タロット売りの夢
広い広い海のある大きな大きな街道をきいこきいこと荷車を引き親子が歩いておりました。親子というにはあまりにも似ていない、黒人で黒髪の父親と白人で白髪の子どもです。
父親の肌は髪よりも黒く、目も真っ黒で、あまり表情がありません。対して子どもは肌も髪も真っ白く、目は海の色をそのまま湛えたような淡い色をしています。表情のないところだけ、この親子はそっくりです。
「父さん」
白い子どもが荷車を引く父に声をかけます。父親は目線だけをすっと子どもに向けました。
荷車に括られた看板がかたかたと不安定に揺れます。その看板には[行商人カヤナ=ベル]と書かれていました。
「どうした、サファリ」
父親は深い木霊のような声を返します。子どもはそれまで無表情だったのが、微かに嬉しそうになりました。
「海、綺麗。見てきていい?」
「宿が取れたらな」
二人は旅の行商人でした。[ベルの行商人]と呼ばれています。何年か前までは黒人の男性だけで歩いていましたが、あるとき黒人の男性はサファリという男の子を連れるようになりました。黒人の男性について知る者たちは[この朴念仁に隠し子?]と大変驚きましたが、慣れない子育ての手助けをしてくれて、白い男の子はすくすく育ちました。名前はサファリと言います。
サファリが旅に同行するようになってから、黒人の男性はそれまでより優遇されるようになりました。この世界は黒人差別が根強く、男性が一人で旅をしていた頃は街のどの宿にも入れてもらえず、路地で寝転がって過ごすことも珍しくはありませんでした。
サファリを育てていく上で、温かいベッドのある宿を取れるようになったのはとてもありがたいことでした。赤ん坊は路地なんて冷たいところで寝かせていると、翌朝には冷たくなっていることもあるのを男性は知っていましたから、いくらか優遇されるようになってほっとしていました。
サファリはすくすく育ち……といっても、同じ年頃の子に比べると体躯は小さいのですが、頭の回る利口な子に育っています。白すぎて今にも消えてしまいそうな儚さを宿す子どもですが、しっかりと自分の足で、男性が踏みしめたのと同じ大地を踏みしめるようになりました。
サファリは自分で歩くようになってから、目新しいものによく興味を示すようになって、この間なんかは、森の中で見つけた虹色の虫を追いかけ回しておりました。けれど無我夢中になるのではなく、ちゃんと所々で立ち止まって、お父さんこっち、と男性を手招くのです。
サファリは母親の顔を知りません。父曰く、サファリは母親似なのだそうで、母はきっと白人で、白い髪をしていて、海のようでいて淡い碧色の目を持つのだろう、とサファリは思っていました。けれど、母親がどんな姿をしていようと、サファリは興味がありません。サファリを赤ん坊の頃から大切に大切に育ててくれたのは黒人のお父さんなのです。
幼いながらに、サファリは黒人差別というものをうすらと理解していました。街に入るたびに、父の姿を見て人がどよめき、ひそひそこそこそと「黒人よ」と言い合っているのを見かけます。サファリはそれを見るのが苦手でした。
けれど、サファリはその容姿を生かし、父がいくらでも有利になるように、と人々におべっかを売っていました。サファリには力がありません。父のように荷車を引いて街から街へ歩き続けられるほどの体力がありません。商いをしようにも年齢から侮られてしまいます。知識を学んではいますが、まだ大人の知恵には届きません。それでもサファリは父のためにできることを、と思い、現在自分が一番使える容姿を駆使して、人に取り入るのです。
父はそのことをあまり良く思っていないようでした。サファリが食べ物をもらってきても、宿を見つけても、父はサファリを褒めませんでした。一人で歩き回るのは危ないからやめなさい、というばかりです。
現実というのはなかなか厳しく難しいもので、サファリが父のために動くことが全部父のためになるとは限らないのです。受け取りようによっては[黒人が白人の息子を利用している]ように見えて、結局[卑しい]とされる場合もあるのだとサファリは知りました。
人間ってなんて面倒くさい生き物なのでしょう。
そうサファリが思い詰めたとき、父はサファリの頭をそっと撫でて、こう語ってくれました。
「サファリ、お前は俺のことで悩むのではなく、自分のために悩みなさい。自分のために能力を使いなさい。恩返しなんて考えなくていい。サファリが傍にいてくれるだけで、俺にとっては大恩なくらいなんだ。自分のために生きなさい」
自分のために生きる。それは幼いサファリには難しいことのように思えました。
