タロット絵師の戸惑い処
「あの……[虹の子]が帰ってくるのを待ってる二人って、大丈夫なの……?」
ツェフェリは気まずそうに言いました。それもそうでしょう。[虹の子]とはツェフェリのことなのです。
ツェフェリはかつてその村で[虹の子]、[神の子]と奉られていました。その少年少女が暮らしているという教会はおそらくツェフェリがかつて過ごしていた教会でしょう。サファリの話から推測するに、その少年と少女は共に家族を失っているはずです。そんな子どもを墓守のように、獣の出る場所に置いていていいのでしょうか。
サファリが答えます。
「生活には問題ないようでしたよ。食糧は海に魚を釣りに行ったり、森の草や茸から食べられるものを見つけたり、なかなか逞しい生活をしていましたから」
生きる力の強い子どもたちです。けれど、それを聞いてもツェフェリの顔色は優れません。
そこでハクアが口にします。
「戻りたくないのなら、戻る必要はないだろうよ、ツェフェリくん」
「え」
ハクアの紫水晶がツェフェリの目に返ります。
「信仰、偶像というものは厄介だ。ツェフェリくんは元いた村で偶像として育てられ、偶像として振る舞って生きていた時代があった。けれど、それを義務と思って果たす必要はない。勝手に崇めて、勝手に信仰しているだけなのだよ、向こうは」
語るハクアの声は暗く、けれど強さを伴ったものでした。
「ツェフェリくんは[虹の子]である前にただの人の子だよ。そこを君だけでも忘れてはならない。君は[虹の子]としてではなく、ツェフェリとして選択して、ここにいる。それを忘れてはいけないし、履き違えてはならない。君が人の子であることを否定したら、他の誰も、君を人の子として扱ってくれなくなる。だから、そこだけはどうか譲らないように」
ハクアも偶像とされてきた過去がありました。[宝石色の子ども]。紫水晶のような髪と瞳を持つハクアは宝石の色を持つ神が遣わした特別な子だとして育てられました。今でこそ普通に地主をやっているように見えますが、昔、ハクアが前の地主に対抗していた頃のハクアの支持者の中には熱狂的な信者と呼んで差し支えないほどの信仰の篤い人がおりました。そんな中でハクアが師であるランドラルフから何度も聞かされた言葉がこれです。
[宝石色の子ども]は一般によく広まった伝承ですが、それに当てはめられたからといって、ハクアがただの人間の母親から生まれてきた事実は変わりません。信じたい人には勝手に信じさせておけばいい、と。偶像のように、他者の望むままに振る舞う必要はないのだ、とラルフは言いました。呆れられても、失望されても、それは勝手にあちらが期待していただけですから、こちらが気にする必要はないのです。ハクアがいつ[宝石色の子ども]と名乗ったというのでしょう。だから何だというのでしょう。ハクアは一人の人間です。他者の意志で己の行動を決めるのではなく、己の意志で決定しなさい。そうラルフは教えました。
偶像であるということは本人を誇らしい気持ちにもしますが、同じくらい苦しい気持ちももたらします。偶像を義務と思うと逃げられなくなって、更に苦しくなります。心を損って生きることはとても難しいのです。だからせめて、自分の心で決めた道を歩みなさい、と。
ハクアは自分にそう教えたラルフの気持ちが今、よくわかりました。きっとツェフェリは自分を待っている者がいると思って、胸が締め付けられているのでしょう。けれど、聞く限りでは、ツェフェリが自ら[虹の子]と名乗ったわけではないはずです。故に[虹の子]として無理して振る舞う必要はないのです。
「何も行くなというのではない。ただ、君はわざわざ[虹の子]として振る舞う必要はないという話だ。ただのツェフェリという少女として、会いに行くという選択肢もあるのだよ」
「でも……」
「まあ、ツェフェリくんが[虹の子]に戻りたいなら止めはしない」
ツェフェリは考え込むように俯きました。おそらく、すぐに答えを出せることではないでしょう。
ツェフェリには後々ゆっくり考えてもらうとして、ハクアはサファリを見つめます。
「とりあえず、サファリくんの事情はわかった。我々に対して多少の誤魔化しがあったが、まあ許容範囲だろう。これしきでぐちぐち言っても始まらない」
ハクアの言う通りですが、ほぼほぼ確信していたサファリが堂々とハクアにかまをかけたことにサルジェは驚きを隠せません。すごい胆力のある人だな、と思いました。
確かにサファリは豪胆ですが、それくらい肝が据わっていないと旅から旅への行商人などできないのかもしれませんね。
「サファリくんの件はこのくらいにしておいて、レイファ嬢の用件を聞こうか」
「男性陣は別室に移動していただいてもよろしいですか?」
散々絡まれたサルジェがどういうことだ、という顔をしますが、ハクアは首肯します。サルジェには後程説明すれば良いでしょう。部外者に言えないことなのかもしれませんし、それをはっきりと表明して、サファリの機嫌を損ねるのもあまり良いことではありません。レイファなりの配慮でしょう。
