タロット売りの珈琲休憩
ランドラルフの診療所は年中無休です。何故なら、この広い北の街にお医者さまはラルフしかいないからです。
「この老い耄れにも後継が欲しいのう。そういう意味ではあの勤勉そうな[ベルの商人]が亡くなったのは非常に惜しいことじゃった」
いつ患者が来るかわからない診療所ですが、患者がいない、空いている時間はゆったりと過ごしています。いつ患者が来るかとずっと気を張っていては身が保ちませんからね。
そんなラルフの向かいで、にこにこと微笑んでいたのは、そこにいるだけで息を飲んでしまうような存在感と美しさを持つ少年でした。雲のような白い髪にどんな人よりも白く、透き通るような肌。両目に海を湛える少年の名はサファリ=ベル。現在の[ベルの商人]です。
「父を医者にするつもりだったので?」
「ああ。寡黙ででかくて黒人でおっかないかもしれないが、手先の器用なやつじゃったからの。商人なら口先も器用なことじゃったろう?」
「ええ、商いの話になったときの父の弁舌には未だに敵わないと思っております。僕もまだまだですね」
「ふぉっふぉっ、狐が何か言うておる」
ラルフの言う[ベルの商人]は先代で、サファリの父にあたります。昔、サファリと一緒に北の街に来て、ラルフに狩人の絵を売ったのが、サファリの父でした。
「僕は店番を任せられていましたけど、一度、街中で人が倒れたことがありましたね。父が運んでいったのを見ました」
「ああ。早く運んできてくれたおかげであの者は助かったよ。黒人は肌が黒いというだけで差別されるが、実際のところ、肌が黒いのは体が丈夫な証拠であったりするからの。全部の黒人がそうというわけではないが、黒人は白人より体力があるというのが医者界隈では有名な話となっておる。お前さんの父親は黒人であるにもかかわらず、世界的に有名になるくらい、世界中を旅して行商をして回ったのじゃろう。それには弁が立つというのも重要じゃが、何よりもまず世界中を飛び回り、商品を運ぶための体力が必要じゃ。つまりは黒人は白人より体が丈夫という事実の生き証人じゃったということじゃな」
世界では黒人差別といって、生まれつき肌の黒い人が差別される風習があります。サファリがラルフに売った[黒い笑顔]は名作と称して間違いはないですが、作者が黒人であるがゆえに無名のままなのです。サファリの父も[ベルの商人]として有名になるまでには苦労があり、黒人であるというだけで売り物を穢らわしいと言われて買ってもらえなかったり、そもそも街が黒人差別で染まり、黒人だというだけで商売はおろか、寝泊まりすることすら許されなかったりしたものです。
差別はサファリの父が[ベルの商人]として名を挙げたことで、少しは和らぎましたが、黒人に対して冷たい人間や集落はまだ残っています。
差別を続ける者たちは黒人がどういう人物なのか、黒人であることの利点はどういうものか、知ろうとしないで、知らないのでしょう。そもそも知ることができない環境というのもあるでしょうが。
ラルフは医者であるため、黒人が普通の人より体が丈夫であるということを知ることができました。けれど、医者でない人、医者に伝手がない人はそれを知ることができません。黒人についての著書もありませんから、皆になかなか伝わらないのです。
それをどうにかして広めるのが、サファリからのラルフへの依頼であり、サファリの目標でした。サファリは黒人であるがゆえに苦悩する父をずっと間近で見てきていましたからね。
「手先が器用で力持ち、弁も立つとなったら、職に困ることはないじゃろう。実際、あやつの応急処置と運んできたときの迅速な対応は儂が弟子にしたいと思うくらいじゃった」
「そのくらい褒めていただければ、父も報われます。ハクアさまには医学の知識はお教えにならなかったので?」
