眼球の夢
1
完全な再生医療技術がついに実用段階へ移行した、との報道があちらこちらのメディアで流れたのはまだ肌寒い風が吹いているころで、街路樹たちも脱ぎ去った緑を新調していない時期だった。
古典的SF小説の世界が現実化する――すべての人類に希望の光を――。華々しい言葉が電子画面や紙面に踊り、着飾った研究チームの代表が受け答えをするインタビューの切り抜きが毎日のように視界へ入り込んだ。
「また一歩、未来へ進んだね」
隣の恋人がそう言って笑って、僕も少しは関係がある専攻だったから、得意になって知識をひけらかしたりしていた。
巷で話題となりつつあるこの技術は、人工多能性幹細胞を利用したものである。半世紀以上も前に開発されたそれはとても便利な代物で、皮膚や血液などから簡単に培養でき、そして理論上はどんな機能の細胞にも分化させることができる。
つまり、臓器の完全な新規作製が可能なのだ。
かねてより行われてきた臓器移植手術には、どうしても他人の臓器であるという前提からくる問題点が少なからずあった。生物の体に異物を排除する免疫機能がある以上は、かならず拒絶反応というものが起こる。それをいかに抑制するかというのが、かつて臓器移植が実用化される際の課題だったという。
しかしその点、人工多能性幹細胞は素晴らしい。なにしろ元々が自身の細胞から培養されたものなので、そこから分化したもので作製された臓器を移植したとしても拒絶反応がほとんど起こらない。
画期的な技術だった。まさしく今世紀最大のブレイクスルーである。人工多能性幹細胞が発表された当時も世界中で話題となったが、その輝きはいくら年月が経とうと色褪せない。
――そして現在、とうとう人工多能性幹細胞から三次元的な臓器を移植可能なほど完全な形で作製することに成功したという研究成果が発表されたのである。
移植に関して今はまだ動物実験を終えたばかりという話ではあるが、いずれ臨床試験に入り、その結果次第で世界中の大学病院で順次に施術が開始されることになるだろう。
これからの時代は、いかな不幸な事故で身体を失ったとしても、それを完全に取り戻すことができる――。それどころか、酒の飲み過ぎで肝臓を悪くしたとしても、煙草で肺を悪くしたとしても、新しいそれらに取り換えるという手段が生まれることになる――。
話していくうちに熱が入った僕を、すこし呆れた顔で、けれど慣れた感じでハイハイと受け流す彼女が好きだった。
僕と彼女が揃って大きな交通事故に巻き込まれたのは、それから一か月も経たないときのことである。
2
その日は久しぶりのデートだった。
休日の昼下がり。駅前の有名な銅像そばで待ち合わせて、それから街中のショッピングモールでぶらりとしつつ併設の映画館で話題の映画を観る。夜はイタリアンの小洒落たレストランを予約していた。レビューサイトでデートに最適! と書かれていた場所だ。僕はそれまで全く知らなかったが、彼女はなにかの雑誌で紹介されたのを読んだことがあったらしく「ちょうど来てみたかった」と微笑んでいた。
食事を終えて店の外に出たところで、僕は緊張の極みに陥った。
「今日はどうしようか」
その一言がどうしても言えなくて、なんとなく二人黙ったまま、足は駅の方へと向いていた。
歩きながら、必死で頭を働かせる。このまま別れていいものだろうか……二週間ぶりに逢えたのに、たった半日でさよならでは、もしかして愛想を尽かされたりしないかな。いや、それ以前になにか話さなくては。もう、駅が――。
「夜もだいぶ暖かくなってきたね」
焦った末に口から飛び出たのが、そんな言葉だった。
言うや否や、無難すぎる――と後悔して、しかし途端に隣から笑い声が漏れた。
「え」
と振り返るなり、もう我慢できないといった様子で彼女が二の腕を叩いてくる。
目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら、
「ほんとにもう……あなたは私がいないとダメね」
綺麗に微笑んだ。
僕の好きな笑みだった。
「ね。よかったらさ、このあと――」
けれどそう言い掛けた彼女の肩越しに、瞬間、目映い光と轟音が現れて――。
衝撃。
次に気がついたとき、僕の世界は暗闇に閉ざされていた。
3
最初は、僕は家で寝ていてまだ夜なのか……と思った。
すぐに違うと気がついたのは、重い頭が段々と覚醒してきて、意識が途切れる直前までの記憶が鮮明に蘇ったからである。
歩道に暴走車が突っ込んできたんだ。僕たちはそれに轢かれた……。
思わず飛び起きようとして、途端に体中を襲った鋭い痛みにのた打ち回る。すぐに看護師が飛んできて、しかる処置の後、状況の説明が行われた。
担当医だという男は、まず全治六か月の入院だと告げてきた。
「そんなことより一緒にいた彼女は無事なんですか」
余裕のない声で問いかける僕に、彼はただ「別室だが彼女もここで入院している。安心なさい」とだけ伝えた。
そして、彼女のことよりもこちらこそが重要なことなんだ、とでも言いそうな気配でもって厳かに切り出した。
「ところで今、君は視界が真っ暗なことには気がついているね」
「……はい」
「それは別に頭を包帯で覆っているからというわけじゃない。力及ばず残念なのだが……」
「失明、ですか」
震える声で尋ねた僕に、彼はおそらく首を横に振った。
そして無情な現実を突きつける。
「いや、君の左右の眼球はもう存在していないんだ」
続けて言うには、いわく搬送されたときには破裂してしまっており、すでに手の施しようがなかったという。
車に轢かれたとき以上の衝撃が、全身を貫いた。
