第十七話 生き残るために必要ならば
九千五百のリアバルザ軍が木々が生い茂る小山を我が物顔で進軍していた。その歩みはシャルディーン軍がスキル使いを擁しているとわかってなお堂々としたものである。
リアバルザ軍所属のスキル使いの中で唯一中将に位置するドラガーナ=サーチフォールドの副官は送り込んだ斥候からの報告に耳を傾けていた。
「シャルディーン軍はこの先の草原に陣を敷いているようです」
「そうか。山という地形を利用した計略の一つや二つ仕掛けてくると思っていたんだがな」
その声音からは相手が何を仕掛けてこようが返り討ちにできるだけの自信に満ちていた。実際問題、高度な魔法技術を持つリアバルザ兵には例えば小山に流れる川の水を堰き止めておいて渡河中に解放して押し流す、木々に火をつけて火計を仕掛ける、程度の地形を利用した計略であれば蹴散らすことができるだけの力がある。
「まさか真っ向勝負……いいや、いかにスキル使いがいようともこれだけの兵の差は覆せない。必ずやエネルギー切れを起こして終わりだし、そもそも立ち去ったという話だ」
何が狙いだ? と副官の男は神経質に思考を巡らせる。力の差は歴然であり、負ける要素などどこにもないと誰もが判断するような状況でさえも油断することなく思考を巡らせるからこそ彼は今の地位にまでのぼりつめたのだ。
だからこそ、だろうか。
理論的に物事を考える男では見えないものもある。
ーーー☆ーーー
「マイ」
何もない──そう、何の計略も仕込まれていない──草原でのことだ。
真正面の小山を覆う木々の隙間から真紅の光が滲む。リアバルザ兵の鎧が光に反射して木々から鮮血が漏れているようだった。
王女が乗る馬車を守るように固められた本陣から飛び出し、軍勢の一番前に移動したグリュンメルト=スカーレットは馬に跨るマイに声をかけていた。
グリュンメルトを含む周囲の兵はすでに全員が馬から下りていた。何せ魔法を用いる戦闘において軟弱な馬など邪魔以外の何物でもなく、魔力や体力を温存するための移動手段でしかないからだ。
「はっきり言ってこのままぶつかって勝ち目はあると思うですわよ?」
「このままじゃ絶対勝てないっすね」
「そうですわよね」
結論から言えばこの場の誰もが数の差も力の差も理解していて、今のままでは僅かな勝算さえもないとわかっていて、それでもシャルディーン軍はリアバルザ軍を迎え撃つために出てきた。
副官の男は想像さえしていないだろう。
これ以上スカーレット領の民が殺されるのを阻止するためにシャルディーンに残された全兵力を勝ち目が見えていない戦に投入しているなどとは。
武器や魔道具、戦意が残っている兵などできるだけの準備は整えた。ベルゼにはベルゼの狙いがあるようだが、わからないものに縋って、言い訳にして、これ以上見捨て続けられるほどグリュンメルトは賢いフリなどできなかった。
いいや正確にはできていたつもりだったのだが──グリュンメルトの視線はマイの腕の中に収まる黒髪の女の子に移動していた。
憎悪の炎を燃やす女の子。
少し前に一兵卒の少女から話は聞いていた。
『こうなるとわかっていたつもりだったけどお、救えなかった結果を見せられると辛いものだよねえ』
彼女も詳細までは知らず、しかし容易に想像はできた。
リアバルザ軍にとって大切な人たちを殺された。その結果があの憎悪に濁る瞳なのだ。
もうこれ以上は無理だ。
できるだけの準備は整っていて、なお、ベルゼを待つような時間などありはしない。そんな言い訳でこれ以上の悲劇は容認できない。
理路整然と、損得勘定のみで思考を回せたならばとっくに逃げている。ここまできて残っているような連中が定説や常識で歩みを止めるわけがない。
「勝ち目がないとしてもですわよ」
だから。
「賢いフリをするのはもう終わりですわよ。戦わない理由をいくら並べられようとも、たった一つの戦う理由があるならば我らは剣を掲げて突撃するのみですわよ」
「そういうもんっすか」
