タロット絵師の夢見処
広い広い海の広がる小さな小さな村の端、ツェフェリは懐かしい光景だと思いました。
そこは小さな村の片隅にある海岸。今は夕暮れ時のようで、さらさらと揺れ動く水面の表面を、オレンジ色が照らし、昼の海とは違った色味の不思議な色合いを醸し出しておりました。
それはツェフェリがいた村で見られる風景であり、ツェフェリの思い出に深く刻まれている光景です。
何故ならそこには、サファリがいたのです。
会いたくて会いたくて仕方がなかったサファリの姿を目にしたツェフェリですが、ああ、これは夢だな、とすぐにわかりました。
サファリの姿があの頃と全く変わっていないのです。あれからもう何年も経つのですから、もっと背が高くなったり、顔つきが変わっていたりしてもいいものでしょう。
まあ、子どもとはいえサファリにはどこか達観のある節がありますから、あの頃で充分、大人びてはいるのですが。
別れた日の夕暮れ。あの美しい海辺に、サファリが立っているのを、ツェフェリは見つけました。
雲のようにふわふわした髪、海のような水色と緑色の境界の目。漂う神秘的な雰囲気。夢の中のサファリはツェフェリが認識していたサファリそのものでした。
サファリはツェフェリの姿を見て微笑みます。
「お久しぶり、ツェフェリ」
「サファリくん……」
夢なので、久しぶりと言っていいかどうか悩んでいるようです。夢の中の存在だからか、サファリはそれを察していないようです。
「大きくなったね」
けれど、反応は本当に久しぶりに会ったときのようで……ツェフェリは不思議な気持ちになりました。
「サファリくんは、変わらないね」
「うん。僕はずっと旅をしているから」
「お父さんと?」
聞くと、サファリは黙り込んでしまいました。聞かない方がよかったのでしょうか。
「元気みたいだね」
「うん、おかげさまで」
「僕のおかげさまではないでしょ。今ツェフェリの傍にいるのは僕じゃない」
「でも、サファリくんがいなかったら、ボクはタロット絵師になろうだなんて思わなかったよ」
自己否定的なことを言うサファリにツェフェリは強く主張します。力強い緑の目を見て、サファリはふっと笑みました。
「安心した。まだタロット絵師を諦めてないんだ」
サファリのかまかけだったことに気づいて、ツェフェリはサファリをじとー、と見ます。
「諦めるわけないじゃん。言ったでしょ。いつかサファリくんのお店にボクの描いたタロット売るんだーって」
サファリは懐かしむように目を細めます。
「あったね、そんなことも」
「そんな昔の話じゃないでしょ」
ツェフェリがサファリと別れてから、数年の時が過ぎました。数年も経ったとも言えますが、まだ数年しか経っていないとも言えます。
ツェフェリは紆余曲折あったもののサファリに宣言した通り、[タロット絵師]としての道を歩み始めました。まだ、タロットを売ることのない修繕師ですが、それでも絵師としての腕前を認められてここまで来たことは確かです。
そんな紆余曲折をツェフェリは話しませんでしたが、サファリはツェフェリが幸せそうなことで安心したのか、何も聞いてきませんでした。
「じゃあ、その夢を叶えるためにも、僕ももっと頑張らなきゃね」
それだけ告げると、サファリはその場から去ろうとします。待って、とツェフェリは夢だということも忘れてサファリを追いかけました。けれど、サファリは止まってくれません。それに、何故だか全然サファリに近づけないのです。サファリはゆっくり歩いていて、ツェフェリは必死に走っているというのに。
まるで距離が詰まりません。
追いかけてくるツェフェリに、サファリは一度だけ振り向きました。
「今の君には君を待ってくれている人が別にいるでしょ?」
そんなことを言って、サファリは夕暮れの海の景色に溶け込むようにサファリは消えていきました。
やはりこれは、夢なのです。
「夢……夢じゃなかったらよかったのに」
ツェフェリはぽつりと呟きました。悲しげに伏せられた目は紫色に翳ります。
サファリが今どこにいるのか、ツェフェリにはわかりません。おそらく、サファリもツェフェリの居場所を知らないでしょう。これは夢、夢なのです。
サファリが溶けて消えた後はただただ美しい海岸が広がるばかりでした。
