第十六話 敵討ち
シャルディーンの隣国メディの国王は内政においては優れた才覚を発揮していた。慈悲深き王とも呼ばれていることから彼がどれだけ民に寄り添った政策を打ち立ててきたかはわかるというものだ。
そんな彼に欠点があったとすれば、
『ルリアさん、ちょっと散歩に行きませんか?』
『またかえ? 息抜きにしてもあまり城から抜け出していては宰相辺りがストレスで禿げるであるぞ』
『あれはいい加減スキンヘッドにでもしたほうがマシじゃないか?』
そう呟くソージア王の口元は普段の穏やかな笑みと違い、どこか楽しむような色が乗っていた。
そんな彼の素顔に国王直属騎士団騎士団長にして彼が生まれる前からこの国に仕えてきたエルフたるルリアは呆れたように首を横に振る。
賢王も一皮剥けば人間らしい顔が出るものだ。そんな顔を恐れ多くもルリアにだけ見せてくれることに内心嬉しく感じてはいたが。
『メディ最強の騎士が護衛としてついていればちょっと抜け出したって何の問題もないと思うんだが』
『そう買い被るものではないである。それにいい加減胃痛でどうにかなりそうだと良い年した宰相に泣きつかれるのは嫌なのだが』
『そう言わずに頼むよ』
な? と拝むように頼まれては断れるわけもなかった。
剣術指南役として幼い頃の彼と知り合って数十年、国王直属騎士団騎士団長となった今ではルリアにとってソージアは息子のような男だった。
『仕方ないのう』
まだ百年かそこらしか生きていない、エルフの中では若輩者であるルリアでも人間との寿命の差について感じるものはある。
昔は若々しかったソージアも顔に皺が目立ってきたというのに、ルリアの外見は未だ若々しさを保っているその差が広がったらどうなるか。
別れは必ずやってくる。
ならばせめて後悔だけはしないように。
そう決意していたはずなのに、ルリアは致命的に間違ってしまった。
『話し合い? 馬鹿っ、軍を差し向けてきたリアバルザ相手に何を考えているのであるぞ!? これまでも散々話し合いを申し入れてきて、全てを跳ね除けられたからこそリアバルザ軍が目の前まで迫っているというのに!!』
『それでも、諦めたくない。誰も死なずに済む道を困難だからと諦めることは俺にはできない!!』
『ソージアっ!!』
力づくでも止めるべきだった。
理想と現実は違うのだと彼には諦めてもらうべきだった。
『頼む。俺の我儘、許してくれないか?』
『……ッッッ!?』
そう、ルリアは致命的に間違えた。
甘さと優しさを勘違いしていた。
『わかったであるぞ』
『ルリアさんっ!!』
『ただし! 向こうが対話に応じるならばである!! 無視されれば今度こそ諦めるであるぞ!?』
『ああ、ああっ! ありがとうな、ルリアさんっ』
『ふんっ』
どうしてもっと厳しくできなかったのか。
残酷なまでの現実を前に理想に酔っていた男を止めることができていれば、せめて息子同然だった彼だけでも救うことができていたかもしれないのに。
「団長、大丈夫ですか?」
「……問題ないのであるぞ」
身元を隠すように目立たない格好をした部下からの問いにルリアは静かに返す。
もう何度も繰り返した後悔だった。
これからだって死ぬまで何度だって繰り返すことだろう。
それは例え敵討ちを果たしたとしても変わることはないとわかっていたが──それでも『俺様も本当は殺し合いをせずともいいならそちらのほうが好ましい』などと囀り、話し合いに応じるフリをして、ソージア王を誘い出してから斬り殺したドラガーナ=サーチフォールドだけは生かしてはおけない。
ソージアの死体を踏み躙り、腹を抱えて笑ったドラガーナだけは。
ゆえに、どれだけ不利益があろうともただ一人彼女だけは白銀の鎧を白いマントで隠すことはあっても脱ぎ去ることはなかった。
「最後の確認であるぞ。何千もの兵が潜む首都から出てきたとはいえドラガーナの周囲には未だ五百ものリアバルザ兵がおる。それもおそらくは侵攻軍の中でも生え抜きの猛者であるぞ。対してこちらは負け犬が三百ほど。ドラガーナだけは殺すとしても、退避する間もなく他の兵に殺されるのは目に見えておる。ついでに言えば奴を殺したとしてもこの国を救えるわけではない。それでも、それでもである。憎きドラガーナだけは殺すために諸君の命を懸けてくれるか?」
返事は明白だった。
そう思える奴らだからこそ復讐に囚われた彼女についてきたのだから。
国王直属騎士団『ホワイトライガー』。
国王直属でありながら王を守れなかった負け犬たちは、しかしそのままで終わってやるほど人間はできていない。
「当たり前ですよ、団長」
「そうだっ。このままじゃ終われねえよ!!」
「ドラガーナのクソ野郎、ぶち殺してやろうぜ!!」
「……ああ、そうであるな!!」
正義はもうどこにもない。
そんなものは掲げるべき旗を失った時点で折れている。
それでも彼女たちは生きている。
生きているならば、できることもある。
「『ホワイトライガー』の意地、憎きドラガーナめに見せつけてやるであるぞ!!」
