タロットでかわす宗教勧誘
大きな大きな街の中、広い広い大通りにて、綺麗な綺麗な女の人が、導かれるようにある出店へと向かいました。そのすたすたという足取りは確固たる意思を持って運ばれます。
女性が立ったのは[行商人サファリ=ベル]の看板がかけられた店の前です。看板は古いもののようで、木が深い色をしています。レトロな雰囲気の看板ですが、一つ不自然なところがありました。
何を隠そう、看板の看板と言える文字の部分がおかしかったのです。[行商人サファリ=ベル]の[サファリ]の部分は木目ではなく、ペンキで無理矢理塗り潰した跡がありました。木の変化とペンキの劣化は当然違う素材ですから、様相が異なります。
そんな不自然さが気になると、人はついつい看板を見に寄ってしまうものですが、ローブを纏う女性は看板に寄せられたわけではなさそうです。
「もし」
女性の涼やかな声が、小さな出店のテントの下で響きます。奥で椅子に腰掛けていた店主が出てきました。
雲を思わせる白髪、波のように揺らめく碧と翠を交えた色の目は海よりも広大でありながら、顔の中に島のように佇んでいます。血が通っているか疑わしくなるほどの白磁の肌は作り物のよう。まるで巨匠の彫刻のように整った出で立ちの少年。彼こそが[行商人サファリ=ベル]でした。世界を股にかける有名人です。
女性はその類稀なる美貌に目を奪われましたが、何故か悲しげな顔をします。
「いかがいたしましたか? 僕はこの店の店主のサファリと申します。普通の店より値は張りますが、品揃えには自信がありますよ。どのようなものをお求めですか?」
すらすらと客寄せ文句を述べ、天使さえも眩むような微笑みを浮かべるサファリですが、どうも女性の様子がおかしいです。
どうしたのだろう、とサファリが一歩、女性に歩み寄ると、女性はぱっとサファリの両手を取り、包み込みました。そこには慈愛の情が浮かんでおります。
「ああ、なんということでしょう。あなたのようなお若い方が、旅の行商だなんて」
その言葉にサファリが顔を曇らせます。
「旅の行商[ベルの行商人]という看板は父から継いだ僕の誇りです。勝手に悪いもののように扱わないでください」
「そんな、家業を継ぐだなんて、古い考え方に囚われているだなんて、哀れな……あなたのような若い方はもっと自由であるべきだわ」
女性の言い分に、サファリは愛らしく首を傾げます。
「僕はこの世で最も自由ですよ。自分の意志で旅をして、様々な人と交流するのです。父を早くに亡くしましたが、それと引き換えに僕は旅路の自由を得ました。これでもあなたは僕を不自由と仰いますか?」
「お父様を亡くしておいでで……お悔やみ申し上げます」
サファリはなんだか妙な心地になりました。この女性、何やら話が噛み合いません。話がどんどん変な方向へ向かうような兆しに見えました。
そして残念なことに、サファリの思う兆しは当たることになります。
「若くして多大な苦労を負ってきたから、このような白髪なのですね」
「この白髪は生まれつきです。母譲りだと父から聞いています」
「なんということでしょう。親子揃って苦労の多い人生だったのですね」
「いえ、母のも生まれつき……」
「ちなみにお母様はご存命でらっしゃるの?」
「母は父よりずうっと前に他界しております」
「なんてこと……」
突っ込みたいことは山ほどあるのですが、目の前の女性がわっと泣き始めてしまったので、さしものサファリもたじたじとします。
「わたくしがもっと早く、あなたを見つけていれば……神のご加護によりて、あなたのご両親にも救いを与えられましたものを……」
「いや、両親が亡くなったの、結構前の話なのですが……」
「若ければ一年や二年、遥か昔のことのように感じてしまうことでしょう。ああ、あなただけでも我が神の御元で救いを賜りましょう」
サファリがああ、と思います。どうやらこの女性、宗教勧誘に来たようです。
サファリは珍しい見目の子どもです。見た目より年嵩はありますが。年嵩など、宗教勧誘においては些事であります。サファリの友人にして虹色に変化する目を持つタロット絵師のツェフェリは、かつていた村で[虹の子]と物心つく前より奉られておりました。
世界には[宝石色の子]と呼ばれる宝石のような綺麗な目を持つ稀子が存在します。稀子は不思議の力を持ち、それを人々は[神の寵愛を受けた]と考えるのです。遥か来たに座す街の地主、ハクアがそうですね。ハクアは紫水晶の目を持ち、狩人である半面、占い師としてもその名を馳せています。
けれど、世界には[宝石色の子]以上の稀子というのは存在するもので、そのうちの一つ[大海の子]というのがサファリの容姿に該当しました。白髪に海を思わせる目が特徴なのだそうです。尤も、稀すぎて廃れつつある伝承ですが。
それでもサファリは一目見れば釘付けになってしまうような不思議な魅力を纏っています。すれ違えば年頃の乙女は誰もが振り向く造形美。細波のように儚くいて、しっかりと耳に残る印象深い声。ただそこにいるだけで荘厳なオーラを感じられる立ち姿。それだけで彼が[特別なもの]なのは明白です。
[特別なもの]を人は上に据えたがります。宗教なんかは特にそうです。だからこそ特別な目を持つツェフェリは村で奉られたのですし。
けれど、サファリは年端もいかぬ子どもではありませんし、ただの行商人でもありません。父から継いだものではありますが、今でも[ベルの行商人]の名を世界中に轟かせているのは、間違いなくサファリの力によるものです。