けれど、人とすれ違っていく中で、その言葉の意味がだんだんと咀嚼できるようになってきた気がします。人はいつか親元を離れて独り立ちするか、親の代わりとなって働き、親を支えるかしなければなりません。そんなとき、自分のために動く力は、自分が一人でも立っていられる力になるのです。
サファリはどちらになりたいか、というと、今のところ父の傍から離れることが想像できなかったので、親の代わりになって働き、親を支えていく方になろうと考えていました。
これから先、父が老いていく中で、自分が父から離れてしまったなら、いくら一人旅時代が長いからといって、黒人であることは変わらない父は絶対に苦労します。
黒人であるというハンディキャップを越えて、人と商いのやりとりを堂々とする父のことをサファリは尊敬しています。とても敬愛しています。父がどれだけ後ろ指を指されても、怒ったり、憎んだりしない人間であることを誇りに思っています。
人種差別なんて、なくなればいい、というのは当然ですが、父のように黒人そのものが胸を張って堂々と生きる姿勢を見せることこそが重要なのではないか、とサファリはいつも考えます。
宿を取って、海辺の道を散歩して、隣を歩く父は、夕焼けを眺めながら「綺麗だな」と言います。
サファリが「ほんとだね」と返すと、幸せそうに目を細めます。そんな時間がサファリは大好きです。
肌が白かろうが黒かろうが、海や夕焼けを綺麗と思う気持ちに違いなんてありません。夕食のスープを温かい、美味しい、と思うのも同じです。肌の色なんて、些細なことなのです。
明日も明後日も、この幸せが続きますように、と願うことまで、みんなみんな同じなのです。
夕食を食べ、ベッドに寝転がると、父の方からサファリに話しかけてきました。
「明日はこの街の地主さまの家に約束の絵画を届けに行く日だ。朝早いが、早く起きられなくても大丈夫だからな」
「ううん。僕は父さんについていくよ」
「そうか」
サファリがベッドから落ちないように、外側に背を向けて横になる父は柔らかな表情で、サファリの髪をさらさらと撫でました。大きくて少し武骨な手。その手がサファリは大好きでした。
父は言葉では褒めてくれないけれど、頭を撫でてくれるとき、とても褒めてくれているような眼差しで見つめているのです。そのことが嬉しくて嬉しくてたまらなくて、サファリは目を瞑って笑うのでした。
さら、さら、と頭を撫でてくれる父の手が心地よくて、サファリは幸せに浸っているうちに、いつしか眠りに落ちていくのです。
さら、さら。
なんだか気持ちいいな、と思っていましたが、サファリの髪を撫でる手は細く、繊細な指をしていました。すぐ、父のものではないことに気づきます。
けれど、それがぴた、と止まると同時、軽い空咳が聞こえて、サファリははっと目を見開きました。
サファリの父は病気にかかってから、空咳をすることが多くありました。呼吸もままならないような止まらぬ咳。それだけで死にそうで、とても怖かったのを思い出し、サファリは鳥肌が立ちます。
ば、と起き上がると、ジェニファーとサファリの眠るベッドの傍らにはジュリーが座っていました。口元を押さえて、こほこほと咳を繰り返しています。
震える肩が、生前の父のそれと重なって、サファリは胸がざわりとしましたが、すぐ、自分にかけられていた毛布を手に取り、ジュリーの肩にかけました。それに気づいて、ジュリーがサファリを見ます。
ジェニファーと同じ温かい色の目をしたジュリーは、サファリに申し訳なさそうに目配せをしました。
サファリは首を横に振ります。
「きちんと休んでください。雪の日は冷えますから、温かくして……」
「はい、はい、ありがとうございます。……あのですね。ちょっと懐かしくて」
ジュリーが少し照れたように笑います。
「懐かしい、ですか?」
「ええ、昔は主人が、サファリさんみたいにジェニファーに寄り添って寝ていたものですから。あの人はちょっと過剰なくらいに娘のことが好きでしたけど、ちゃあんと、親としての愛をあの人なりに注いでいたんだって、私は知っていましたから……こほこほ」
愛しいものについて語る母親の背を、サファリはさすりました。サファリには母親がいませんでしたが、きちんと家族を思いやれる母親を自分の父と重ねていました。
「すみませんね。起こしてしまいましたね。ゆっくりお休みください」
「はい。ジュリーさんも、ご無理なさらず」
気の優しそうなこの母親が、無理をして死んでしまわないか、サファリはほんのり不安になりました。
温かい夢のままの日々が、明日の朝日が昇っても地続きであるよう、願いました。
なんでもない毎日が続くことこそが幸せなのだと、サファリは知っていましたから。