だって、それは。つまり……。
彼女のあの笑みは、もうこの目で見られない――。
血の気が引いていくのを感じたところで、わざとらしい咳払いが聞こえた。
そっと顔を寄せてくる気配がある。
「……改めて、ここは中央区のN大学病院なんだが。君も医学生なら知っているとは思うが、現在、ここのM先生という方が画期的な治療法を研究している」
遠くなりつつあった意識が、ふとその言葉で現実へ戻ってくる。
M先生に、N大学病院。
それらの名称は一か月ほど前に嫌というほど見聞きしていた。
「実は臨床試験の許可がようやく降りそうでね。近々、被験者を募集する予定なのだが――よかったら君、受けてみないかい」
思わず体を起こそうとして、走る痛みに悲鳴を上げた。
「落ち着きなさい」
手当をされながら詳しい話を聞く――。
いわく、臨床試験は様々な部位で行う予定らしい。
心臓、肺、肝臓、腎臓……といった臓器に関しては候補者も多く、実際に募集を開始すれば希望者が殺到するだろうとのことなのだが、脳神経や眼球といった部位に関してはちょうど良い候補者が現時点で大学病院内の患者には少ないという。
たしかに……と頷ける部分があった。
眼球の患者といえばいわゆる視覚障碍の症状が一番に浮かぶが、彼らにも完全な失明の者はそれほど多くないと聞いたことがある。その大抵は弱視であり、実は薄弱な光は視えている者が多い。しかし臨床試験では眼球を文字通り取り換えるわけなのだから、それでうまく行かなかった場合はいっそうの悪化――完全な失明の恐れだってあるのだ。
その点で、眼球自体を失ってしまっている僕はすでに完全な失明の状態だ。それ以上に悪化のしようがなく、施術後の効果のほども実感しやすい。
そういうわけで、もしテストケースとして参加する意思があるのならば、是非――という話のようだった。
僕はそれを二言目には承諾していた。
彼女に笑い掛けられない……いや笑い掛けられたとしても、それを見ることができない人生だなんて、とてもではないが耐えられないと思ったのだ。
4
闇色の世界は時間の流れが早い。
おそらくは脳に到達する刺激が少ないからであると思う。
情報と言い換えてもいい。
子供の頃は時間の流れが遅かったのに、大人になると途端に月日が次々に流れていく感覚がある。その現象に対する説明として、取り巻く環境の刺激に成長の過程で慣れていくため、新たな刺激が年齢と共に減少し、だから大人になるころには時間の流れを早く覚えるのだ――という説があるが、それと同じ理屈である。
時間の流れが、とても早い。
気がつけば体中を覆っていた包帯の数が減り、点滴から入院食へと移っている。
まだ立ち上がることこそ出来ないものの、ベッドの上で身を起こす程度なら一人でもできるようになった。
病院で目覚めてから、すでに二か月が経とうとしていた。
臨床試験の希少な被験者の予定であるためか僕の病室は個室である。
ベッドの上に寝そべって、朝に看護師に開けてもらった窓から入り込む風を肌で感じながらイヤホンを耳に突っ込んでいる。
そのコードの先は、気分によって音楽プレイヤーだったりラジオだったりする。
入院二日目に駆けつけてきた両親が、暇をつぶせるようにと後に持ってきてくれた物だ。
「今ごろ、どうしているだろう」
ふと言葉が漏れる。
気がつけば、いつだって思い浮かべるのは恋人の顔だった。
事故に遭う直前まで一緒にいた最愛の人物。
彼女は果たして、本当に無事なのだろうか……。
二か月も経つのにも関わらず、僕は依然として彼女の詳細な状態を教えてもらうことが出来ていなかった。
自分の両親のみならず、彼女の両親も僕の病室には訪れた。もちろん彼らには会うたびに彼女のことを尋ねるのだが、なぜか皆一様に口ごもってしまう。
「大丈夫。あの子もちゃんと生きてるから。お互いにもう少し治ったら、また会えるよ」
そう答える彼らのそれが、顔が見えないからだろうか、ひどく遠く薄っぺらいものに感じた。
「……もしかして……」
彼女は、すでに生きていないんじゃないだろうか。
日を追うごとにそんな不安が、胸の奥で黒々と澱んでは固まっていく。
僕を心配させないために皆で嘘をついているのでは……。
いや、それどころか、もしやすれば担当医の差し金で言わされているのでは……。
僕は人体実験のための希少なモルモットなのだから、できるだけ生きる希望を失わせないために……。
本当はあの夜、彼女は僕を置いて死んでしまったのかもしれない……。
日に何度も思い浮かべていた笑顔の彼女がどんどんと薄れていき、代わりに道端で倒れ、冷たくなっていく姿が脳裏に強く焼き付いていく。
さらに一か月が経つころには、傍目にも憔悴が明らかだろう状態になっていた。
「彼女がいないなら……もう生きている意味なんて」
暗い世界の底で、ひとりボンヤリと呟いた。
そこに、カラカラ……と扉が開く音がする。
誰何する気力も無くて、ただジッと寝転がっているだけの僕の耳に、今度は金属が擦れるような音が飛び込んできた。
入院以降、最近は聞き慣れている音だった。
これは車椅子の――。
そう思ったとき、声。
「久しぶり」
ベッドのそばまでやってきた車椅子の主が、なにやらはにかむような気配でそう言った。
5
それはまるで老人のように掠れていたけれど、たしかに彼女の声だった。
慌てて起き上がれば、くすくすと笑う音が漏れてくる。
「な、なんで……」
「まさか、あなた」
言葉を震わせる僕に悪戯げな声が返る。
「私を死んだと思ってたんじゃないでしょうね」
図星に固まっていれば微かに嘆息する音があった。
