タロットの教え人
大きな大きな荷車を、小さな小さな村に置き、ごくごく普通の宿屋にて、寝泊まりしている親子がいました。
「父さん、お医者さまから、薬」
「商い処は?」
「順調だよ」
黒い髪に黒い肌。黒い瞳で問いかけた壮年の男性はベッドから起き上がり、自分を父と呼んだ少年に目を向けました。
目を向けた先の少年は、白い髪に白い肌。目だけが水色と緑色を混ぜて乳白色を射したような彩りのあるものです。とても父には似ていませんでした。母親似なのでしょう。
この二人は行商人です。まだ息子のサファリは見習いですが、見ての通り病に伏せる父の代わりに店を切り盛りできるくらいの才覚はあります。
「すまないな、最近は任せきりで」
「いいよ。実践した方が実になることもあるから」
「すまない」
いくつか前の街から、父は体調を崩しがちになり、名医を求めて今は旅をしています。当然路銀は必要ですし、治療費も必要ですから、店を続けないと立ち行きません。幸いなことに[行商人のベル]といえば、そこそこに名が通っているため、この親子が金銭に困ることはありませんでした。
そんなことよりもサファリにとって気がかりなのは、一向によくならない父の容態です。医者を何人か紹介されましたが、結果は芳しくなく、また次の医者を紹介され、数日したらここを発つ予定ですが、移動の長いこと長いこと。病気の父は体力がなく、半日歩ければいい方、といった具合。
そんな父に献身的に尽くすサファリ。その姿に表情変化の少ない父は苦虫を食んだような表情を浮かべます。
「お前は、俺に煩わされる必要はないんだ」
「……何を今更」
「……気になっているんだろう? [虹の子]と呼ばれていた少女のことが」
サファリの父は不意にこういう核心を突くようなことを言います。そこはサファリの性質にも受け継がれていますが、さしものサファリも、参ったな、という表情を浮かべています。
「……いつから気づいてたの? 父さん」
「何年お前の父親をやっていると思うんだ」
「はは、確かに」
サファリはとある寒村で祭り上げられていた少女と親しくなったことがありました。父に似て、商売以外は表情が変わらないし、旅から旅への根なし草で、サファリには友達なぞついぞできたことがなかったのです。彼女──ツェフェリと出会うまでは。
サファリがツェフェリを気にかけるのは、サファリがツェフェリにタロット占いを教えたからです。
「ツェフェリが[虹の子]だの[神の子]だのと奉られているのはあながち間違いじゃなかったんだ。あの子には占いの結果を受け止める運命力がある。……だからね、僕は正しくないことをしてしまったかもしれないって、後悔してるんだ」
「ほう……」
「運命力を持つ人物は本当は占いなんてものに干渉するべきじゃない。占いにすがりすぎると、自分の力に食い殺されてしまうから」
目線を落としたサファリに、父は優しげな眼差しを向けます。
「いつも言っていることだが」
起き上がって、サファリの頭を撫でました。
「芯を持つのはいいことだが、持論に縛られるな。その運命力というものが強いなら、お前の運命力でまたいつかあの子を導いてやればいい。お前はまだ若い。まだ、やり直しがきく。生きているうちは、何度だって……」
「……父さん、寝なって」
息に荒いものが交じり始めた父の背中にそっと手を当て、サファリは父をベッドに寝かせ直しました。
「そんなに心配なら、あの村に残ってもよかったんだぞ? お前は……そこまでして俺に義理立てする必要はないんだ」
同じようなことを言う父に、サファリは軽く溜め息を吐いてから笑った。
「そんなの、今更だよ。僕は父さんから離れるつもりはない。旅も楽しいし、商いも楽しいんだ」
「そうか」
サファリの父は微かに笑んでから、目を閉じました。眠ったようです。
