第218話 地獄の谷1
「ハルノ!! 急げっ!! 追いつかれるぞっ!!」
木の枝や葉から雫が落ち、地面をポタポタと打つ雨粒。リュックや衣服が濡れてしまっても、走る足を休めるわけにはいかない。
雨を吸収した土は泥に変わって、足元は緩く滑りやすい状況。背の高い木々は緑の葉で覆われ、人里から遠く離れた森の中。雑草が生い茂っている場所では、足元が見えなくなるほど。それでも野生動物が通った跡が残り、草が潰れてできた獣道。ただ前進する以外に、選択の余地はなかった。
「わかっているわっ!! でも、走りにくいのよっ!!」
思うように速度が出なければ、ハルノは厳しい状況にうなだれていた。
苫小牧市を抜けてから、順調であった道中。海と森に挟まれた通りにて、二十体以上の屍怪と遭遇。逃げるために道を外れても、後を追われる事態になっていた。
「自転車も失うし。まさか、……アイツが生きているなんて」
後ろを見れば木々の隙間から、迫る存在がチラチラ。身長は二メートル三十二センチで、体重は百三十五キロと常人ならざる巨体。
歯を固く食いしばり、顕著に上がっている歯茎。丸い銀の兜を被って、黒い短パンには十八の星が輝く。裸の上半身は、割れてシックスパック。胸板は厚く隆起し、二の腕も太く筋肉質。全身を筋肉の鎧に覆われているよう、愛称を北欧の巨人とするプロレスラー。
「テラウォード・ブッチャー。新千歳空港の連絡通路で、倒したはずじゃなかったのっ!?」
焦りを見せながらも、頻繁に後方を確認するハルノ。
新千歳空港の連絡通路にて、手合わせをしたブッチャー。一度は片膝をつかせるまで追い詰めたものの、最後はジープ上から放たれたロケットランチャー。崩れていく通路と一緒に、その大きな姿を消していた。
「……俺も、そうだと思っていた。でも今も、背後にいるんだっ!! 雨が降って見通しは悪いし。こう木が多いと、刀も振るえない。屍怪の数も多いはずだから、何を置いても逃げるしかねぇ!!」
環境的にも戦力的にも不利があっては、とても戦える状況にあらず。走りながら枝が頬に触れ、薄く切れて微かに血が滲む。
背後を追ってきているのは、ブッチャーのみならず。最初に遭遇した時から、今では五十体前後。森を走っては全体が見えず、全容つき把握するのは困難だ。
「なんで今回に限って、こんなに執拗なんだよ」
最初に逃げ始めてから、時間にして一時間以上。距離もすでに三キロ以上か、おそらくそれ以上に進んでいるだろう。
傾斜ある坂を進み、舗装されていない獣道。雨に打たれながらの逃亡は、精神的にも体力的にも疲弊させた。
「あまり休憩していられないわ。行きましょう」
木に寄りかかって呼吸を整えていると、ハルノは脅威が迫っていることを促す。
ブッチャーや屍怪に追われて、現在地がどこであるのか。向かっている先がどこかも、完全にわからなくなっていた。
「……うっ!?」
森を駆け抜ける中で、前方に広がるのは谷。コロコロと転がっていく小石を追うも、上空に厚い雨雲あり暗く谷底は見えない。
「蓮夜!! 屍怪が来ているわっ!!」
後方から追ってくるハルノは、今も後ろを気にしている様子。
ハルノの位置からではまだ、谷の存在を確認できないだろう。気づかず足を止めなければ、谷底へ落ちること避けられない。
「待てっ!! ハルノ!! 前に谷が――」
足を止めさせようと、振り返って促すとき。雨に濡れた地面が崩れ、グラっと足を取られてしまった。
「えっ!? ちょっと!!」
ハルノは事態を理解しきれていないようで、反射的に伸ばされた手を掴む。
それでも男を一人で支えるに、何も準備などはない。谷へ流されていく体を、女性の力では止められず。ついにはハルノまで、投げ出される格好になった。
「ハルノ!!」
もはや落下を逃れられぬと悟っては、体を引き寄せ包み込む体勢。
「きゃあああ!!」
悲鳴を上げるハルノを懸命に守りつつ、落ちていく地獄の谷底へ。
抗う方法が何もなければ、身を丸め防御姿勢を堅持。あとは全て成り行き任せで、神に祈る他なかった。
***
……どこだ? ……ここは? ハルノ? 俺たちは……無事なのか?
雨の降り続くアスファルト上にて、気がつくと目を覚ます。
空は暗くまるで夜のよう、上空では激しい雷鳴。腕の中にいるハルノは、気を失っているのか。怪我はなさそうであるも、意識なく目を覚さない。
「このままじゃダメだ。早くどこかに、移動をしねぇと」
すぐに体を起こそうと試みるも、酷く頭がクラクラした。
「がはっ!!」
一度は立ち上がってみせるも、足元が定まらず転倒。胃液と内容物が逆流してきて、我慢できずに吐いてしまった。
「……ヤバい。こんな状態で、屍怪に遭遇したら」
急ぎ体勢を立て直そうとするも、四肢を地面に動かせない。
顔を上げれば何もかも、グルグルと回転する景色。めまいを発症しているのか、目は見えなくなりつつあった。
「バシャ! バシャ!」
そんな中でも何者か接近してくるようで、雨に濡れた足音が聞こえてくる。
誰だ? でも、……動けねぇ。
それに、なんだ? 視線を上に向けられない。
一気に急変していく状態に、戸惑い不安が侵食する。
それでも目にギリギリ映るは、アスファルトを弾く雨粒。路面を照らすたしかな光に、接近してくる尖った茶色の革靴。
「○×△☆♯♭●□▲★※」
誰かが何か言っている様子も、もはや全て理解できない。
「俺のことはいいから、隣にいるハルノを……助けてくれ」
声をかけてきた者を生者と信じ、事切れる前に頼み事。
すがるように足へしがみ付き、力を振り絞って必死の嘆願。全てを言い終えるとほどなく、完全に意識を失ってしまった。