「まあ、しょうがないか。お母さんたちに口止めしてたの、私だもん」
そう言って、彼女は静かに語り始めた。
いわく僕が眼球破裂の他は裂傷、骨折、打撲……程度であったことに対して、実は彼女のほうが重傷であったのだという。
なんでも一度は生死の境をさまよい、脳挫傷の影響で脚も片方が不随になっている。更には喉が潰れてしまったため、つい先週までは声が出せなかったらしい。
そんな彼女が一命をとりとめてから初めて意識が戻ったのは僕が目覚めた数日後のことだったようだ。そこで僕の状態を聞いた彼女は、自分について詳細を伝えないように周囲へ頼み込んだのだという。
つまり、彼女が昏睡しているうちは僕へ対する気遣いから情報が遮断され、彼女が目覚めたのちは当人の願いによって遮断されていたのだ。
「だって、あなた結構悲観的なんですもの。私に関しては、とくに。
あなたは目が見えない、私は声が出せない、そしてどちらも病床から動けない。そんな状態で互いのことを詳しく伝えても、どうせすぐに本当にそうなのか……だなんて妙に疑い始めるのが目に見えてたから。
それなら、きちんとあなたに私が生きている証明ができるようになるまでは、むしろ何も伝えないほうがよっぽどいい」
ぐうの音も出なかった。
たしかにそのような事情なら、たとえ伝えられていたとしてもいずれは今と同じように疑っていた気がする。
……それでも、やはり伝えていて欲しかったと思うのは身勝手なのだろうか。
「ごめんごめん」
誤魔化すかのように笑う彼女に、僕は深く息を吐いた。
見えなくとも、そこにはやはり笑顔があるのだろう。僕の好きな、あの笑みが――。
我ながら現金なもので、ここしばらく落ち込んでいた精神が途端に上を向き始めたことを自覚する。
「それでね、前に話したこともある噂の再生医療。臨床試験をあなたも受けるんでしょ」
反射でそれに肯こうとして、ふと言葉に詰まった。
臨床試験の実施という話題はともかく、被験者に関する情報は非常にセンシティブだ。
恋人とはいえ、その話は誰から聞いたのだろうか……と思っていると彼女はどこか自慢げに続けた。
「私もそれで声が出せるようになりました」
驚きの声を上げて、そこでようやく僕は喉の潰れたはずの彼女と会話できているという事実に気がついた。
6
改めて話を聞けば、何ということでもなかった。
そもそも彼女もまた同じ大学病院の患者なのである。僕よりも重傷だった彼女が、喉を含めた身体のいくつかのパーツに関して、件の臨床応用のための被験について話を持ち掛けられるのは至極自然な流れであった。
彼女はそれを即断して受けたという。
「だって、人工咽頭じゃ私の声だってわかってもらえないじゃない」
拗ねたように言う彼女がとても可愛らしかった。僕は入院以後ではじめて目が見えないことを強く惜しんだ。
彼女から採取した体細胞を多能性幹細胞に編集し、そこから咽頭の組織細胞へと分化・培養するのに二か月間。更にそれを立体印刷機で三次元的な咽頭として構成するのに一か月間で、実際に移植手術を行ったのは二週間前という話だった。
術後の状態が安定し、リハビリも兼ねて短時間程度の会話が許可されるようになったのが本日なのだという。
「あなたの方はどんな感じなの」
逆に尋ねられ、僕は頭の片隅へと追いやっていた記憶を引っ張り出した。
僕の体細胞を採取したのが入院から一週間も経たないころで、それから三か月が経っている。
担当医伝てに聞くところでは、多能性幹細胞への編集と分化、培養自体は順調に進行しているらしい。
ただし僕の場合はそこから先の工程に、非常に時間がかかる。
彼女や他の被験者たちのように、培養した細胞を使って立体印刷機で臓器を作製できれば手っ取り早いのだが、こと眼球に関してはなかなかそうはいかないという。
眼球は、元々は脳の一部が発達した形の器官である。
大脳の下、間脳の一部が成長することで眼杯が形成され、やがて眼球が発生する。
構造の複雑さもさることながら、脳と直接的に接続されているというその発生過程の特殊性により眼球だけは立体印刷機での作製が困難である。
よってどうするのかといえば、細胞を用いて眼球を組み立てるのではなく、細胞が眼球として発生するまで培養を続けるということになる。
すなわち、人工多能性幹細胞を用いてまず初めに作製されるのは――脳髄である。
「脳とはいっても臓器もどきのようなものだよ」
と担当医は言っていた。
オルガノイドとは様々な医療研究目的のために、生体外の試験管内などにつくられる小型の臓器である。
もちろん今回の場合は人工多能性幹細胞によって自分の細胞からつくられるわけなので、そうして生まれた脳とは僕自身のものと発生学的に大差ない存在のはずである。――そう考えれば途端にぞっとする話ではあるのだが、曲がりなりにも医学生である僕の理性とそして担当医は笑って否定した。
「眼球を取り出す目的でつくるのだから、脳の全体を発達させる必要はないさ。生命倫理的にも宜しくないからね。意識や思考などが発生しないように……ただの脳組織の塊となるように誘導して培養する決まりになっているよ」
そうして成長させた脳組織の一部へと酢酸レチノールを投与することで、視神経や眼杯の形成を刺激する。
そこから更に眼球へと組織が成長するまでは、予定の通りに計画が進めばおおよそ半年後になると当初の説明では聞いていた。
「それじゃあ、あと三か月か」
「予定通り進めばね」
彼女の言葉に頷けば、対面からフフ、と漏れる笑いがある。
「そのときはちゃんとお化粧しないとだ」
返ってきたその声がなんだか急にどうしようもなく愛おしくなって、僕は眼球もないのに泣きたくなった。
