第287話 函館29
「マリナ。現場の指揮を任せる」
黒木さんは短くそう言い放つと、意図を明かすことなく場を離れた。
その背中を見送りながらも、何も追及はしなかった。これまでの付き合いから、無計画に動く人物でない。黒木さんならどんな窮地でも、策を見出してくれると信じたからだ。
「全て僕の責任だ。だから……僕がなんとかしないと」
深刻そうな魚村拓海の表情は硬く、静かにして確固たる声で呟いた。何かを起こしそうな気配を醸し出し、嫌な予感を胸に歩く背を見失わぬよう続く。
「僕が屍怪を引きつけますっ!! 登山道で合流しましょう!!」
車の出口となる場所で足を止めて、唐突に宣言をする魚村拓海。話を聞いて感化されたのか、囮役になるつもりのようだ。
「どうして拓海がっ!! 大人に任せればいいじゃないかっ!?」
出口を監視していた村井マサオは、困惑した様子で声を荒げている。
「僕がやらないといけないんだ。マサオ、僕のリュックを頼んだよ」
それでも魚村拓海は揺るがず、荷物を預け意志は固かった。
「待て!! 勝手に決めるな!!」
独断での行動を制止しようと試みるも、伸ばした手は空振りに失敗。出口から一階へと向かい、魚村拓海は駆け出してしまった。
「大丈夫!! 僕は走ることに自信があるんです!!」
魚村拓海は一度だけ振り返って見せ、力強く言い放つと再び走り出してしまう。
スピードと体力に自信があると言うも、果たしてどれほどの裏付けがあるのか。駐車場内に響く足音が徐々に遠ざかる中、誰も彼を止めることができなかった。
「僕はこっちだ!! みんな、ついてこい!!」
屍怪を引きつけるために、魚村拓海の挑発的な声が響く。囮役をきちんと成すため、注意を引くに余念はなかった。
「あっ!! 誰か出てきたぞ!!」
二階から外を見張っていた者は、駆ける少年を捉えたようで叫んだ。
駆けつければ魚村拓海の姿があり、正面道路を全力で逃げている。後ろには数えきれないほど、屍怪が追いすがっていた。
***
「……誰だ? あれは?」
「今回から参加した魚村拓海。海斗さんの弟。なんて勇敢な奴だ」
魚村拓海の姿を視認した人々は、次々とその正体を口にする。
自らを犠牲にしてでも、仲間を救おうとする姿勢。誰もが感心せざるを得ず、自然と敬意の眼差しが向けられていた。
「駐車場の一階!! 屍怪がいなくなったぞ!!」
出口付近を見張っていた男性は、急ぎ戻ってきて報告をする。
「周りの屍怪も減っているわ!!」
「この場から逃げるには、絶好のチャンスだ!!」
駐車場の外を確認へ動いた女性は言い、男性は千載一遇の機会と訴える。
魚村拓海が身を挺して、作り上げたこの機会。誰もが不本意さを感じながらも、この状況を活かさない手はないだろう。
「行くぞ!! 静かにかつ、迅速に動くんだ!!」
囮を無駄にせぬよう指揮を執り、全員に逃走の指示を出す。
一同は荷物をまとめ、慎重に足音を殺しながら駐車場の出口へ。屍怪の注意が魚村拓海に向いている今こそ、逃れるに唯一の機会だった。
「拓海……無事でいてくれよ……」
小さく呟く村井マサオの声は、静まり返った駐車場に微かに響いた。
「しかし……魚村拓海。勝手な行動を……」
独断にて先行する形となり、不満が胸中で渦を巻く。
自ら犯した不始末を、自ら尻拭いをしたいのか。それでも周りの助言を無視する行動は、人々を振り回すものでしかない。
「こうなっては仕方がない。登山道へ向かおう」
黒木さんは淡々と短くそう言い放つも、冷静さの中に諦めが混じっているようだった。
「……盤上にて意志を持たぬ碁石と違い、人間の感情を読むのは難しい」
歩きながら黒木さんがぼそりと呟く言葉は、内心の苛立ちを滲ませているよう思えた。いくら頭脳明晰で策略に長けても、感情という不合理な要素には手を焼くようだ。想定外の行動が続けば、どんな名将でも対応には限界がある。
魚村拓海の無謀な行動に対する苛立ちと、それでも彼を見捨てられない思い。黒木さんの表情は崩れずとも、言葉の端々で微かに浮かんで見えた。
「もうすぐ登山道だ。どうだっ!! 魚村拓海はいるかっ!!」
市街地を抜けて登山道の入り口を目前に、囮役を受けた者の姿を探すよう言う。
しかしどれだけ目を凝らしても、魚村拓海の姿は発見できず。焦燥感に全員が包まれる中で、待ち続けて一時間ほど。焦りは自然と別の感情に、諦めの雰囲気へ移行しつつあった。