「うむ。ハクアは壊すことの方が得意での。薬草と毒草を見分けることはできるが、調合はできぬ。狩人は怪我をすることもある仕事じゃから、最低限の処置は教えたが、そもそもやつは怪我をしないからの。あと、あれは本能でどうにかなることは得意じゃが、知識と理解が必要なものは不得手じゃ」
「占いは知識と理解が必要じゃありませんか?」
うーむ、とラルフは唸りながら解説します。
「ハクアやツェフェリくんは[宝石色の子]という稀子なのだが、あやつらはおとぎ話のような、不思議な力を持っているんじゃ。感性が鋭いというか。占いで物を言うのは知識や理解もそうだが、才覚じゃよ。例えば、占いの精霊がいるとしたら、ハクアやツェフェリくんはその精霊たちに愛されとる。後から書物などで身につけた知識より深く、魂に刻まれた理解があるゆえ、あの二人の占いは当たる。と言えばわかるかの」
「なるほど」
ラルフは噛み砕いて説明してくれましたが、やはり神秘の存在や力は人の言葉で表すのは難しいようです。
「父を弟子には取らなかったですよね。それは何故ですか?」
「幼子のいる父親を弟子には取れまいて。居場所を見つけた子どもの父を取り上げるようなものじゃ。のう? サファリ坊や」
サファリはにこりと笑みを深くしました。
サファリはサファリで、[宝石色の子]とはまた違った稀子です。その存在を知る者自体が今では少ないと言われています。
「大地、大空、大海。世界を構成する大きな三つの要素を身体的特徴に持つ者を[三大化身の子]と呼んだ。稀子ではあるがそうとは気づかれない。その者らは肌が白く、髪も白い。目の色が鮮やかで不思議なオーラを纏っているだけ。白人と大差ないのじゃ。ただ、纏うオーラが強すぎて、神聖視されるか、異端視されるかのどちらかじゃの。だから己の居場所を見つけられず、人の世に馴染めないことが多い。本当はたくさんいるかもしれないのに、稀子なのは生き残るのが難しいからじゃろうな」
[三大化身の子]は[宝石色の子]よりも極端な扱いを受けるようです。サファリは静かに口を開きます。
「僕のこの容姿は母によく似ているそうです。母が稀子だったんでしょう」
「母親とは死別しておるんじゃったか」
「ええ、顔も知りませんが、父が時折僕の容姿について話すときは、母によく例えていましたよ。あと、ツェフェリのタロットの[節制]の天使も母によく似ているとか」
ほら、とサファリはタロットカードを取り出し、ラルフに見せます。ツェフェリから買い取ったカードです。その中の[節制]のカードに描かれている天使は長い白髪に美しい海の色をした瞳を持つ女性で、それは不思議とサファリに似ていました。
「ツェフェリは僕の中に僕の母の姿を見ていたのかもしれません。きっと、僕の容姿が母に似ていて、稀子としての能力が引き継がれているのだというのなら、それは元々母のものだったはずですから」
[宝石色の子]が本能的に読み取ったサファリの中に秘められた[三大化身の子]としての姿。それがこの[節制]なのでしょう。
「ともあれ、今はサファリ坊やが[三大化身の子]であることに違いはあるまい。[三大化身の子]は居場所を得るのが難しい。じゃから、お主を父親から引き離してはならんと思ったのじゃ」
「いや、別にそこは父さんと一緒に引き取ってくれればよくありません?」
「それはサファリ坊やが今、父を継いで行商人をしておるのが答えではないかの?」
それは今のサファリに[もしも]の余地がなかったことを暗に表しておりました。
もしも、父が医者になっていたら、サファリはそれを継いでいたでしょうか。
もしも、父が医者を志して、ラルフに弟子入りしていたら、サファリは父とずっと一緒にいられたでしょうか。
そのまま北の街に住んでいたら? 父が死ななかったら? 父が商人じゃなかったら?