移動手段としての馬から下りることなくあっけらかんとマイは返した。そこにどんな感情が乗っているのかついぞ読み取ることはできなかったが──
「貴女も共に戦ってくれるのですよね?」
「そうっすね」
「それはありがたいけど、その子まで巻き込むつもりで? 貴女が強いのは滲み出る力の波動からわかりますが、その子には戦う力などありそうに見えないですわよ?」
「本人の希望っすからねー。大丈夫、わたしのものくらいわたしの手で守るっすから」
言いたいことはあったが、グリュンメルトは思い直して肩をすくめるだけに留めた。グリュンメルトたちと同じで、言葉で止まるような人間はとっくに逃げている。
できることなら死んでほしくはないが、ここまでくれば彼女たちの運に任せるしかないだろう。
「それよりっすよ。戦争って兵の士気を上げるのが大事っすよね?」
「それは、もちろんですわね」
「だったらうってつけがいるんすからじゃんじゃん使うべきっすよ」
言下にマイの右手が宙を薙ぎ、その軌跡に沿う形で空間が裂けた。
その裂け目には黒い何かが覗いているかと思えば、そこから純白ドレス姿の銀髪碧眼の女が飛び出してきたのだ。
「きゃあ!? なっなんですか!?」
雑にマイに片手で受け止められたフィリアーラ=シャルディーン王女は訳もわからず目を白黒させていた。
グリュンメルトは僅かに目を細めて、
「マイもスキルを使えたのですわね」
「まあねっす」
「しかし瞬間移動とは便利なスキルですわね。もう少し早く教えてもらえたのならば民の避難やリアバルザ軍への奇襲に使えたのですが」
「ん? 瞬間移動じゃないっすよ?」
王女を馬に乗せたマイは黒髪の女の子を腕に抱いて馬から飛び降りながらこう続けた。
「強欲。簡単に言えば『奪う』スキルっすね」
びくっ!! と王女の肩が跳ね上がったが、幸か不幸か誰も気づいていなかった。
「奪う?」
「そうっす。物品、生物、情報、とにかく効果範囲内にあるあらゆるものを『奪う』──つまりわたしの手元に持ってくるためのゲートを生み出すという効果なんすよ。あくまでどこかからわたしまでの一方通行だからグリュンメルトが望むような使い方は難しいっすね」
王族が貯め込んだ金目のモノを城から盗み出したのも、リアバルザ兵の首を抉り取ったのも、そしてシャルディーン王族の死や追撃部隊が襲う予定の村の特定などの詳細な情報まで望むがままに『奪う』ためのゲートを生み出す。それがマイのスキルである。
……あくまでゲート──真っ黒な空間の裂け目のようなもの──を生み出すまでであり、そのゲートを避けるなりすれば『奪われる』こともないのだが。
付け加えるならば宝物庫で金目のモノを『奪う』まで時間がかかっていたように、より多くのものを一度に『奪う』ためのゲートを開くには相応の時間が必要である。
「そんなことより、せっかく王族が同行しているんすから士気高揚のための演説でもお願いっす」
「え、え???」
シャルディーン軍のやや後方に位置する本陣でせめてベルゼが戻ってくるまでは敵兵から自分を守っているようにと祈っていた王女はいきなり最前線まで放り込まれたことにパニックになる寸前だった。
それでいて頭の片隅で現在自らが置かれている状況を(なぜこうなったなどの余計なものは省き、必要不可欠なものだけを取捨選択して)整理できているのは腐っても王族の一員であるからか。
お飾りにはお飾りの経験がある。
外面だけしか求められてこなかったが、逆に言えば外面は王族らしくあれと求められてきたのだから。
「……グリュンメルトさん。リアバルザ軍と激突するまでまだ猶予はありますか?」
「そう余裕はないですが、王女様が話す時間くらいはあると思うですわよ」
「そうですか」
王女は一つ頷き、表情だけでも凛々しく見えるよう調整して、(マイが自然とセッティングしていたので)馬の上から千のシャルディーン軍を見渡していった。
突然の王女の登場に兵の視線が集まるのを確認した王女はこう口火を切った。
「皆さま。しばしわたくしの話を聞いてくださいませんか?」
