タロット絵師の回り始めた運命
「サファリくん、それは……」
「あ、ごめんね、ツェフェリ。さっき忘れてったみたいだから、使わせてもらったよ」
サファリがにこにこと示すのは既に展開されたタロットカードたち。夜空のような色をしたそのカードは見間違いようがありません。ツェフェリのタロットです。
サファリに使われるとなったら、大騒ぎしそうなものですが、ツェフェリの耳に彼らの声は聞こえませんでした。
サファリが部屋の隅にいたハクアを示します。
「ハクアさまがお戻りになったので、正式にツェフェリを旅に連れていきたいということをお話ししたんだ。そうしたら、条件として、ツェフェリのタロットの許しを得ることを示されてね。まあ、手っ取り早いのはこうしてタロットたちと対話する[占い]だと思ってさ」
「展開してあるのは……」
「さっき言わなかったっけ? [愛の架け橋]だよ」
そういうことではないのですが……とりあえず事情はわかりました。ツェフェリもちょうど、占いたいと思っていたのです。[愛の架け橋]ではありませんけれどね。
サファリがすっとツェフェリの方へ近づいてきて、その手を取ります。さりげない仕草でその手の甲に口づけると、ぶわっと真っ赤になったツェフェリの手を引きます。
「どんな解釈になるか、一緒に見ましょう、ツェフェリ」
息を飲むツェフェリ。とても優しく微笑む海色はとても美しくて蠱惑的でした。けれど、その手は冷たくて、少し離れた体温を惜しんだ片手が空を彷徨います。
その手をぱっと掴んだのはサルジェでした。
「俺も」
サルジェは毅然とした様子でサファリをきっ、と見てから言い放ちました。
「俺も一緒に見る」
それを受けて、サファリが問いかけるようにツェフェリに目をやります。ツェフェリはこくりと頷きました。
「一緒に」
きゅ、と手を握り返します。
こうしてツェフェリの運命を決める解釈が始まりました。
今回の展開は[愛の架け橋]です。[愛の架け橋]は恋愛占いとしてポピュラーな展開であり、ツェフェリが初めてサファリに見せてもらった占いです。
「ねえ、どうして[愛の架け橋]なの? 他にも占い方は色々あるよね?」
ツェフェリはそれが疑問でした。[愛の架け橋]は前述した通り、恋愛占いの展開です。タロット占いには様々な展開があります。タロット占いの中でもポピュラーな[六芒星法]を始め、[三つの運命]、[二者択一法]、[十二星座法]等々、今回の案件に使える展開はいくつもあります。ツェフェリはこの中でなら、[三つの運命]が最適だと考えていました。手間もかかりませんし、二つの選択肢があるツェフェリが気づいていない第三の選択肢に気づくことができるからかもしれないからです。第三の選択とは予想もしていないものですが、案外予想もしていなかった選択肢がいい結果を招いたりするものです。
サファリもそのことはわかっているはずです。何と言っても、ツェフェリにタロット占いを教えたのはサファリなのですから。
サファリはにこりと微笑みます。
「ツェフェリのことが好きだからだよ。これは僕とツェフェリの相性占いなんだ」
ツェフェリがきょとんとします。その横でサルジェがじとっとした目をサファリに向けました。
サファリがくすくすと笑いながら席に着きます。
「旅の行商人をやめるつもりもないのに、旅に同伴させるなんて、生涯手放す気がないからだよ。──まあ、この占いの結果次第だけどね」
サファリはとんでもないことをさらりと言いましたが、それに誰かが何かを言う前にサファリの雰囲気が一変しました。
しゃらん、とブレスレットがこすれる音。鈴のよう、とまではいきませんが、澄んだ音が響くと場の空気が凛と緊張感を孕んだものに変わります。ツェフェリもサルジェも息を飲みました。サファリの翠を宿した水色の目は波の揺らめきのように神秘的な輝きを放ち、藍色のカードたちをその湖面に映します。
サファリが真剣で本気であることが伝わってきました。
「では、カードを開けていく前に説明を。手前側左から僕の[過去]、[現在]、[未来]。向こう側左からツェフェリの[過去]、[現在]、[未来]。二人の[現在]を繋ぐのが[愛の架け橋]。その橋に横たわるのが二人の[障害物]です」
そこまで説明を受け、サルジェが後ろを振り仰ぎます。
「師匠、俺たちがここに来たときには既にカードが広げてありましたけど、サファリのカード配置に不正なものはありませんでしたか?」
空気と化していた屋敷の主であり、手練の占い師であるハクアに意見を求めました。ハクアはサファリと一緒だったはずです。
ハクアは一つ頷き、答えました。
「展開に問題はなかった。カードは展開されてからまだ一度も開けられていない」
ツェフェリがそっと息を吐きます。サファリは初めてタロット占いを見せてくれたとき、嘘の結果を相手に教えていました。もっともらしく。ただ、ハクアにそれは通用しないでしょう。
それに[愛の架け橋]は手札を全て使いきる展開です。解釈の途中でカードを入れ替えることはできません。それに、ツェフェリのタロットはこの世に一つのものです。偽物を用意することもできないでしょう。
「では、解釈を開始します」
宣言すると、サファリは一枚目のカードに手をかけました。サファリの[過去]に相当するカードです。
出たのは[愚者]の逆位置。
「出会った当初、僕はツェフェリという存在に無頓着でした。まあ、変わった目を持つ女の子、くらいにしか思っていなかったからでしょう。あの頃はまだ幼かったですから、恋愛というのを意識していなかったのもありますね」
サルジェとハクアは[幼かった]というサファリの発言に引っ掛かりを覚えましたが、ツェフェリが何も言わないのでそっとしておきました。ラルフに親子で絵を売りに来たのは何年も前、しかも前の地主の時代のことです。サファリはどれだけ見積もってもツェフェリより幼いはずがないのです。