それからの日々は、それまでとは百八十度に一転した。
彼女と互いの病室を車椅子で行き来したり、ふたりで病院の中庭を散歩したりする日々が続いた。そのどちらも親類や看護師に手伝ってもらいながらのものだったけれど、それでも彼女と共に話せるだけで幸福だった。
僕と彼女は高等学校で出会ったけれど、僕が医科大学へと進学した一方で彼女は地元の企業へと就職した。そのため、最近はそれほど頻繁に予定を合わせることが出来なかった。
これほどに彼女と共に過ごすことができる生活は、一体いつ以来だろうか……。毎日のように顔を合わせて……。少なくともここ数年は覚えがない。
暗鬱な日々がすっかり過去となり、入院生活が嘘のように楽しいものになった。
そして培養された眼球が予定通りの期間で完成して、ついに移植手術が行われたときにはすっかりと夏が近くなっていた。
7
「どうだい、視えるかい」
尋ねられた声に、僕は右の瞳を瞬かせた。
寝起きのように多少ぼんやりとしているものの、半年ぶりに感じる光が世界を彩っていた。
白い壁と床、ベッドのシーツ……そして目の前で注意深くこちらを観察している壮年の男性は、初めて見る顔だけれどその声は担当医のものだ。彼の背後には固唾を呑んで見守っている様子の両親が立っている。
「……はい」
震える声で短く答える。
ずっと闇色だった世界に――今、再びの光と色がある。
たったそれだけのことで、まさかこれほどに感動するとは自分でも思っていなかった。
生まれついての症状だったならばともかく、僕が失明していたのはわずか半年間のことだ。それも最先端の再生医療によって間もなく視力を取り戻せる……という希望付きの日々だった。
だから光を取り戻しても、心に響くものは再生医療の成功に対する医学生としての関心くらいだろう――と思っていたのだけれど、現実はそうではなかった。
視えるようになった光景が、溢れ出る涙で滲んでいく。
事故に遭って以降に他人を感じさせてくれるものは声だけで、視界はずっと闇に閉ざされていた。
闇は人を孤独にする。
たとえ恋人と再会し、共に過ごせるようになっても……心のどこかではその孤独がずっと残っていた。
それが今、光によって消え去った――。
自分以外の人間の姿を目で見て確認できる。
まさか、たったそれだけで……これほどの――まるでようやく世界に承認されたかのような――感動を覚えるとは、自分でも思っていなかった。
「問題はないみたいだね」
担当医が満足そうに頷いた。
途端にわっと集うのは両親である。僕へと口々におめでとうと言ったり、担当医に対してひたすら頭を下げたりしている。
すると医師のほうも笑いながら「息子さんの協力あっての成功です」などと頭を下げ返す。
すっかりお祭り騒ぎとなった病室のなかで、彼は空気へ水を差さないよう気を付けた様子で言葉を続けた。
「それに、まだ右目だけですから」
そうなのである。
今回の移植手術は右目だけのものだった。まだ僕の眼球は左側だけ詰め物の義眼になっている。
これは免疫反応などの術後の経過を観察するための処置だった。
当初から決まっていた予定であり、右目の状態が安定したのちに保管していた左目を移植する手筈になっている。
「さて」
両親と話していた担当医が、にこやかな顔で僕へと振り向いた。
「私はそろそろお暇するので、あとは存分に感動を分かち合いなさいな」
その声に、病室の扉がソロソロと開く。恐る恐る……といった体で顔をのぞかせるのは、最後まで外で待つと遠慮していた恋人であった。
8
久しぶりに視界へと映る彼女は多少痩せてはいたが、記憶のなか以上に美しかった。互いに涙交じりの抱擁を交わし、それぞれの親も含んでのささやかな祝会が病室で開かれた。始終に興奮しきりの僕らだったが、やがて夕食の時間になるころには体力を使い果たす。ずっと入院生活だったので体も大きく衰えていた。
両親や彼女が去り、看護師が運んできた味気ない食事をかきこめば、すっかりと眠気が襲ってきた。僕は食事のトレイを棚の上へと置くと、ベッドの上体を寝かせて瞳を閉じた。……
ふと気がつくと、僕は白い部屋のなかにいた。
先ほどまで寝ていた病室ではない。
どこだろう、と見渡そうとして、そこで身体が動かないことに気がついた。
金縛り――という言葉が脳裏に浮かぶ。
固定された視界はまるで水槽の向こう側をのぞきこんでいるかのようにぼやけている。
ややあって、本当にガラスで区切られているのだと気がついた。
一見して白一色に見えた部屋は、よくよく観察してみれば様々な物で溢れているようだった。
ただ、そのどれもがガラス製であるために天井や壁の白色ばかりが目立っているのである。
部屋は広かった。
そこにいくつかの金属の机が並んでいて、その上にそれら器物が置かれている。
そしてそれらの間を、右に左にと移動するものが複数あった。
その動き回っているものすら白いので、だから余計に白い部屋だと感じていたのである。
あれは一体なんだろう……と思っているところで、それがひとつこちらへと寄ってきた。
近づくにつれて段々と大きくなっていくそれに驚愕する。
それは巨人だった。
白衣を着た巨大な男が、目の前のガラス窓越しにこちらを見下ろしている。
防護服染みた格好だった。
マスクをしており髪もフードの中にまとめられているので人相はわからない。
ただ大きな眼鏡とその向こう側の瞳だけが見えた。
そして遥か頭上から落とされるその視線は、ひどく無機質なものだった。
まるで標本を観察するように、その男の巨大な眼球がぎょろぎょろと僕を見つめている――。
