タロット絵師に示された選択肢
好きだよ、というサルジェの声がツェフェリの頭の中で谺していました。
家族の「好き」でも友達の「好き」でもないという言葉をツェフェリは懸命に咀嚼します。サルジェが言った「好き」の意味をツェフェリは理解しようとしました。
が。
「っ……!」
ツェフェリは逃げ出しました。虚を衝かれたサルジェは止めることができませんでした。それでもせめて追いかけないと、と部屋を出たところで、何故かハクアが待ち構えていました。
その背後には、サファリ。
「え、ええと」
「こんにちは、サルジェさん」
「こ、こんにちは?」
ものすごく普通に挨拶をされたので、ものすごく普通に返してしまいました。サファリはここにいたならツェフェリが出ていったことを知っているでしょうに……何ならサルジェの告白も聞いていたでしょうに、いやに余裕の笑みを浮かべています。
「いや、もうこんばんはの時間かな……じゃなくて! ツェフェリを追いかけないと……いやでもお客様がいらしてるんなら……っていうかなんでサファリがいるんですか!? まさかさっきの全部聞いてました!?」
「何のことやら」
「ねえ」
芝居がかった平坦な声に、あ、これ全部聞かれてたやつだ、となったサルジェは即座に状況説明の必要がないと判断し、ツェフェリを追いかけることにしました。
その背にハクアが告げます。
「ツェフェリくんに大事な話があるから、くれぐれも早めに戻ってくるように」
「やっぱり聞いてたんじゃないですか!!」
顔を真っ赤にしながらサルジェが出ていきます。
それを微笑ましげに手を振って見送ったサファリが呟きました。
「うまくいくといいですね」
にっこりと、やはり余裕そうに。
ツェフェリは混乱していました。
サルジェの言う「好き」を理解したからです。何故ならそれは、ツェフェリがサファリに抱いているものと酷似していました。けれど、ツェフェリはサルジェのことも好きですが、その「好き」も家族や友達に言う「好き」とは違ったのです。一体どういうことなのでしょう。
パニックになったツェフェリはもう慣れた道を歩いてとある場所に辿り着きます。そこには[診療所]という看板。ランドラルフの診療所でした。
「おや、ツェフェリくんではないか」
偶然にも、ラルフが顔を出しました。ツェフェリがたまらず、がばっと抱きつきます。
「ラルフさん、ボクどうしたらいいかわかんないよー!!」
「泣くな泣くな。ほれほれ、ステファンにココアでも淹れさせるかのう。あやつは甘めに作る天才なんじゃ」
ラルフに宥められながら、ツェフェリは診療所に入りました。ツェフェリの悩みについては大体の察しがついています。何せラルフはその片棒を担いでいるようなものですから。
中に入れば、泣きじゃくった様子のツェフェリを見て、ステファンが驚いたような顔を見せます。おろおろとするステファンに、ラルフはココアを作るように言いました。それから、ツェフェリを絵画部屋へと連れていきます。
黒い笑顔の少女が様々な色の絵画に囲まれて佇んでいました。それは見る角度によって様々な姿に変化する不思議な少女の絵です。
「それで、ツェフェリくん、一体何があったんじゃ?」
ラルフは早速本題に入りました。大方の想像はついていますが、やはりラルフの考えは当事者でない限り、第三者視点の推論でしかなく、当事者は第三者のかいつまんだ情報からではとても予想し得ないような悩みを抱えていることがあるのです。
ツェフェリがえぐえぐと泣きじゃくりながら教えてくれた想いもラルフの考えだけではとても想像が追いつかないものでした。
「ボクね、サファリくんのことも、サルジェのことも好きなんだ。それは友達とか、家族とかの好きとは違うんだ。でも、そうだとして、ボクはどうしたらいいのか、わかんない……!」
家族の愛とも、友愛とも違うとなれば、残る愛の種類はなんでしょう。それも、特別な愛です。
うーん、とラルフは顎に手を当て、考え込みました。
ラルフに答えられる問題ではありませんが、やりようはあります。
一つ、ハクアに丸投げ。これはもうほぼやってしまっているのですが、ハクアも立ち回りは上手いですし、ラルフはハクアに丸投げというよりかは、サファリに丸投げをしています。
一つ、アドバイスをする。これは一見無難なようでいて、内容によっては最悪手となり得る選択肢です。
となるとやはり、ラルフがとれる最良手はこれでしょう。
「まあ、ツェフェリくんや、ステファンがココアを作ってくるから、それを飲んでまずは落ち着き」
「……はい」
