タロット絵師に抱く想い
広い広いお屋敷の静かな静かな玄関で立ち尽くす女性がおりました。琥珀色の髪は艶やかで、大人の貫禄は感じるものの、若々しさは損なわれていないその女性は琥珀色の瞳をしていました。まるでどこかの狩人のような相貌の女性は誰かを待っているようです。
やがて、奥から深紅の部屋着を纏った威厳のある女性が出てきます。紫水晶の色をした髪と目。それはこの北の街の地主であり、守護者でもあるハクアでした。その後ろについて、琥珀色の女性とよくにた風貌の青年が現れました。女性は目を見開き、くしゃりと顔を歪めました。
そこで何かを察したらしいハクアが、少し脇に寄り、青年までの道を開けました。女性は一目散に青年へと駆け寄ります。ぎょっとした様子の青年は飛びついてきた女性を受け止めました。こちらに注がれる湖面が揺らめくのを見て、青年はたいへんおろおろしましたが、やがて、ゆっくりと女性の背に手を回し、撫でました。
それは親子の抱擁でした。女性の名はアイファ。かつての地主に痛めつけられた最たる人物です。青年はサルジェ。父がそのかつての地主というアイファの息子です。複雑な関係ながら、先日、二人はようやく歩み寄ることができました。今は親子として、ぎこちないながらも接することができます。
その様子を見て、ハクアは微笑を浮かべました。
「客間へどうぞ。私は私室に控えております」
「お時間をくださり、ありがとうございます」
アイファは丁寧にハクアへ頭を下げました。サルジェがアイファの手を引いて、用意された客間へアイファを導きました。
いつもの部屋からしたら明らかに小さな部屋。ハクアの屋敷を訪れたアイファはサルジェと二人で話したいと要求したのです。ツェフェリを挟みたくない話とのことで、いつもの部屋ではなく、個人宅の私室のような部屋を客室にしました。
テーブルとソファは淡い色をしていて、落ち着きがありつつも華やかな印象の部屋でした。
「可愛いお部屋ね」
アイファはサルジェに導かれるままに、ソファに座りました。ふんわりとした感触は心地のよいものです。向かい合う椅子がない部屋なので、サルジェも隣に座ります。
「うん。実はここ、ツェフェリの部屋にしようかなって思って色々準備したんだ。……肝心のツェフェリの好みはまだよくわからないんだけど」
サルジェは困ったようにはにかみました。それは幸せそうに見えます。
けれど、母の目はその程度では誤魔化されません。
「サルジェ、ツェフェリさんとお話はできた?」
鋭い切り口にサルジェは笑みを凍らせます。きっとできなかったのだろう、とアイファは悟りました。
レイファから聞いた話では、サルジェは自分に自信がなく、なんでもできるのに、なんにもできないように振る舞うようなのです。それを聞いたアイファは少なからず責任を感じました。サルジェは前の地主の息子です。その事実がサルジェの中で大きな負い目となっているのでしょう。それを拭ってあげられなかったのは、母親である自分が、傍で愛情を注げなかったことにも原因があるでしょうから。
あのろくでもない男がサルジェを肯定的に育てるとはとても思えませんでした。それでいてサルジェを召使いのようにこき使い、できなければ罰を与え、できても褒めはしない、そんな最低な育て方をしたのは想像に難くありません。そのため、サルジェはレイファの語る通り、「なんでもできるのに、なんにもできないように振る舞う」ことを自分の当たり前にしてしまったのです。
そんなサルジェに好きな人ができたと教えられました。ずっと前から仄かな想いを抱いていたものの、告げずにいたのを、とうとう明かすというのです。これを喜ばずして、何を喜びましょうか。
息子が幸せになることをアイファは歓迎しました。だからこそ、今日は話しに来たのです。
レイファに聞きました。サファリという行商人のこと。その行商人が、ツェフェリと一緒に旅をしたい、とツェフェリを誘ったこと。その場面にサルジェが居合わせてしまったこと。
それら全てを合わせて、ツェフェリに告白しようと息巻いていたサルジェの気持ちが瞬く間に萎んでしまったのは容易に想像がつきました。