ハッと意識を取り戻した。暗い天井が目に入る。見渡せば、そこはもとの病室で、僕はベッドの上で転がったまま荒い息をこぼしていた。そばの棚からは夕食のトレイが消えていて、変わらず残っている電子時計が午前二時の時刻を薄明るく表示している。
そこまで確認して、ようやく夢だったのだと気がついた。
冷たい汗で体中が濡れている。
ただひたすらに、気味が悪い――そんな感情だけが糸を引くように現実世界へと侵食していた。
9
「それってさ、もしかして早く大学に戻りたい……って考えているんじゃない」
翌朝になって相談すると、恋人はウーンと唸ったあとにそう言った。
各々に朝食と問診を終えてから、僕らは病院の中庭にあるベンチで並んで座っていた。そばの花壇には向日葵が植えられていて、青い空とともに夏の風情を演出している。
「あなた大学じゃあ、よくそういう格好で実験室にいるんでしょ。深層心理でそれを懐かしがっているとか」
言われてみれば、思わずなるほど……と頷きたくなる推理だった。
「でも、なんで巨人なんだろう」
「知らないわよ。夢なんて不条理なものじゃないの」
僕はその言葉にまたもや、たしかに……と首を振った。
「それより」
彼女は身を乗り出すと聞いてくる。
「ほかに何か私に言うことはないの」
慌てて「退院おめでとう」と返した。
「ありがとう」
満足そうに座りなおす彼女を横から眺める。
あの春先の夜に僕よりも重傷を負っていたはずの彼女は、僕よりも先に退院することになった。
もはや彼女の身体には鈍った筋力のほかの異常はない。
若干のリハビリはまだしばらく必要ではあるものの、すっかりと健康体といって遜色ないほどに快復を果たしていた。
一時は不随に陥っていた片脚すら再生医療の臨床試験によって治っている。
大勢存在した被験者のなかでも、彼女ほどに幾つもの部位を交換した者は他にいなかったはずだ。それでいて大した副反応も見せずに、驚異的な回復力でどんどん元気になっていった。
おそらくは今回の試験における最大の成功例として記録に残るだろう。
「あなたは来月よね」
言う彼女に頷いた。
「今週が経過観察で、来週が左目。包帯がとれるのに一週間と、またそのあと一週間が経過観察だから……」
「あーあ、それじゃあ次のデートはまだ先か」
その言葉にどきりとした。
「見舞いに来てくれてもいいんだぜ」
「えー、だってあなたもう健康体じゃない」
眼球が破裂したほかは元々そこまでの重傷ではなかった僕もまた、今ではギプスも外れて杖なしで歩けている。
未だに入院しているのは、ひとえに臨床試験による経過観察の必要性からである。
「なんてウソウソ、来週には一度来るわ」
こちらの顔色を窺いながら、彼女はぺろりと舌を出した。
「でも、中庭以外の場所でデートしたいのもホント。……ね、あなたも退院したらどこか行きましょうよ」
「どこかって……」
僕は数瞬まごついて、
「どこ行きたいのさ」
「どこでもいいわ」
彼女は頭上を仰ぎ見た。
「空が壁に囲われたここじゃない、どこかなら。広々とした場所で、うーんと腕を伸ばして、ふたりで元気になってよかったねって笑って……」
つられるように空を見上げて、そこで僕の口から自然と言葉が漏れた。
「それならピクニックへ行こう」
彼女の顔へと視線を戻す。
「隣町に市立公園があっただろ。あの大きな原っぱの。行き帰りもアクセスがしやすいし、家族連れや僕らみたいなカップルしか来ない長閑な場所だ。あと……」
「リハビリにもなる?」
悪戯げに挟まれた言葉に口を閉じると、僕は頬を掻いた。
彼女は「うん」と言って頷くと、
「いいね。そうしましょう。お弁当は私が作るわ」
花咲くように優しく微笑んだ。
その顔を向けられた途端に、僕も口元が緩むのが分かる。
「それは楽しみだな」
「楽しみにしてなさい」
ふたり揃って笑い合い、また空を仰いだ。
蒼穹はどこまでも澄んでいて綺麗だったが、でもやはり病院の壁で区切られている。それが少し残念で、いっそうに退院後の約束が楽しみになった。
そうして穏やかな一日が始まった。
けれどその夜、僕はまた悪夢を見る。
10
微睡みのなかから浮上するようにして、ぼんやりとした意識がふと覚醒する。
僕はまた白い部屋のなかにいた。
身動きがとれず、視界も動かない。
ガラス窓の向こうを、白衣姿の巨人たちが変わらずに歩き回っている。
また同じ夢だ……と僕は思った。
彼女はこれを深層心理の願望が見せていると推理していたが、はたして僕はそこまで実験室を懐かしがっているのだろうか。
そして、なぜ巨人なのだ。
不思議に思いながらも、動けないのだからこの光景を見続けるほかはない。
やがて巨人のうちひとりが再び僕のもとへと向かってくる。
それを眺めながら思う。
相手が常識外に巨大だというだけで、なぜここまで恐怖を覚えるのだろう……。
近寄ってきた男は、相変わらず人相が分からなかった。
けれど一点だけ、前回の夢とは異なる点がある。
彼はその手に何やら器具を持っていた。
茶色い薬瓶と、ガラス製のピペットである。
どちらも大学で日常的に見かけていたものだったが、目の前のそれらは巨人の持ち物なので、やはり相応に巨大だ。
彼は僕と彼らを区切るガラス窓の前までくると、ピペットの先を薬瓶のなかへと入れる――そこではじめて、この夢には音が存在しないことに気がついた。
ガラス同士が触れたとき特有の聞き慣れた甲高い音……どころか、微かな物音すら聞こえない。
一切の無音が、ただひたすらに広がっていた。
男は薬瓶からピペットを抜き取ると、なにかの液が入ったその先をこちらへと向けて、そして――。
(え?)
