かを訴える柳岡さん。応えなくてはならない気がして、その場から動けなかった。
「黒木君……手を……」
そう柳岡さんに求められては、迷わず手を取って応じる。
握って応えれば今や力をなくし、冷たくも感じる手。それでも体温よりも熱く重い、何かを託そうとしている気がした。
「バトンは渡した……。ワシは、役目を果たしたんじゃ……」
虚ろな目で言う柳岡さんは、安らかな笑みを浮かべた。
次の瞬間には看護師に腕を引かれ、退出と同時に集中治療室の扉が閉じる。柳岡さんとの会話は、これが最期のものとなった。
***
後日。ホームレス襲撃事件の犯人として、不良三人組が逮捕された。事件は残虐なものとして報道され、世間に大きな衝撃を与えた。
季節は冬から春へと移り変わり、プロ棋士として新たな道を歩み出す。柳岡さんが到達できなかった世界を、人々の夢と思いを受け継ぎながら。これから先も黒木実は自らの手で、自らの物語を紡ぐことになるのだった。