そこで一歩退いてしまうのがサルジェなのです。
「レイファが、ツェフェリさんがいなくなるかもしれないって、落ち込んでいたの」
「レイファはサファリとの商談がありましたね」
でも何も言い返さずにサファリを帰すようなレイファではないはずです。そう簡単にへこたれる少女でないことをサルジェはよく知っていました。
「レイファはね、強い子よ。でも、私が臥せっていたせいで、小さい頃からずっと我慢ばかりしてきたの。我慢ばかりさせてしまったの。私は私が情けないわ」
膝の上で固められた拳がきゅ、と握りしめられます。
アイファは自分をずっと不甲斐ない親だと責め続けてきました。今もそうです。ラルフには自分を責めすぎるな、と言われていますが、自分が家族に負担をかけている様を眼前に突きつけられれば、否が応でもそう考えずにはいられません。
それでもレイファはアイファを励まし続け、ミニョンの看板を背負ってくれました。レイファはとても強い女の子なのです。
幼い頃からそうだったためか、レイファは自分の願望を抑えつけることが当たり前だと思っているようです。やりたいことも「やっていいよ」と言われることでしかできません。レイファにとって幸いだったのは、レイファの好きなお洋服を扱うことがレイファの仕事であることでしょう。
友達を作って遊ぼうとか、親に甘えようとか、たまには弱音を吐こうとか、そういうことはレイファの頭の中にないのです。
「そんなレイファが、泣いて、ツェフェリさんにいなくなってほしくないって言ったの。私の前でよ。サファリさんとのことはツェフェリさんが決めることだわ。私には口出しはできない。でもね、私は一つ、知っていることがあるの」
ゆら、と琥珀色の眼差しが交錯します。サルジェは向かい合う瞳に静かな芯の通う光があることに息を飲みました。
アイファはゆっくりと告げます。
「サルジェがツェフェリさんのことを好きだということ」
確かなことははっきりと、くっきりと輪郭を残すように宣告されました。サルジェは何と返したらいいかわかりませんでした。
アイファの言わんとするところはわかります。この母は、あの日用意したプレゼントをサルジェがツェフェリに渡せないままでいることをお見通しなのです。
サルジェは自室に置き去りのままの紙袋を思いました。ツェフェリのために用意したブローチと髪留め。ツェフェリに似合うと思ったものや、ツェフェリが好きだと思ってくれそうなものを選びました。そんなにたくさんの時間、悩んだわけではありません。けれど、サルジェにはツェフェリと過ごした時間ぎたくさんあります。その思い出たちを思いながら、ツェフェリのために選んだ数々があの紙袋の中にあるのです。
「告白しないのは意気地なし、とかそんなことは言わないわ。私はただ、あなたの気持ちを大切にしてほしいと思ったの。だって、ツェフェリさんが何を選ぶとしても、あなたがツェフェリさんを好きだという気持ちは変わらないでしょう?」
「それは……そうだけど」
アイファの穏やかながら真っ直ぐな言葉にサルジェは俯きます。アイファは言葉に詰まるサルジェを責めたりしませんでした。
けれど、自分の気持ちを強く主張できない息子の背中を少しでも前に押せたなら、と思っていました。
アイファは問いかけます。
「何か、悩んでいるの?」
サルジェはふい、と明後日の方向を見ました。わかりやすく図星です。きっとレイファなら、そんなのあんたが告白しない理由にならないでしょうガミガミ、といった感じでサルジェにがつんと言ってくるでしょう。目に浮かびます。
サルジェは言葉にするのを躊躇いました。今隣で話を聞いてくれるのは、レイファではなくアイファです。綿にくるんだような優しい言葉を選んで、サルジェに差し伸べてくれます。
正直、母であるアイファと顔を合わせるのはまだ気まずいですし、話すのも気が引けます。ただ、こうして丁寧に接してくれるのは嬉しく思います。
こないだまで見舞いにも行かなかった親不孝者に、寄り添ってくれるのが、嬉しいけれど、なんだかむず痒くて、サルジェは複雑な表情を浮かべました。
