タロット絵師が思い出すもの
それは昔のことでした。昔といっても、そんなに昔のことではありません。ですが、ツェフェリが旅に出てから、もう随分な時が経ったような気がします。
だから昔のことなのです。もう[思い出]と呼べるレベルのことなのです。
それでも鮮明に思い出せるあの雲のような白い髪、碧と翠を混ぜたような色の中に乳白色をちょっと足したような海の色の目。それは間違いなく、行商人として父親と共に旅をしていたサファリです。
ツェフェリはサファリに絵を習って、時間をかけてではありますが、タロットカードを一枚一枚描き上げていきました。
できるたびに、ツェフェリはサファリに見せていました。そういう審美眼のある客観的な意見が欲しかったからです。
あの毎日は楽しいものでした。
タロットカードのナンバー〇から順番に描き上げていきました。何日かバランスや小物や背景を吟味して、ようやく一枚完成するのです。
「サファリくん、[愚者]描いてみたよ」
出来上がった[愚者]のカードは、いかにも能天気そうな茶髪の青年が、質素な旅衣装を着て、荷物を担いで楽しそうに歩いていました。何なら鼻歌でも歌っていそうです。
今にも動いて喋り出しそうな出来映えに、サファリは微笑みます。
「絵、上手くなったね」
ツェフェリは照れました。褒められて嬉しかったのもありますが、本当にここに至るまで多くの時間をかけたからです。サファリと出会ってからどれくらい経つのでしょう。絵を習得するのに、十字架の他に本を描いたり、林檎を描いたり、最終的にはシスターの似顔絵を描いたり。それでもって、絵のタッチを変えてみたり、やることはたくさんありました。
ツェフェリは飲み込みの早い方でしたが、それでも時間はかかりました。数ヶ月でしょうか。サファリが旅立ってしまわないか、毎日どきどきしていました。
「今にも動き出しそうで怖いや。崖のタッチは絵柄に合わせてちょっと簡易的にしたんだね」
「うん。結構ポップな感じに描いたから、リアルタッチで描くと変かなって」
ツェフェリが素直な意見を口にすると、サファリはふふ、と笑いました。
「うん、ツェフェリはセンスがあるね。絵を描く才覚。……まあ、別々なタッチのものを組み合わせて成立させるっていう独特な感性の絵もあるけど、大抵の絵は絵の中でタッチを揃えるのが基本だからね」
「そうなんだ。サファリくんは絵の先生みたい」
「あはは、旅をしていると色々わかるようになるんだよ。ああ見えて父さんは色んな人との繋がりがあるから、絵画収集家の人とか、画家とかと直接繋がっていたりするんだ」
ツェフェリはちら、とサファリの父の方を見ました。相変わらず無愛想な感じで店をやっていますが、売り文句を喋るときは朗々とした声で語っています。
黒人だと、それだけで疎まれることもあるのに、色々な人と繋がりを持つというのはとてもすごいことです。
「サファリくんのお父さんすごいね」
「ふふっ、僕の自慢の父さんだよ」
自慢できる親か、羨ましいな、とツェフェリは思いました。ツェフェリは親がいません。このときは親がどうなったかなんて知りませんから、ただ純粋に、誇らしげに自分の父親のことを語るサファリがきらきらして見えたのです。
サファリとサファリの父が二人で話しているところは見たことがありませんが、きっと仲睦まじく話すのでしょう。
黒人と白人という違いはあれど、この二人の親子には確かな絆が存在するのです。
「……くん……エリ……ん、ツェフェリくん」
肩を揺さぶられて、はっとしました。ラルフが心配そうにこちらを見つめています。
「大丈夫かね? 泣いておるぞ?」
「えっ」
慌てて顔に触れると、ぱらぱらと雫が落ちていき、床の木板に吸い込まれていきます。全くの無意識でしたが、ツェフェリは泣いていたのです。
……サファリに会いたいというのもそうですが、あの親子のことを思い出して、自分の両親のことを思ったのです。教会によって、排除されてしまった両親のことを。
それを思うと、止めどなく涙が溢れてきて止まりません。ラルフに何か弁解しなければ、と思うのですが、今、この感情を言葉にすることはできません。
ラルフはそれでも静かに見守ってくれました。背中を撫でて、落ち着くようにしながら。その優しい手つきに、自分の親も生きていたらこんな風にあやしてくれたのだろうか、とぼんやり考えました。
覚えているのは、シスターたちの体温はあるのに、どこか冷たい手。経緯はどうあれ、あの人たちだって、ツェフェリを愛してくれていたのに、ツェフェリはその愛情を素直に受け止められませんでした。
「少し落ち着いたかの? 居間に戻って温かいミルクでも飲もうか。老害ばかりが話しすぎたわ。ツェフェリくんの話も聞きたいのう」
「……はい」
ラルフが気を遣ってくれたことに感謝します。今のツェフェリは絵画鑑賞どころではありませんから。
実は、ラルフは医者としてだけではなく、お悩み相談も引き受けています。[病は気から]という言葉がありますから、気落ちしている人間を慰めるのも、医者としての務めだと考えているのです。
受付で暇を持て余していたステファンが呼び出され、ミルクを温めさせられていました。
そこでふと疑問に思います。
「ラルフさんはお料理しないの?」
「うん? するぞ?」
では何故サルジェに夕飯を作ってもらったり、ステファンを厨房に立たせたりしているのでしょう。
「儂はちと年を取ったからの。若いもんに任せるのが最近の役目さぁ」
「……そういうもの?」
「そういうものじゃよ」
ふぉっふぉっ、と特徴的な笑い方をして、ラルフは砂糖を用意しました。
「まあ儂は、サルジェの世話役みたいなところもあったからの。最初からサルジェはなんでもできたわけじゃあらん。儂も何もできぬわけではあらん。ただ、任せとるだけじゃ」
ラルフは目を細めます。
「サルジェにも、親はいていなかったようなもんじゃ。ごっこ遊びでも[家族]を感じさせてやりたいんじゃ」
「……サルジェ[にも]?」
ふっとラルフは笑いました。
「ツェフェリくんも似たようなものじゃろう?」
「え?」
「見とったらわかるわい」
そこへステファンが温めたミルクを持ってくる。一緒に黒い飲み物も運ばれてきます。
「ゆっくりでいい、ツェフェリくん。ツェフェリくんの話を聞かせておくれ」
黒い飲み物を受け取りながら、ラルフはツェフェリに優しく微笑みました。