ガラス窓より手前の空間が唐突に色づいた。
天井かどこかからガスが流れ込んできたのだ。
視界の上方から薄黄色のそれがふわふわと降りてきて……。
(いや、違う)
血の気が引いた。
これは気体というよりかは、液体だ。
無色の液体に有色の液体を落とすと、ちょうどこんな感じで混ざり合う……。
――その瞬間、気づきがあった。
ガラスの向こう側でのぞきこんでくる男を、ハッとして見つめる。
顔がマスクとフードで隠されたなかで、ただ一つ見える目元へ注意する。
不気味な視線を寄こす瞳の眦には、いくつもの皺があった。
そしてそれらを覆う巨大な眼鏡……磨き上げられた鼈甲のそれに、見覚えがあることを思い出した。
かつてテレビで流されていたインタビュー映像、何度も見かけたことのあるそれが脳裏で再生される。
そこで彼は、自慢げに、得意げに、自分たち研究チームの成果について説明を行っていた。
かつて映像越しに見ていた初老の男と、いま目の前に立っている巨人の男とが重なっていく。
(N大学のM教授……)
途端に頭の奥がガンガンと痛くなる。
(もしかして)
彼らが大きいのではなく……。
このガラスも窓ではない――。
(まさか)
――僕はいま、試験管のなかにいる。
11
目覚めの気分は最悪だった。
汗を浸み込んですっかりと冷たくなったシーツから体を起こし、頭を抱えた。
開け放された窓から夜の風が流れ込む。
「右目の記憶だ」
暗い病室にぽつりと漏れたその言葉が、僕の悟ったすべてだった。
12
「右目の記憶を夢で見る……?」
担当医の男が、呆気にとられた様子で復唱した。
「はい」
大真面目に頷く僕の顔をちょっと訝しげに眺めてから、彼は「はあ」と気の抜けた声を漏らした。
「本当です、いや、たしかにおかしなことを言っている自覚はあるんですが……でもほら、心臓移植手術なんかでもよく聞くじゃないですか。前の持ち主の記憶や嗜好を引き継ぐだとか……」
「あのねえ」
思わずといった風に言葉を挟んだ担当医が、慌ててわざとらしい咳ばらいをした。
そして周囲を窺ったところで診察室にいた看護師がそっと顔を背けた。それを見届けてから向き直ると、若干に潜めた声を出す。
「君が医学生、つまり私たちの同輩になろうと志している立場だからこそ言うけどね。そういう話はたしかに聞くことがある。でも、大抵は患者の勘違いや思い込みだ」
「思い込み……」
「そうだよ」
肯くと、彼は「失明の期間が長かったし、ナイーブになっている可能性があるな」と続ける。
「そういえば、いつだったか君が言ってた……なんだったかな。被験者としてとはいえ、……」
「……最新の再生医療へ関わることができて光栄です」
「それだ。今まで色々と想像していたのが、実際に移植が成功したのをきっかけにして夢という形で表れている……そんなところかもしれない」
一通り言ったところで、「ウン」とひとり頷く。
「結論すると、あまり気に病まないほうがいい。何事もね」
そうしてカルテへ視線を戻した担当医に、しかしと追いすがる。
「でも」
「……ウーン。そこまで不安を持っているとなると、どうするか」
彼の視線が僕の顔へと注がれた。
その行き先が左目の義眼であることはすぐに気がついた。
「来週の手術のことですか」
確信をもってそう答えるが、けれど彼は難しそうな顔で首を横へ振ってみせた。
「実は……、いや、本当は今日はこの話をするつもりで呼んだのだけどね」
一呼吸おいて、
「保管していた左目が傷んでしまった。大変に申し訳ない」
深く頭を下げた。
「え」と固まる僕の前で、白髪の目立つ頭が更に深く沈み込む。
「保管の過程で人的なミスがあったんだ。謝罪で済む問題とも思っていないが、……本当に申し訳ない」
「あの、わかりましたから……どうか頭を上げてください」
慌てて言ってから、「えっと」と混乱する頭を整理する。
「ということは……」
「来週の施術は中止となる。左目はまた新しくiPS細胞から作製していくことになるので、移植は早くても再び六か月後になる見通しに……」
そこで「もちろん」と彼は付け加えた。
「もし希望するなら……の場合となる。臨床試験には善意で参加をしてもらっているのだから、これ以上の施術に不安があるのなら拒否を示すことも可能だよ」
どうするかい、と尋ねられて……僕は言葉に窮した。
右目が見せる夢のことや、ここ数日の左目がない生活や、片目による距離感の狂いについてのこと……様々な思考が頭のなかで渋滞を起こす。
(僕はどうするべきなのだろう)
たしかなことを考えれば、今のところの実害といっても気分の悪い夢を見てしまうくらいである。それと実際的な生活での不便とを天秤にかける――。
どうせ夢だと頭の片隅で理性が囁いた。
「すみません。やっぱり施術をお願いします」
壮年の男が鷹揚な仕草で了解する。
「それじゃあ新しい左目を作製するために、改めて体細胞を採取させてもらっていいかい。うん、また血液でいい。さっそく今から採血してしまおう……」
13
ふと気づくと、白い部屋のなかにいた。
またあの夢だ。
右目の記憶……と頭のなかで呟いた。
たぶんここはN大学病院のどこかにある実験室なんだろう。
そこの机の上の、試験管のなかで培養されている小さな脳。
それが今の僕なのだ。
臓器もどきのようなものだ……と担当医は言っていた。
完全な眼球を回収するためだけにつくられたこの脳髄は、意識や思考が発生しないよう誘導して培養しているとも言っていた。
けれど実際のところ、右目にはこうして映像が記憶されていて僕の夢に現れている。
思うに、意識や思考が発生せずとも記憶はされるのではないだろうか。
かつて人工多能性幹細胞の発表によってオルガノイド技術が躍進を果たしたとき、脳オルガノイドもまた実験室に存在していた。
そのころの論文を読んだことがある。
脳オルガノイドから眼杯を発生させることに成功したという内容だった。
その当時にも人工多能性幹細胞を用いて直接的に眼杯を形成させる実験などはすでに行われていた。
けれど移植可能な眼球を適切に作製するには、やはり脳と接続されていて相互的に発達させなければならない。
それを確認するための実験だった。
結果として、酢酸レチノールの添加により眼杯が形成され、視神経が発達し、網膜や水晶体や角膜の組織が出現した。
そしてそれらが神経を通して脳と接続されていることも確認された。
発生した眼杯に光を当てたところ、脳内へと信号が伝達されている様子が観察されたという。