が、それは精神的なことを言っているのかもしれませんし、あからさまに表現するのを濁しただけかもしれません。あまり初っ端からつつくのは野暮というものでしょう。
「では、ツェフェリの[過去]を読み解いていきましょう」
向かいのカードをめくりました。出たのは[恋人]。またしても逆位置です。
「ツェフェリの側にも特に恋愛的な意識はなかったのでしょう。ツェフェリは教会で育ったっていうから、禁欲的な教えを受けていたのかもしれないね。まあ、宗派によって違いはあるんだけどさ」
ツェフェリは確かに、と頷きました。恋愛というものが存在することは常識としてツェフェリも知っていましたし、その辺りの情報をシスターたちが無理に制限したりすることはありませんでした。ただ、シスターたちから制限されない分、教えられることもなかったので、知識も興味もなかったのです。
そう話すとハクアがほう、と感心したように息を吐きました。
「なるほど、禁止されるとやりたくなる、という人間の心理を逆手に取ったわけだ」
「そういえば、駄目だと言われることほどやりたくなったり、興味が湧いたりするのはなんででしょうね」
サルジェの素朴な疑問にハクアが答えます。
「おそらく具体性があるからだろうな。人は知らない物事に対する好奇心が多かれ少なかれある。禁止されることというのは具体的に示されるから、[具体的に何をやってはいけないのか]という興味が湧くんだ。本で知らない単語が出てきたら辞書を引き、字面だけでわからなかったときに実践するようにな」
だからといって、禁止されていることをやっていい理由にはなりませんがね。
「恋愛禁止って言われなければ、恋愛という言葉も知らずに済む。ツェフェリくんは意欲的ではあるが、好奇心旺盛というほどではないだろう?」
「普遍的なもの、という認識で定着したものはあまり興味をそそられませんからね。その点でいけば、禁止されるということは[普通じゃない]という認識になるので、気になってしまうのは仕方ありません」
サファリがそう補足し、次のカードに手をかけました。続いてはサファリの[現在]です。
ここでようやく正位置のカードが出ました。[審判]です。
「僕は決めるなら今、と思い、ツェフェリに話を持ちかけました。悪いタイミングではないと思います」
「随分用意周到に旅をしてきたようだからな」
「旅と商いは計画性を持って行いませんと」
ハクアが皮肉交じりにこぼした言葉をサファリは爽やかすぎる笑顔で受け流します。サルジェはサファリを改めて恐ろしいと思いました。
ハクアはそのオーラもさることながら、的確な物言いをするので、疚しいところのある者は言葉に詰まってしまうのです。威厳と自信に満ち溢れたハクアの佇まいは疚しいところがなくても思わずひれ伏しそうなものなのに、サファリは出会ってから一欠片だってそんな様子を見せたことはありません。
ハクアを侮っているというわけではないでしょう。敬意をもって接しているのは言葉遣いや声色からもわかります。ただ、サファリは決して怯むことがないのです。ものすごい胆力だな、とサルジェは思いました。
「では一方、ツェフェリの[現在]はどうなっているでしょう」
言いながら開いたカードは[節制]の逆位置。サファリによく似た女性の天使が逆さまになっています。
「ごめんね、ツェフェリ。僕の提案で戸惑わせちゃったよね。[節制]は物事が安定していることや中立的であることを表すカードです。ツェフェリは今、僕が提案したことで心が揺らいで不安定な状態になってる。どうかな?」
「……合ってる」
サファリの言った通り、ツェフェリは不安に思っています。ラルフの言葉でいくらか落ち着きましたが、帰ってきて、いきなり占いを目の前にしているのです。どんな結果が待っているのか、動悸が止まりません。
無意識にツェフェリはサルジェと繋いでいた手を握りしめました。サルジェは驚いてツェフェリを見ますが、その眼差しはタロットたちに注がれていました。サルジェはそっと握り返すだけに留めます。
サファリは次のカードをめくります。無頓着な過去から、好意に至って辿り着いた周到に用意された今。その未来に存在するのは──
「[運命の輪]……の逆位置」
ツェフェリがひゅっと息を飲みます。ハクアのほう、という声はいくらか剣呑でした。
サファリが淡々と解釈します。
「[運命の輪]はタロットナンバーⅩ、二十二枚のアルカナの真ん中に位置するカードで、大アルカナの中でも要となる意味合いを持つカードです。正位置の場合は物事の歯車が上手く噛み合い、全てが上手く行くことを表します。逆位置はつまりその逆です」
それは自身にとって良くない結果だというのに、サファリは微かに笑います。
そのままツェフェリの[未来]を開きました。
[月]の正位置。
「月は闇夜を照らすものですが、自ら輝きを放っているわけではないからか、夜の闇の中の[不安]を象徴する意味を持ちます。つまり、僕と一緒だと、ツェフェリは不安を解消できないまま、未来を歩むことになりますね」
やけに他人事なのにサルジェはサファリを訝しみましたが、おそらく、先程の[運命の輪]で心は決まっているのだろうと思いました。
遂に、[愛の架け橋]に手がかかります。
「[星]の逆位置。星は月とは違い、自ら輝けるものです。夜空に煌めく希望」
[星]のカードをぺたり、と置くと、サファリははにかみました。
「この恋に希望はありません」
言っている内容と表情が全く一致していません。
その不可解を追及する前に、サファリは最後のカード、[障害物]をめくりました。
そのカードは──