なかなか何も喋らないサルジェを急かすことはしません。アイファはサルジェがまだ自分に心を許していないことをわかっていました。おそらく、自分たちが親子だという実感もまだないのだろうと思っています。それでも会いにきてくれて、声を聞かせてくれた、そんなサルジェがアイファは愛おしいのです。
繋いでいた手を、アイファはそっと包み込みました。少しごつごつした立派な男の人の手です。アイファの手が華奢に見えるほどに。
アイファの少し冷たい手が重なって、冷たいのに自分を温めるように包み込むのを感じ、サルジェは肩の力が抜けました。緊張していたのだ、と改めて実感しました。
アイファを見ると、鳶色の温もりのある眼差しがこちらを見ていて、サルジェは瞑目し、それから向き合いました。
「ツェフェリにはタロット絵師になるっていう夢があるんだ。出会ったときからずっと、そう言っていた。サファリはそれを叶えるって提案を、ツェフェリにしてる。俺は……」
自分の感情を振り返って、サルジェは苦笑します。
「ツェフェリのことが好きだけど、ツェフェリの夢を邪魔したいわけじゃない。……俺が告白したら、ツェフェリをこっちに引き留めちゃうんじゃないかって思ってるんだ。ツェフェリが俺の気持ちを受け入れてくれて、夢を諦めることになったら……それでツェフェリが幸せになる道が一つ消えてしまったら、俺は悲しいよ」
そこまで言ってから、恥ずかしげにサルジェは笑います。
「……ツェフェリに受け入れてもらえる前提なの、楽観的すぎるなあって話だけどね」
「あら、いいじゃない」
アイファが微笑んで続けました。
「あなたとサファリさん、どちらを選ぶかはツェフェリさんの決めることだわ。サルジェの言葉にツェフェリさんが心動かされたとして、ツェフェリさんの夢への道が一つ消えたとして、それでもツェフェリさんがサルジェを選んでくれたということでしょう? ツェフェリさんも即答せずに迷っているのなら、一押ししたってばちは当たらないわ」
アイファはそう告げると、握ったサルジェの手を持ち上げ、サルジェの胸元に当てました。
「ツェフェリさんが何を選ぶにしたって、あなたの心に後悔の残らない選択をしてほしい。だってあなたは自由なのだから」
「後悔の残らない選択……」
サルジェは胸元に当てられた手を見下ろしました。
例えば、ツェフェリがサファリを選んでこの街を去るとして、この想いを胸に秘めたままでいいのでしょうか。
「……ありがとう、母さん」
アイファははっと息を飲みます。
サルジェはきらきらとアイファと同じ色の目を輝かせていました。
「レイファには、やれるだけやってみるって伝えといて。来てくれてありがとう」
その晴れやかな笑顔にアイファは破顔して頷きました。
夕方。別邸のツェフェリの部屋に射す夕陽は眩しく、美しいものでした。
そこで作業机に向かい合うツェフェリは美しい夕暮れに目も向けません。がらんどうのように黒い目は何も見ていないようでした。
そんな部屋に控えめなノックが響きます。ツェフェリはそこではっとしました。時間帯としては夕食に呼びに来たサルジェでしょうか。いや、それにしては少し早いような、と訝しみながら、ツェフェリは扉を開けました。
予想通り、サルジェが立っていました。いつもは割烹着のまま呼びに来るのに、今日は割烹着を脱いでいて、紙袋を持っています。
「大事な話があるんだ。今いいかな」
「え、あ、うん」
サファリに誘われた一件からの記憶が曖昧なくらい、ツェフェリは心ここにあらずでした。それでもサルジェがちゃんと毎日三食食事に呼んでくれて、なんとか生活できている状態でした。
大事な話とは何でしょう。ツェフェリの気が抜けているから、何か気遣ってくれたのでしょうか。
そんなことを考えるツェフェリに、サルジェは紙袋を手渡します。プレゼント、と端的な説明を添えて。それから大きく深呼吸を一つ。
サルジェが言いました。
「ツェフェリ、俺、ツェフェリのことが好きだよ。家族とか友達とかそういう距離感じゃなくて……好きだよ」