すなわちたとえ未熟な脳組織であろうとも、刺激があれば情報は走るのだ。
意識や思考を獲得するレベルには至っていなくとも、そうして伝達された情報は記憶として残留するのではないか。
眼球もまた脳組織の一部として、そうした絡繰りで記憶を保持しており、それが移植先の僕の脳へと神経を通じて転移しているのではないか。
変わり映えしない光景を眺めながら、そんなことをつらつらと考える。
そうしているうちに段々と意識が薄れていく。
夢のなかなのに、まるで微睡むようにして視界が彼方へと遠ざかっていった――。
14
「どうかしたの」
立ち止まった僕に、隣の恋人が問いかけた。
「いや……」
なにかを答えかけて、そこで僕はなぜここにいるんだろう、と考えた。
見覚えのある街中の一画で僕らは並んで立っている。
冷たい風が吹いて、ひゃあっと彼女がマフラーの内へと首をすぼめた。
その可愛らしい姿を見て、そうだデートの途中だったんだと気がついた。
「ごめん、なんでもないよ」
言って、再び歩き出す。
様々な店舗が軒を連ねる大通りには僕らのほかにも沢山の人が行き交っていた。
腕時計を気にしながら道を急ぐスーツの男に、いくつも紙袋を提げた家族連れ。
すれ違った学生風の若いカップルが、同じ柄の手袋で掌を合わせていた。
「また一歩、未来へ進んだね」
聞こえたその声にそちらを向く。
恋人が街頭テレビを見上げていた。
巨大な液晶画面のなかではアナウンサーの質問に答える初老の男。
「M教授か」
言ってから、あれと思った。
「同じ番組を繰り返してるんだな」
そしてまた、
「いや……臨床試験の結果が出揃って、成功だったから。いよいよ臨床応用へ踏み切るのかな」
ひとりで納得する。
隣を歩いていた彼女が唐突に話題を変えた。
「ねえ、次のデートはどこ行こっか」
「次のデート……」
それにふと、思わず零れた言葉があった。
「ピクニック」
そして言ったあとに、寒いのにピクニックはないなと気づく。
けれど彼女は「うん」と頷いて、
「いいね。そうしましょう。お弁当は私が作るわ」
花咲くように優しく微笑んだ。
15
今日も今日とて、同じ夢を見ている。
ガラスの試験管越しに、もはや見慣れた実験室を眺めている。
この夢は何回目だろうか……ふとそんなことを考えるが、よく思い出せなかった。
所詮は夢のなかなので、記憶や思考の精度に陰りが出るのは当然だろう。
気にしないことにする。
とはいえど、この右目の記憶も見続けているうちに段々と解像度が上がっていくような感覚があった。
はじめて夢で見た際には、もっとぼやけているところがあった。
それが今や、現実における視界と遜色ない光景になっている。
薄ぼんやりとガラスの器具……とだけ思っていた机上の備品たちが輪郭を固め、その名称どころかメーカーまで推測できるほどだ。
かつては気がついていなかった遠くの機械類も見えるようになった。
さすがはN大学病院、高価なものが導入されている。
ここまで現実感が伴ってくると、もはやどちらが現実なのか夢なのかわからなくなりそうである――胡蝶の夢というのだったか。
いやこの場合はむしろ、水槽の中の脳というべきか。
もちろん、こちらが夢だということはわかりきっているので冗談だ。
培養されている脳には感覚器が眼球しかないからだろう、この夢には音がない。
すなわち迫る現実感はあっても、臨場感というべきものは何もない。
退屈な夢だ。
なにより剥き出しの脳や眼球の記憶を追体験している、というそれだけで気味が悪いったらありゃしない。
はやく目覚めて欲しい――。
16
「ありがとう。ちょうど来てみたかったの」
対面の席で微笑む彼女に、僕も笑みを返した。
「このまえに雑誌で紹介されていてね。パスタがどれも絶品らしくて、あとカラマリのフリットが……」
ただレビューサイトで評判の店を予約しただけだったが、喜んでくれるのならそれに勝るものはなかった。
彼女が嬉々として情報を喋っているところに、先ほど注文した料理が届く。
給仕が来た途端に恥ずかしげに俯く顔が愛おしかった。
「それだけ楽しみにしてたのが、ほら届いたよ」
そんなことを言えば、キッと睨んでくる。
その所作すら可愛く見えるのは惚れた弱みというものか。
軽く謝りながらパスタを小皿に取り分けた。
二種のパスタをそれぞれ目の前に置いてあげれば、彼女の機嫌もあっという間に直る。
そこに折よくカラマリも届いた。
揚げたてで湯気が昇っている。
「美味しそうだ」
「でしょ」
再び会話を弾ませながら、温かい料理を食べていく。
やがて満足して退店すれば外はすでに夜だった。
ふたり肩を並べて歩道を歩く。
「今日はどうしようか」
言えば、彼女が悪戯げな笑みでこちらを向く。
「ね。よかったらさ、このあと……」
けれどその肩越しに、瞬間、目映い光と轟音が――。
17
白い部屋。
入院していたN大学病院の、そこのどこかにある実験室が視界一杯に広がっている。
僕は試験管のなかでそれを眺めていた。
(――どういうことだ!)
混乱していた。
これは夢か? 現実か?
はたして先ほどまでの世界は……。
激しく動揺するなかで、僕へと近づく影がある。
白衣姿のM教授だ。
隣に同じく研究員だろう若い男がいる。
彼らは僕のほうを指さしながら、何やら興奮したように口を開け閉めしていた。
(なんだ? なにを言っているんだ?)
音がないからわからない。
口元を注視しようとしても、読唇術のような心得は持っていなかった。
やがて若いほうの男が慌てた様子でどこかに去っていく。
残ったM教授が、興味深そうな眼差しで僕のほうへと更に寄ってくる。
なにかを確認するように僕の視界より外へと手を伸ばす――そのとき、部屋の電灯が照らす光が、きらりと彼の眼鏡へ反射した。
(あ……)
ガラスの水槽に浮かぶ脳髄と、そこから生えたふたつの眼球――。
それが僕の姿だった。
18
これはそういう夢なのだと思っていた。
移植された右目に残留している、ただの記憶映像なのだと信じていた。しかし、それ……その姿が実際に目に映ったその瞬間に、僕はどうしようもないほどに理解してしまう。魂が震え上がり、明瞭だった視界が遠くなる。
(これは――夢じゃない)
僕には電極がいくつか刺さっていて、それらが繋がっているコードの先には観測用だろう機械があった。
M教授はその機械のツマミを回すと、ひとつ頷いたのちに去っていく。
(――いつからだ?)