この女性の涙が演技だろうと本気だろうと、サファリには関係ありません。サファリの信じるものはもう決まっています。今更、神にすがる必要なぞ、ないのです。
その[信じるもの]をサファリはウエストポーチから取り出しました。オレンジから紅へのグラデーションが美しい夕焼け色のカードケース。その中から現れたのは夜空のような星の煌めきに彩られた二十二枚のタロットカードでした。
「ご婦人、僕の身の上を慮ってくださり、誠に感謝いたします。ですからどうか、涙をお拭きになって」
ウエストポーチから取り出した淡い青色のハンカチで、サファリは女性の涙をそっと払います。女性はぱっと潤ませたままの目をサファリに向けました。潤んだ瞳が光を返し、湖面のように揺らめきながら、大きく見開かれます。
それもそうでしょう。突然泣き出した女性にたじろいでいた少年はもうそこにはいません。ハンカチを下ろした手首についたブレスレットがしゃらり、と鳴ります。それが少年の印象をより崇高に、より神秘のものへと高めていきます。息を飲むほどに美しい。いえ、[美しい]程度の形容では足らないほどのオーラをサファリは惜しげもなく放っておりました。
サファリの紡ぐ言葉は海鳴りのように女性を包みます。
「けれど、僕は神の恩恵を受けなくとも、充分に幸せ者です。あなたのように麗しく、心根まで美しい御方に思っていただき、涙まで流されるのですから。
僕には信じる神はおりませんが、一つ、確信があります。──あなたこそが、神の救いを受けるべきだ」
「え」
思いも寄らぬサファリの言葉に女性は呆気にとられますが、サファリがばらり、とタロットを広げたことにより、その所作に気を逸らされ、魅入ってしまいました。
広げられた裏向きの二十二枚。サファリはそれを示します。
「この中から、一枚選んで引いてください」
「……はい……」
細波のように囁く声のままに、女性の手は迷いなく一枚のカードを選び取りました。そのカードに描かれているのは、跪く二人の信徒に救いの手を差し伸べる[法王]の姿。
「タロット占いの[一枚引き]です。それはタロットナンバーⅤ[法王]のカード。[法王]が示すのは精神の寛大さ。けれど裏を返すとあなたは視野が狭くなり、狭まった選択肢の中、何を選び取ればいいのか、悩み苦しんでいます。ほら、あなたが取った[法王]のカードは逆さの向きでしょう。これは逆位置といって、タロット占いにおいて主に悪い意味を示唆するものなのです」
視野狭窄。それは知れず人を苦しめるものであり、サファリは、それに陥っていると女性に指摘しました。
女性はサファリの言葉一つ一つが力強いため、すとん、とその論理が内腑に落ちていきます。
「つまり、あなたこそが神に救いを求め給るべきなのです。敬虔なる祈りがあれば、あなたの神はあなたを救いたまうことでしょう」
「ああ、ありがとうございます」
女性はサファリに深く頭を垂れました。いつの間にやら立場が逆転していることには何の違和感も抱いていないようです。
「さて、このタロットを作ったのと同じ作者、ツェフェリのタロットがあります。きっと神も気に入り、あなた方をこれからも導いてくださることでしょう。少々値は張りますが、銀貨三十枚でいかがでしょうか」
「ですが、神へのお布施が……」
「では、このタロットを神へのお布施として捧げるのはいかがでしょう? 神の精霊に愛されし子の作りしものです。きっと神も金銭よりお喜びになるにちがいありません」
妙に説得力を感じられる言葉に、女性は銀貨を三十枚、差し出しておりました。ありがとうございます、と女性は深く感謝を述べ、去って行きました。
女性の姿が見えなくなり、サファリがふう、と息を吐くと、サファリの手元から、理知を宿しながら、どこかむっとした声が聞こえます。
「サファリ様。また口八丁で女性を言いくるめましたね」
サファリを窘めるのはタロットカードナンバーⅡ[女教皇]です。その声にサファリは肩を竦めました。先程までの壮絶なまでの神秘はどこへやら。サファリは剽軽な様子です。
「方便ですよ、方便。目には目を、というじゃありませんか。宗教を宗教的観念でもって制しただけですよ」
「何を仰いますか」
敬語でありながら、[女教皇]の声は棘を孕んでおりました。
「サファリ様が使ったのは奇術の手法の一つ。マジシャンズセレクトでございましょう。最初から彼女に[法王]を引かせるつもりでカードを広げたのです」
[奇術師の誘導]。それは引かせたいカードのところだけ、僅かに他のカードより広げることで、目的のカードを引かせる手法です。サファリのあれは、占いでも神の導きでもなく、徹頭徹尾、サファリの思い通りに仕組んだものなのでした。
一見卑怯な手法を相手に気づかせないで利用する手並みは本物です。それから言いくるめてしまう口八丁も。口八丁はサファリが商人を続けていくうちに身につけたものですが、こうも上手く占いにも溶け込ませる手腕は見事としか言い様がありません。
「それに、容姿を利用して、女性を虜にするのはいかがなものかと思いますよ。ほら、[法王]、あなたはサファリ様に利用されたのです。何か言ったらどうですか」
そんな[女教皇]の険しい口調に、[法王]は荘厳でありながら、のんびりとした口調で語ります。
「けれど、救いの必要な者を救いに導くのは正しきこと。感心である」
「あーっ、もう! [法王]は寛容すぎますわ! 方便にされたのですよ!?」
[女教皇]と[法王]がぎゃーすかびーすかと言い合ううちに、今度はちゃんと、店の客が来たようです。サファリはすぐに何かご入り用ですか、と対応するのでした。