ツェフェリを落ち着かせ、ツェフェリ自身に考えさせること、です。
ツェフェリの言う特別な好きとはおそらく恋愛感情を表すものでしょう。二人の人物を同時に恋愛感情で好きになってしまった、と考えれば、パニックになってしまうのは仕方のないことです。
恋愛パートナーとは通常一対一でなるものです。それがやがて夫婦となり、父母となり、祖父母となります。一対一ではない恋愛も存在しますが、ごく稀なことです。
ラルフやハクアのように恋愛感情に疎い人間の場合もあります。稀といっても、全くないというわけではないのです。
このように、様々なケースが見られるので、第三者が想像した答えを本人に押しつけてはいけません。例えば[ツェフェリがサルジェを恋愛対象に見るはずがない]とか、[二人に感じている好きは本当に同じ好きなのか]といった憶測はよう余計なのです。本人がそう思う分には問題ないですが、第三者が本人に告げてしまうと、当人に先入観が生じてしまい、心の中に眠っているはずの本当の思いに毛布をかけてしまいます。
それゆえに余計なことは言わず、思考の整理を手助けするのが今はベストとラルフは考えました。人生経験なら、ツェフェリの倍以上はありますからね。
ステファンがココアを運んでくると、カップでじんわりと指先を温めながら、ツェフェリはぼーっとカップから立つ湯気を眺めていました。穏やかな沈黙が絵画部屋に流れます。
黒い少女の顔が灯りにゆらゆらと色を変え、緑の絵を映したところで、ツェフェリはココアを一口飲みました。むわりと口の中で広がる芳しい香りをミルクが柔らかく包み込みます。夢見心地になるような程よい甘さで口内を満たして、こくりと飲み込んだ後も喉の置くからふわりと匂い立つような余韻を感じさせてくれるココアです。ラルフの言う通り、ステファンはココアを淹れるのが上手いようです。
そうしてココアを味わっていたら、少し気分が落ち着いてきたような気がします。
「ラルフさん、いきなりごめんなさい」
落ち着くと、自分がいかに突飛な行動をしたかがわかって、ツェフェリはまず、ラルフに謝りました。ラルフは静かに首を横に振ります。
「かまわんよ。初めての感情には誰しも戸惑うものじゃ。初めての経験に戸惑うようにの。ツェフェリくんが今、悩み苦しんでおるのは正しいことなのじゃ。ツェフェリくんが正しい答えに辿り着くために懸命にもがいているということじゃからな」
「正しい答え……答えがあるの?」
「そうじゃ。といっても、その答えはツェフェリくんにしかわからん。すまんのう、儂では答えられんのじゃ」
そう、ツェフェリの感情はツェフェリにしかわかりません。何が正解なのかはツェフェリが自問自答して辿り着くしかないのです。
「まあ、サファリの出した条件からして、サルジェと三人仲良くずっと一緒、というのだけは選べぬじゃろうな。厳しいことを言うようじゃが、ツェフェリくんが選ばねばならぬ。サルジェとサファリ、どちらと一緒がいいか」
ラルフに言えるのはこれくらいです。
ツェフェリに示された、二つの選択肢。一つはサファリの要望通り、サファリと共に旅に出ること、つまりはサファリを選ぶことです。もう一つはサルジェと一緒にこの街で暮らしていくこと。つまりは今まで通りの平凡な生活を、サルジェを選ぶこととなります。
ツェフェリの瞳が深い色に染まっていくそのとき、がた、と絵画部屋の扉が開きました。
「ツェフェリ!」
現れたのはサルジェでした。少し息が切れています。相当慌てて追いかけてきてくれたようです。
「あの、さっきはいきなりあんなこと言ってごめん。でも、ツェフェリに伝えておきたかったんだ。──ツェフェリが何を選んでも、俺のこの気持ちは変わらないから」
ステファンが扉の向こうでおやおやと口元に手を当てています。ラルフもどこか満足げに笑っていました。
ツェフェリが返答に詰まっていると、サルジェがゆっくり手を差し出します。
「それはそうと、屋敷にサファリが来たんだ。ツェフェリに大事な話をしたいって。一緒に行こう」
その大事な話とは、きっとツェフェリを旅に連れていくということでしょう。ツェフェリに残された選択の時間はもう僅かです。
それでも、ツェフェリはサルジェの手を取りました。サファリと向き合って、一つわかりたいことができたので。
絵画部屋では、黒い少女が緑を反射して穏やかな笑みを浮かべていました。
屋敷に戻ったツェフェリとサルジェを出迎えたのは、[愛の架け橋]の展開をしたサファリでした。
きょとんとする二人に微笑み、サファリが告げます。
「待ってたよ、ツェフェリ。さあ、僕らのための解釈を始めよう」