第296話 黒木回想禄3
「へぇ。囲碁にプロなんてあるんだ」
「夏にはプロ試験があってだね。受かれば子どもでもプロになれるんだ」
全くの無知であれば興味本意に、特殊な世界だとホームレスは語る。
プロ試験に合格すれば年齢に関係なく、棋士になれるという完全実力主義の世界。自分の体と腕っぷしで上を目指せるならば、未知でありながらも魅力的に聞こえた。
「黒木君はまだ十四だろ? 伸び方も凄いし。良い所まで行くんじゃないかな? ねぇ、柳さん?」
「ふぅむ。囲碁の世界は甘くないからのう」
明るい声で話を振るホームレスに、柳岡さんの表情には複雑な感情が滲んでいた。
まだ一度も勝てていない柳岡さんでさえ、到達が叶わなかったプロの世界。柳岡さん自身が身をもって、厳しい世界と知っているからだろう。
「物は試しって言うし。やってみたら良いよ。まずは院生試験から!! 黒木君、みんなで応援するから!!」
それでもホームレスたちは次々に声を上げ、献身的にサポートをしてくれる姿勢だった。
囲碁を打ち始めて、半年が経過した頃。生活の拠点であった児童養護施設を出て、念願だった一人暮らしを開始。アパートの賃料や生活費は、自動車工場での仕事を続けて捻出できた。
「馬子にも衣装というのは、まさにこの事だねぇ」
ホームレスの集会所にて老婆は、正装をした姿にとても感激していた。
慣れないスーツにネクタイを締め、革靴を履いて向かう院生試験。ホームレスの集会所を訪れたのは、試験前の挨拶と報告を兼ねてである。
「ガハハっ!! 院生試験とはいえ普段と変わらず、実力を発揮することだけ考えるんじゃ!!」
院生試験を受けるに際し取り計らってくれたのは、笑って激励してくれる柳岡さんのおかげだった。
柳岡さんはプロ棋士になれずとも、同期にはプロになれた者もいる。人脈を使って助力してくれ、柳岡さんに感謝の念は大きかった。
「やったな、黒木君!! これで院生だ!!」
「これからはプロを目指すんだぞ!!」
院生試験を無事に合格したと伝えれば、ホームレスたちは自分の事ように喜んでいた。
囲碁を始めたばかりの頃は、想像もしていなかった新たな世界。プロを目指す入口に立ったと思えば、胸の内に芽生えたのは確かな自信と意欲。自分の力だけで上へ行ける世界に、早く挑戦したいと静かに気持ちは踊っていた。
***
春の柔らかな日が差し込む昼下がりに、久しぶりに訪れたホームレスの集会所。
院生試験を突破してから二年、柳岡さんの紹介で師匠もできた。対等に打てる相手が増えたものの、囲碁を初めるキッカケとなった特別な場所。情熱と初心を思い出すが如く、今でも散発的に足を運んでいる。
「おっ!! 黒木君!! 一組になったんだってね!! ついにあと少しで、プロ棋士だねっ!!」
ホームレスの人たちは集会所へ来れば、目を輝かせて声をかけに寄ってきた。
院生の順位やプロ棋士の情報など、揃って積極的に集めている様子。ホームレスの人たちは成長を、自分のことのように喜んでくれた。
「プロになったら、黒木先生!! なんちゃって!!」
茶化すように言いながらも、ホームレスたちは全員が笑顔だ。
「フフフ。まだ気が早いですよ」
自然と頬を緩ませ控えめに応じながらも、積み上げてきた実績から相応の自信もある。
しかしプロ棋士になる前に、課題が一つだけ残っている。ホームレスの集会所に足を運ばせるのは、その課題をクリアするためでもあった。
「黒木君は囲碁を始めて、まだ二年と少し。こりゃあもう、天才!! のちは名人か、本因坊か。それこそタイトルを複数保持なんてのも夢じゃない!! 全タイトル制覇もあり得るぞ!!」
昼間というのに酒を飲みながら、盛り上がるホームレスたち。他人事であるも自分の事のように、明るい未来を想像し笑っていた。
「ガハハっ!! 勝負の世界、囲碁の世界はそんなに甘くないぞ!!」
場の賑やかさを割るように響いたのは、ビニール袋を片手に現れた柳岡さんの笑い声だった。
「久しぶりじゃの、黒木君。今日も打つか?」
囲碁を打ち始めて二年以上が経過し、もっとも対局したのは柳岡さんと言ってよい。
「ここに来る理由の一つですからね。お願いします」
しかしそれでもなお、一度も白星を掴めていない。
プロ棋士となる前に、自身に課した課題。それは本気の柳岡さんを、対局で負かすことだった。