父の容態は芳しくありません。いい医者に会っても、助かる保証はありません。けれど、人間はいつかは死ぬ生き物。それが病に蝕まれて、というのはごくごく自然で、当たり前のことなのです。旅をしているなら尚更。そういうリスクは高いのです。
だからこそ、サファリの父はサファリを商いの道から遠ざけようという発言を幾度となくしてきました。けれど、サファリはそれを聞いて尚、父の跡を継ぎたいと思いました。
あの村は、確かに僕の運命の分岐点だった、サファリはそう思っています。サファリが行商人の父の跡を継ごう、と固い意志を持って決意したのは、ツェフェリにタロットを教えたあのときだからです。
そう考えると、ツェフェリの持つ運命力……運命を動かす力は他人であるサファリにまで簡単に影響を及ぼすものだと考えられます。それならば、尚のこと、タロット占いを教えるべきではなかったでしょう。占いとは、他人の運命に干渉していく方法の一つなのですから。
そうしてツェフェリは今も他人の運命を動かしているのか、と考えると、落ち着かない気持ちになります。ツェフェリがするタロット占いが持つ運命力が他人の運命を悪い方向に向けていたら……あの優しい少女のことです。胸を大変痛めることでしょう。
それでツェフェリがその重さに堪えきれなくなることがサファリは怖かったのです。壊れるなら、それはツェフェリにタロットを教えた自分の責任。そう思えてならないのです。
「……旅を続けていれば、いつかまた会えるかな」
サファリは眠りに就いた父を見ました。ふう、と憂いを帯びた溜め息を吐き、それから宿を出て、店の荷車の方へ向かいました。
商い処はそれなりに繁盛していました。サファリは以前からずっと父の跡を継ぐことを決めていたから、どうすれば人が寄るのかとか、口説き文句なんかもばっちり覚えており、また、臨時の店を構えるときの近隣への配慮も完璧といっていいほどで、評判がよかったのです。
けれど、サファリはこれを自分の努力の成果ではないと思っていました。仕入れ先や馴染みの店に顔繋ぎをしてくれたのは父だったからです。父はサファリが行商人になることをよく思っていないようですが、それでも、自分の子として育てたかったのでしょう。「父」として立派な背中を見せてくれました。
それに、サファリとサファリの父には大きな違いがあります。それは肌の色です。
サファリの父は黒人に生まれて、追い出されるように家を出て、行商人になったと言います。黒人差別は今よりずっとひどかったはずです。そんな中で、商いを続け、誰からも嫌われることなく、旅を続けている、これは大変なことではないでしょうか。街によっては黒人に優しいところもありますが、そんなところばかりではないでしょうに。その証拠にこの街に来るまで何度か医者にかかろうとしたのですが、「黒人は診ない」などと断られたこともありました。
サファリが生まれるより前から、そんな環境でずっと続けていたのです。きっと、健康面にも気を遣ったことでしょう。
サファリは違います。白人で、容姿も端麗です。だから口説き文句なんぞ覚えなくても客は寄ってきます。そこに巧みなサファリの言葉捌きが入るから、いっそう繁盛するのです。
「日用品から普段は見ない珍品まで、なんでもお揃いの商い処ですよ。どうぞ一目だけでもご覧に入られませ」
サファリの細波のような声は不思議と広場に広がります。これは父のおかげです。
サファリの声は元々大きく聞こえにくい質の声でした。それを商いをするなら声を張らなければならない、と考えた父が、家出する前に同じような声質の妹から聞いたコツを教えることで解消してくれたのです。
通る通らないは別として、サファリは声だけでも魅力があるようで、聞きつけた人は思わず引き寄せられるようです。才能だな、と父が頭を撫でてくれたときはサファリも誇らしく思いました。
「あら、ベルさんとこの。まだ小さいのにお仕事とは偉いねぇ。ベルさんの体調、まだ芳しくないんだって?」