自分のいた村のことを美しいと思ったことは実はツェフェリにはありませんでした。ツェフェリは村をあまり出歩くな、と言われていましたので。教会にこもって、神様の子どものふりをさせられていたのです。
今、夢の中で、あのときも美しいと思った夕暮れの海岸をまた美しいと思うことができました。サファリと会えないのは悲しいことですが、皮肉にも、こういう物事のあはれがツェフェリの創作意欲に繋がったりもするのです。
「サファリくんは絵が上手だったなぁ……風景画が綺麗だったから、きっと、この海も綺麗に描けたんだろうなぁ」
少し、羨ましく思いました。ツェフェリにとって、サファリは憧れの人で、目指すべき場所でもあります。それは絵師としてもですし、サファリに告げた夢を叶えるためにも、いつかサファリに辿り着きたいと願います。
それでも、ツェフェリは画家にはならないのです。
「これが海の色……水の色……」
寄せては返す波を見て、ツェフェリは呟きました。
「水……そういえば、ハクアさまのタロットの修繕で、[節制]の水の色が繊細で、どうしたら直るか悩んでた。この色が近いかもしれない。ハクアさまのタロットは、元々褪せた感じの色合いのようだったし、夕暮れの海……」
ここがツェフェリが[画家]ではなく[タロット絵師]である所以です。ここで[この海の風景を描きたい]とは思わないのです。タロットに繋げようとします。
無意識ではあるかもしれませんが、ツェフェリはこういうところが絵師としてできているのです。
元々、教会の内装を眺めるか、本を眺めるかしかなかった生活だったのです。あまりにも暇なら、考え事の一つもしましょう。こうして、ツェフェリは感性豊かに育ったのです。
ツェフェリはここが夢であるということを忘れていました。この期を逃したら、この海の光景を眺める機会なんて二度と来ないのかもしれませんから。修繕の、そしてタロット絵師としての糧にするために、ツェフェリはじっと海を観察しました。
もしかしたら、サファリが現れたのはこのためだったのかもしれませんね。
「ツェフェリ、ツェフェリ」
こんこんこん、とノックの後、ツェフェリを呼ぶ声が部屋に聞こえますが、ツェフェリは作業台に凭れかかって夢の中。カーテンの隙間からは木漏れ日のように優しく、射し込んでおりました。
「おーい、おーい、ツェフェリ!!」
ほぼ叫び声にも近い声にもツェフェリはぴくりともしません。喉が保つのか心配になるほどの声量でツェフェリへの呼び掛けを続けましたが、声の主はとうとう痺れを切らし、がちゃりと部屋に乗り込んできました。そもそもこの部屋には鍵などついていないので、最初から入ることはできたのですが、そこは紳士というものです。
入ってきたのはサルジェでした。作業台に伏すツェフェリを見て、呆れたように溜め息を吐きます。
部屋を見渡すと、一人で過ごすには余裕があるくらいの広さ。質素ながらもベッドもあり、ベッドメイキングもばっちりです。問題はそのベッドメイキングが一切乱れていないことにありそうですが。
「ツェフェリー、ツェフェリったらー」
「そっか……オレンジをほんのちょっとだけ……黄色強めで……」
むにゃむにゃと何やら寝言を言っています。色の配合の話のようですね。
はあー、と深く息を吐き出します。それでも怒鳴らない辺り、サルジェの人間性が出ているというか。
怒鳴らない代わり、ゆさゆさとツェフェリの肩を揺さぶりました。
「ツェフェリ、朝ごはんできてるぞー。なんでベッドあんのに作業台で寝てるんだ。風邪引くぞ」
「そっか、薄い灰色も必要だね……ほわー勉強になる……」
「一体どんな夢見てんだよ。というか起きろ。朝ごはんできてるから。ついでに言うなら師匠も待ってるぞ」
師匠をついでとは、サルジェもなかなか言うものです。
が、その[ついで]が思ったより作用したようで、ツェフェリはむくりと起き上がりました。
淡いピンクの寝ぼけ眼でサルジェを見ます。
「ハクアさま……?」
「そう、ハクアさまが待ってるぞ」
何故か[ハクアさま]の発音が棒読みのサルジェ。それに気づいているのかいないのか、ツェフェリのゆらゆら揺れていた瞳孔がしっかりと真ん中に定まっていきます。
くい、と顔をサルジェに向けて、陽光にも似た黄色い目でサルジェの顔を認識し、一言。
「……なんだ、サルジェか」
「なんだとはなんだ、なんだとは」
かくして、今日もまたツェフェリの一日が始まるのです。