では、とサファリが手を挙げます。
「そろそろ時間的に宿探しをした方が良いかと思われますので、お暇してもよろしいでしょうか。街での商売許可については明日また改めてお伺い致します」
「わかった。引き留めてすまなかったな」
「いえ、こちらこそありがとうございました」
「サルジェ、見送りを頼む」
「かしこまりました」
そうして、都合よく女性のみが部屋に残ることになります。ツェフェリは何故自分が残されたのかよくわかっていません。
「それで、話というのは?」
「恋ばなです」
「……」
微妙な沈黙が流れます。あのハクアが渋面を浮かべております。ツェフェリはハクアもこんな顔をすることがあるのか、と妙に感心してしまいました。
レイファを見ると、その眼差しは真剣そのもの。本人は至って真面目なようです。
「というか、わたくしが心配性なだけなのでしょうが……サルジェについて考えました。あれはそろそろ、身を固めるべきでは?」
「姉を差し置いて?」
きっとそれはサルジェも気にしているはずです。レイファとの仲は色々あるとはいえ良好で、慕っているとまではいかないまでも、丁寧に気にかけているのはツェフェリが見ていてもわかります。何故突然サルジェの結婚の話になったのかは皆目見当もつきませんが、サルジェは遠慮がちなところがあるので、姉のレイファを差し置いて身を固める、というのは考えていなさそうです。そもそも、結婚をしようという意識があるのかどうかから怪しいですね。
ハクアはかくりと首を傾げ、問いを続けます。
「そもそも、何故そう考えたのだ? レイファ嬢」
レイファは一つ息を吐くと朗々と語りました。
「サルジェはもう結婚するに充分な年齢です。その点はわたくしも同じというのは承知しておりますわ。けれど、サルジェにはハクアさまの弟子という肩書きがあり、北の森を管理する狩人という由緒正しい役割があります。自然と次代の地主、という考えになっていくものではないでしょうか。
ハクアさまが近くに退くということは街の誰も考えていないことでしょう。遠い未来のことかもしれません。そうだとしても、いつかは必ずあることなのです。そのとき、サルジェがいれば安心かもしれませんが、それだけでいいとは思いません。そのときが来れば、また次の代のことを考えなければならなくなるでしょう。
世襲させる、という案ではありませんが、憂いの一つを和らげるという意味では、サルジェが身を固めることは悪くない話だと思います」
「ふむ……」
ハクアは熟考しているようですが、ツェフェリには何が何やらさっぱりです。ただ一つわかるのは、サルジェが結婚すればいいんじゃないか、という提案であることだけです。
サルジェが結婚? 恋? サルジェの周囲は確かに女っ気がない気がしますが、それを今ここでする意味は果たしてあるのでしょうか。当の本人であるサルジェを介さず、何故か第三者であるツェフェリがいるこの空間で。
「ふむ、なるほど」
ハクアは何やら得心したようです。何がなるほどなのでしょう。
「まあ、私が所帯を持つ気がないからああだこうだと口を出すと小姑のようになってしまうのだが……」
「えっ、ハクアさま、結婚願望ないんですか?」
ツェフェリは思わず声を出してしまいました。努めて空気でいようと思っていたのですが。
「うむ、どうも恋愛感情が理解できなくてな。子を成すことにも意味を感じられない」
かなりドライです。
「そういうことに関する感受性は死んでいると我が師からも言われたな」
「……ラルフおじさまも所帯持ってないですけれど」
「言うな言うな」
ラルフが独り身なのはツェフェリも知るところです。けれど、絵画収集家であるところを見るに、恋愛に近いところの感情への造詣は深そうではあります。絵画も「惚れて」買うのですからね。
ハクアについてはよくわかりませんが、ハクアの幼少がツェフェリと似たようなものだったのではないかと想像しました。ハクアが[宝石色の子]と呼ばれていたのはラルフから聞いて知っています。
確かに艶やかな紫紺の髪はそれだけで人を魅了しますし、紫水晶の瞳に見つめられると目が離せないような感じがするので、容貌だけで崇められてもおかしくはありません。
「なんだか勿体ない気がするな……」
「ん?」
「あ、いや、えっと、あの、ハクアさまはこれだけ人目を惹く容姿をしていらっしゃるのに、誰とも結ばれる気がないなんて」
「結婚や恋愛ばかりが人の幸せではないよ」
「サルジェは違うんですか?」
ツェフェリの真っ直ぐな問いにハクアが微笑みます。
「きっと、一人一人、幸せの形は違うよ。ツェフェリくんにも、ツェフェリくんの幸せがあるだろう。サルジェは……何事も人並みを望むところがあるから、人並みに結婚して、人並みに家族を持つことが幸せなのかもしれない、というだけだ」
「ボクも、サルジェには幸せになってほしいです。でも、サルジェの幸せは、サルジェが決めることだと思います」
ツェフェリの言葉にレイファとハクアが顔を見合わせ、意味深な笑みを浮かべましたが、ツェフェリがその意味を悟ることはできませんでした。