そんな選択肢はサファリには存在しないのです。そして、どんな選択肢があっても、サファリの父はその生涯過ごした通りの選択しかしなかったでしょう。
サファリにとっても父にとっても、それ以上のない人生なのです。
「そこにああだこうだと立ち入るのは野暮じゃろうて。それにお前さんが商人になったから、ツェフェリくんはタロット絵師になれるんじゃ」
「ふふ、そうですね」
そこで、とたたた、と少し騒がしく、ステファンがやってきました。
「ラルフさん、お客様です」
「お、仕事かの」
「よっ、じっちゃん」
「なんじゃ、サルジェか」
「なんだとはなんだ、なんだとは」
ひょこ、と姿を現したのはサルジェでした。サファリはそれはもうにこにこと挨拶をします。
「こんにちは、サルジェさん」
「お、おう、サファリ……」
「コーヒーですか?」
空気に漂う芳しい香りをすん、と嗅いで尋ねますと、サルジェが、手に持っていたケースと水筒を示します。
「そう、そこの喫茶店の新メニューの相談されたから協力したら、お礼にアイスクリームとコーヒー渡されてさ。濃い目のコーヒーだからアフォガートなんてどうよ」
アフォガートとはアイスクリームに濃い目のコーヒーをかける食べ物です。冷たいアイスクリームを温かいコーヒーがとろりと溶かすことによって、ただアイスクリームを食べるのとも、ただコーヒーを飲むのとも違った味わいを得られるデザートです。
「喫茶店の新メニュー考案とは、サルジェさんは本当に多才ですね」
「そんなことはないよ。ちょっと料理ができるだけだって。別に媚びなくてもサファリの分あるから」
何事でもないように、じっちゃん、台所借りるよ、と奥に行くサルジェ。それを見ながら、ラルフはふぉっふぉっと笑いました。
「まあ、あわよくばあやつが後継してくれると嬉しいんじゃが」
「ハクアさまに内緒でこっそり色々仕込んでらっしゃるので?」
「ふぉっふぉっふぉっ」
「ふふふ」
二人で歓談しながら待っていると、サルジェがアイスクリームを乗せたグラスとコーヒーの香りが漂う小瓶を人数分持ってきました。
「アフォガートはコーヒーかけた瞬間が一番美味しいからね。どうぞ楽しんで」
バニラアイスにコーヒーをかけます。瓶の中は人肌よりも少し温かいくらい。瓶が熱くて持てない、なんてことはありません。
コーヒーがアイスクリームに接する瞬間は不思議なものでした。音はしないけれど、ふわりとかしゅわりとか何かが溶け出して溢れるような擬音を感じて、気づくとコーヒーの芳ばしい香りをバニラの甘い匂いが優しくそっと包んでいるのです。バニラアイスとコーヒーが混ざり合った琥珀色は少し白濁としていて、それが宝石としての琥珀の色だと価値はまちまちになってしまうのですが、何を隠そう、これは食べられる琥珀です。灯りの中でてらりと煌めく山肌は雪解けの春のように見るものを誘います。
スプーンで一匙すくえば、中の黄色みがかった白が恥ずかしげに顔を出し、上から垂れてきたコーヒーと混ざったバニラの雫と溶け合います。
はむ、と頬張ると、口の中でコーヒーの苦味とアイスクリームの甘味が手を取り合って踊り出しました。バニラの香りがピアノを弾いて、コーヒーの深い香りが高らかに歌う極上のひとときです。
「またこの街に来たとき、喫茶店の新メニュー、どれくらい増えているかが楽しみですね」
「ふぉっふぉっ、いつでも戻ってくるといい。何なら坊やが医者をやってくれたってかまわんのだぞ?」
ラルフの放った快活な一言にサファリは悪戯に微笑みます。その笑みは普段清楚そうな子が故意に悪戯をしたときのようなお茶目さと清涼感を孕んでおり、思わず目を惹かれてしまいました。
そしてサファリは言うのです。
「僕は行商人をやめませんよ。僕が父さんから受け継いだのは仕事だけじゃないですから。父さんの生きざまと、父さんの人生。あの人のまるごと全部を僕は荷車に乗せて運ぶんです」