瞬間、魔力を温存するためか馬を使って森を真っ直ぐに貫く街道を走る五百のリアバルザ兵、その中央に位置するドラガーナ=サーチフォールドめがけて彼女たちは突撃した。
生い茂る木々に身を隠していた三百の『ホワイトライガー』が縦に伸びているリアバルザ兵たちを左右から挟撃したのだ。
「邪魔であるぞ!!」
勢いよく白いマントを脱ぎ去り、誇り高き白銀の鎧を晒したルリアの周囲の空気が渦巻き、数十もの砲弾と化す。ギヂギヂと軋むような音を響かせる力の塊を解放する。
「ガトリング・エアバースト!!」
ゴッバァ!! と耳をつんざくような轟音と共に中級の風系統魔法が横殴りの雨のように次から次へと襲いかかり、起爆。暴風がそこかしこで炸裂して馬ごとリアバルザ兵を薙ぎ払う。道を切り開く。
前述の通り五百のリアバルザ兵は森を真っ直ぐ貫く街道を走っていた。道幅はそこまで広くなく、つまりは軍勢は縦に長くなる形となっている。
その分だけ横の密度は薄く、左右から挟撃を仕掛けた『ホワイトライガー』は少数の兵を薙ぎ払うだけでドラガーナへと辿り着くことができる構図となっている。
チャンスはそう長くは続かない。
魔法によって森という障害物を粉砕するなり、空から襲いかかるなりすれば縦長の軍勢の脆さは即座に補うことができる。そうでなくとも二万対二万での戦争に呆気なく敗北したからこそメディは占領されているのだ。同数での勝負にすら勝てなかったというのに、数にさえ劣る現状に勝機などあるわけがない。
ゆえに、一点のみ。
奇襲、短期決戦にて東部侵攻を担うリアバルザ軍の総司令官であるドラガーナ=サーチフォールドを殺すことだけを目標と定める。
それだけは、必ずや果たす。
もう二度と後悔しないためにだ。
「ドラガーナッ!!」
風の爆発が兵を薙ぎ払う。
視界が広がる。
一際立派な軍馬に跨る二メートルを超える巨躯の男がルリアを見据えている。
「貴様だけは絶対に殺すであるぞ!!」
後先など考えない。そんなものはどこにもない。ゆえにルリアは全魔力をその一撃へと注ぎ込んだ。
ギュッオ!! と右手に空気が集い、透明な弓を形作る。そこに全魔力を込めた矢が番られていた。
上級魔法シルフィード・エアアロー。
伝説の『勇者』しか使えないとされる神域魔法を除けば最上位に定められる上級魔法の一角であり、メディ最強のルリアでも一発放つのが限界の必殺である。
対して。
小馬鹿にしたように鼻を鳴らしたドラガーナはこう告げたのだ。
「その鎧……なるほど。いいのか? どこかの愚かで哀れな無能のように話し合いをしましょうと媚びへつらわなくて」
「……ッッッ!!!!」
我慢の限界などとっくに超えたと思っていた。
そんなことはなかった。憤怒の臨界点は今この時にこそ。
「ぶっっっ殺す!!!!」
射出。
怒りを、憎悪を、込めて込めて込めまくった最大最強の矢は余波だけで屈強に鍛え上げられた天下のリアバルザ兵を吹き飛ばすほどであった。
A級魔獣を十でも二十でも串刺しにできるだけの一撃を前に余裕ぶっていったドラガーナの表情が驚愕に歪む。
「な、に!? これは……ッ!!」
回避する暇などあるわけもなかった。
直撃。炸裂。
圧縮に圧縮を重ねた矢の爆発は隕石の落着のように数十メートルものクレーターを生み出し、街の形を粉砕することができるレベルにまで達している。
その中心、まともに受けた人間がどうなるかなど語るまでもない。
「やっ、た……」
粉塵が立ち込め、結果は視認できない。
だが、その奥がどうなっているかなど考えるまでもない。
「ソージア。敵はとったであるぞ」
おそらく優しいあの男は敵討ちなど望んではいないだろう。だからこれは自己満足。もう二度と後悔しないためだけの行いである。
「いやはや、予想外にも程があるな」
だから。
その声が響くことはあり得ないはずだった。
「な、んで……」
引き裂く、歩み出る。
粉塵の向こうから現れたのは軍馬から下りてすらいない男の姿だった。
彼は元より、軍馬にすら傷一つついていなかった。
「俺様をあの程度の攻撃でどうこうできるなどと考えているとは驚くなというほうが無理があるわな」
「どら、がーな」
「まあ話し合おうだなんてキャンキャン吠える甘ちゃん王の部下なんてこの程度か」
「ドラガーナァァああああああああ!!!!」
力の差は、どうしようもなかった。
怒りも憎悪も、残酷なまでの現実の前には何の意味もなさない。
「はいはい。もういいからそろそろ死んでおけよ、負け犬が」
そして。
そして。
そして。
だんっ!! と。
それはドラガーナとルリアの間に割って入るように降り立った。
「……、え?」
遥か上空より降り立ったのはやけにどす黒い金髪の少女だった。
彼女はルリアへと目をやり、こう言ったのだ。
「あれは私が喰べるんだから、手を出さないで」
ぶ、ブゥゥゥンと無数の蝿が蠢くような異音が響く。どす黒い粒子を纏う長剣を右手に握る少女は天下のリアバルザ兵がひしめくこの世の地獄の中であってさえも表情すら変えていなかった。