おそらくマイが風系統の魔法で空気の振動率を底上げしたのか、王女の声は指向性を伴ってシャルディーン軍を覆い尽くすように広がっていった。
「わたくしはこの国の王女です。今では唯一生き残った王族ということにもなりますわね」
貴族としての地位を利用して成り上がった今は亡き将軍たちと違って、己が実力でもって将軍の地位を手に入れたグリュンメルトの軍だからなのだろう。身分に関係なく実力がある者だけを取り入れた兵の多くが平民であるのは有名な話だ。
ゆえに王女は『今だからこそ言えますけど』と繋げて、
「我がシャルディーン王家の行いは決して褒められたものではありませんでした。貴族贔屓の政策に平民に対する過度な税によって一部の特権階級のみが贅沢を許容できるよう、この国を支配してきたのですから」
まさか王女の口から王族を非難するような言葉が出るとは思ってもみなかったのだろう。困惑したようなざわめきが湧き上がる。
しばらくそのざわめきを耳にするように言葉を止めた王女は、兵の様子を観察しながら頃合いを見計らって口を開いた。
「それらは長きに渡るシャルディーンの歴史において恥ずべき汚点です。そんな汚点を、父上たちの横暴をわたくしは王族でありながらただ見ていることしかできませんでした。お飾り王女。そう揶揄されるほどに無力でしたから」
王女は一人一人の兵の顔を見渡すように顔を巡らせ、そしてこう言い放ったのだ。
「そう、わたくしには力がありません。こうして侵略者が我が国の土地を踏み荒らし、愛すべき民を蹂躙していても、わたくしの手には守るための力がないのです」
果たしてそれは錯覚だったのか、と思わせるほどに短い間ではあったが、王女の目元が光ったのを多くの兵は目撃した。
風に散った微かな涙を振り払うように王女は叫ぶ。
「ですから、強大な敵に立ち向かう覚悟を決めた誇り高き皆さまにこそわたくしは望みを託します! 国ではありません。この国に住む民を救うために皆さまの力を貸してください!!」
それはゆっくりと、だが確かにシャルディーン兵の心に響いていた。やがてそれは熱を持ち、体内を荒れ狂う激情と化す。
「どうか、どうかお願いします」
王族が、普通なら決して手が届かない天の上の存在が多くの平民が集う軍に向かって頭を下げていた。
それが決め手だった。
おおおおおおっ!! と大爆発を起こすようにシャルディーン兵が咆哮を炸裂させたのだ。
ある者は槍を掲げて、ある者は両手を突き上げて、ある者は喉が裂けんばかりに声を張り上げて、各々の中に巡った激情を示していた。
王女の本性の一端を覗き見たはずのグリュンメルトでさえも頬を赤くして『必ずやリアバルザ軍を蹴散らしてみせるですわよ!!』と叫んでいるくらいだ。
士気高揚。
そのために呼ばれたから、やれるだけのことはやった。
ゆえに頭を下げた──万が一にも誰にも顔が見られない状態の王女の頬はぴくぴくと強張っていた。
(少しでも勝率を上げるためなら演説の一つや二つしても構いません。ええ、それくらいやってあげますとも。……もう何もありませんよね? でしたらさっさと安全な後方まで早く戻してくれません? こんな最前線に連れてこられた状態でリアバルザ軍とぶつかったらわたくし普通に死にますからね!?)
演説の内容などすでに忘れていた。
お飾り王女。
その場に必要な『外面』を完全な精度で出力することを求められてきた。ゆえにその手の技術は高い。今回は士気高揚のために必要なことを必要な分だけ行ったというだけだ。
本音は『勝敗とか国の存亡とかどうでもいいからわたくしだけは死なないよう何とかしてください!!』 というものだったりする。
(まだ帰ってこないんですかベルゼさん!? 早くしないと戦争始まってしまいますよ!? うう、リアバルザ軍への手土産として確保される危険があったとしてもグリュンメルトさんの居城にいたほうが良かったんじゃないんですかこれえ!?)
内心泣き言三昧の王女であったが、顔を上げた時には気高く悠然と微笑んでいるのだから、外から見た限りでは本音に気付ける者はそういないだろう。