「はい。数日中には、次の街に行って医者に診てもらうつもりなんですが……移動するにも体調が思わしくなく」
このおばあさんはこの街に来てからの店の常連です。けれど、サファリの父が以前にも来たことがあるようで、知り合いである繋がりから、様子を見に立ち寄ってくれます。
「どれ、今日は毛糸を買おうかね」
「四つもですか?」
「孫にミサンガを編んでやろうと思ってね。カラフルな方が喜ぶだろう」
「それなら、こちらの毛糸はいかがですか? 進んでいくごとに色が変わるので、ミサンガを編むために四つも毛糸を買うよりお得で、編み上がりの色も七色になりますよ」
「おお、そんなものがあるのかえ? じゃあ、そちらをいただこうかね。ほんに商売上手のぅ。また来るよ」
「はい、毎度ありがとうございます」
こんな風に恙無く、商売が進み、路銀も貯まってきたところでした。
明日には街を出られそうだ、とサファリは思っていたのです。
「今日は──」
「行商人のベルってのはどいつだっ!!」
そんな叫びに驚き、サファリの心臓がどくりと脈打ちました。
驚いていても仕方ありません。サファリははい、と答え、怒鳴ってきた若者の方に寄っていきました。相当急いできたようで、頭に血が昇り、顔が真っ赤になっておりました青年は、短く呼吸を整えると、サファリの海色の目を映しました。
サファリの胸にぞわりとした嫌な予感がしました。サファリを映した青年の黒洞の瞳に何かを感じたのです。
「どうかしましたか?」
それでもサファリが落ち着いて聞くと、いきなり打たれました。
「何落ち着き払ってんだ!! 親父が大変ってときに!!」
「あんた、打つのはやりすぎだよ」
「え……今、なんて?」
サファリは青年の言葉を受け止められませんでした。聞き間違えだと思いたかったのです。
「だから、お前の親父さん、容態が急変して」
「……!?」
商い処もそのままに、サファリは走り出しました。さっき打たれたときに切ったのか、それとも今噛みしめたからかはわかりませんが、口元からつ、と赤が一筋垂れていきます。
「父さん、父さん、そんな」
サファリは無意識に呟いていました。人はいつか死ぬもの。それは理解していました。けれど、それが自分の父の身に降りかかるなんて……これっぽっちも思っていなかったのです。病気だって、治るとたかをくくっていたのです。
宿屋に着くと、部屋が騒ぎになっていました。この街に医者はいません。父はか細い息をするだけ。周りは何をしているかと思えば、いるかどうかもわからない神にお祈りしているじゃありませんか。
サファリが入っていくと、皆が静まりました。サファリはそっと父の方へ近づきます。細い息を繰り返す父の手は半ば冷たくなってきていました。
けれど、温度を感じ取る機能は失われていないようで、父はサファリの方を向きます。
「サファリ、か?」
「父さん! そうだよ、僕だよ」
「一つ、教えておきたいことがある。……棚に、地図があるんだが」
サファリは慌てて棚の上を見ました。確かにそこには地図がありました。どこか、山を抜けた先の岬のようです。
「ここの近くの山に、海の見えるところに……お前の母親の墓石を建ててある。もう、俺は行けない、から……」
「父さん、そんなこと」
「顔も知らないだろうが、美人だったのは確かだ。……見捨ててくれるなよ」
見捨てるわけがない。けれど、それではもう……
「嫌だよ、父さん。ちゃんと一緒に行って、教えて……」
ぎゅ、と手を握りますが、もう冷たく。
「父さん……?」
眠るようにサファリの父は、命を閉ざしていました。
「僕を薄情だと思いますか? 母さん」
サファリは二つの墓石に向かって呟きました。
「あれだけ慕っていた人が死んだというのに、僕は涙一つ流せなかったんですよ。ええ、ろくでなしです」
僕は、と呟いた先の言葉を誰も聞くことはありませんでした。
「あの人の[息子]であれたんでしょうか……?」