これまで一度たりとも経験したことがないほどの、言い表しようのない強い恐怖が心の底から沸き起こっていた。
(いつから、僕はこうだった――)
水槽の中の脳……かつての哲学者が提唱した、酷似した状況を示す思考実験が再び脳裏に浮かび上がる。今まで冗談として意識していたそれが絶望の化身となって黒々と世界を塗りつぶしていく。
(まさか最初から――生まれたときからか?)
存在意義が崩壊を始める。
悲観的な思考ばかりが暴走し……やがて恋人の顔が浮かび上がる。
(僕が存在しない人間であるなら、彼女も――)
激情が嵐となり、氾濫した絶望が心を呑み込んでいく――。
ところが発狂するその手前で、いや……とかろうじて冷静だった頭のどこかが否定した。
(知識がある。経験がある。これは僕が人間だった証拠のはずだ)
すなわち、ある程度以上に最近のはずだった。
そうであるなら……。落ち着きを取り戻し始めた頭のなかで考える。
心当たりは一つだ。
(再生医療の臨床試験……)
僕はそこで体細胞を提供し、その遺伝子からつくられた右目を移植した。右目には実験室の記憶が残っていて……それを僕は夢として見ていた。たぶん、たしかな記憶のはずだ。
だからこれも右目の夢だと思っていた。
けれどそれは違う。
それならば残る答えは、もうひとつしかない――。
(――僕は、左目だ)
19
ある種の線虫は学習記憶をウイルス性の遺伝子として包み、それを摂取や継承させることで同族たちへ伝達するという話を聞いたことがある。その事例は特殊な遺伝子を持つ固有種同士の間でのことらしいが、もしかしすると解明されていないだけで人間をはじめとする哺乳類にも存在する機能なのではないだろうか。
眼球と脳髄だけで構成された現在の僕は、人工多能性幹細胞から分化し培養された存在なのだろう。けれどその発生元を遡っていけば、それは本体というべき僕から提供された血液へとたどり着く。
――その血液のなかに僕としての記憶が封入されていたのではないか。
そんな仮説を立ててみる。そう考えると、すべての説明がつくような気がした。
いったい試験管のなかで、いつから僕が僕としての自意識を覚醒させたのかはわからない。いざ記憶を掘り起こそうとしてみても、どうにもあやふやなのだ。
おそらく、現在の僕はそれほど高性能な脳ではないのだ。元々の遺伝子に刻まれていた本体の記憶ばかりを繰り返し想起して、そのはてしない円環のなかで自意識のようなものを学習し獲得した……そんなところではなかろうか。
実際に本体の僕は移植した右目から記憶情報の転移を受けているようなので、左目用に培養された脳髄である僕が遺伝子から記憶を転写されたとしてもおかしくない。
(でも、ああ……よかった)
一通りの整理がついたところで僕は胸をなでおろした――いや実際には脳と眼球だけなのだから胸どころか手で何かをなでおろすことはできないけれど、比喩表現として扱うくらいは許してほしい。
ともかく、僕は安堵した。
(実在するんだな)
思い浮かべるのは恋人の顔だった。
現在の僕は記憶から再構成されただけの残滓かもしれなかったが、それでも彼女に対する感情だけは劣化がないのではと考えていた。
この愛情だけが、本物だった。
ふと本体の僕についても考えた。
あの日、改めて左目を培養するために二度目の採血を受けた男についてだ。
彼はその後どうしただろうか。
おそらく退院したのではないかと思う。右目の経過観察が終わったのちはただの健康体なのだから……半年後に左目が完成するまで、たまに通院する程度の体になるだろう。
そうなると、デートの約束は繰り上がったのかもしれない。
(羨ましい)
素直な気持ちが思考へ溢れた。
彼ばかりがいい想いをしている気がする。僕だって愛しているのに、まだ記憶のなかでしか逢えていない……。
そこまで考えたところで、気がついた。
再三に繰り返してきたが、本体の彼にはたしかに右目の記憶が転移していた。――ならば、左目の記憶も同様に転移するのではないか?
(あり得る話だ)
満足な気分になった僕は眠ることにした。
視界が良好ということは、眼球はおそらく完成に近い。
もしかすると次に目覚めたときには、もう本体へ移植された後かもしれない。
そうすれば本物の彼女に逢える。
(そうだったらいい)
それまでは、せめて夢のなかで彼女と過ごそう。
そして――次に目覚めたら、今度こそ。
壁のない広大な夏空の下で、緑の芝生をふたり並んで歩くのだ……。
眼球の夢――了。
[参考文献]
・「「目がある人工脳」を作り出すことに成功、視神経もあり光 を検知 - ナゾロジー」
〈https://nazology.net/archives/94840〉
(2021/09/11閲覧)
・「Scientists Grew Stem Cell 'Mini Brains'. Then, The Brains Sort-of Developed Eyes」
〈https://www.sciencealert.com/scientists-used-stem-cells-to-make-mini-brains-they-grew-rudimentary-eyes〉
(2021/09/11閲覧)
・「Brain organoids develop optic cups that respond to light」
〈https://www.eurekalert.org/news-releases/925127〉
(2021/09/11閲覧)
・「iPS細胞とは? - 京都大学iPS細胞研究所 CiRA(サイラ)」
〈https://www.cira.kyoto-u.ac.jp/j/faq/faq_ips.html〉
(2021/09/11閲覧)
・「脳オルガノイドの研究と臨床応用での倫理問題を体系化 ―今後の国際的な指針作りに向けて― - 京都大学iPS細胞研究所 CiRA(サイラ)」
〈https://www.cira.kyoto-u.ac.jp/j/pressrelease/news/210408-000000.html〉
(2021/09/11閲覧)
[謝辞]
貧乏学生という身分の都合により一次資料の論文(Gabriel et al.(2021)"Human brain organoids assemble functionally integrated bilateral optic vesicles")に関しては目を通すことができておりませんこと、そして人工多能性幹細胞ほか医療分野の知識に関して専門外であることを言い訳に俄か知識と想像によって補完していることを伏してお詫び申し上げます。




